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1巻
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そこにさらに彼女の出自が追い打ちをかけていて、周囲の声がうるさいのだ。
高遠さんは、そういう声を彼女に聞かせたくなくて、外での仕事を極力せずに済むよう調整している。
レストラン経営は順調だけれど、そのおかげでたまにいるのだ。
連れを装ってやってきて、オーナーとして挨拶する結愛ちゃんにいらぬことを吹き込む輩が。
「じゃあ、結愛ちゃんには結婚式に集中してもらいましょう! 私、できることやりますよ。結愛ちゃんほど上手には無理ですけど……」
彼女は本当に二つ下とは思えないぐらいしっかりしている。そして皇華での学生生活をきちんと活かして立派に若奥様として励んでいる。
「音々ちゃんも、随分成長したわよ。水回りの掃除なんか私より上手になったし! お料理もサロンのお手伝いも様になってきたしね」
「碧さんや結愛ちゃんのおかげです。あ、もちろん一番は清さんですけど」
そう、清さんは厳しかった。
サロン時代は私が生徒だったからか、優しい気品のあるおばさまという感じだったのに、従業員として働きだすとそれはもうすごかった。
まあ、私があまりにもできなさすぎたせいだけど。
「だから悩ましいのよね。音々ちゃんもそろそろ社会復帰考えたほうがいいのかなと思うのに、結愛ちゃんが妊娠したら音々ちゃんにはいてほしいし……」
碧さんは時折私に、そろそろお屋敷を出て社会を見てみないかと言ってくれる。
碧さんたちは自ら望んでここで仕事をしている。
でも私は……大波にさらわれてここに打ち上げられたようなものだからと。
「私は、お邪魔でないならここでずっと働きたいです」
「邪魔なわけないわ。私だってずっといてほしいのよ。でも音々ちゃん……ここにはね唯一欠点があるの」
「欠点?」
住み込みだし、お給料はきちんともらえているし(一部は借金を肩代わりしてくれた高遠さんへの返済に充てているけど)、お休みだってあるし、なにより人間関係に恵まれている。
欠点なんかむしろないんだけど。
「異性との出会いよ」
「へ?」
「駿さんがああだから、このお屋敷関係の男性って既婚者か年配者でしょう? 警備員もレストランの厨房も配送業者まで。結愛ちゃんにはいいけど、音々ちゃんにはとばっちりだもの」
碧さんはおしゃべりしながらも、手だけは素早く動かしている。
私も思わず止まりかけた手を、頑張って動かした。
まあ、確かに碧さんの言う通りだ。
ここで異性との出会いは望めない。
でも、望めない場所なんて職種によっては他にもたくさんありそうな気がするんだけど。
それに――
「碧さん、私異性との出会いは求めていないので平気ですよ」
碧さんは私を厳しく睨んだ。
「そこが問題なんでしょう! 音々ちゃんが異性との出会いを求めて外に積極的に出ているならいいのよ。でも、結愛ちゃん以上に、音々ちゃんは外に出ないじゃない。だったらここに異性を連れてこないと!」
うう、碧さんが怖い。
「でも――」
「でもじゃないの。音々ちゃんは放っておくとお屋敷に骨を埋めそうなんだもの。ああ、年頃の女の子なのに心配……ここはいっそ」
手際よく掃除をしながらもぶつぶつ呟き始めた碧さんをそのままに、私は窓ふきに取りかかることにした。
(異性との出会いかあ……)
このお屋敷に来てからは毎日過ごすのに精いっぱいで、そんなこと思いもしなかった。
けれどチャペルが出来上がってからというもの、私は時折想いを馳せるようになった。
忘れたいのに――いろんな意味で忘れられない初めての恋。
高校三年生から大学四年生途中までの、人生がひっくり返る前の決して短くはない時間。
それは私が彼に夢中になっていた、私にとっては夢のような時間だった。
でも、今の私にはわかる。
夢中になっていたのは、恋に溺れていたのは私だけで、彼にとってはそうじゃなかったこと。
きっと彼にとっては私との関係なんて、そう恋でさえ――なかった。
* * *
私が彼、立花明樹くんと出会ったのは、私が高校一年生、彼が高校二年生の時だ。
皇華と唯一交流のある、名門男子校の生徒会会長――それが明樹くんだった。
一年生だった私は、当時の生徒会役員の先輩たちにとって、からかいの対象というかマスコットというか、まあ都合のよい遣いっ走りのような存在だった。
