夜毎、君とくちづけを

流月るる

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1巻

1-1

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   プロローグ


 腕時計を確かめると、時刻は午後八時四十分。
 約束の時間をとっくに過ぎていて、私、広瀬ひろせ真雪まゆきは駅からの道を必死で走っていた。
 向かう先は会社の同期の男である、上谷かみや理都りつの住む高級マンション。
 駅から近い場所にあるおかげで、なんとか例の時間には間に合いそう。
 部屋の鍵を持ってはいたけれど、私はエントランスのパネルで部屋番号を押して住人に開けてもらった。
 スピーカー越しに聞こえる『遅い!』という声だけで、やつの怒りが伝わってくる。
 私はエレベーターに乗っている間に息を整えた。

「はぁ……ぎりぎり」

 ちょっと早めに仕事が終わったから、今夜は一度自分の家に戻った。少し余裕をもって家を出てきたはずなのに、電車が遅れたせいで約束の時間に間に合わなくて。
 だから、遅くなったのは私のせいじゃない!
 エレベーターを降りると、住人はご丁寧にも私を出迎えるかのごとく玄関ドアを開けて待っていてくれた。

「か、上谷……ごめん!」
「いいから入れ」

 上谷は、今夜は仕事から帰ったばかりなのか、ネクタイもほどかずにスーツ姿のままだ。一日の仕事を終えた後なのに相変わらず涼しげな風情ふぜいで、慌てて走ってきた私とは大違いだ。
 私はとりあえず洗面所に飛び込み、手洗いとうがいを済ませてリビングに向かった。

「電車が遅れたの! 私はちゃんと余裕をもって出たんだからね」

 怒られる前に言い訳した。

「だから俺はタクシー使えって言っただろうが!」
「だってタクシー代もったいないもん」
「だったら俺が迎えにいくか、おまえのうちへ行く!」
「それは嫌っ!」

 あんたが私の部屋へ来るとなると、片づけやら掃除やらしないといけなくなるじゃんか、と心の中で反論する。
 でも今は、そんな口論は後回しだ。

「もうすぐ時間だよ。ぎりぎりだけど間に合ったんだから、いいじゃない」

 座り心地のいいソファに腰を落ち着かせると、テーブルの上に用意された上谷のスマホが目に入る。
 それは『儀式』の開始と終了を知らせる大事なアイテム。
 上谷は、文句を言うのをあきらめたように、はあっとため息をつき、私の隣に座った。

「今夜は、時間がくる前に始めるぞ」
「……えー」

 往生際おうじょうぎわ悪く、小さく反発してみた。

「検証は必要だ」
「……はい、はい」

 私たちはこんな状況におちいった日から、あれやこれやと試行錯誤の日々を送っている。
 検証なんかしてもしなくても、結果は同じなんだけれど。
 とにかく私たちは『儀式』をおこなわなければならない。
 わざわいを回避するために――
 上谷の大きな手が、私の頬に触れる。
 それを合図に、私はそっと目を閉じる。
 部屋の中がしんと静まり返り、私はほんの少し緊張してぎゅっと手を握り締めた。
 何度経験しても慣れなくて、けれど何度も繰り返してきたから馴染なじみ始めた行為。
 やわらかな唇が私の唇に押し当てられた。
 それからすぐに、かすかな口の隙間から、やつの舌がするりと入ってくる。
 複雑な感情とは裏腹に、私はその舌を素直に受け入れて、自分の舌をそっと絡めた。
 最初はささやかに、けれどだんだんと動きは速まっていく。私は唾液だえきを味わうように舌を動かしながら、ゆっくりとあふれてくるものを呑んだ。
 やつの舌の感触にも熱さにも動きにも慣れてきて、それに気持ちよささえ覚え始める。その頃には、最初にあったはずの緊張は解け、体から力が抜けそうになった。
 唇のやわらかさ、なめらかな舌の動き、混ざり合う互いの唾液だえきの味。そういうものすべてに溺れていく。
 時折、唇の角度を変えながら、スマホからのタイムアップの合図があるまで私たちはキスをする。
 今、私がキスを交わしているこの男は、会社の同期で天敵でライバルであって――
 決して恋人ではない。
 なのに、夜毎よごとキスを交わす。
 長くて深いみだらなキスを――



