恋火

流月るる

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第十六話

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 貴影は司の意味深な眼差しに気づきながらも、仕事をこなした。いつもの定位置にいまだ彼女の姿はない。机の上は貴影が呼び出した時のままの状態だし荷物もある。

「御嵩くんそれでこの件についてなんだけど――御嵩くん?」
「ああ」

 さっきから何度も集中が途切れている。真夏は首を捻って「御嵩くん大丈夫?」と聞いてきた。気持ちを切り替えて資料を読み、彼女の質問に答えた。
 どんどん仕事が進むと雑多なことも増えていく。けれどそれらを見過ごせば、大きなミスに繋がりかねないから油断はできない。
 わかっているのになかなか集中できなくて、貴影はそんな自分に苛立っていたし、それを見ている司の視線もうっとうしかった。

――『私、期待するの』

 すぐさま浮かんだ涙を拭って、彼女はまっすぐに貴影を見つめてきた。力強くてとても綺麗な目は、深い悲しみに満ちていて胸がひどく締めつけられた。
 自分の中で曖昧にぼやけていたものが、はっきりと輪郭を描いていくのを、今の自分は直視できずにいる。

 不意に室内がざわめいて顔をあげると、由功が黙ったまま部屋に入ってくるところだった。『SSC』トップに立つ彼が二階に来るのは珍しい。その上、怒りのような苛立ちのような負の感情を隠しもしていない。その空気が瞬時に伝わって、一瞬で静まり返った。

 ざわめきが途絶えたことなど構わず、由功は美綾の荷物を持つ。机の上にあったスマホも忘れずに荷物の中にしまいこんだ。

「美綾を少し借りる。今日はもう戻らないからそのつもりで対応して。なにかあれば連絡はオレに」

 たったそれだけを言うと、誰にも質問も反論も許さないばかりか、返事も聞かずに由功は出て行った。

「え? あれ、なに? 美綾ちゃんどうかしたの?」
「高階――あれには触れるな。ああいう由功は放置に限る」

 陽司が冷静に言い放った。こういう時、そんな台詞は本来司が口にすることが多い。だから珍しく陽司が言ったせいで、逆にこの場の全員がすんなり納得したようだった。
 司は無言で貴影を睨んでくる。彼はきっとなにもかもを見抜いているのだろう。そのうえで『おまえ、このまま放っておくつもりか』という圧をかけてくる。

 美綾を傷つけた。それは確かだ。
 そして彼女はあれから戻ってこないどころか、今は由功の部屋にでもいるのだろうか。それとも別の用件で仕事に出たのか。

(由功が把握しているのならそれでいい。彼女を支えるのはオレじゃない……)

 貴影は、そんな気持ちを込めて司の視線に対抗した。


 ある程度の仕事にキリがついた頃、タイミングを見計らったかのように陽司が貴影に資料を持ってきた。『これ機密事項だから由功に直接渡して』と言って。自分で渡しに行けよと思ったけれど、すかさず『チーフの役目だろう?』と言われて仕方なく受け取った。
 これが司ならはっきり拒めるのに、いつも無関心を貫く陽司からだと、その意図が明らかであるゆえにできなかった。つまりは彼も気づいていて、貴影の言動を見張っていると警告している。

 陽司も司も、そして由功もなにを求めているのか。
 彼らはなにを期待しているのか。

 由功の部屋に美綾がいるのなら、行かないほうがいい気がする。彼女は会いたくないはずだ。
 それでも彼女のあの表情がずっとちらついて離れない。
 硬質な固いガラスには、小さな傷一つで壊れそうなほどの繊細さがあった。司の『おまえは彼女を壊す気か』という言葉も追い打ちをかける。
 迷いがいつまでも消えないくせに、貴影は三階の由功の部屋の前にいた。


 ***


 彼女が壊れていないことを確かめたいような、自分がつけた傷を見たくないような、こんなにも自身の心に向き合うのが苦痛なのは初めてだ。

(それに……由功はあの手首の痕を知っているのか?)