年に何度か生徒会役員同士の交流の機会があって、私はそこで明樹くんに一目惚れをした。
いや、あの当時そんな女の子は私以外にもいっぱいいた。
副会長だった製薬会社御曹司の湯浅巧さまと人気を二分していたから。
優しくて穏やかで落ち着いた、好青年の見本のような明樹くんと、愛想が一切ないのに強烈な存在感で魅了する巧さま(周りからそう呼ばれていた)。
二人はまるで水と油、光と影みたいだったのに仲が良かったから、一部のそういう系の女子たちにも別視点で騒がれていた。
彼らもそれは認識していて、それぞれ違うやり方で女の子たちをあしらっていた。
それに二人はいつも、年上の女子大生だとか他校の綺麗な女の子だとかと付き合っているという噂があったから、誰も彼もが見ているだけ、せいぜい周囲で騒いでいることしかできなかった。
私もそうだ。
私もずっと、見ていることしかできなかった。
私は幸い、生徒会活動というチャンスがあったけれど、それを活かせるはずもなく。
必要最小限の事務的な会話をするのみで、他の女の子よりちょっと間近で見ることができるぐらい。
そのうち、実は明樹くんのおうちが母子家庭だとか、彼は奨学金であの学校に通っているなんて情報が出回り始めた。
皇華の生徒にとってそれはマイナス要因となる。
明樹くんはますます観賞用のみの対象となり、本気で彼とお付き合いしたいと望む子は少なくなった。
それでも告白をされていたみたいだけど、彼は『噂通り、うちは母子家庭で僕は奨学金で通っている。そういう僕との交際を君のご家族は認めてくれるの?』という台詞で断るようになった。
私は明樹くんと一度だけ事務的ではない会話を交わしたことがあった。
その時、おこがましいけれど、なんとなく素の彼に触れた気がしたのだ。
そして淡い憧れだったはずの想いはそれから急激に膨らんだ。
私は、彼が高校を卒業し医学部進学が決まるのを待って勇気を出して告白した。
当然、彼からは即座に定型句で断られた。
だから言ったのだ。
『立花先輩のおうちが母子家庭でも構わない。奨学金で通うのなんてむしろすごい! 私は立花先輩が貧乏でも、実はすごいオタクでも、足が臭くても腹黒だったとしても、どんな先輩でも好きです!』と。
明樹くんは、ものすごく嫌そうな表情をした。
『僕はオタクじゃないし、足も臭くないし、腹黒でもないよ』と口調だけは穏やかに否定して。
私は、どんな先輩でも好きだってことを一番に伝えたいだけだったのに、そこはスルーされて『いえ、例えで言っただけでそんなこと思ったこともないですよ』としどろもどろで言い訳する羽目になった。
『どんな僕でも好き、か……つまり僕の顔が醜くなっても、ぶくぶく太っても、バカになっても暴力ふるうようになったとしても、それでもってこと?』
『ぼ……暴力はさすがに』
『そうだな、そこは言いすぎか』
『でも、暴力以外は大丈夫です!』
『君は――出会った時から思っていたけど……まあ、いいや』
明樹くんはとにかく呆れていた。
それにそんな風に脅してでも私の告白を断りたかったのだろう。
私はただ気持ちを伝えるのに必死で、そんなことにまで頭がまわらなかったけど。
でも、なぜかわからないけれど明樹くんと連絡先だけは交換できた(そういう意味では生徒会という繋がりがあったのに、それまでそんな機会さえ逃していたということだ)。
それから、私たちのものすごくスローなお付き合いが始まった。
最初の一、二年は知人以上友人未満だった。
それでも私は明樹くんから呼び出されたらほいほい出ていったし、数か月放置されても耐えていた。周囲から見ればそれは、到底恋人と呼べるものではなかっただろう。
でも私は、メッセージを送れば、数日後でも返事がくるだけで浮かれたし、毎回のテスト勉強にだけはなぜか律義に付き合ってくれたから、それが健全デートだと思っていた。
誕生日やクリスマスやバレンタインにプレゼントをあげるのは私だけだったけれど、渡すためのほんの些細な時間に会ってもらえるだけで舞い上がっていた(だって明樹くんは医学部の学生でとても忙しそうだったし、そのうえバイトもしていたし、経済的には苦労していると思っていたから気にしなかった)。
それに、私の誕生日には私の欲しいものをくれたから。
一年目は手を繋いで一緒に歩いた。
二年目は頬やおでこにキスをしてもらった。
三年目に初めて唇にキスをもらえて、四年目にようやく肌を重ねた。
肌を重ねてからは、そういう行為の頻度が増えた。
だから、彼は私のペースに合わせてゆっくり進んでくれていたのだと――それは大事にしてくれていたからだと前向きに捉えていた。