   第一章 これは試練の始まり


 そもそものきっかけは先週末の社員旅行だった。
 社員旅行……それは上司たちだけが楽しみにしている、それこそ若手社員にとってはただの苦行。年々若手社員の参加率は下がっているのに(入社二年目までは強制参加だけど)いまだに中止にならない社内イベントだ。
 社員旅行の幹事は入社四年目の社員が担当することになっている。つまり今年は私たちが幹事。
 今年の幹事メンバーには同期である上谷理都がいたせいで、参加者が増えて大変だったのだ。
 上谷はどこの会社にも一人はいるだろう、若手有望株のイケメン社員だ。
 さらりとした漆黒しっこくの髪。涼やかな目元と、低いのに甘く感じる声。品があり、何事にも落ち着いて冷静に対処する身のこなし。
 女の子なら誰もが憧れずにいられません! とは今年の新入社員談だ。
 同期である私からすれば……完璧すぎて逆に胡散臭うさんくさい存在だけど。
 その社員旅行に来た地で、『今夜はお祭りがあるんですよ』と教えてくれたのは旅館のスタッフだった。
 私は社員旅行の事前準備担当だったので、当日を迎えるまでにすでに充分働いていた。だから酔っ払い上司のお相手は宴会担当者と新入社員にお任せして、宴会を途中で抜け出してお祭りに向かったのである。食後のデザートでも食べるつもりで、友人でもある同僚と楽しく夜店を見て回っていたのだ。
 神社でもよおされているお祭りは予想していたよりも賑やかで、人も大勢来ていたし、お店もたくさん出ていた。
 広い参道を照らす赤い提灯ちょうちんに、設置された舞台から聞こえてくる笛の音。
 浴衣ゆかた姿ではしゃぐ、たくさんの人々。
 境内けいだいでは、パフォーマンスや、くじ引きなどのイベントもおこなわれていた。

「あ、上谷だ」
「え? じゃあ、あっち行こう。とりまきたちに絡まれると厄介やっかいだし」

 上谷の姿を見つけたらしい友人のセリフに、私はすぐさま答えた。
 あいつは旅館の宴会場で肉食系先輩女子社員に囲まれていたはずなのに、いつの間に拉致らちされてお祭りに来ていたんだろう?
 ともあれ、上谷狙いの女子社員と関わるといろいろ面倒なことになる。避けるのが一番だ。

「いや、一人だよ。あいつうまく抜け出したんじゃない?」

 さすが……仕事のできる男は女のあしらいもうまい。やつが一人でお祭りに来るとは考えられないから、連れてこられた後、はぐれたふりでもして逃げ出したに違いない。

「あ、違う、一人じゃない。あれ、小学生っぽい女の子を連れてる」
「え?」

 私は思わず上谷の姿を探し、そして本人とばっちり目が合ってしまった。
 上谷は私たちに気づくと、まっすぐにこちらへ向かってくる。

「よかった。おまえら手伝って。この子、迷子らしいんだ」

 紺地に金魚模様の浴衣ゆかたに黄色の兵児帯へこおびを結んだ女の子は涙目で「お兄ちゃん……」とぐずっていた。
 上谷と手を繋いでいるにもかかわらず、さらにシャツまで握っているところを見ると、よほど心細いらしい。
 お兄ちゃんとお祭りに来てはぐれて、お兄ちゃんに似た上谷にすがりついたのかな?

「迷子案内の場所があるだろうから聞いてくる」

 私と一緒にきた友人がそう言って、すぐに動き出す。
 私はぐずぐず泣いている女の子に、夜店でおまけにもらった髪飾りを差しだした。私には到底使えそうもない、かわいらしい髪飾りだったのでちょうどいい。

「あげる。一人で心細かったね。もう大丈夫だよ」

 女の子は涙目で私が差しだしたものと、私を見た後、なぜか上谷を見上げた。もらっても大丈夫なものか、やつに確認するような眼差しを向けている。
 その仕草はまるで、上谷のほうが信頼できると言っているみたいだ。

