恋火

流月るる

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第十三話

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 パソコンの画面を見つめながら、キーボードの上を踊るように指を動かす。最後の文字を打ち終わって保存作業をすると、美綾は両腕を高く上げて伸びをした。椅子に座って同じ姿勢でずっと画面とにらめっこしていると、体が強張ってしまう。
 ブラウスの袖口が落ちてきた瞬間はっとして慌てて腕を下ろした。
 夏休みで私服での出勤が可でよかったと思う。夏の制服だったら誤魔化しづらかったかもしれない。
 手首より少し下のほうにくっきりと大きな指の痕がついていた。昨日郡司に掴まれた場所だ。朝、半袖のカットソーを着て初めて気づいてすぐに長袖に着替えたのだ。

 『SSC』まで送ってもらう車の中で、郡司は不甲斐なさそうに言い訳を並べ立てた。
 久しぶりに日本に戻ってみれば、高校生とともに仕事をしていると知らされた。担当の高校生がすごいイケメンだのかわいい女子高生だのと騒がれている。よく頑張っているという声もあったけれど、生意気だとか、どうせたいしたものはできないだとかどちらかといえばマイナスの声が多かった。
 そのうちに時任が担当の女子高生を気に入っているから強引に契約を結んだのだとか、いや女子高生が調子に乗って息子を紹介してほしいとねだっているとか、そういう話を聞いた。

 彼には恋人がいたけれど父親である時任には反対されていた。そういう微妙な状況の中で女子高生が間に割り込んできた。二人の仲を応援していた郡司としては気に入らない。そして時任がその女子高生と息子を会わせるつもりだという情報を聞きつけて、昨日乗り込んできたらしい。

 美綾にしたら誤解も甚だしい。

 車を降りる時、再度謝罪されて美綾はようやく頷いた。最後の最後で『でもおまえ、男の車に簡単に乗るなよ』と言われてカチンときたけれど。
 
 昨日、美綾がなかなか電話に出なかったので、時任に問い合わせたのは真夏だった。時任の声の様子が過剰だったので、余程の騒ぎに陥っているのかと思ったけれど、あれは彼が大げさに受け取っただけのようだ。
 『電話に出られなくてごめんね』と謝ると『携帯見つかってよかったね』で済んだ。だから美綾も『時任の呼び出し内容はただの確認だったから心配はいらなかったよ』で誤魔化した。

 実際、結局のところ昨日の呼び出しは仕事とは関係がなかった。
 彼が自分の息子を紹介したいほど、気に入ってくれていることは知っていたのだから、もう少し注意すべきだったと思う。
 だがどうやって気をつければいいのか。
 無防備だの隙だらけだのはよく言われてきたけれど、美綾だって自分なりに気をつけてはいるのだ。けれど誰も彼をも疑って警戒するのも疲れてしまう。

 由功のそばにるときはここまで気にしたことはなかった。
 自分が男にどう見られているか。どんな存在かなんて。
 それは多分彼が感じさせないように守ってくれていたからだ。

 恋人――という存在を作れば、守ってくれる相手を見つければ解決することなのか。
 美綾は周囲にこっそり視線を走らせた。みんなそれぞれ仕事をこなし、時に雑談を交え、そこからまた話題がいろいろ広がっている。
 彼らはどうやって恋人いう存在を作るのだろう。
 好きな人と両想いになれるなんて、奇跡みたいなものなのに。

「九条、ちょっと部屋までいいか」

 背後から声をかけられて美綾は振り返った。反射的に頷いて、背を向けた貴影の後ろ姿を見つめた。
 彼はその奇跡を叶えている。
 彼の隣にはいつも彼女の幻が見える。あの背中に手を伸ばして、しがみついて、視線を独り占めできる存在。
 うらやましくて、妬ましい……いつか本気で彼女を憎みそうな自分を美綾は嫌悪した。


 ***


 由功の部屋とは違うな、というのが最初に感じた印象だ。同時にこの部屋へ入ったのは初めてなのだと思った。
 各イベントで担当チーフが決まると、チーフにのみ個室が与えられる。それは、場合によってはクライアントや来客の対応をしたり、会議室が使用できないときに主要スタッフとの打ち合わせをしたりという個室が必要だからだ。
 貴影のその部屋も、簡単な応接セットと、机があるだけのシンプルな空間だ。机にはパソコンがおかれ、可動式のファイルスタンドに今回のイベント関係の資料が整理された状態で並んでいる。
 どのチーフの部屋も置いている家具は同じものだ。けれどやはり使用する人の個性は反映されて、彼自身のプライベートな空間なのだと意識する。

 司や真夏などは頻繁にこの部屋を出入りしているが、美綾は意識的に入ることを避けていた。
 ここから泣きながら飛び出していった女の子を覚えている。あの時、社員以外の異性とは二人きりにならないように注意していると聞いて、社員も禁止すればいいのにと思った。そうすれば今、こんな風に二人きりにならずに済んだ。

「御嵩くん、なに?」

 早く用件を聞いて退出したくてドアのすぐそばで美綾は聞いた。自分でも口調が固いのがわかる。
 貴影は美綾の目の前までくると、いきなり美綾の手を掴んだ。すぐさま袖をめくられる。

