愚者の箱庭

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第十四章 魔術師の帰還

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#アシスタントD3342PA/デルフィ備忘録
 私の冷静な対処の甲斐もあり、シンは一命を取り留めました。多少の欠落を覚悟すれば蘇生は可能でしたし、施設権限と当人の協力さえあれば回復にそれほどの時間を要すこともありません。科学文明万歳。
 もちろん正確なゲートの再生成が前提でしたが。
 シンとシンにひっついてきた野良猫は、あれからしばらく実験殻に隔離されました。治療はもちろん、機密保持と検疫のためです。気が付けばフースークは逃げ出した後でした。
 時間と予算を要したのは、むしろ装備の改修です。ヌーサイトのボット、カエアンのガーメント、補助演算野と何よりも私。あと猫の首輪と尻尾もです。
 この世界に恐慌を来すかと思った野良猫は意外とすぐに馴染みました。それどころか調子に乗ってそこいら中を荒らして回り、病み上がりのシンに多大な迷惑を掛けました。
 この騒動がシンの社交性に寄与しなければ、今ごろ実験動物棟に放り込んでいたところです。結果的に野良猫は研究区画のアイドル的地位を手に入れましたが、それは何にも増して私の躾の賜物です。
 のんびり準備を、という訳にはいきませんでした。シンは人類版図ガラクティクスに帰還した時点で――いいえ、それ以前からミドルアースへの再訪を目論んでいたからです。
 シンの最大の課題はフースークの説得でしたが、結局あの惚けた資産家は肩を竦めてこう言っただけでした。
「できれば穏便にやっておくれ、こんなのが人に見つかったら色々面倒だからね」
 言質を得たシンの「穏便な要求」は、請求が迂遠な決裁経路を辿っている間に実装を済ませました。なにぶん急いでいましたから。
 協定外戦略兵装や自立型高演算素子などといった国家予算規模の債務の上積みは追ってフースークの知るところとなるでしょう。
 さて、少し胡乱な言い方をすると、シンは自身の運命に嗜虐的でした。受け止めるのが自分である限り、死も屈辱も他人事のようでした。逆の場合はどうでしょう。ずっと独りのシンには自覚がなかったようですが。
 ですから、こうなることは予想していました。皆さんもきっとそうなのでは?

 *****

〈すべて自立機能に移行しました〉
 デルフィはそう告げ、吐息のような微かな情動をシンに投げて寄越した。
〈今度あんな無茶をしたら即座に権限を取り上げますからね〉
 アシスタントは生意気になった。ミドルアースでの行動に備えて意思系統には手を加えたくなかったが、やはり人格補正を抑制したのはまずかっただろうか。
「心配すんな、シンにはオレがついてる」
 傍らのニアベルはツンと胸を張って見せた。首に着けたチョーカーがデルフィとの会話を中継している。望めば遠隔通話も可能な装備だ。
〈くれぐれも迷惑を掛けないように〉
「ニアベル、いいか?」
 自在にくねる尻尾の下に二振りの鉈を確かめてニアベルは満足そうな笑顔を向けた。それは整体改変フォームチェンジに至らないまでもニアベルの強化装備として神経接続された特注部位だ。多少の嗜好がないとは言い切れないが。
「帰るんだな」
「そうだ」
「シンと一緒ならオレはどこにでも行く」
 ニアベルは腕を絡めて身体を擦り寄せた。
〈爪を収めなさいガーメントに傷がつきます〉
 シンは距離感のない眼前の黒色に目を遣る。
「夕飯までには帰っておいで」
 背中にフースークの能天気な声がした。すべて見透かされている気もするし、何も考えていないような口調でもある。ニアベルが振り返って言った。
