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第二章

第六話

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 どんなに深い傷を負ってもいつかはふさがる。
 たとえ傷痕が残っても時間とともに薄まっていく。
 人の記憶は曖昧でどんどん上書きされて消えていく。
 穂高のことを思い出して泣く回数はいつかなくなるのだろうか。
 思い出しては泣いて、傷ついて苦しんで、そしてそれらが薄まっていくのをじっと耐えるしかない。解決してくれるのは時間だけだ。
 桧垣に言われた通り、悠花は直接副社長にも契約更新しない旨を伝えた。
 桧垣から事前に聞いていたこともあったのだろう。
 難しい表情はしていたが、深く理由を問い詰めもせず智晃のことにも触れず「君が決めたことなら」と快諾してくれた。
 慣れてきた職場環境を離れて、拾ってもらった副社長に恩返しもできないままで辞めていくことに何度もためらった。
 過去の再就職活動だって、ぎりぎりの精神状態だったせいもあって苦しくつらかった。
 噂がどこまで広がっているかわからなくておどおど怯えて受けた面接。落ちれば自分の能力が足りないのか、噂のせいなのか思い悩んだ。もうどこにも行き場所がなくて自分がいらない存在のようにも思えた。
 それらを思い出すと怯みそうにもなる。
 けれど一歩踏み出す足は自分の力で動かすしかないのだ。
 過去に囚われて、息をひそめて目立たないように生きるのではなく、周囲の目を気にせずに自分らしく生きられる新しい場所を探したい。
 副社長に正式に伝えて承諾を得られたため、悠花は今度会ったときに智晃にも伝えようと思った。悠花の決断を彼はどう思うだろうか。
 契約更新せずに会社を辞める理由に、智晃とのことは関係がないのだとうまく伝えられればいい。
 悠花は頼まれた文書を翻訳し終わると、メール添付して依頼主に送った。
 集中していた意識がようやく途切れて周囲のざわめきが耳に入る。
 「あなたたちこんなところで何をしているの?」と秘書の女性の声がして、悠花もそちらに視線を向けた。
 ちょうどお昼休みを少し過ぎた時間帯のせいか、エレベーター付近に他部署の女性社員たちが数人いるようだった。
 「すみませーん」と悪びれない声が響いて、秘書部をのぞきみる女性社員の一人と目が合う。
 「ほら、あの子」みたいにさりげなく指でさされて、悠花は視線をそらした。
 秘書の女性が「用がないのであれば戻りなさい」と伝えている。
 室内にいる他の秘書や、秘書事務の子たちも不思議そうにそのやりとりを見ていた。
 悠花は席を立つと、お昼休憩に入る素振りでさりげなくパーテーションの後ろに向かう。
 心臓がどくどく音をたてて、冷たい汗が背中を伝った。
 『ほら、あの子』そんなふうに指されたのはもしかしたら自分ではないかもしれない。フロアには秘書も秘書事務もたくさん残っていた。
 悠花は途切れそうになる呼吸を意識して整えた。すうっとゆっくり息を吸い込んで細く吐き出す。
 穏やかで平凡な日々を送る。
 それが悠花の一番の望みだったのに、いつから世界は再び動き出してしまったのだろうか。
 漠然とした不安を表したかのように、窓の外には厚い雲の塊が空を塗りつぶそうとしていた。



