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第二章

第二話

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 着替えも何も持っていないから家に帰りたい。
 智晃が仕事から帰ってきて口にした悠花の希望を、彼は表向き叶えてくれた。泊まる荷物の準備をして再び部屋に戻ってくることを条件に。
 智晃は、できればこのまま僕の部屋に住んでほしいとまで言ってきた。仕事が忙しくて会う時間がとれない分、一緒に暮らしたいと。
 あまりにも性急すぎて戸惑っていると「口にしたのは急だけど、ずっとそう考えていたよ」と言われてしまった。
 週末だから自分の部屋を片付けたいとか、智晃にもゆっくり休んでほしいとか、いくつか理由を並べ立てたけれど、聞き入れてはもらえなかった。
 結局月曜日に彼の部屋から出勤できる準備をさせられて舞い戻ってきた。
 悠花の住んでいるマンションは特殊な為、登録された人物しか入ることが許されていない。さらに登録の許可を得るには、各種証明書を提出したうえで審議を受ける必要があるため時間がかかる。智晃はマンションの管理人からもらってきた申請書類一式をながめて、「ここまでやるのか?」とぶつぶつ呟いていた。
 マンションには特別な事情を抱えている住人が多いし、煩雑な手続きが必要だとわかったうえで契約を交わしている。DV被害やストーカー被害で逃げ出している女性にとっては、どんな方法で相手が追ってくるかわからない。他の住人の関係者にも注意を払うのは当然のことだった。
 悠花も様々な嫌がらせを受けていたから、その精神的苦痛やその後の不安はよくわかる。さまざまな制約を窮屈だと思うよりも、得られる安心の方が貴重だった。
 だから本当は、こうして智晃のマンションにいることにはかすかな不安がある。
 彼のそばにいるということは、いろんな感情の矛盾を抱えて生きていくということ。
 それを嫌というほど思い知っているのに、それでもそばにいたいのだから恋愛感情とは厄介なものだと思う。
 荷物をまとめた後は、智晃の部屋で過ごすのに必要なものを買いに連れていかれた。持っているから必要ないと何度も言うのに「ずっとうちに置いておけばいい」とあれやこれや揃えられた。
 だったら自分が使用するものだからとお金を支払おうとすれば「恋人になったからには、負担はさせない」とカードを切ってしまう。
 結果的に悠花が「これ以上聞いてもらえないなら、部屋には行きません」と泣きそうになりながら抗議して智晃の暴走は落ち着いた。

「悠花……ごめん」

 大量の荷物をリビングに運び入れて、拗ねている悠花に智晃は謝ってきた。困った形になる眉は、今は本当に困っているようで、どう宥めようかと困惑しているのが伝わる。
 智晃はもともと他人を甘やかしたいタイプなのだろう。悠花も兄がいて甘えてきたほうなので、甘えさせてもらえるのは嬉しい。

「気持ちが報われるのがこんなに嬉しいと思わなくて……自分でも浮かれている」

 荷物の前で智晃が小さく項垂れる。
 彼の年齢を聞いたことはないけれど、多分悠花よりは年上だ。なのに、こんなふうに時々年下のような空気を滲ませる。それが悠花の胸をきゅんとさせることに彼は気づいているだろうか。
 お願いしたり、謝ったりと彼は素直に気持ちを口にする。でも結構強引だ。
 悠花は大きいのに小さくなっている智晃の手をひいて、ソファに一緒に腰掛けた。白いソファの横には小さいながらも旅行に使う悠花のスーツケースがあり、黒いラグの上には大量の買い物袋がある。悠花がそれらに視線を向けると智晃の目もそれを追った。
 穂高も悠花に金銭的な負担をかけるのを嫌がった。デート費用はもちろん『オレが悠花に買ってあげたいから』と洋服やアクセサリーやバッグや靴も買い与えてくれた。遠慮しても拒否をしても『オレがやりたいだけだ』と言われれば固辞できなかった。
 悠花は智晃の大きな手をつつんで彼を見上げた。

「あの人も……私にお金を支払わせるのを嫌がりました。留学していた時も交換留学だったので学費は免除でしたし、生活費の補助も出ていたけど『自分が願って連れてきたから』って、必要な費用は負担してくれた。私はそれに甘えてきました。結果的に、お金目当てであの人と付き合ったのだという噂がたちました」

 そう、穂高にすべてを負担してもらった事実がそんな噂を生み出した。火のないところに煙は立たぬはまさしく真実で「穂高に貢がせている」という言葉に呆気なく塗り替えられた。
 智晃は、はっとしたように顔を強張らせるときゅっと唇を結ぶ。

「……だから、頑なに割り勘だったわけだ」
「内容はともかく、あの人に負担してもらっていたのは事実です。だから、そんな噂が二度とたたないように、せめて自分の分は自分で支払いたいと思いました。そうすれば、お金目当てでそばにいるなんて言われずにすむ。智晃さんのそばにいてもそんなふうに言われたくない。御曹司目当てで、お金目当てで一緒にいるなんて思われたくないんです」

 御曹司だから、お金を持っているから、だから好きになったわけじゃない。
 でも他人は、穿った見方をしてくるものだ。

「調査書に書かれていたのは、そういうことだったんだね」

 智晃の手が悠花の肩にまわる。導かれるままに頭をあずけた。智晃が「ごめん」と小さく呟く。
 悠花も頷くことで許しを示した。

『これだけ彼にお金を遣わせていて、お金目当てじゃないなんて言い切れるの!?』

 そう問い詰めてきた過去の声が響いてくる。

『なんの力もないくせに、彼の支えになるどころか足をひっぱってばかりのくせに、そばにいるなんておこがましいのよ!』

 ありとあらゆる過去の映像が流れてきそうになって、悠花は強く目を閉じた。
 久しぶりにその声を思い出したのはきっと、過去と同じことを繰り返しているような既視感のせい。
 よりによって、穂高と同じ世界にいる男性を好きになったせい。
 それはまるで警告のように思えた。