私の人生が大変なことになって、自分から別れ話をすることになって、最初は彼をものすごく傷つけてしまったと後悔した。
あんなに大事にしてくれていたのに、私は結局彼を捨てたのだから。
――『音々はねんねだからねぇ。いつまでも夢見る夢子ちゃんじゃダメよ』
友人の言葉通り私はねんねだった。
眠って夢ばかり見ていた。
夢から覚めた私は、明樹くんとのお付き合いもおままごとだったのだと気づいた。
今の私は、たんなる暇つぶしで付き合ってもらっていたことや、明樹くんにとって都合のいい存在だったことを自覚している。
私にとっての初恋は、明樹くんにとってはきっと恋愛ですらなかった。
それでも私はその夢のおかげで今を生きている。
そしてきっとこの夢を糧に未来も生きていくんだろうな。
* * *
私は本日の仕事を終えた後、少し緊張しつつお屋敷内の書斎へ向かう廊下を歩いていた。
結愛ちゃんは、結婚式の準備を着々と進めている。
結婚式の司会進行をどうするかとか、生演奏をどこまで手配するかとか、飾りつけに選ぶ生花をどれにするかとか、とても楽しそうだ。
そしてお食事会のメニュー開発も料理長とともにやっている。
試食にあやかれるのは嬉しいけれど、比例するように体重が増えているのが心配。
結愛ちゃんは体型があまり変わらなそうなのに、なんで私だけ影響受けるんだろうな。
ウェディングドレスに関しては、結愛ちゃん自身も気に入っていたブランドを紹介したらしく、ご新婦様も気に入ったようだと喜んで報告してくれた。
私は、彼女が楽しく式の準備に集中できるようサポートしているし、仕事上で大きなミスもしていないはず。
だからこんな風に高遠さんに呼び出される理由がわからなかった。
高遠さんはもう見るからにイケメンで素敵な旦那様だ。
年上ならではの余裕もあるし、それはそれは結愛ちゃんを溺愛している。
優しくて穏やかで、声を荒らげることなんてほとんどない(結愛ちゃん関連以外では)紳士的な王子様。
う、う……そんな恩人だけど、あまり近づきたくないタイプなんだよね。
私はドアの前でひとつ深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。
(とりあえずなにかあったなら謝罪しよう)
「梨本です」
ドアをノックして名乗ると中から返事が返ってきて、私は書斎に入った。
お屋敷の主が代々使用してきた部屋とあって、重厚感のある豪華な設えだ。
隣にはベッドルームやバスルームも完備しているのでここで生活もできる。このお部屋は結愛ちゃんと碧さんが管理しているので、私は掃除したこともないけど。
高遠さんは机についてなにやら仕事をしていた。
帰ってきても仕事なんて本当に忙しそうだ。けれど会社で残業するよりは、お屋敷のほうが結愛ちゃんのそばにはいられる。
「ああ、座って」
ソファを示されて私は言われた通り腰をおろした。
う、沈む。
このソファがやわらかいせいか最近私の体重が増えたせいか、どっちだろう。
高遠さんも向かいのソファに座った。
「ごめんね。急に呼び出して」
「いえ」
「そんなに緊張しないで」
「はい」
無理です、緊張します! と心の中で叫んだ。
なんでだろう。
本当に優しい口調だし、重い空気を発しているわけでもないのに、私の体が勝手に反応して固まってしまう。
「結愛の代わりにいろいろ動いてくれているって聞いた。ありがとう」
いきなり説教でなくてほっとしたけれど、油断はできない。
「いえ、結愛ちゃん……奥様の代わりまでは無理ですが、少しでも手助けになっているならよかったです」
本当に雑用が少し増えた程度だ。
あとは結愛ちゃんに指示されて事務的なことをしているぐらい。
「いや、いいタイミングで結婚式が決まったことも、それをサポートしてくれる人がいたことも結愛にはよかったと思う。ちょっと思いつめていて……僕だけの力じゃ、どうしようもなかったから」
高遠さんは珍しく、しみじみと吐き出した。
私が思うよりも、当事者間ではいろいろあるのかもしれない。
夫婦のことだしデリケートな問題だ。
私なんか結婚さえしていないから、本当の精神的なつらさはわからないし。
「結愛ちゃん、本当に楽しそうです。もうすぐですしね」
そう、結婚式は三週間後に迫っている。
「それで、碧さんに相談されていた件について、梨本さんにいくつか確認しようと思って、今日は呼び出したんだ」
はい?
碧さんの相談内容がどうして私に関係するんだろう?
