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㉓ 名も知らぬ対話
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廃校へ向かう坂道を登る足取りは、前よりずっと重かった。
(……怖いのは分かってる。でも、逃げたままにはしたくない)
すずりは自分にそう言い聞かせた。
秋の風がスカートの裾を揺らす。廃校の校門の前で立ち止まると、胸の奥がちくりと痛んだ。
——あの日の恐怖は、まだ消えていない。
知らない男の人。静かにそこに立っていて、何もしてこなかったのに、ただ怖かった。
(……なのに、私は勝手に逃げた)
家の中じゃ集中できない。ラジオに耳を澄ませていたあの放送室だけが、息ができる場所だったのに。
ここを奪われたままにしたくない。
ぐっと唇を噛みしめ、門をくぐる。
校舎は変わらず静かだった。夏の名残の蝉が一匹、間の抜けた声で鳴いている。
——本当は、確かめたかった。
あの男性はただそこにいただけで、本当に危険な人なのかどうかも分からないままだった。
(怖い。でも……分からないまま終わらせたくない)
二階への階段の前に立つ。足が止まりかけるが、手すりを握って無理やり踏み出す。
(もしまたいたら……今度は逃げない。ちゃんと、話す)
放送室のドアの前に立ったとき――
中から、かすかな物音がした。
すずりの心臓が跳ねる。
(……いる)
指先が震えた。逃げようと足が引き返しかけるが、手すりを掴んで無理やり踏みとどまる。
そっとノブに触れ、ゆっくりと扉を開けた。
中には、あの日と同じ男の人——大悟がいた。
机に座り、カセットテープを手に取りながら、機材に目を落としている。扉の開く音に気づき、こちらを振り返った。
「……また、来たんだね」
声は落ち着いていた。けれど、その視線がこちらに向いただけで、心臓が強く跳ねた。
すずりは思わず一歩だけ後ろに下がる。
大悟はそれに気づいたのか、椅子から立ち上がらず、その場で姿勢を正し、静かな声で言った。
「この前は……驚かせたね。ごめん」
謝られても、「大丈夫です」とは言えなかった。
喉がひりつくように痛い。けれど、逃げるのは嫌だった。
「……別に。……もう、大丈夫なので」
言いながらも目は合わせられない。鞄の持ち手を握りしめる手に力が入る。
大悟はそれ以上、言葉を急がなかった。黙ったまま、すずりの様子を見ている。
重たい沈黙がしばらく続いた。
テーブルの上に置かれているカセットテープ。そのラベルに書かれた文字が目に入る。
(月島さん……)
その瞬間、さっきまでの恐怖とは違う感情が胸に湧いた。大悟の視線を感じながらも、思わず問いかけていた。
「……それ、……月島さんの……テープ、ですよね」
大悟は一度目を瞬かせ、ゆっくりとうなずいた。
「うん。……君も、知ってるの?」
すずりは迷った末に、小さくうなずく。
「……あの、ラジオ。ずっと聴いてました。……朗読をやってて。声に、すごく、救われて」
大悟の目がほんの少し柔らいだ。
「……そうなんだ。僕もだよ」
それだけの会話なのに、胸の奥で何かが緩むのを感じた。
でも、それでもまだ、完全には安心できない。
すずりは視線を伏せたまま、息を整える。
「……ここで、勉強しても……いいですか」
大悟はすぐには答えなかった。慎重に間を置いてから、静かに言った。
「僕は何も、邪魔をしないよ」
それが許可なのかどうか、判別がつかない。けれど、それ以上の言葉も求められていない気がした。
すずりは鞄からノートを取り出し、放送室の隅に腰を下ろした。
距離は保ったまま。視線も合わせない。
けれど——今日は逃げていない。
それだけで、少しだけ胸の奥が温かかった。
(……怖いのは分かってる。でも、逃げたままにはしたくない)
すずりは自分にそう言い聞かせた。
秋の風がスカートの裾を揺らす。廃校の校門の前で立ち止まると、胸の奥がちくりと痛んだ。
——あの日の恐怖は、まだ消えていない。
知らない男の人。静かにそこに立っていて、何もしてこなかったのに、ただ怖かった。
(……なのに、私は勝手に逃げた)
家の中じゃ集中できない。ラジオに耳を澄ませていたあの放送室だけが、息ができる場所だったのに。
ここを奪われたままにしたくない。
ぐっと唇を噛みしめ、門をくぐる。
校舎は変わらず静かだった。夏の名残の蝉が一匹、間の抜けた声で鳴いている。
——本当は、確かめたかった。
あの男性はただそこにいただけで、本当に危険な人なのかどうかも分からないままだった。
(怖い。でも……分からないまま終わらせたくない)
二階への階段の前に立つ。足が止まりかけるが、手すりを握って無理やり踏み出す。
(もしまたいたら……今度は逃げない。ちゃんと、話す)
放送室のドアの前に立ったとき――
中から、かすかな物音がした。
すずりの心臓が跳ねる。
(……いる)
指先が震えた。逃げようと足が引き返しかけるが、手すりを掴んで無理やり踏みとどまる。
そっとノブに触れ、ゆっくりと扉を開けた。
中には、あの日と同じ男の人——大悟がいた。
机に座り、カセットテープを手に取りながら、機材に目を落としている。扉の開く音に気づき、こちらを振り返った。
「……また、来たんだね」
声は落ち着いていた。けれど、その視線がこちらに向いただけで、心臓が強く跳ねた。
すずりは思わず一歩だけ後ろに下がる。
大悟はそれに気づいたのか、椅子から立ち上がらず、その場で姿勢を正し、静かな声で言った。
「この前は……驚かせたね。ごめん」
謝られても、「大丈夫です」とは言えなかった。
喉がひりつくように痛い。けれど、逃げるのは嫌だった。
「……別に。……もう、大丈夫なので」
言いながらも目は合わせられない。鞄の持ち手を握りしめる手に力が入る。
大悟はそれ以上、言葉を急がなかった。黙ったまま、すずりの様子を見ている。
重たい沈黙がしばらく続いた。
テーブルの上に置かれているカセットテープ。そのラベルに書かれた文字が目に入る。
(月島さん……)
その瞬間、さっきまでの恐怖とは違う感情が胸に湧いた。大悟の視線を感じながらも、思わず問いかけていた。
「……それ、……月島さんの……テープ、ですよね」
大悟は一度目を瞬かせ、ゆっくりとうなずいた。
「うん。……君も、知ってるの?」
すずりは迷った末に、小さくうなずく。
「……あの、ラジオ。ずっと聴いてました。……朗読をやってて。声に、すごく、救われて」
大悟の目がほんの少し柔らいだ。
「……そうなんだ。僕もだよ」
それだけの会話なのに、胸の奥で何かが緩むのを感じた。
でも、それでもまだ、完全には安心できない。
すずりは視線を伏せたまま、息を整える。
「……ここで、勉強しても……いいですか」
大悟はすぐには答えなかった。慎重に間を置いてから、静かに言った。
「僕は何も、邪魔をしないよ」
それが許可なのかどうか、判別がつかない。けれど、それ以上の言葉も求められていない気がした。
すずりは鞄からノートを取り出し、放送室の隅に腰を下ろした。
距離は保ったまま。視線も合わせない。
けれど——今日は逃げていない。
それだけで、少しだけ胸の奥が温かかった。
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