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第二章

第一話

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「『終わり』がくるその日まで……ずっと一緒に生きていこう、悠花」

 彼の言葉通り、ずっと一緒に生きていければいい。
 いつかやってくるかもしれない「終わり」に、怯えずに過ごすことができますように。
 それが今の悠花のささやかな願い。



 ***



 年上なのに、メガネをはずすとどこか幼さを感じる。
 困ったようにさがる眉は優しげで、穏やかに話す声は低くて落ち着いている。
 そして、優しいのに少し強引なところがある。
 それが、悠花が知っている世田智晃だ。
 シャワーを浴びて髪を乾かしたばかりの彼が、壁一面のクローゼットの扉をあける。そこには衣裳部屋と呼んで差し支えないスペースがあって、ハンガーに掛けられたスーツが並んでいた。
 智晃はバスローブを脱ぐと、そこから迷うことなくシャツやネクタイを選んで身にまとっていく。
 悠花は智晃の匂いの残るシーツにくるまれたまま、彼が慣れた手つきでネクタイを結ぶ仕草をぼんやり見ていた。
 スラックスにいれられた腰回りのたるみのないシャツ。
 余分な皺のない足のラインを綺麗に見せるスラックス。
 それらはおそらくオーダーメイドだ。
 よく見ればわかったはずなのに、ずっと見過ごしてきたのだと悠花は思った。
 彼が服を着ているのだから、自分も起きて身支度を整えたい。
 でも体は思うように動かなかった。そんなふうに追い詰めた彼を少しだけ睨みたくなる。
 智晃は昨日まで、悠花の勤めている会社のコンサルティングをしていた。
 その間自分の経営している会社を留守にしていたため、今日は土日にも関わらず出勤しなければならないという。ゆっくり休む暇もなくて少し心配になる。
 「休んだ方がいい」と言うのは簡単だ。だが、そうできない立場に彼はおかれている。
 智晃は小さな会社だよと謙遜するけれど、会社の規模に関わらず経営者の責務は変わらない。
 悠花の実家も自営業だからそれがよくわかる。
 腕時計をつけ終えた智晃が、悠花のいるベッドに近づいて乱れた髪をそっとなでた。

「あなたはゆっくりしていて……できれば僕が帰ってくるまでここにいてほしい」

 大きな手なのに繊細に指先は動く。
 悠花はそれがどんなふうに触れて、悠花を気持ちよくさせるか知っている。

「できるだけ早く帰ってくるから、いてくれる?」

 依頼の言葉なのに、拒否の言葉を受け付けない懇願と命令が微妙に溶け合っている。
 いつだって悠花がそれに否を唱えることはない。

「迷惑じゃないですか?」
「迷惑ならこんなこと言わないよ。むしろこのままずっとここにいてほしいくらいだ」

 甘くて優しい雁字搦めの言葉が、見えない糸になって体に巻き付いてくる。彼と出会った当初は、悠花の体は別の糸で縛り付けられていたけれど、それを彼はゆっくりとほどいていった。
 小指の先で揺らいでいた細い糸は伸びていくうちに、悠花の小指から左手首へとくるりとまわって、やわらかく悠花をからめとろうとしている。
 細い糸につつまれていつか繭のようにくるまれたなら、そこは誰からも侵されることのない安全な場所になるのだろうか。

「ものすごく後ろ髪引かれる……会社に行かないわけにはいかないけど、はあっ……こんなに気だるげで無防備だと、たまらないなあ」

 ベッドが沈み、智晃が唇を寄せてきた。軽く触れ合うだけだったそれは自然に深くなって、いまだだるさの残る体には手が這っていく。体を覆っていたシーツは引きはがされて、悠花は拒むすべもなく、肌をまさぐられはじめた。
 ネクタイまで締めてきちんと服を着ている智晃に、明るい場所で自分だけが裸をさらす羞恥も芽生える。

「やっ、智晃さん……私、もうっ」
「わかっている……これ以上は無理させちゃいけないって。だから、ここにいるって約束して」
「……います、ここに。あなたが帰ってくるまで、待ちますっ、んんっ」