「碧さんには、君の将来のことについてどう考えているのか聞かれたんだ。このお屋敷に勤め始めて、君は休みの日もほとんど外出しないらしいね。このままだと出会いもなく年をとりかねない。本人にその気がなくとも、雇用主として誰か紹介するなり出会いの場を設けるなり考えるべきだって」
あ……思い出した。
いつかの掃除の時に、このお屋敷勤務の唯一のネックは異性との出会いがないことだと力説していた碧さんを。
「わ、私、紹介とか出会いとか求めていません!」
「うん、でも……結婚願望がないわけじゃないだろう? チャペルができてから君がぼんやり見つめることが多くなったって報告を受けている」
私は思わず言葉に詰まった。
今までそんなの口にしなかったのに、どうしていきなり碧さんがそんなことを言い出して、なおかつ高遠さんにまで話をしたのか気づいた。
確かにチャペルは、乙女の夢を刺激する代物だ。
だってそれぐらい素敵なんだもの。
私でなくったって、年頃の女性ならぽーっと見てしまうと思う。
「結婚願望は……いえ、というか旦那様に紹介していただくなんて恐れ多くてできません!」
結婚願望はあった。結婚は夢見ていた。
でもそれは過去の想い。
それに高遠さんからの紹介なんて、それ断れない案件になりそうで怖いよっ。
「初めて出会った時の君はぼろぼろだった。恋人に嘘をついたと傷つけたと泣きながら、おばあさまから贈られた振袖を売りたいのだと訴えた。話はかなり支離滅裂だったけれど、君はしきりに恋人にもおばあさまにも泣いて謝っていた」
高遠さんは少し困ったように眉尻を下げて、当時の私の様子を語った。
正直言えばあまり覚えていない。
それぐらい私は精神的に追いつめられて混乱していたのだと思う。
別れ話をうまくこなすので必死だったからなあ。
「それは大変ご迷惑をおかけしました」
「あの頃の君には聞けなかったけど、どうして恋人には頼れなかったの?」
高遠さんの問いに私は首をかしげる。
どういう意味で問われているのか、わからなかったからだ。
「頼ろうなんて思いませんでした。むしろ迷惑をかけないようにするには、どうすればいいかばかりを考えていたので」
「頼ろうと思わなかったってことは、恋人は年下とか学生だったってこと?」
「そうです。年下ではありませんが、彼は学生で卒業までまだ一年以上必要で……それにとても将来有望な方だったので」
母子家庭で、奨学金で頑張って医学部に行っている明樹くんには絶対に負担はかけられなかった。
それに、私は多分落ちぶれてしまったことも知られたくなかった。
だから、婚約者と結婚して海外へ行くなんて嘘をついて別れ話をしたのだ。
あの当時の私には正式ではないものの婚約者っぽい相手がいた。なにせ私の結婚は祖父の一番の関心ごとだったから。
だから高校を卒業するとすぐに、家族の集まりを通して何人かの男性を紹介された。
何度か会って交流しながら、二十歳の成人式の後、知らぬ間にお見合いをさせられて、将来的にいずれはみたいな感じの相手もなんとなくいたのだ。
明樹くんとの交際は家族にもうすうす気づかれていたけれど、大学卒業までの間ぐらいはと目こぼしされていた。
明樹くん自身も、私にそういう相手がいるらしいことには勘づいていたのだろう。
だから、私の口から婚約とか結婚とかの言葉が出ても動じなかった。
(まあ、それも後で振り返ってからわかったことだけど)
「もう、その彼のことはふっきれた? 君は新しい出会いを受け入れられるのかな?」
「彼のことはふっきれています。でも――まだ新しい出会いは求めていません」
そうか。高遠さんは私の意思を尊重しようとしてくれているんだ。
私がまだ過去を引きずっているかどうか。
新しい出会いを望むほど心が落ち着いたかどうかを確認したかったんだろうな。
「碧さんや旦那様の心遣いは大変ありがたいのですが……今はまだ遠慮させてください。それに、その気になったら私、ちゃんと自分で探しにいきます」
そうだよ。
高遠さんにお願いしたら絶対大変なことになりそうだもの。
ここは、がつんと遠慮しよう。
「そうか。ならその気になったらいつでも言っておいで。もちろん君が自分から探しにいくのならそれでも構わない。そのためにここをやめたくなったなら、それも受け入れる」
私はびっくりして高遠さんを見た。
「でも、借金が」
「もうすぐ終わるよ」
思ってもみない言葉に、私はぽかんと口を開ける。
金融業者への借金は利子がどんどん増えてえらいことになっていた。
高遠さんがそれを立て替えてくれたので、私はお給料の一部を毎月返済に充てている。その返済額だとあと数年はかかるはず。もうすぐ終わるなんてありえない!
「嘘です! 私の月々の返済額じゃ到底まだ無理なはずです!」
「月々の返済額だけじゃ確かに無理だね。でも僕の管理のもと、君名義で投資にまわしてきただろう。この数年できちんと増えている。だからもうすぐ終わるよ。君は自由になっていい」
いきなりそんなことを言われて混乱する。
確かに結愛ちゃんに言われてネット証券の口座を開設した。返済分はここに入金してねと指示されてその通りにしていた。結愛ちゃんというよりは斉藤さんの指示が入った時にパソコン上でいろいろ操作をさせられていたけど、まさかあれが投資だったとは気づかなかった。
借金が終わる?
私は自由になってお屋敷を出ていっていいの?
