恋火

流月るる

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第十七話

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 貴影は由功の部屋を出ると階段へと向かった。人のあふれるビルの中で、ここだけは人気がない。途中で壁に肩を預けると、力が抜けたようにずるずると座り込んだ。

 美綾の手首にあった指の痕。
 彼女の放った台詞。
 いきなり出てきた男の名前。
 託された、その意味。

 感情がぐるぐる渦を巻いて、吐き気さえ覚える。頭のどこかで、そろそろ後片付けをしてさっさと人を帰して、最終チェックをしなければと段取りを組み立てている。
 けれど行動が伴わない。腰があがらない。

 封じ込んでいた記憶が、怒涛のように流れ込んでくる。


 ***


 貴影が美綾と初めて出会ったのは、電車の中だ。
 中学一年の終わりの春休み。塾の春期講習は残りの三日間だけ工事の関係で、別の教室の塾生がこちらの教室まで通うことになった。
 春期講習は塾生以外も通えるし、春休みということもあって私服が許可されていた。よってお互いがどこの学校の出身かわかりにくい。
 さらにいつもと違う顔ぶれが集まっていたため、普段以上にはしゃいだ雰囲気があったように思う。
 勉強をしにきているはずなのに、なんとなく騒がしかった。

 春期講習の最終日、ちょうど、夜のラッシュの時間帯だった。サラリーマンやOLの姿があふれる電車内に中学生が隙間を埋めるように流れ込む。授業の進み具合で帰る時間が決まるので、どうしてもラッシュを避けるのが難しい。いつものように満員に近い電車に乗り込んで、扉のすぐそばに体をすべりこませた時、同じように人の流れに押される形で入り込んだ女の子がいた。

 綺麗な黒髪がすぐに目に入った。一瞬目があって、そして昨日の女の子だとすぐに気がついた。でも顔には出さなかった。
 彼女のほうも覚えているかわからなかったからだ。

「あの、昨日の方ですよね」

 声をかけてきたのは彼女のほうだ。高いかわいらしい声が唇から漏れてふんわりと笑顔になる。眩しい笑顔に、貴影は咄嗟には言葉が出てこなくて、頷くことしかできなかった。

「昨日は助けてくださってありがとうございました。里音……えーと、友達もすごく感謝していました」
「いや」

 昨夜はいつもより少し遅い時間帯だった。たとえ遅くても人が減るわけではなく、逆に土地柄酔っ払いが電車に乗り込む率が高かった。からまれていた彼女たちを助けたのはたまたま近くにいたからで、普段ならあまりそういうことはしない。
 一瞬のことだったし、すぐに止まった駅で貴影も降りたので正直記憶は曖昧だった。ただ彼女の綺麗な黒髪がやけに印象に残っていた。だから顔をはっきり認識したのはこの夜だった。

 綺麗だと思った。かわいらしいというより綺麗で、うつむくと眉毛にかかる前髪が大きな瞳に影を落とす。白く透きとおるような肌に、赤みを帯びた小さな唇。

 会話はそこで途切れた。

 名前など知るはずもない。けれどこの時間帯に同じ駅から乗り込むのだから塾帰りの生徒だろう。だが同じ塾かどうかは判断がつかない。これだけかわいかったら噂ぐらいは自分も耳にしていただろうから、違う可能性もある。
 電車のスピードが落ちた時に、流れにそって彼女の体がかすかに触れた。揺れた髪からシャンプーの香りが漂う。
 その瞬間に目の前の、初対面同然の彼女を女の子だと意識した。

 開いた扉からは降りる乗客よりも乗ってくる人の方が多くて、わずかな隙間を埋めるかのように押し寄せてくる。人と人の距離がこれだけ近づく空間が、堂々と存在していることに初めて苛立ちを覚えた。
 匂いや吐息が混じりあい、目の前のスーツのけばだちさえも、襟首の黄色く褪せた部分さえも目に入る。禁煙車両でも、服に染み込んだ煙草の匂いまでは排除できない。
 スーツ姿に押される彼女の姿を見ていたら庇いたくなった。守りたくなった。誰にも触れさせたくないと思った。
 せっかくの綺麗な髪にそんな匂いがうつるのを許せなかった。
 だから抱きしめるように庇うように思わず扉に腕を伸ばした。彼女に触れる何もかもを排除したかったから。
 背中に押し付けられる他人の無遠慮な重みを感じながら、それでも、一定の空間を確保して彼女との間に距離をおいた。

「ありがとう」

 戸惑いながら発せられた言葉に再度頷きだけを返す。彼女に自分の行動を気付かれて、なんだか気恥ずかしい気がした。
 男も女もまだ関係ない、自分より身長の高い女の子も体格のいい女の子もいる。まだ子どもの余韻が残っていて、こんなふうに女の子だからと意識して庇ったのは初めてだった。

 昨日までは、ただからまれていたから助けたという、人助けの範囲でしかなかったのに。
 今日はそれ以上の複雑な感情が心を占める。
 それでも、埋め尽くす人の圧力は中学生の腕には耐えることができなくて、かすかに保っていた空間さえも失った。