「もらえばいい。このお姉ちゃんより君のほうが似合う」

 ――悪かったな! 似合わなくて。
 女の子はおずおずと手を出して私から受け取り、小さく「ありがとう」と言った。涙目ながら嬉しそうにほほ笑む。

「ねえ上谷、この子に名前と年齢、聞いたの?」
「ああ、名前は――」

 上谷が言いかけたのと、私のスマホが鳴ったのは同時だった。
 電話に出るとそれは、友人からの迷子案内の場所を知らせる内容。そして私が話に気をとられていたところ――

「お兄ちゃん!」

 上谷から手を離した女の子が、いきなり駆け出していく。
 その姿はすぐに人混みにまぎれてしまい、私と上谷は慌てて後を追いかけた。

「ま、待って!」

 笛の演奏から和太鼓に変わり、どんっと大きな音が響き渡る。連続して鳴る音に、私と上谷の声はすぐにかきけされた。金魚模様の浴衣と黄色の兵児帯へこおびを見失わないように走った。
 兄の姿を見つけて追いかけているのかもしれないけど、私たちが見失えばまた迷子になってしまう可能性も高い。
 私たちは女の子の後を追いかけて、参道から横道にそれる。
 一気に周囲の明かりが減って、お祭りの喧騒けんそうから遠ざかっていく。
 女の子は地元だから道を知り尽くしているのか、なぜか林の中にどんどん入り込んでいった。
 むしろ今度は私たちが迷子になりそうだよ!

「広瀬! 先に行く」
「……そうしてっ!」

 くやしいけど、そう答えるしかない。
 ヒールのある靴でこんなところを走るのが無茶なだけで、私の足が遅いわけじゃない! と思いたい。
 さらに奥にいくと、地面には切れた太い標縄しめなわが横たわっていて、私は一瞬ためらいつつもそこを進んでいった。

「お兄ちゃん、どこぉ」

 背の高い木々に囲まれた中に、わずかなスペースがあった。その奥にはさびれた小さなほこらがある。その前で女の子は泣きながら立ちすくんでいた。
 ようやく追いついた私を上谷が、どうしたものかと困惑した表情で見る。
 この様子からして、お兄さんはいなかったのだろう。
 誰かと見間違えて、追いかけてきちゃったのかな?

「君のお兄さんは俺たちが必ず探してあげるから」

 珍しくふわりと柔らかい笑みを浮かべて、腰をかがめた上谷が言った。
 うわぁ……こんな表情見せられたら、どんな女も落ちそう。
 目の前の女の子でさえ例外ではなかったようで、泣きながら赤くなるという器用な芸当を見せてこくりと頷く。
 その直後、上谷に近づこうとした女の子が、少し大きめの石に下駄げたをとられてつまずいた。
 それをかばうために、私と上谷は同時に飛び出す。
 けれど、久しぶりに走ったせいで足がもつれて……どもえで倒れそうになる。
 私と上谷はなんとか体勢を立て直すべく、二人同時に近くにあったほこらの岩に手をついた。そのおかげで、女の子に怪我を負わせることはまぬがれたけれど、岩をごろりと倒してしまい……
 私たちが青褪めたのは言うまでもない。
 その後、私たちは女の子を迷子案内に預け、その足で神社へと謝罪に向かう。
 転がった岩は元の場所に置いたけれど、巻かれてあった標縄しめなわは切れていた。
 寂れた場所にあった小さなほこらでも、素知らぬふりをするわけにはいかない。
 事情を知った宮司ぐうじさんと現場へ赴き、「あまりお気になさらずに」というお言葉をいただいた私たちは、一応連絡先を渡して夜遅くに旅館に戻った。
 翌日は近場の観光名所を巡った。そして帰る間際、宮司ぐうじさんから慌てたように連絡があったのだ。
 あのほこらにまつわる『儀式』について大事な話があると。


   * * *


 その夜、私と上谷は神社の社務所内にいた。
 隣同士に座った私たちの目の前にいるのは、この神社の宮司ぐうじさん。
 挨拶あいさつもそこそこに、彼は和綴わとじの古めかしい文献を私たちに見せながら力説する。

「あのほこらはどうやら、ある儀式に使われていたもののようらしく……。満月の夜にほこらの岩を動かした男女は、次の満月まで毎日接吻せっぷんをする、それが儀式の内容です。その試練を乗り越えた二人はよき伴侶はんりょになれるとあります。昔はこの儀式をおこなってから祝言しゅうげんをあげていたようなんです!」