自由――
一見、解放感あふれる素敵な言葉なのに、私はなぜか見捨てられた気持ちになる。
お屋敷を出て一人で生きていく自分がうまく想像できない。
「梨本さん、借金はそろそろ終わる。これからどうしたいのか考える段階にきているんだ。もちろん君が返済後もこのままここで働きたいならそれでも構わない。でも、なにかやりたいことがあるのなら屋敷を出てもいい。君の安全はすでに保障されているし、ここに隠れ続ける必要はないんだ」
ああ、だから碧さんはあんなことを言っていたんだ。
もしかしたら、お屋敷の人たちはみんな知っているのかもしれない。
私が自分の生き方を選ぶ段階にきていることを。
私は頭がぐるぐるしそうになりながらも、とりあえず「ありがとうございます。考えてみます」となんとか適当に答えて、書斎を後にした。
* * *
なってこったい……って言葉はこういう時に使うんだろうな。
私はお屋敷内に与えられた自室に戻るとベッドに突っ伏した。
お屋敷に来た時にどの部屋がいいかと聞かれて、私は『和室』と答えた。
それまでの自分の部屋が洋室だったので、違う空間に身を置きたかったのだ。
実際に与えられたのは和洋室タイプのお部屋で洋室にはベッド、畳敷スペースに桐ダンスと小さな座椅子とテーブルが置いてある。
ちょっと古めかしいレトロな雰囲気がお気に入りだ。
借金の返済まではあと数年かかると思っていた。
だからお屋敷を出るなんて考えたことがなかった。
私は、元々将来の夢なんかあまり考えてこなかったタイプ。
その手の作文にも『私には将来の夢は特にありません』から始まり『これから探していこうと思います』でいつも締めくくっていた。
だって仕事をしたいなら祖父の会社。
働きたくないならおうちで家事手伝い。
いずれ好きな人と結婚すればいいのだと思っていたからだ。
運よく明樹くんと付き合えたおかげで、彼に夢中だった私は彼の医学部卒業を待てば、そのうち結婚もしてくれるんじゃないかと期待していた。
だから彼を待つ間だけ、社会経験できたらしようかなぐらい、能天気なことしか考えていなかったのだ。
高遠さんは、そういう声を彼女に聞かせたくなくて、外での仕事を極力せずに済むよう調整している。
レストラン経営は順調だけれど、そのおかげでたまにいるのだ。
連れを装ってやってきて、オーナーとして挨拶する結愛ちゃんにいらぬことを吹き込む輩が。
「じゃあ、結愛ちゃんには結婚式に集中してもらいましょう! 私、できることやりますよ。結愛ちゃんほど上手には無理ですけど……」
彼女は本当に二つ下とは思えないぐらいしっかりしている。そして皇華での学生生活をきちんと活かして立派に若奥様として励んでいる。
「音々ちゃんも、随分成長したわよ。水回りの掃除なんか私より上手になったし! お料理もサロンのお手伝いも様になってきたしね」
「碧さんや結愛ちゃんのおかげです。あ、もちろん一番は清さんですけど」
そう、清さんは厳しかった。
サロン時代は私が生徒だったからか、優しい気品のあるおばさまという感じだったのに、従業員として働きだすとそれはもうすごかった。
まあ、私があまりにもできなさすぎたせいだけど。
「だから悩ましいのよね。音々ちゃんもそろそろ社会復帰考えたほうがいいのかなと思うのに、結愛ちゃんが妊娠したら音々ちゃんにはいてほしいし……」
碧さんは時折私に、そろそろお屋敷を出て社会を見てみないかと言ってくれる。
碧さんたちは自ら望んでここで仕事をしている。
でも私は……大波にさらわれてここに打ち上げられたようなものだからと。
「私は、お邪魔でないならここでずっと働きたいです」
「邪魔なわけないわ。私だってずっといてほしいのよ。でも音々ちゃん……ここにはね唯一欠点があるの」
「欠点?」
住み込みだし、お給料はきちんともらえているし(一部は借金を肩代わりしてくれた高遠さんへの返済に充てているけど)、お休みだってあるし、なにより人間関係に恵まれている。
欠点なんかむしろないんだけど。
「異性との出会いよ」
「へ?」
「駿さんがああだから、このお屋敷関係の男性って既婚者か年配者でしょう? 警備員もレストランの厨房も配送業者まで。結愛ちゃんにはいいけど、音々ちゃんにはとばっちりだもの」
碧さんはおしゃべりしながらも、手だけは素早く動かしている。
私も思わず止まりかけた手を、頑張って動かした。
まあ、確かに碧さんの言う通りだ。
ここで異性との出会いは望めない。
でも、望めない場所なんて職種によっては他にもたくさんありそうな気がするんだけど。
それに――
「碧さん、私異性との出会いは求めていないので平気ですよ」
碧さんは私を厳しく睨んだ。
「そこが問題なんでしょう! 音々ちゃんが異性との出会いを求めて外に積極的に出ているならいいのよ。でも、結愛ちゃん以上に、音々ちゃんは外に出ないじゃない。だったらここに異性を連れてこないと!」
うう、碧さんが怖い。
「でも――」
「でもじゃないの。音々ちゃんは放っておくとお屋敷に骨を埋めそうなんだもの。ああ、年頃の女の子なのに心配……ここはいっそ」