「チャオなんとかは気に入ったぞ、フー」
 何を喰わせたんだフースーク。
「行くぞ」
 ニアベルに囁いてシンは踏み出した。思えば自分の一歩でゲートを潜ったのはこれが初めてかも知れない。
 先は青空だった。どこまでも遠く突き抜けていて、遠くに海と緑の山嶺が見えた。鳥と雲と風しかない。機影も人工環も軌道エレベータの白い糸筋もない。ミドルアースの空だ。
 足下の感覚に声を上げ、ニアベルは慌ててシンに爪を立てた。いま言ったばかりなのにとデルフィが零した。確かに二人の立つ反撥場には床ほどの硬さがない。何より眼下を遮るものが何もなかった。
 足下に見る草原は土色の雲海を見おろすような有様だった。土埃の中で無数の人が蠢いている。所々に突き出た岩塊はトロルの半身だ。彼らは戦場を取り囲み、追い込み漁よろしく兵を一方の陣幕に押し込んでいる。
 騒乱の只中だった。しかも一方的な戦場だ。
 さても早々に裁定は決裂し、討議も越えて乱戦に至ったのだろうか。ニアベルの代理は誰が務めたのだろう。シンは口許を顰めた。バルターが何を目論むにせよ、もう少しスマートなものを予想していた。これでは何の趣もない。
 ガーメントのセンサが地表を走査し、戦場の個体をマッピングして行く。うんざりしたようなデルフィの声が囁いた。
〈殲滅しますか?〉
 却下。
〈仰せのままに。あちらに登録個体を発見しました。無事のようですね〉
 マーカが視界の隅を促した。あれは王里オード側の陣幕だろうか。懐かしい顔が並んで呆然とこちらを見上げている。シンは手を振ってやりたい衝動を堪えてニアベルに声を掛けた。
「あそこに皆がいる、行って状況を確認しろ」
 シンに擦り寄ったニアベルは悪戯な目をしてシンを見上げた。
「ついでにバルターの首を取ってやろうか?」
 生意気そうに突き出した鼻先を指先で弾いて、シンはニアベルの腰を抱えた。反撥場を解き重力に任せて落ちる。
 尻尾をシンの腕に絡ませてニアベルは燥いだ声を上げた。
「おーう」
 接地の間際に降下速度を転換したため反発場が足下の下草と土を広範囲で掘り返した。土埃を盛大に巻き上げる。
 自然の大地を失念していた。全方位のバーストブリットで視界を晴らすと、土色の雲が地を這いながら波紋のように草原を薙いでいった。
 更地に立って頭上を見上げる。厚みのないゲートは、空の小さな裂け目のようだ。思えば前回はあそこから身ひとつで落ちた。よく生きていたものだ。
 抱えたニアベルを放り出すと、ニアベルは足踏みをして土の心地を確かめる。腰から二振りの鉈を抜き、方向を見定めた。チョーカーが場所を教えているはずだ。
「こっちはオレに任せろ」
 犬歯を剥き出してシンに笑い掛けると、ニアベルは弾かれたように飛び出した。這い進む土埃を裂いて草原を一直線に駆けて行く。尻尾を装う強化ユニットがニアベルの身体機能を格上げしている。
 シンが目線を遣ったのはその反対側だ。郷都ゴートの陣幕の周囲には、ひと眺めするだけでトロルと対峙する人垣が七つほどある。
 土煙に揺れる混沌の中でシンに目を止めたものはそう多くなかった。みな気付けば吹き荒ぶ土砂に引き倒されていた。だが空から降ったシンを見た者は、土埃に目を眇めながらその行方を追っている。
〈指向性バーストブリット装填チャージ
〈最初はどれを?〉
 シンは鬩ぎ合う兵士の一群に掌を翳した。大気が破裂し、突風が左右に道を割る。枯葉のように衛兵が吹き散った跡に、トロルが一体たたらを踏んでいた。
 間近に走ってその巨体を見上げ、シンはトロルの片足を払って地に落とした。頭部に寄って探査用の硬糸を打ち込む。
〈命じ書きを解析〉