 きっかけになったあの痕のことは、はっきりさせたほうがいい。美綾は自分にはその相手が誰かは言わなかった。由功の前なら黙ったままではいないはずだ。陽司に頼まれたことも口実にして貴影は目の前のドアをノックした。

 由功の返事を聞いて、貴影は部屋に入った。素早く周囲に視線を走らせる。『SSC』の中でも広めにとられたその部屋は、重厚感のある大きなソファにセンターテーブルの応接セットが部屋の中心にある。壁の一面は天井までの書棚。一段ステップをあがった場所に大きめの由功の机が置かれ、そのすぐ隣に一回り小さめの机が並ぶ。
 これまで美綾が使っていたそこには今は誰も常駐していない。

 室内に由功以外の気配はなかった。由功はちょうど電話がかかってきたようで、貴影に待つよう視線で示して電話に出た。

「お忙しいところ申し訳ありません。わざわざ折り返しお電話いただいてありがとうございます。はい、昨日の九条美綾の件です――ああ、そう、そうですか……青山郡司さんがうちの九条を……はい、いえお世話になりました。いえ大丈夫です。知り合った経緯がわかればそれで、はい、今後ともよろしくお願いいたします」

 電話の口調は滑らかで落ち着いていた。けれど表情はみるみる固まって、悔し気に歪んでいく。電話を終えた由功はまるで携帯を投げ捨てるかのように腕をふりあげて、なんとか耐えていた。

「ふっざけんな! 青山郡司の野郎! 昨日の今日でどうしてこんなことになっているんだよ!」
「由功?」
「おまえ、昨日美綾が時任部長に呼び出されたこと、どうしてオレに言わなかった!?」

 怒り露わに由功は貴影に近づく。その勢いに圧されつつも貴影は自分も知ったばかりのことを答えた。

「オレも今朝報告を受けたんだ。急に呼び出されたけど確認だけで気にするような内容じゃなかったって」

 それも伝えてきたのは美綾ではなく真夏だった。『美綾ちゃん呼び出され損だよね。きちんと確認してから連絡してほしいよ。こっちだって忙しいのに』と報告というよりも愚痴を言うために。

「向こうは息子を紹介する気満々で、昨日は仕事を口実に美綾を呼び出したんだ。それはいい。よくないけど、もうどうだっていい。それより青山郡司だ!」

 由功は怒りを抑えられないようだ。頭をかきながらソファに座り込む。やはり昨日の呼び出しは貴影の予想通りだったようだ。だったらあの指の痕だってその時のものに違いない。

「青山郡司って?」

 貴影は時任の息子だと思っていた。そして聞き覚えのある名前に嫌な予感がする。

「『青桜』の社長の息子だ! 海外にいたのに今度日本に帰ってくるらしい。モデル並みのイケメンで優秀でついでに女癖が悪いって噂の男だ」

 ああ、そうだ。『青桜』について調べた時に息子の経歴もあった。海外勤務中だから接点はない、そう勇は報告していたはずだ。

「そして今、美綾は多分その男と二人きりでいる」

 由功の視線の先のソファの上に美綾の荷物が置いてあった。
 美綾はこの部屋にはいない。それどころか女癖が悪いと噂の『青桜』の御曹司と二人きりでいる?
 話の内容がうまく頭に入ってこなかった。美綾を借りると言ったのは由功だ。それは嘘だったのか。
 財布も携帯さえ持たずに、あの状態のまま身ひとつで飛び出して?