 ***



 身を委ねる悠花の頭を撫でながら、それでもどこか安心しきった様子のないことが智晃に苦い思いを抱かせる。頑なに智晃が費用を負担することを拒む理由がそこにあったとは思わず、浮かれて犯した軽率な行為が彼女を追い詰めたのだと自覚した。
 割り勘にこだわる理由がそこにあるのだとすれば、智晃の部屋で過ごすことへの抵抗も根本は同じなのだろう。

「悠花の気持ちはわかった。でもデート費用ぐらいは僕に負担させてほしい。そんなの恋人同士なら誰だってやっていることだろう? それなりに稼いでいるのに、大事な女性に遣えないのは寂しい」
「……時々私にも支払わせてくれるなら。私だって働いています。大事な人と一緒に過ごすために私だってお金を遣いたい」
 
 結婚すれば……そんなことを気にしなくてすむのではないか、そう口にしたくなるのを智晃は耐えた。彼女の気持ちはきっとそこまで追いついていない。このまま一緒に住んでほしいという願いにすら、これほどためらうのだ。早々に結婚など口にすれば逆に逃げられそうな気がした。
 だから悠花の左手首を手に取る。
 ブレスレットを指でなぞると、彼女の薬指の根元をゆるくつかんだ。

「僕はそんなことで煩わされるような関係を越えて……あなたには誰にも何も言われない立場にきてほしいと思っている。こんな遠まわしな言い方をしているのはあなたがまだ戸惑っているとわかっているからで、僕としてはもうこのまま堂々とここに一緒に住む関係になりたいんだ。名前を教えてくれたら、そうするって言っただろう? その気持ちは今でも変わらない。それだけは忘れないで」

 濁した言い方しかできないのがもどかしかった。彼女はやっぱり嬉しいというよりも戸惑いを前面に出してくる。
 結婚すればお金の遣い方など他人にとやかく言われる必要もない。面倒な申請書類を提出して悠花の部屋に行く権利を得るよりも、ここに一緒に住む方が早い。
 あせる気持ちがあふれだしそうになって何とか堪えた。

「……お聞きしてもいいですか?」
「なに?」
「智晃さんの立場だと……婚約者とまではいかなくても、婚約者候補の方がいらっしゃるんじゃないですか?」

 思いもかけない悠花の言葉に、けれど咄嗟に否定のセリフがでない。そのと智晃の動揺を見抜いて、悠花はやっぱりという表情をする。彼女は智晃が属していた世界のことを本当によく知っている。
 そういう相手と長年付き合ってきて、ぼろぼろになるギリギリまで愛する男のそばにいたのだ。
 彼女が舐めた辛酸はどれほどのものだったのだろうか。

「確かにあなたの言う通り婚約者候補という人はいた。でもすでに解消しているから、あなたが気にする必要はない」

 歯切れの悪い言い方の奥にあるものを悠花には見抜かれたくなかった。
 過去、婚約者候補は確かにいて、それで晴音との間にひと悶着あったことを思い出す。
 その女性は晴音との仲をさんざんかきまわしてきたけれど、結局は晴音の人柄に絆されて、自ら婚約の解消を申し出てくれた。でもそれは将来、智晃が晴音と一緒になるなら身をひくという形だった。その後海外にいった彼女が、晴音が智晃でない男と結婚した事実を知っているかどうかはわからない。

「僕は家に関わる気はないし、そのために結婚をする必要もない立場だ。結婚相手は自分で選びたいし……僕は悠花と結婚したい」

 結局智晃は決定的なことを口にした。
 婚約者候補のことを思い出すと、ここで曖昧に濁すのは得策ではないように思えたからだ。
 けれど悠花の表情は見られなくてそのままゆるく抱きしめる。
 優しい香りを嗅ぎながらぴくりと体を固くした彼女の耳元でささやいた。

「僕が本気でそう思っていることだけは覚えていてほしい。あなたの気持ちが揺れていることは僕もわかっているし、結末が同じなら待つこともできる」
「……わ、たし……私たちまだ名前を知ったばかりで、知らないことの方が多いのに、そんな大切なことを口にするのは」
「言っただろう? 知らないことも多いけれど、知っていることもたくさんある。僕たちなりに時間を積み重ねてきてそこに偽りはない。軽々しく口にしているわけじゃないよ。それとも悠花は僕との結婚なんか嫌かな?」
「嫌だなんて! そんなこと」

 最後まで言えずに口を噤みながらも、自分が発した言葉に彼女自身が驚いているのが分かった。
 今はこの腕の中にいること、そばにいたいと言ってくれていること、それだけで満足すべきだ。
 これ以上追いつめる言葉を言わずにすむように、智晃はそっと彼女の唇に唇を重ねた。
 啄むように軽く触れていたそれは、いつしかゆっくりと舌がからみあう。
 買い物に出て外出先で夕食も終えた。
 これからシャワーを浴びて、その後は長く彼女の時間を拘束することができる。
 月曜の朝まで時間はたっぷりあるのだから焦らなくていいとわかっているのに、智晃は欲望を抑えることができなかった。
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