手際よく掃除をしながらもぶつぶつ呟き始めた碧さんをそのままに、私は窓ふきに取りかかることにした。
(異性との出会いかあ……)
このお屋敷に来てからは毎日過ごすのに精いっぱいで、そんなこと思いもしなかった。
けれどチャペルが出来上がってからというもの、私は時折想いを馳せるようになった。
忘れたいのに――いろんな意味で忘れられない初めての恋。
高校三年生から大学四年生途中までの、人生がひっくり返る前の決して短くはない時間。
それは私が彼に夢中になっていた、私にとっては夢のような時間だった。
でも、今の私にはわかる。
夢中になっていたのは、恋に溺れていたのは私だけで、彼にとってはそうじゃなかったこと。
きっと彼にとっては私との関係なんて、そう恋でさえ――なかった。
* * *
私が彼、立花明樹くんと出会ったのは、私が高校一年生、彼が高校二年生の時だ。
皇華と唯一交流のある、名門男子校の生徒会会長――それが明樹くんだった。
一年生だった私は、当時の生徒会役員の先輩たちにとって、からかいの対象というかマスコットというか、まあ都合のよい遣いっ走りのような存在だった。
年に何度か生徒会役員同士の交流の機会があって、私はそこで明樹くんに一目惚れをした。
いや、あの当時そんな女の子は私以外にもいっぱいいた。
副会長だった製薬会社御曹司の湯浅巧さまと人気を二分していたから。
優しくて穏やかで落ち着いた、好青年の見本のような明樹くんと、愛想が一切ないのに強烈な存在感で魅了する巧さま(周りからそう呼ばれていた)。
二人はまるで水と油、光と影みたいだったのに仲が良かったから、一部のそういう系の女子たちにも別視点で騒がれていた。
彼らもそれは認識していて、それぞれ違うやり方で女の子たちをあしらっていた。
それに二人はいつも、年上の女子大生だとか他校の綺麗な女の子だとかと付き合っているという噂があったから、誰も彼もが見ているだけ、せいぜい周囲で騒いでいることしかできなかった。
私もそうだ。
私もずっと、見ていることしかできなかった。
私は幸い、生徒会活動というチャンスがあったけれど、それを活かせるはずもなく。
必要最小限の事務的な会話をするのみで、他の女の子よりちょっと間近で見ることができるぐらい。
そのうち、実は明樹くんのおうちが母子家庭だとか、彼は奨学金であの学校に通っているなんて情報が出回り始めた。
皇華の生徒にとってそれはマイナス要因となる。
明樹くんはますます観賞用のみの対象となり、本気で彼とお付き合いしたいと望む子は少なくなった。
それでも告白をされていたみたいだけど、彼は『噂通り、うちは母子家庭で僕は奨学金で通っている。そういう僕との交際を君のご家族は認めてくれるの?』という台詞で断るようになった。
私は明樹くんと一度だけ事務的ではない会話を交わしたことがあった。
その時、おこがましいけれど、なんとなく素の彼に触れた気がしたのだ。
そして淡い憧れだったはずの想いはそれから急激に膨らんだ。
私は、彼が高校を卒業し医学部進学が決まるのを待って勇気を出して告白した。
当然、彼からは即座に定型句で断られた。
だから言ったのだ。
『立花先輩のおうちが母子家庭でも構わない。奨学金で通うのなんてむしろすごい! 私は立花先輩が貧乏でも、実はすごいオタクでも、足が臭くても腹黒だったとしても、どんな先輩でも好きです!』と。
明樹くんは、ものすごく嫌そうな表情をした。
『僕はオタクじゃないし、足も臭くないし、腹黒でもないよ』と口調だけは穏やかに否定して。
私は、どんな先輩でも好きだってことを一番に伝えたいだけだったのに、そこはスルーされて『いえ、例えで言っただけでそんなこと思ったこともないですよ』としどろもどろで言い訳する羽目になった。
『どんな僕でも好き、か……つまり僕の顔が醜くなっても、ぶくぶく太っても、バカになっても暴力ふるうようになったとしても、それでもってこと?』
『ぼ……暴力はさすがに』
『そうだな、そこは言いすぎか』
『でも、暴力以外は大丈夫です!』
『君は――出会った時から思っていたけど……まあ、いいや』
明樹くんはとにかく呆れていた。
それにそんな風に脅してでも私の告白を断りたかったのだろう。
私はただ気持ちを伝えるのに必死で、そんなことにまで頭がまわらなかったけど。
でも、なぜかわからないけれど明樹くんと連絡先だけは交換できた(そういう意味では生徒会という繋がりがあったのに、それまでそんな機会さえ逃していたということだ)。
それから、私たちのものすごくスローなお付き合いが始まった。
最初の一、二年は知人以上友人未満だった。
それでも私は明樹くんから呼び出されたらほいほい出ていったし、数か月放置されても耐えていた。周囲から見ればそれは、到底恋人と呼べるものではなかっただろう。
でも私は、メッセージを送れば、数日後でも返事がくるだけで浮かれたし、毎回のテスト勉強にだけはなぜか律義に付き合ってくれたから、それが健全デートだと思っていた。