 シンのオーダーにデルフィが呻いた。
〈この私にパンチカードを読めと〉
〈停止信号だけでいい〉
〈やれやれ、ありがたいですね。少々お時間をいただけますか?〉
 シンは横たわるトロルに探査針を残し、辺りを見渡した。郷都ゴートの陣と思しき天幕の手前が混沌と化している。命令に従順すぎるトロルのおかげで戦況は殲滅戦の様相を呈していた。
 よく逃げ出さないものだと見てみると、トロルの間には槍衾がある。崩れて逃げ惑う郷都ゴートの兵士を、王里オードの衛兵がトロルの隙間から押し返していた。境里サークの高殿で見た光景だ。
 シンは小さく息を吐いた。このまま郷都ゴートの重鎮が全滅されても寝覚めが悪い。バルターにしてもそれは本意ではないだろう。
 シンに最初に気付いたのは王里オードの衛兵たちだった。晒したシンの耳に目を剥くも、竦んで道を開けないためバーストブリットで払い飛ばした。薙ぎ倒れる彼らを眺めながら、せいぜい己が得物で怪我などしないようにと呟いた。
 シンを敵と認識したのか、トロルたちが一斉に振り返った。
 近くの数体が呼応してシンに迫る。やはり人との重量差が大きすぎる。体圧で押し潰されそうだ。どう改造すればガリオンのようなドワーフがここまでの体形になるのだろう。間近に見上げれば首が痛くなる。
 丸太のような腕が横殴りにシンを払った。その指を掴んで甲まで曲げた。痛覚は鈍いだろうと高を括っていたが、トロルは絶叫した。
 ここまでやれば彼らも痛みを感じるらしい。シンは思わず嘆息し、そのまま巨体引き倒して後頸部を踏んだ。神経負荷ブリットを足下に撃つ。ぱん、と手を打つような破裂音のあと、トロルはぐるりと白目を剥いた。
〈格闘は非効率では?〉
 誰のせいだと詰りつつ、落ちた影に顔を上げた。暴風がシンの頬を殴りつける。トロルの腕を躱して背に回り、巨木の幹のような膝裏を蹴り折った。
 強靭だが構造的には人と同じだ。シンは揺らいだ尻を蹴倒し、背中に乗って神経負荷ブリットを撃ち込んだ。確かに殺す方がよほど楽だ。
〈停止信号を構築しました。全方位バーストで入力が可能です〉
〈殺すなよ〉
〈ええ、仰せのままに〉
 悶絶した小山の上に立つと少しだけ視界が広くなった。残りのトロルが真っ直ぐシンを目指して向かって来る。壮観だが居心地はあまり宜しくない。シンは無造作に手を掲げた。
 ドラムのヘッドを打つように草原一帯が大きく上下に震えた。撥ねた土塊が足許の緑を瞬時に土色の靄に変える。雷鳴にも似た地響きが四方を渡っていった。
 不意にすべての巨人が硬直し、もんどりうって地に伏した。
 喧噪は一気に鳴りを潜め、トロルの下敷きになった衛兵の悲鳴や土煙に咽る音のほかは、喉を詰めたような重い沈黙が延々と続いた。
 シンはトロルの背を下りて、遮るもののない郷都ゴートの陣幕に歩いて行った。覗き込めば、みな魂の抜けたような顔をしている。衛兵さえも任を忘れて呆然としていた。
「代表者は誰か」
 問いを放って皆の視線を辿ると、豪奢な衣装に身を包んだ三人がいた。耳を隠したエルフとドワーフ、ゴブリンの三種族だ。シンは三人を眺め遣り、こっそり口許に自嘲の笑みを浮かべて彼らに告げた。
「審神者が裁定の立ち会いに来たぞ、顛末を聴かせて貰おうか」

 経緯を訊いたニアベルによると、首長議論に至る前にこの諍いが起きたらしい。トロルが暴れ、トロルが収め、衛兵が攻め込み、トロルが暴れたという。ニアベルの説明はまるで訳が分からない。
 幸いシンとの通話を察したガリオンとターヴが代わって解説してくれた。
 どうやら首長議論の直前に郷都ゴート側が稚拙な策を打ち、見せ掛けのトロルの暴走に乗じて衛兵を嗾けたらしい。