 目が細すぎて開いているのか閉じているのかわからないけれど、驚きと興奮具合だけは伝わってきた。
 けれど、私はなにを言われているのかすぐには理解できなくて、隣に座る上谷をちらりと見た。
 座布団の上で胡坐あぐらをかいている上谷は、眉根を寄せて思案している。その横顔は凛々りりしく、こんな時でもイケメンはイケメンぶりを如何いかんなく発揮しているようだ。
 ぽかんと口を開けて思考停止している私とは大違い。
 私は意識して慌てて口を閉じると、目の前の宮司ぐうじさんへと視線を戻す。

「さらに! ほこらの岩を動かした時間と同時刻に接吻せっぷんしなければわざわいが起こるのだと、この文献には記載されているんです!」

 ほらここ! と言わんばかりにさらに文献を差し出されたけれど、へびみたいな崩し文字を即座に解読できるわけがない。

「毎晩、同じ時刻に接吻せっぷんしなければわざわいが起こる――ですか?」

 上谷は丁寧な口調で宮司ぐうじさんの言葉を繰り返す。
 さっきから「接吻せっぷん接吻せっぷん」って言っているけれど、つまりはキス――
 私にはなにがなんだかわかんないんだけど、頭のいいこの男なら理解できるんだろうかと思って、また隣をちらりと見た。
 やつは、会社での冷静な態度と変わらず落ち着いているように見える。
 私の視線に気づいたのか、ふと男も私を見る。
 ――接吻せっぷんだって。
 満月の夜だって。
 ほこらの岩を一緒に動かした男女は毎日同じ時間に接吻せっぷんする儀式って、なにそれ、おまじない? ファンタジー?
 ばかばかしい。
 だいたい私たちは祝言しゅうげんをあげるような仲でもなければ、恋人でもない、ただの会社の同期だよ!
 しかも、どっちかっていうと同期のわりに親しくないほうだよ!
 儀式なんて、私たちには関係ないよね?
 ――といった内容を心の中でぶちまけながら、とりあえず上谷に向けてにっこり笑ってみせた。

「私……宮司ぐうじさんのおっしゃっていることが理解できないんだけど、あんたできる?」

 上谷は私を軽くにらんでから、不本意そうに表情を歪めた。

「言っている内容はわかる……だが、俺にも理解できん」
「わかってください! お二人に関わることなんですよ! 昨夜はちょうど満月だったんです! ほこらの岩を動かしてしまったお二人は、これから約一ヶ月、同じ時間に接吻せっぷんしなければわざわいが起こるんですよ!」

 確かに昨夜は満月だった。都会で見る月よりも、はっきりと大きく綺麗きれいだったので、よく覚えている。
 そして上谷と私はこの神社の隅っこにあった小さなほこらの岩を動かしてしまった。その場所はどうやら立ち入り禁止区域だったらしい。
 あの場所に入り込んでしまったのは事情があったからだし、儀式に使われる大事な岩を動かしたことは申し訳ないと思う。
 でも……ひっそりと寂れた場所にあった岩に、そんな重要な役割があるとは思えなかったけど。
 存在さえ忘れられたような小さなほこらだったよ!

わざわいとは、どういったものなんでしょう?」

 ふたたび落ち着いた口調で、上谷が静かに問うた。

「文献には……わざわいとしか書かれておらず、またわざわいの内容は人それぞれだったようです。わかっているのは人の弱き部分……要はストレスのかかりやすいところにわざわいが起こるとしか……」

 宮司ぐうじさんは、細い目をますます細くして困ったように言った。
 どうやらこの宮司ぐうじさんはまだ経験が浅いようで、さらに頼みの綱の先代は、認知症で施設に入所しているそうだ。
 ま、つまり詳しいことは誰にもわからないってこと。
 私がそんなことを考えているうちに、上谷はさらりとこの場をまとめてしまう。

「幸いというか、あと数分で昨夜岩を動かしたと思われる時間がきます。その文献に書かれていることが本当なら、俺たちの身になにかが起こるし、なにもなければ、伝承にすぎなかったと考えればよろしいのではないですか?」

 私は内心パニックだけれど、それをこの男の前でさらすのはプライドが許さない。
 だから、わかったふりをして深く頷いて同意した。
 宮司ぐうじさんは「いや……でも、文献には……」と、しどろもどろで言うけれど、本人も確証がないから強く言ってはこない。
 タイムリミットが迫っている時計を見て、口を結んだ。
 ほこらの岩が何時に転がったのかはっきりとはわからない。でも午後九時前だったことは確かだ。
 だからこうして私たちは、その時間がくるのを待っているんだけど……