「ごめん」
「うんん……」

 体が触れた。それは、かするような一瞬のものではなかった。
 自分と彼女を区切るお互いの服一枚の薄さでは遮ることはできずに、彼女のぬくもりとそして柔らかさが伝わった。身長差がさほどあるわけではない。なのに彼女の体は自分の腕の中にすっぽり入るような形で、見た目以上に細い肩に自分の鼓動が大きく波うつのを感じた。
 自分の心臓が確かにそこにあって、動いていることを実感させられる。彼女に聞こえるのではないかと、振動が伝わるのではないかと思うほど。

「あ」

 呟きは彼女の口から漏れた。大きな瞳が貴影をしっかり見つめてそして胸元にうつる。彼女の髪が、電車が揺れるたびに身動きできなくなったようで貴影のシャツのボタンにからまっていた。
 体にかかる他人の重みを遮りながら、ボタンから彼女の髪を解放しようとした。緊張でうまく指が動かなかった。彼女の髪に触れることもためらわれた。見え隠れするうなじや鼻腔をつく香りも動揺を誘う。
 貴影がもたついている間に、荷物から鋏を取り出すのが見えて咄嗟にボタンのほうを引きちぎった。
 するりと髪は離れた。

「綺麗な髪だ、もったいないよ」

 彼女の大きな目が、さらに驚き露わに見開かれる。
 つい口にしたけれど、声変わりの途中だったため、かすれた声になった。自分でも恥ずかしい台詞だと思ったから聞こえていないといい。

「ボタン……ごめんなさい」
「大丈夫、気にしなくていい」

 彼女が申し訳なさそうに目を伏せる。そして貴影を見上げて恥ずかしそうに「ありがとう」と言った。
 視線が絡み合い、お互いに目をそらせなかった。
 唐突に言い表しようのない感情があふれる。
 電車の扉が開いて、はっとして慌てて降りようとした彼女がバランスを崩す。
 貴影は反射的に抱きとめた。

「あ、ありがとう」

 言いながら、人の流れにのって彼女が電車を降りていく。扉が閉まる直前に振り返ったように見えたのは気のせいかもしれない。
 彼女を抱きとめた瞬間、思わず力がはいったことに彼女は気がついただろうか?
 手のひらにあるままのボタンは、汗ではりついていた。

 彼女の名前も学校もわからなかった。ただ、もう一度強烈に会いたいと思った。
 その思いだけが心を占めて、それが恋なのかどうかまではわからなかった。
 ただ、塾内で話を聞いて、さらに工事が終わった教室にも彼女の姿を探しに行った。けれど春期講習のみの受講生だったためか、その後はなんの手がかりもなかったのだ。

 あの日、起業するからおまえも手伝ってくれないかという由功の申し出があって、改装中のあのビルで再会するまでは。

 『はじめまして』とどちらが先にそう言って、自己紹介をしたのか覚えていない。
 ただ、彼女があの夜のことを覚えてはいなかったこと、彼女の隣には由功がいるのだということを認識しただけだ。
 二人が付き合っているかどうかは知らなかった。
 けれど、由功がただ一人特別に扱い、大切にしているのが彼女だということだけは伝わった。

 そしてその時に、自分が彼女に会いたかった気持ちがなんだったのか考えることをやめた。
 自分の気持ちが恋かどうかなんて考える必要はなくなった。
 
 華乃の気持ちに応えたのはそれからだ。自分をずっと好きでいてくれた華乃を大事にしたいと思った。
 だから、華乃を自分の大切な女の子として、彼女のことは由功が大切にする女の子として見てきたのだ。
 再会したあの日から、もうずっと――


 ***


「今さらなんだよ!」

 華乃と付き合いはじめてからずっと彼女だけを見つめてきた。誰よりも一番近い場所にいて、どんな女の子よりも長い時間を過ごした。それは貴影の中の事実だ。

 美綾のことは思い出に閉じ込めた。由功にとって特別な女の子だから自分も大事にする、そのスタンスに慣れてきていた。

 『美綾にも経験を積ませたい。だから一緒に組んでやってほしい』と、由功が彼女を手放した理由も、言葉通りに受け止めたのに。

 『付き合っていない』だの『他に好きな男がいる』だの『だから託した』だの――
 
 告白させるように仕向けてきっぱり振る?
 完全に望みがないと教える?
 今まで振ってきた他の女と同じように?

 由功の言った通り、そうすればいいだけの話。

(そう、今さらだ――オレには華乃がいる。だから今までと同じ対応をすればいい)

 頭をがつんと壁にぶつけた。
 
 再会してこれほど長く一緒にいるのは初めてで、由功のそばにいるときとは違う彼女を見つけるたびに心が騒いだ。
 しっかりしていて、仕事も丁寧にこなして安心して任せられる。
 けれど男の視線には無防備で隙だらけで、放っておけない。
 背中まで伸びた綺麗な髪。話すときのかわいらしい声。ふわりとしたやわらかな笑み。
   

――『私、期待するの』


 泣きそうな表情で、震える声で、濡れた目で告げられたその一言ではっきりと気づいた。

 緩やかにそらされる視線、決して縮まることのない一定の距離、それらの意味に。

「由功のものだと思っていたんだ!」

 だから気持ちは封じた。だから自分の気持ちが何かなんて考えなかった。
 華乃のことは大切だ。
 それなのに心はどうしようもなく揺れている。
 貴影はそれを認めざるを得なかった。 
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