 どうやら郷都ゴートには切羽詰まった者がいるようだ。それが三名の合意か単独かは、すぐに明らかになるだろう。
 シンは首長議論の再開を双方に要請した。
 反発があれば無理にでも連れ出すつもりだったが、意外にも首長たちは大人しく従った。もちろん彼らの隠した耳がどんな情動を示しているかは知る由もない。
 郷都ゴートにしてみれば、双方の兵を吹き飛ばし、トロルの進攻を止めたのはシンだ。一方的に里に与する者でもない。むしろ初手で下手な対応をしてバルターに与されては適わないという判断もあっただろう。
 裁定場のあちこちでは毒気を抜かれた両陣営の兵士が救助と介抱に走り回っていた。中央の天幕が大急ぎで建て直され、両陣営の首長、臣民、代闘士の面々がまるで死地に向かうような蒼褪めた顔で集まって来る。
 皆シンの直視を避けるように、こっそり伺いながら席に着く。一直線に駆けて来たニアベルだけが場の空気を読もうとしなかった。
「みな助けたぞ、褒めろ」
 声を掛けるのも面倒でシンはニアベルの髪をおざなりに掻き回した。ガリオンとターヴは呆れたように、懐かしいゴブリンの面々はそわそわとシンとニアベルを見つめている。
 どうやらニアベルが大層に尻尾を自慢して回ったらしく、みな羨ましくて仕方がないらしい。冷静なカーミラさえもが拗ねたような目でシンを見ている。そんなに尻尾が欲しかったのか、ゴブリン。
 ニアベルは自らシンの手に髪を擦り付けながら目を細め、ふと居並ぶ郷ノ皇らに気づいて薄目を開けた。耳先がピンと上に立つ。
「これはサロネー、久しぶりであるな」
 貴人に向かって態度を改める様子もなく、ニアベルは隣人のように声を掛けた。
 ニアベルも出自は郷長だ。それも他とは少々様相が異なっている。郷ノ皇と顔見知りなのは想像に難くないが、それを差し引いても態度が粗野に過ぎる。性格だから仕方はないが。
「貴公、王里オードの代闘士だろう、審神者は王里オードに与するか」
 そんなニアベルの態度に慣れているのかゴブリンの郷ノ皇は咎めもしない。代わり、シンを横目にニアベルにそう問い詰めた。サロネーも耳を隠していたが、顔を見ても分かるほど呆気に取られている。
「審神者だと? シンはシンだぞ」
 ニアベルは問われて怪訝な顔をした。シンは話がややこしくなる前にニアベルを黙らせ、皆の所に戻るようチョーカーに囁いた。
「裁定者ではないのか?」
 シンに声を掛けて来たのはドワーフの皇だ。名はジレットというらしい。
「そう思わなければ好きに呼べ」
 シンはジレットにそう返した。相手にとっても同様に、シンの耳はニュアンスを伝えることができない。シンは思い直して言葉を加えた。
「俺に名のある役目はない、決着に責任を負うつもりもない。通りすがりでも無用の生き死にを見るのは寝覚めが悪い。だから仕切り直しに来た、それだけのことだ」
 シンを前に泰然と佇むバルターを振り返り、シンは改めて手の届く距離で向かい合う双方の首長を眺めた。
「さあ、裁定を始めてくれ」
「得心が行かぬ」
 サロネーが犬歯を鳴らした。
「うぬが裁定者でないのなら、何ゆえ余所者が闘議に関わるか」
 侮蔑を嗅ぎ取ったニアベルが全身の毛を逆立てた。唸るニアベルを背中に押し込め、シンはサロネーに向き直った。
「決着してもらわねば俺の用が済まない」
「我らの儀に土足で踏み込むなど――」
「儀などとほざくな」
 呆れて思わず声が出た。しかもデルフィが尊大な演出を付加していた。
「血のない政争かと思えばこの為体、結局は殺し合いの馬鹿騒ぎ。雄弁な耳が自慢なら晒して弁明するが良い。おまえたちがどれほど情に訴えようと俺には団扇のひと振りにもならん」
 サロネーはシンの音圧に殴られるようによろよろと後退った。
〈デルフィ、余計なことをするな〉