「それでは、お二人は接吻せっぷんはせずに、時がくるのをお待ちになるんですね」
「俺たちは会社の同期なだけで、文献にあるような関係ではありません。不確かな状況で恋人でもない女性に、その……接吻せっぷんするわけにはいきませんから」

 私は、はっとする。
 宮司ぐうじさんからあまりにもファンタジーな内容を聞かされて頭から抜けていたけど、上谷には恋人がいるんだよ! 女子社員が騒いでいたもん。この男が研修から帰ってくるのを待っていたのに、ちゃっかり彼女の座を研修先の女にとられたって!
 上谷の恋人については、年上の仕事のできるキャリア女性だとか、いやし系のふんわりキュート女子だとか憶測だけが飛び交っていた。

「私も恋人でもない男性とキスをするのは嫌です」
「ですが……お二人はこの地にご旅行に来られたんですよね?」
「社員旅行です!」
「では、恋人同士ではない?」
「はい」

 私も上谷も、声をそろえて負けじと否定する。
 すると宮司ぐうじさんは不安げに呟いて、柱にかかっている時計へと視線を向ける。

「恋人同士でない……なら、大丈夫なんでしょうか?」

 午後九時前後になにも起こらなければいいのだ。
 私たちは緊張しながら時がくるのを待った。


 そして現在――午後九時……二十秒経過。

「なにも起きませんね」
「大丈夫そうですね」
「起きないようですね……ですが」

 上谷、私、宮司ぐうじさんが順に口にした。
 私は肩から力を抜いて、ほっと息を吐く。
 ほらねー、やっぱり迷信だよ。
 キスしなきゃわざわいが起こるなんて迷惑だし、その儀式とやらにどういう意味があるのかもよくわからない。
 次の満月まで毎日キスするぐらい、結婚予定の恋人なら楽勝なんじゃないの?
 どこが試練なんだか。

「文献に書かれていたことは……祝言しゅうげんとどこおりなくおこなうためにわざわいが起こると思わせたかったのかもしれませんし、ほこらに近寄らせないためもあったのかもしれません。なにも起こらなかったことを、よしとしましょう」

 やっぱり上谷がさらりとまとめた。
 文献の真偽には触れず、さらっと流したよ。

「そう、ですね……何事もないのが一番ですね」

 宮司さんは安心したような不思議に思っているような微妙な顔をしながら呟いた。

「こちらこそ、ご迷惑をおかけしました。いろいろ調べてくださり、ありがとうございました」

 うんうん。
 元はといえば私たちのせいだし、丁寧に文献を調べてくれた宮司ぐうじさんには感謝だよね。
 今回のことで唯一わかったのは、上谷に近づくとロクなことがないということだ。
 私にしたら貴重な週末を、一泊二日の社員旅行と文献検証についやす羽目になったこと自体が試練だよ。
 ずっと正座していたから足もしびれちゃったし。
 ――座布団から立ち上がって、おいとましようとした時だった。

「待て。広瀬」
「んー」
「まだ九時になっていない」

 いや、時計はもう九時を回っているじゃん。なに言ってんの? 
 そう思いつつ、上谷が私の目の前に自身のスマホを差し出す。
 そこには午後八時五十七分と表示されている。

「あっ、そういえばこの社務所の時計は、三分早く設定していました!!」

 はあ? なにそれっ!!

「す、すみません! 気が動転していて、すっかり忘れていて」

 私は壁の時計と、上谷のスマホを見比べた。
 壁の時計の秒針が、ちょうど十二の位置にくる。上谷のスマホも数字が変わる。
 スマホの表示を信じるなら、時刻は――
 午後八時五十八分。
 その途端、ふっと息が苦しくなった。
 さっきまでと同じように呼吸をしているつもりなのに、酸素がとり込めない。
 吐くことはできるのに、うまく吸うことができないのだ。
 まるで水の中にいるような――感覚。

「本当にすみません!!」

 宮司ぐうじさんが恐縮したように頭を下げ、上谷が穏やかに対応している。

「大丈夫ですよ。九時まであと数分のようですから、もう少し待ってみましょう」

 ――え? 呼吸がおかしいのって私だけ?
 自分の勘違いかもしれないと、もう一度息を吸う。
 でも入ってこない。
 私は、はっ、はっ、と短く息を吐き出した。
 まるで過呼吸のようだ。


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