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第十四話
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あの日……貴影の部屋から出てきた女の子を見た日。
あれは未来の自分だと思った。
想像通りの状況で唯一違うのは、服が乱れていないことだけ。
脱げばよかったかな……それで少しでも誘惑に応じてくれたら、いや蔑んで拒んでくれたら、さすがにこの胸の火は消えるのだろうか。
美綾は貴影の部屋を出ると、胸をとんっと叩いた。とんとんっと繰り返して、このまま激しく叩いて壊れてしまえばいいと思う。
「九条、この件についてだけど……どうか――」
司が書類を手にしている。小さく目を瞠ったのを見て、そういえば彼も勘がよかったのを思い出した。
必死で隠しているのに、見つけてしまう人がいる。
由功も貴影も、そして司も。彼らの勘のよさは本当に困る。
これ以上見抜かれたくないし、勘繰られたくもなかった。
「それ、急ぐ? 後でもいい?」
「……後でいい」
「少し外の空気吸ってくる」
「あ、ああ」
美綾はあえてエレベーターではなく階段を使って下りた。幸い誰もいなくて、一段一段ゆっくりと下りる。
下りるたびに涙が小さく跳ねて、落ちて、美綾は時々拭った。
泣いてはダメだ。まだ仕事はたくさんある。
こんな風に逃げてはダメだ。結局心配をかけてしまう。
(でもここにはいたくない!)
裏口から外に出ると、嫌味なくらい明るい日差しが降り注ぐ。その熱は、冷房で冷えていた美綾の体温を強引に引き上げる。急な温度差に鳥肌がたった。
ここには泣ける場所もないのか。どこに行けば声を上げて泣くことができるだろうか。
大通りにはいつものように車が行き交い、人が足早に通り過ぎていく。街路樹のセミの鳴き声が耳障りなほど激しく聞こえてくる。
何度もこの火を消そうとしたのだ。でも消えない。
彼の声が聞こえるだけで、彼の気配を感じるだけで意識は彼に向いてしまう。目で追いかけないように耐えるのが精いっぱいで、視界の端に彼の背中を映してしまう。
不意に二人きりになる瞬間があれば、もっとこの時間が続けばいいと思う。
庇うように腕が伸ばされるとしがみつきたくなる。
彼の視線の先にいるのが自分であればいいのにと願ってしまう。
そのたびに戒めてきた。それらはすべて彼女のもので決して自分のものではないと。
喉から手が出そうなほど求める自分を嫌悪してきた。
火が消えてくれないのなら、いっそ心ごと壊れてしまえばいいのに。
しつこく燻る炎とともに自分で自分を壊してしまえばいい。
そう叫んでしまいたい衝動に重なるようにクラクションの音が響く。しつこく鳴ったその後に自分の名前が聞こえた気がして、美綾は振り返った。
見覚えのある車の運転席の窓が開く。そこに昨日初めて会った男の顔が現れて、傘の柄が出された。自分の傘だとわかるのに時間はかからなかった。
「大丈夫か?」
車に近づいて言われた第一声がそれで、美綾は自分を保っていた一本の糸が切れたことを知った。目頭が熱くなり、頬を一筋涙が伝う。
壊れそうだった。だから壊したかった。
「乗るか?」
何気ない一言だったのだと思う。彼自身、無意識だったのだろう。自分の言葉に驚いているようだった。
美綾は頷きもせずにただ行動にうつした。自ら助手席のドアをあけて車に乗り込む。
壊したかった。自分のおかれた世界を変えたかった。すべてを破壊してしまいたかった。
そうすることでしか、もうこの気持ちは消えることがないのだから。
「美綾!」
ドアが閉まる瞬間大きな声が届いた。
戻ってきたらしい由功の驚いた表情が見えた。でもただ見えただけで何も感じなかった。
シートベルトを締めると車は動き出す。鏡越しに、由功が追いかけてくる姿が映ったけれど、それはすぐさま消えていく。
涙でぼやける視界はもうなにも映さない。
ただ、泣きたかった。泣ける場所が欲しかった。
***
気づいたからといってなにかしてやれるわけじゃない。彼女自身がそれを望んでいない。