 多少の苛立ちがあったとはいえデルフィの施した託宣めいた演出までは過剰だ。サロネーはそのままへたり込み、蒼白になった側仕えが取り囲んで慌ただしく介抱し始めた。
〈いいえ、権能に相応しい振る舞いは今後の安全保障に必要です〉
 デルフィはしれっとそう言った。皆の視線がどうにも居心地悪い。
「人外を嗾け闘議を貶めたのは王里オードである」
 長く分厚い氷のような沈黙を破ったのはエルフの郷ノ皇だった。名をエーミス、性別は男のようだ。声が枯れて少し上擦り権威の面では少々聞き劣りするものの、口火を切ったのは評価できそうだ。
 だが、その矛先は真っ直ぐバルターに向けられていた。どうやらエーミスには後がなかったらしい。シンの買い被りのようだ。
「あまつさえ彼奴は我らを巻き込み亡き者にしようとした」
 シンの聞いた話と主体がすり替わっている。バルターはエーミスを嗤った。
「先に兵を出したのはどちらか、トロルを用いたのは自衛である」
「あれが自衛であるものか」
 エーミスは声を上げようとして喉を詰めた。
 確かにトロルを用意したのはバルターの計画だ。最終的には圧倒的な力と恐怖で権勢を得る策だったのは間違いない。シンのせいでバルターが魔王の名を得る機会は失してしまったが、それは結果論だろう。
「兵を止めなんだのは此方の不徳だ」
 ジレットが場を収めようとしたものの、諫められたエーミスは止まらなかった。
「いや、最初から彼奴は道理に従おうとしない。元凶は彼奴だ。このいかさまの裁定も、厚かましく郷都ゴートに向けた要求も、すべてそうだ。彼奴がそれを欲したからだ」
 口角泡を飛ばすエーミスの物言いにバルターの目許が白くなった。
 シンは本来、表情を読むのが苦手だ。この世界の住人に対しては物理的にも不可能だった。だがバルターのそれは分かる。それが何を意味するのかも、何となくだが想像はついた。
 それ故に、バルターの指先が自身の顔を覆う薄絹を掴むのを見てシンは思わず割って入った。バルターは微かに意外そうな顔をして、シンとの間に不思議な無言の驚きと理解を交わした。そこに耳先は関係なかった。
 バルターは静かに進み出て、薄絹を外した。呻くような声が満ち、対峙するエーミスは蒼白になった。
「貴方は我が子を奪わぬ代わりにこの耳を奪った。かように郷は子と財を際限なく奪い続ける。私はそれに異を申し上げる」
 それがバルターの切り札だったのだ。

 以降の首長議論は終始一方的に進んだ。
 無言の同調を強いる彼らの話し合いは情動が強く作用する。素性を明かすことを前提にしたバルターには最初から勝算があったのだ。この状況でエーミスに道理が向くはずもない。
 ただしそれは貴人としてのバルターの捨て身だ。ある意味、勝敗の見えるトロル兵よりも危険な賭けだった違いない。
 ジレット、サロネーの両首長を始め、天幕のほとんどがエーミスに侮蔑の目を向けていた。我が子に執着したバルターよりも、その耳を削いで放逐した同朋のエーミスを非難している。
 秘匿していたにせよ、今回の対応も評価を落とす一因だった。だが裁定の結果にエーミスが反駁し、武力に訴えることもバルターは予想していたのだろう。
 あるいはトロルも本来は抑止力として用意したのかも知れない。にも拘らずエーミスは愚策を弄した。結局、争いは前か後の違いに過ぎなかったのだ。
 感情的にも、兵力としても圧倒的優位にありながら、バルターの要求は現実的な落とし所を用意していた。何のことはない。バルターは為政者としてシンの予想より遥かに理性的だった。見縊っていたのはシンの方だ。
 議論は当事者たちに任せ、シンは壁際に引いていた。もとより口を挟むつもりはさらさらなかった。正直、先の見えた議論は立ち会うことすら退屈だった。つい暴言を吐いた手前、立ち去る訳にいかなかっただけだ。