 彼に触れられると快楽の余韻が残った肌は簡単に目覚めてしまう。
 そういう抱き方を彼にはされてきた。
 せっかく心地よい眠りについていたのに火種を灯されて、悠花は濡れた目で智晃を見つめた。
 見つめ返す智晃の目にも、穏やかさの奥に潜む熱が見える。
 悠花が智晃の首の後ろに手を伸ばして誘惑すれば、彼は会社に行かずに再び悠花を貫いてくれるのかもしれない。熱い楔で縫いつけて、きっと高みに昇らせてくれる。そんな邪な願望に今の体は耐えられないから必死に隠した。

「部屋の中の物は自由に使っていい。あなたに隠すものは何もないから探ってもいいよ」

 彼の掌がこめかみから頬を包んで、指先が悠花の唇をゆっくりなぞった。
 今の悠花こそ隠すものは何もない。指先に口づけたくなるのを我慢して、悠花は智晃を見上げた。

「行ってらっしゃい」
「行ってきます」

 悠花の言質をとって満足したのか、智晃は最後にもう一度深くキスをした後に、部屋を出ていった。
 暗い色のシーツは深い海の中にいるような気がする。智晃の匂いを吸い込むように嗅いで、悠花こそこの中にずっといて閉じこもっていたいと思った。
だから悠花は、智晃の残した快い熱と、だるさに満ちた体の求めるままに目を閉じた。



 ***



 後ろ髪引かれる想いを何とか押しとどめて、智晃は自分の会社に向かった。
 休みの日はできるだけ会社に来ないようにスタッフには伝えているが、忙しいときにはそうも言っていられない。幸い会社に着いたときは誰もいなくて、智晃はまず昨夜会食を中座したお詫びをいれる名目で叔父に電話をかけた。
 あの人は休みの日でも家にじっとしていられない人だから、いつ電話しても構わない。
 留守電にきりかわったそれに、形だけお詫びの言葉を連ねたのち、仕事とは関係なく会う時間をとってほしいと伝言を残した。
 叔父の「会食に付き合え」の言葉に従った結果、昨夜は見合いもどきの場に連れ出された。悠花との関係を知っているうえで見合いを画策してくるその意図を、智晃はどう判断していいかわからずにいた。
 悠花を調査したことを叔父は知っている。叔父の思惑も、秘書である桧垣の本音も、智晃の行動を一旦は躊躇わせたけれど、どんなに考えて悩んだって突き詰めていけば出て来る答えはひとつだ。
 彼女に会いたい、そばにいたい、そばにいてほしい。
 悠花を愛している。
 そして、思い悩む彼女の出す答えも同じだ。
 初めて彼女から「好き」だと「愛している」と告げられたときに、これまで何度もしていた覚悟をもう一度自身に課した。
 傷つけるだろう、苦しめるだろう、泣かせるだろう。
 それでもそんな彼女を支えるのもまた自分でありたい。
 晴音の時には同じだけの想いを返されなかった。
 悠花は相思相愛がもたらす幸せを智晃に与えてくれた。
 愛しいと思っていたけれど、時を追うごとにさらにふくれあがっていく。
 濡れた眼差し、無防備に開いた唇。シーツから覗く細い肩。白く伸びる手首には自分がつけた枷。
 だから、やれることを全力でやる。彼女を守るために自分のもてるあらゆる力を用いる。
 あの叔父がどこまで正直に話してくれるかわからないけれど、向き合わないわけにはいかない。見合いをセッティングしないよう再度釘を刺し、ついでに桧垣の件も牽制する。
 できれば味方になってほしい。そうすればこれほど心強い存在はいない。反面、敵にまわられたらやっかいだけれど。
 そして三住には……彼女が過去に愛した相手について調査を依頼することになるだろう。
 不意に彼女が漏らした名前をインターネットで検索しかけてやめた。
 巷にあふれている情報の正否を正確に判断するのは難しい。自分の心情が偏っていればなおさらだ。
 智晃は頭を軽く振って欲求を追い払うと、悠花が家で待ってくれていることを糧にして精力的に仕事をこなした。
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