誕生日やクリスマスやバレンタインにプレゼントをあげるのは私だけだったけれど、渡すためのほんの些細な時間に会ってもらえるだけで舞い上がっていた(だって明樹くんは医学部の学生でとても忙しそうだったし、そのうえバイトもしていたし、経済的には苦労していると思っていたから気にしなかった)。
それに、私の誕生日には私の欲しいものをくれたから。
一年目は手を繋いで一緒に歩いた。
二年目は頬やおでこにキスをしてもらった。
三年目に初めて唇にキスをもらえて、四年目にようやく肌を重ねた。
肌を重ねてからは、そういう行為の頻度が増えた。
だから、彼は私のペースに合わせてゆっくり進んでくれていたのだと――それは大事にしてくれていたからだと前向きに捉えていた。
私の人生が大変なことになって、自分から別れ話をすることになって、最初は彼をものすごく傷つけてしまったと後悔した。
あんなに大事にしてくれていたのに、私は結局彼を捨てたのだから。
――『音々はねんねだからねぇ。いつまでも夢見る夢子ちゃんじゃダメよ』
友人の言葉通り私はねんねだった。
眠って夢ばかり見ていた。
夢から覚めた私は、明樹くんとのお付き合いもおままごとだったのだと気づいた。
今の私は、たんなる暇つぶしで付き合ってもらっていたことや、明樹くんにとって都合のいい存在だったことを自覚している。
私にとっての初恋は、明樹くんにとってはきっと恋愛ですらなかった。
それでも私はその夢のおかげで今を生きている。
そしてきっとこの夢を糧に未来も生きていくんだろうな。
* * *
私は本日の仕事を終えた後、少し緊張しつつお屋敷内の書斎へ向かう廊下を歩いていた。
結愛ちゃんは、結婚式の準備を着々と進めている。
結婚式の司会進行をどうするかとか、生演奏をどこまで手配するかとか、飾りつけに選ぶ生花をどれにするかとか、とても楽しそうだ。
そしてお食事会のメニュー開発も料理長とともにやっている。
試食にあやかれるのは嬉しいけれど、比例するように体重が増えているのが心配。
結愛ちゃんは体型があまり変わらなそうなのに、なんで私だけ影響受けるんだろうな。
ウェディングドレスに関しては、結愛ちゃん自身も気に入っていたブランドを紹介したらしく、ご新婦様も気に入ったようだと喜んで報告してくれた。
私は、彼女が楽しく式の準備に集中できるようサポートしているし、仕事上で大きなミスもしていないはず。
だからこんな風に高遠さんに呼び出される理由がわからなかった。
高遠さんはもう見るからにイケメンで素敵な旦那様だ。
年上ならではの余裕もあるし、それはそれは結愛ちゃんを溺愛している。
優しくて穏やかで、声を荒らげることなんてほとんどない(結愛ちゃん関連以外では)紳士的な王子様。
う、う……そんな恩人だけど、あまり近づきたくないタイプなんだよね。
私はドアの前でひとつ深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。
(とりあえずなにかあったなら謝罪しよう)
「梨本です」
ドアをノックして名乗ると中から返事が返ってきて、私は書斎に入った。
お屋敷の主が代々使用してきた部屋とあって、重厚感のある豪華な設えだ。
隣にはベッドルームやバスルームも完備しているのでここで生活もできる。このお部屋は結愛ちゃんと碧さんが管理しているので、私は掃除したこともないけど。
高遠さんは机についてなにやら仕事をしていた。
帰ってきても仕事なんて本当に忙しそうだ。けれど会社で残業するよりは、お屋敷のほうが結愛ちゃんのそばにはいられる。
「ああ、座って」
ソファを示されて私は言われた通り腰をおろした。
う、沈む。
このソファがやわらかいせいか最近私の体重が増えたせいか、どっちだろう。
高遠さんも向かいのソファに座った。
「ごめんね。急に呼び出して」
「いえ」
「そんなに緊張しないで」
「はい」
無理です、緊張します! と心の中で叫んだ。
なんでだろう。
本当に優しい口調だし、重い空気を発しているわけでもないのに、私の体が勝手に反応して固まってしまう。
「結愛の代わりにいろいろ動いてくれているって聞いた。ありがとう」
いきなり説教でなくてほっとしたけれど、油断はできない。
「いえ、結愛ちゃん……奥様の代わりまでは無理ですが、少しでも手助けになっているならよかったです」
本当に雑用が少し増えた程度だ。
あとは結愛ちゃんに指示されて事務的なことをしているぐらい。
「いや、いいタイミングで結婚式が決まったことも、それをサポートしてくれる人がいたことも結愛にはよかったと思う。ちょっと思いつめていて……僕だけの力じゃ、どうしようもなかったから」
高遠さんは珍しく、しみじみと吐き出した。
私が思うよりも、当事者間ではいろいろあるのかもしれない。
夫婦のことだしデリケートな問題だ。
私なんか結婚さえしていないから、本当の精神的なつらさはわからないし。
「結愛ちゃん、本当に楽しそうです。もうすぐですしね」
そう、結婚式は三週間後に迫っている。
「それで、碧さんに相談されていた件について、梨本さんにいくつか確認しようと思って、今日は呼び出したんだ」
はい?
碧さんの相談内容がどうして私に関係するんだろう?