「オレの目の前で、美綾は自ら青山郡司の車に乗っていった。あの男からはご丁寧に仕事の話をするから借りるって連絡が来た」

 あんな不安定な状態だった彼女が……自ら男の車に乗った? 
 手首にあった指の痕。

「由功、いつ二人が知り合った?」
「昨日の時任部長の呼び出しの場だ。なぜかそこにそいつも来て……その後の経緯がわからないが、昨日はそいつが美綾をここまで送ってきたらしい。それがさっきの電話の内容だ」
「九条の手首に指の痕が残っていた。男に強く掴まれた痕だ。部長の息子じゃなくてあれは青山郡司がやったのか……」
「おまえ――!! なんでそれを早く言わないっ!」

 由功の叫びが部屋に響く。自身の心臓の音が激しく耳に届いた。
 痕が残るほど握られた手首。クライアントの息子。さらに追い詰められた状態だった彼女。
 血の気がさっと引いていく。由功の鋭い視線が刺さる。

「……それ美綾に聞いたのか?」
「聞いた。放置できなかったから。なにがあったか誰にやられたのか、オレは時任部長の息子だと思っていた。でも彼女は答えなかった」

 しんと静まり返ってすべての音が止む。
 由功の食い入るような強い眼差しが探るように動く。怒りが一瞬で凪いだかわりに、どこまでも冷たいものが広がっていく。

「おまえ、気づいたんだな」

 それは、彼女の手首についた指の痕のことではなく――彼女の本当の気持ち。

 貴影は壁に背中を預けると、口元を手で覆った。目を伏せる。
 気づいた。あの時のたった一言ではっきりわかった。

 彼女はずっとこの部屋にいた。由功の隣にいた。
 ここに来れば由功がいて当然のように美綾がいた。
 由功の手伝いをしながら、時々彼にお説教したり、小さな声で笑ったり、『ここに来た時ぐらい休憩したら』と言ってお茶をいれてくれた。
 しっかりしているのに時々思いもしない失敗をするし、慌てたり緊張すると動きがぎこちなくなる。
 そして目が合いそうになると、さらりとそらされてきた。
 由功とはしっかり見つめ合う目は、決して貴影とは合わない。由功以外には関心がないのだと、まっすぐ見つめるのは彼だけなのだと、互いしか見えていないような二人の空気がこの部屋には満ちていた。
 由功の大事な女の子だから、だから守りたい大事にしたい。それだけだったのに。

「だったらさっさとケリつけて、美綾の気持ちに区切りをつけさせろ。告白させるように仕向けてきっぱり振るなり、完全に望みがないと教えてやれよ。今までおまえが振ってきた他の女と同じように」

――だからおまえに託した。

 あれはそういう意味か。

「だから手放したのか?」
「そうだ。好きな男に恋人がいるんだ。あきらめるしかない。いつか彼女も気持ちに区切りをつけて、次に進んでいくんだと思っていた。なのにできないばかりか、ますます自分で自分を追い詰めている。だからあえて・・・おまえに託した」

 それは自分の手で彼女の気持ちを断ち切ってやれということ。
 
 貴影は体を起こすと由功の前にまわりこんだ。その胸倉を掴み上げる。

「オレはずっと……彼女はおまえのものだと思っていた」
「貴影?」
「おまえの大切な女の子だから、おまえが大事にしているからオレも守ってきた。それだけだった」

 由功の目が大きく見開かれる。貴影はすぐさま乱暴に手を振り払われた。
 荒れ狂う感情がある。
 ずっとなかったことにして、気づかないふりをして、記憶さえも封じ込めてきた。

「だったら、それでいいだろう? おまえにとっての美綾はそれだけの存在だろう?」
「おまえはなにもわかってない!」

 湧きあがった怒りを抑えることなく、貴影はテーブルを拳で打ちつける。そして由功を睨んだ。

 この男は彼女を部屋から出すべきではなかったのだ。
 自分のものだと周囲に主張しておきながら、実は違いましたなんて、後から言い出すなんて卑怯だ。
 これ以上ここにいれば由功を殴りそうで、貴影は部屋を出ようとした。

「待てよ! おまえが好きなのは美綾じゃないだろう!? 美綾の気持ちを知ったからって心が動くのかよ!」

 貴影はドアの前に立つとゆっくりと振り返った。

「動かない男がいるなら教えろよ」

 由功は知らない。
 彼女が気持ちを抑えていたというのなら、自分もそうだったということを――
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