「これは?」

 痛みはほとんどないのに、なぜか色だけが濃くなっている。それでもまさか彼がこれに気づくとは思っていなかった。人に見られないようにこれでも注意を払って過ごしていたのだ。

「ちょっと……ぶつけただけ」
「あきらかに指の痕だ。それも――男」

 低くかすれた声にぞくりとする。彼がここまで感情を露わにするのは珍しい。
 美綾はひどく泣きたくなる。

「昨日、時任さんに急に呼び出されたって聞いた。それについての報告をオレはまだ受けていない」
「なにも……なにもなかったの。時任さんの勘違いで、だから報告の必要性を感じなかった。ごめんなさい」

 貴影の指がそっと美綾のその痕をなぞる。背筋がぞわりと震えて、咄嗟に手を振りほどこうとしたのに貴影は離さなかった。

「仕事の話じゃなかったんだろう? 彼は君に自分の息子を紹介したがっていた。息子に会って――そして痕が残るほど掴まれてなにをされた?」

 なにもされてはいない。
 会ったのは、時任の息子ではなく『青桜』の社長の息子。

「時任さんの息子か!?」
「違う!」
「じゃあ誰だよ! こんな痕……男に強引に掴まれない限りつかないだろう!」

 荷物を人質にされて仕方なく車に乗った。ドアを開けて逃げようとしたら腕を掴まれた。
 それだけだ。
 でも確かにあの時奇妙な空気が流れた。電話が鳴らなければ……もしかしたら……いや、わからない。
 それをどううまく説明すればいいのか。彼から受けていた誤解を、その後の行動を……そもそも報告する必要などあるのか?
 
 貴影は心配してくれている。美綾が隠していた指の痕に気づいて、それをつけた相手に対して憤ってくれている。
 まるで大事な女の子に対してするみたいに。
 まるで美綾が特別な女の子であるみたいに。

 美綾は目を閉じた。
 貴影の心配が嬉しいと素直に思う。気にかけてもらえて気づいてもらえて、彼の意識の中に自分がいることが。
 でも同時にひどく煩わしいと思った。こんなのただの仲間の女の子にするには過剰な態度だ。

 郡司にされたことを正直に話したら、怖かったのだと泣いたら……彼は慰めてくれるのだろうか。
 抱きしめてくれるだろうか。
 
 そんなの絶対ありえないのに――――!

 美綾はこくんと唾液を飲み込んだ。必死に荒れ狂う感情を抑え込む。
 だったら言う必要などない。これ以上心配されたって嬉しくない。
 彼にしてみたら意味などないこんな些細な行為で、どれほど翻弄されているかなんてどうせわからない。

「時任さんに仕事を口実に呼び出されたのは確か。でも結局息子さんとは会っていない。この指の痕は……私のプライベートなことだから、御嵩くんに口出しされることじゃないと思う」

 淡々とした口調で美綾はなんとか言葉を吐き出した。

 心配などしなくていい。自分のことなど気にかけないでほしい。これ以上構わないでほしい。
 こうして彼にだけ気づかれると、こんな風に感情露わに心配されると、特別に思われていると錯覚してしまうから。

 期待してしまうから。

 ほら。ようやく落ち着きかけていた火がまた燃え始めた。再燃するたびに熱量は増していく。
 優しいぬくもりではなく、身を焦がして火傷しそうなほどの火。
 この火を消すのに……どれだけまた水をかければいい? どれだけ涙を流せばいい?

「こんな痕つけられて、心配しないわけがないだろう!」
「由功に頼まれたからってそこまでしなくていい」
「九条、オレは!」
「御嵩くんは自分の大事な子のことだけ考えていればいいの」

 美綾は自分の手を掴む貴影の手にそっと触れた。貴影ははっとして、ようやく美綾の手を解放する。
 美綾は痕を隠すように、彼が与えたかすかなぬくもりを逃がさないように自分の手首を包む。

(こんな形でも彼が触れてくれた、それだけで喜んでいるなんて知らないでしょう?)

「御嵩くん、女の子はね、そんな風に心配されて気遣われると錯覚を起こすの。優しくされると特別なんじゃないかって期待するの」

 熱い、熱くてたまらないと思う。
 二人きりの個室にいて、こんなに近くにいて、心配でたまらないという目で見られたら――――誰だって期待する。

「私、期待するの」

 気持ちがあふれてとまらない――――

 見上げれば、戸惑いを隠せないまま見下ろす彼の目がある。
 いっそ泣きながら飛び出したあの彼女のように、服でも脱いでみせたら……はっきりと拒絶してくれるのだろうか。

 視界がぼやけて、美綾は目を伏せる。

「御嵩くんは彼女のことだけを心配すればいい。守ればいい。だから私には――――構わないで」

 乱暴に涙をぬぐった。泣いているなんて思われたくなかった。だから美綾は貴影の目をまっすぐに見て、そして部屋を後にした。
 
 そこにはいつもの日常が広がっている。
 もう気持ちは隠せない。元には戻れない。それだけがわかった。
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