だから司にできたのはただ見守ることだけだった。由功に命じられた時は意味がわからなかったけれど、見守ることしかできないのだと、本当は言いたかったのかもしれない。
貴影に呼ばれて美綾が部屋に入った時、なにか重要な話でもするのだろうとしか思わなかった。
けれど部屋を出てきた美綾は――一見いつもと同じ穏やかな雰囲気だったけれどその目はどんな感情も宿していなかった。ただ昏く濡れていただけ。
迷いは一瞬で、司は周囲には気づかれないよう軽くノックをして、向こうの返事も待たずに体を滑り込ませた。
部屋の主はドアのすぐそばの壁にもたれて立っていた。司の姿を認めた途端、彼の表情が瞬時に変わる。
同じ男として――彼女に惑う気持ちは理解できる。
しっかりしているのに無防備で目が離せない。誰かに傷つけられやしないか心配でつい見てしまう。美綾にはそんな雰囲気がある。
だから貴影の態度が彼女に対してだけ僅かに違うのも、由功が大事にしている女の子だから特別に扱っているせいだろうと思っていた。
なぜなら知っているからだ。貴影が恋人を大事にしていることを。
だから美綾の恋は叶わない。美綾が自分で決着をつけて自身の感情を昇華するしかない。
由功はそのためにあえて彼女を貴影のそばにおいたのだ。
不安定に苦しむだろうことを、深い傷を負うだろうことを、わかっていてもそうするしかなかった。
自分たちには所詮、見守るぐらいしかできない。
「司、なにか用か?」
さっきの一瞬の表情を見ていなければ気づかなかった。それほど貴影は、いつもと同じ冷静な態度を崩さない。
美綾のあの目を見なければ、二人の間の変化など見過ごしたに違いない。
「恋人のいる男を好きになることまでは責められない。片思いするのは本人の自由だ」
「仕事以外の話をここでする気はない」
「仕事の話だ! 恋人のいる男を好きになったんだ。苦しむのも傷つくのも勝手だ。どんなに好きでも報われない、そのことで苦しむのはただの自業自得だ!」
「仕事に関する話がないなら、オレは行く」
司の言葉など無視して、貴影はドアノブに手をかける。司はそれを押さえ込んだ。
「仕事の話だと言っている! 苦しもうが傷つこうが彼女自身のせいだ。でも、それ以上に苦しめる権利はおまえにはない! おまえ、彼女を壊す気か!」
「司、手を離せ」
「貴影!」
きつく名前を呼んだ瞬間、司は貴影に胸倉をつかまれていた。
「司、ここで仕事以外の話をする気はない! そしてオレのプライベートにも口をはさむな!」
司を手から離すと、そのまま貴影は勢いをつけてドアをあけた。有無を言わせない貴影の言動に、司はそれ以上なにもできなかった。
「……だったら、あんな表情見せるなよ……」
司は壁にもたれたままずるずると腰をおろした。気持ちの悪い汗が肌にまとわりつく。
動けない。なにもできない。彼も彼女も傷ついているのに壊れそうなのに、もう守ることさえできない。
「由功のバカ野郎! なんでオレに……こんな役回り……」
守るべきものがなんなのか、そもそも守ることができるのかわからなかった。
あれは未来の自分だと思った。
想像通りの状況で唯一違うのは、服が乱れていないことだけ。
脱げばよかったかな……それで少しでも誘惑に応じてくれたら、いや蔑んで拒んでくれたら、さすがにこの胸の火は消えるのだろうか。
美綾は貴影の部屋を出ると、胸をとんっと叩いた。とんとんっと繰り返して、このまま激しく叩いて壊れてしまえばいいと思う。
「九条、この件についてだけど……どうか――」
司が書類を手にしている。小さく目を瞠ったのを見て、そういえば彼も勘がよかったのを思い出した。
必死で隠しているのに、見つけてしまう人がいる。
由功も貴影も、そして司も。彼らの勘のよさは本当に困る。
これ以上見抜かれたくないし、勘繰られたくもなかった。
「それ、急ぐ? 後でもいい?」
「……後でいい」
「少し外の空気吸ってくる」
「あ、ああ」
美綾はあえてエレベーターではなく階段を使って下りた。幸い誰もいなくて、一段一段ゆっくりと下りる。
下りるたびに涙が小さく跳ねて、落ちて、美綾は時々拭った。
泣いてはダメだ。まだ仕事はたくさんある。
こんな風に逃げてはダメだ。結局心配をかけてしまう。
(でもここにはいたくない!)