 ***



 新年度がはじまると社内には新しい顔ぶれがそろいだす。
 春だけは新入社員と一緒に契約社員も二週間ほどの研修を受ける。秘書部にも異動によって久しぶりに男性社員が配属されてきたし、研修の目的で役員フロアを訪れる人も多かった。
 本来は呼び出されない限り、他の社員は役員フロアにある秘書部に足を踏み入れない。
 総務の人が社内便を届けるぐらいであとは外部の取引先ぐらいだ。
 よってこの時期特有の流動的な人の行き来が悠花は苦手だった。
 悠花は出社すると退社するまで秘書部からは進んで出ない。
 他部署へ書類を届けたりするのは他の秘書事務の人たちが率先してやってくれたので、外へお遣いに行く程度だ。今はさりげなくそんな仕事さえも与えられないように率先して雑用をこなし、人目につかないようにしていた。
 自分に向けられたものでなくても、新たな他人が送る視線は居心地が悪い。
 ゴールデンウィークが明ければ落ち着くそれを、去年もなんとかやり過ごした。けれど今年はその中に妙な感覚を与える視線が混ざり合っていた。
 たとえば、新入社員を連れて説明しながら先輩社員がさりげなくむける視線。
 役員による幹部研修にくる人たちの視線。
 そして、同じ秘書部内の人たちが向けはじめた心配と不審が入り混じった視線。
 日ごとに増えている気がするそれらに、悠花は隙を見せないようにして仕事に集中していた。
 だからお昼休憩に入って人がほとんどいなくなるとほっとする。
 悠花はいつものようにお弁当を準備してパーテーションの奥に逃げ込んだ。
 このままじゃだめなのだろうという気配をなんとなく感じる。
 彼女たちは悠花に何か問いたそうな空気を滲ませている。
 仕事に集中できずにミスをするほどではないが、あまりいい空気ではない。
 かといって悠花も自分から「聞きたいことがあれば言ってください」と言えるほど強くない。
 何かよくない噂が広まっているのかもしれないけれど、その具体的な内容を知りたいとも思わない。
 今だけだ、と悠花は自分に言い聞かせる。
 噂なんて暇な人達が口の端にのぼらせるだけで、新しい話題が出ればすぐにふっとかききえていく。惑わされずに、むやみやたらに傷つかずに、真摯に行動していればいつかは凪いでいくはずだ。
 悠花の周囲に吹き荒れている風だって、海風と同じ、陸地と海とが同じ温度になれば凪いで風はやむ。
 ふっと振動が届いて、悠花は携帯を手にした。
 お昼休憩を見計らって送られてくるメール。
 彼はきっとたわいもないそれがどれだけ悠花を癒すかなんて知らずにいるだろう。

『ゴールデンウィーク後半の二日だけ休みを確保できたよ。一緒に過ごしたい』

 休みがとれるかわからないんだけどと前置きして、智晃は悠花の予定を聞いてきた。
 結婚した大学時代の友人のところへ遊びに行く予定だけが入っていたが、それ以外は空白だ。
 実家に帰れない悠花は学生時代の友人と会うか、部屋の片づけをしてのんびり過ごすつもりだった。
 この会社での仕事を終えた智晃は、毎週末会っていたのが嘘のように、これまでの穴埋めをするために出張が重なっている。
 今は海外に出店を検討している飲食店のコンサルティングのために地方に行っていた。
 会えないのは寂しい。
 でもこれぐらいの距離がきっとちょうどいい。
 これまでは月に二回だけの逢瀬だった。それも偶然会えればいいだけの、曖昧さだ。
 今はこうして予定をつきあわせて会う約束を取りつけることができる。
 彼の仕事の忙しさも大変さも理解しているから、たまの休みを自分のために使ってもらうのが申し訳ないとも思っている。
 きっとこの休みだって、調整して確保したに違いない。

『ありがとうございます。私も一緒に過ごしたいです』

 無理をしないで、体を休めてゆっくりしてほしいとも思う。でも今は素直に一緒にいたいと伝える。
 悠花はメールを送信した。
 無理に会わずにいることはない。
 無理にやめる必要もない。
 悠花の耳にはきちんと音が聞こえている。やわらかな波がだんだんとうねりを増す音。
 穂高との関係が始まった海、初めてキスをした海、そして指輪を捨てて終わらせた海。
 悠花は左手首をかかげると、細い鎖のブレスレットに唇をおとす。
 悠花を守るのも、癒すのも、救うのも彼がいい。
 傷つけて苦しめて壊すのも……彼ならいい。
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