 ガリオンやターヴ、ニアベルを始めゴブリンたちも、どうやら同様の様子だ。彼らも代闘士やその付き人として、この場を離れるわけにはいかなかった。
 決着が事務方に落ちたのはニアベルが飽きて暴れ出す寸前だった。ルトはすでに立ったまま寝ていた。
「審神者よ」
 張り詰めたものが融け崩れ、周囲が幾許か落ち着いた空気を取り戻すと、ドワーフの皇がシンに呼び掛けた。首長らの目に先の険はない。ただエーミスだけは一歩退き、側仕えを盾に沈黙していた。
「此度の裁定は王里オードの勝ちだ。思うところはあるが、以降は段取りに過ぎん。貴殿の用とやらを聴かせて戴こう」
「審神者でいいのか?」
 ジレットの横からサロネーが口を挟んだ。
「役目は何を成したかで決まるのであろう。無礼を詫びよう。貴殿が裁定を立て直したのは事実である」
 一本取られた。シンは苦笑して肩を竦めた。何故かニアベルが得意げな顔をしている。
「そうか、ならば要件を言おう」
 シンはこれから口にする皮肉に内心の笑いを堪えた。それはある意味バルターよりも横暴で野蛮な要求だ。
「俺は当面、この世界に行き場がない。なのでここに居場所が欲しい。そうだな、審神者と呼んでくれたからには、今日からここを領地にしたい。今後は許可なくこの裁定場に立ち入ることを禁じる」
 その場の皆が息を呑み、次いで大きくどよめいた。裁定場とはいえ辺りは長らく放置された草原だ。それほどの問題とも思えなかった。
 だが動揺はなかなか収まらない。
〈いっそ征服してみては?〉
 溜息混じりにデルフィは言うが、それではこの争いを収めた意味がない。
 シンの本来の目的は上空のゲートに近づかせないことにある。二〇メートルの上空とはいえニアベルの投げた鉈は届いた。この付近は禁足地にする必要があったのだ。
 ただし、シンの目論見が上手く行けば、じきにここもただの草原になる。ゲートが儘ならないのは身を以て痛感しており、万一のことを考えてこの座標を確保しておきたかっただけだ。
 小さな咳払いが二つあり、ガリオンとターヴが首長らの前に進み出た。
「あー、彼とは相識の間柄だ。なにぶん道理に疎いのも知っている。追って約款は我らが手配しよう、御山にはこちらから伺いを立てる」
 ターヴがシンを振り返り、呆れたように耳先を振った。
「雄弁になったのはいいですが、姫さまの破天荒がうつったのでは?」
 些か乱暴だったのは認めるが酷い言い草だ。
「シンはオレのだから仕方がないな」
 ニアベルが嬉しそうに横から口を挟む。シンの腕を掴んで額を擦り付けた。
〈離れなさいニアベル、爪を立てるなと何度言ったら分かるのですか〉
 すかさずデルフィが噛み付いている。
「審神者よ、貴殿は何という種族か」
 裁定の前よりは控えめな態度でサロネーがシンに問い掛けた。思いのほかねっとりとした眼差しに何か感じ取ったのか、ニアベルが鼻根に皺を寄せてサロネーに険しい顔を向ける。
〈あなたにもこの世界に相応しいアイデンティティが必要ですね〉
 デルフィが弾んだ声で囁いた。
〈名前なんてどうでもいい〉
〈シン、彼らには必要です〉
 さて地球原種アースリングと名乗るにせよ、その意味が示すところは地球発祥の種だ。この世界では彼らが地球原種アースリングにほかならない。
〈適当に決めてくれ〉
〈では固有名を登録します〉
 放り投げたシンの言質を取るや、デルフィは嬉々として宣言した。
〈種族名:魔術師イスタル。それがこの世界ミドルアースのあなたの姿です〉
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