裏口から外に出ると、嫌味なくらい明るい日差しが降り注ぐ。その熱は、冷房で冷えていた美綾の体温を強引に引き上げる。急な温度差に鳥肌がたった。
ここには泣ける場所もないのか。どこに行けば声を上げて泣くことができるだろうか。
大通りにはいつものように車が行き交い、人が足早に通り過ぎていく。街路樹のセミの鳴き声が耳障りなほど激しく聞こえてくる。
何度もこの火を消そうとしたのだ。でも消えない。
彼の声が聞こえるだけで、彼の気配を感じるだけで意識は彼に向いてしまう。目で追いかけないように耐えるのが精いっぱいで、視界の端に彼の背中を映してしまう。
不意に二人きりになる瞬間があれば、もっとこの時間が続けばいいと思う。
庇うように腕が伸ばされるとしがみつきたくなる。
彼の視線の先にいるのが自分であればいいのにと願ってしまう。
そのたびに戒めてきた。それらはすべて彼女のもので決して自分のものではないと。
喉から手が出そうなほど求める自分を嫌悪してきた。
火が消えてくれないのなら、いっそ心ごと壊れてしまえばいいのに。
しつこく燻る炎とともに自分で自分を壊してしまえばいい。
そう叫んでしまいたい衝動に重なるようにクラクションの音が響く。しつこく鳴ったその後に自分の名前が聞こえた気がして、美綾は振り返った。
見覚えのある車の運転席の窓が開く。そこに昨日初めて会った男の顔が現れて、傘の柄が出された。自分の傘だとわかるのに時間はかからなかった。
「大丈夫か?」
車に近づいて言われた第一声がそれで、美綾は自分を保っていた一本の糸が切れたことを知った。目頭が熱くなり、頬を一筋涙が伝う。
壊れそうだった。だから壊したかった。
「乗るか?」
何気ない一言だったのだと思う。彼自身、無意識だったのだろう。自分の言葉に驚いているようだった。
美綾は頷きもせずにただ行動にうつした。自ら助手席のドアをあけて車に乗り込む。
壊したかった。自分のおかれた世界を変えたかった。すべてを破壊してしまいたかった。
そうすることでしか、もうこの気持ちは消えることがないのだから。
「美綾!」
ドアが閉まる瞬間大きな声が届いた。
戻ってきたらしい由功の驚いた表情が見えた。でもただ見えただけで何も感じなかった。
シートベルトを締めると車は動き出す。鏡越しに、由功が追いかけてくる姿が映ったけれど、それはすぐさま消えていく。
涙でぼやける視界はもうなにも映さない。
ただ、泣きたかった。泣ける場所が欲しかった。
***
気づいたからといってなにかしてやれるわけじゃない。彼女自身がそれを望んでいない。
だから司にできたのはただ見守ることだけだった。由功に命じられた時は意味がわからなかったけれど、見守ることしかできないのだと、本当は言いたかったのかもしれない。
貴影に呼ばれて美綾が部屋に入った時、なにか重要な話でもするのだろうとしか思わなかった。
けれど部屋を出てきた美綾は――一見いつもと同じ穏やかな雰囲気だったけれどその目はどんな感情も宿していなかった。ただ昏く濡れていただけ。
迷いは一瞬で、司は周囲には気づかれないよう軽くノックをして、向こうの返事も待たずに体を滑り込ませた。
部屋の主はドアのすぐそばの壁にもたれて立っていた。司の姿を認めた途端、彼の表情が瞬時に変わる。
同じ男として――彼女に惑う気持ちは理解できる。
しっかりしているのに無防備で目が離せない。誰かに傷つけられやしないか心配でつい見てしまう。美綾にはそんな雰囲気がある。
だから貴影の態度が彼女に対してだけ僅かに違うのも、由功が大事にしている女の子だから特別に扱っているせいだろうと思っていた。
なぜなら知っているからだ。貴影が恋人を大事にしていることを。
だから美綾の恋は叶わない。美綾が自分で決着をつけて自身の感情を昇華するしかない。
由功はそのためにあえて彼女を貴影のそばにおいたのだ。
不安定に苦しむだろうことを、深い傷を負うだろうことを、わかっていてもそうするしかなかった。
自分たちには所詮、見守るぐらいしかできない。
「司、なにか用か?」
さっきの一瞬の表情を見ていなければ気づかなかった。それほど貴影は、いつもと同じ冷静な態度を崩さない。
美綾のあの目を見なければ、二人の間の変化など見過ごしたに違いない。
「恋人のいる男を好きになることまでは責められない。片思いするのは本人の自由だ」
「仕事以外の話をここでする気はない」
「仕事の話だ! 恋人のいる男を好きになったんだ。苦しむのも傷つくのも勝手だ。どんなに好きでも報われない、そのことで苦しむのはただの自業自得だ!」
「仕事に関する話がないなら、オレは行く」
司の言葉など無視して、貴影はドアノブに手をかける。司はそれを押さえ込んだ。
「仕事の話だと言っている! 苦しもうが傷つこうが彼女自身のせいだ。でも、それ以上に苦しめる権利はおまえにはない! おまえ、彼女を壊す気か!」
「司、手を離せ」
「貴影!」
きつく名前を呼んだ瞬間、司は貴影に胸倉をつかまれていた。
「司、ここで仕事以外の話をする気はない! そしてオレのプライベートにも口をはさむな!」
司を手から離すと、そのまま貴影は勢いをつけてドアをあけた。有無を言わせない貴影の言動に、司はそれ以上なにもできなかった。
「……だったら、あんな表情見せるなよ……」
司は壁にもたれたままずるずると腰をおろした。気持ちの悪い汗が肌にまとわりつく。
動けない。なにもできない。彼も彼女も傷ついているのに壊れそうなのに、もう守ることさえできない。
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