「碧さんには、君の将来のことについてどう考えているのか聞かれたんだ。このお屋敷に勤め始めて、君は休みの日もほとんど外出しないらしいね。このままだと出会いもなく年をとりかねない。本人にその気がなくとも、雇用主として誰か紹介するなり出会いの場を設けるなり考えるべきだって」
あ……思い出した。
いつかの掃除の時に、このお屋敷勤務の唯一のネックは異性との出会いがないことだと力説していた碧さんを。
「わ、私、紹介とか出会いとか求めていません!」
「うん、でも……結婚願望がないわけじゃないだろう? チャペルができてから君がぼんやり見つめることが多くなったって報告を受けている」
私は思わず言葉に詰まった。
今までそんなの口にしなかったのに、どうしていきなり碧さんがそんなことを言い出して、なおかつ高遠さんにまで話をしたのか気づいた。
確かにチャペルは、乙女の夢を刺激する代物だ。
だってそれぐらい素敵なんだもの。
私でなくったって、年頃の女性ならぽーっと見てしまうと思う。
「結婚願望は……いえ、というか旦那様に紹介していただくなんて恐れ多くてできません!」
結婚願望はあった。結婚は夢見ていた。
でもそれは過去の想い。
それに高遠さんからの紹介なんて、それ断れない案件になりそうで怖いよっ。
「初めて出会った時の君はぼろぼろだった。恋人に嘘をついたと傷つけたと泣きながら、おばあさまから贈られた振袖を売りたいのだと訴えた。話はかなり支離滅裂だったけれど、君はしきりに恋人にもおばあさまにも泣いて謝っていた」
高遠さんは少し困ったように眉尻を下げて、当時の私の様子を語った。
正直言えばあまり覚えていない。
それぐらい私は精神的に追いつめられて混乱していたのだと思う。
別れ話をうまくこなすので必死だったからなあ。
「それは大変ご迷惑をおかけしました」
「あの頃の君には聞けなかったけど、どうして恋人には頼れなかったの?」
高遠さんの問いに私は首をかしげる。
どういう意味で問われているのか、わからなかったからだ。
「頼ろうなんて思いませんでした。むしろ迷惑をかけないようにするには、どうすればいいかばかりを考えていたので」
「頼ろうと思わなかったってことは、恋人は年下とか学生だったってこと?」
「そうです。年下ではありませんが、彼は学生で卒業までまだ一年以上必要で……それにとても将来有望な方だったので」
母子家庭で、奨学金で頑張って医学部に行っている明樹くんには絶対に負担はかけられなかった。
それに、私は多分落ちぶれてしまったことも知られたくなかった。
だから、婚約者と結婚して海外へ行くなんて嘘をついて別れ話をしたのだ。
あの当時の私には正式ではないものの婚約者っぽい相手がいた。なにせ私の結婚は祖父の一番の関心ごとだったから。
だから高校を卒業するとすぐに、家族の集まりを通して何人かの男性を紹介された。
何度か会って交流しながら、二十歳の成人式の後、知らぬ間にお見合いをさせられて、将来的にいずれはみたいな感じの相手もなんとなくいたのだ。
明樹くんとの交際は家族にもうすうす気づかれていたけれど、大学卒業までの間ぐらいはと目こぼしされていた。
明樹くん自身も、私にそういう相手がいるらしいことには勘づいていたのだろう。
だから、私の口から婚約とか結婚とかの言葉が出ても動じなかった。
(まあ、それも後で振り返ってからわかったことだけど)
「もう、その彼のことはふっきれた? 君は新しい出会いを受け入れられるのかな?」
「彼のことはふっきれています。でも――まだ新しい出会いは求めていません」
そうか。高遠さんは私の意思を尊重しようとしてくれているんだ。
私がまだ過去を引きずっているかどうか。
新しい出会いを望むほど心が落ち着いたかどうかを確認したかったんだろうな。
「碧さんや旦那様の心遣いは大変ありがたいのですが……今はまだ遠慮させてください。それに、その気になったら私、ちゃんと自分で探しにいきます」
そうだよ。
高遠さんにお願いしたら絶対大変なことになりそうだもの。
ここは、がつんと遠慮しよう。
「そうか。ならその気になったらいつでも言っておいで。もちろん君が自分から探しにいくのならそれでも構わない。そのためにここをやめたくなったなら、それも受け入れる」
私はびっくりして高遠さんを見た。
「でも、借金が」
「もうすぐ終わるよ」
思ってもみない言葉に、私はぽかんと口を開ける。
金融業者への借金は利子がどんどん増えてえらいことになっていた。
高遠さんがそれを立て替えてくれたので、私はお給料の一部を毎月返済に充てている。その返済額だとあと数年はかかるはず。もうすぐ終わるなんてありえない!
「嘘です! 私の月々の返済額じゃ到底まだ無理なはずです!」
「月々の返済額だけじゃ確かに無理だね。でも僕の管理のもと、君名義で投資にまわしてきただろう。この数年できちんと増えている。だからもうすぐ終わるよ。君は自由になっていい」
いきなりそんなことを言われて混乱する。
確かに結愛ちゃんに言われてネット証券の口座を開設した。返済分はここに入金してねと指示されてその通りにしていた。結愛ちゃんというよりは斉藤さんの指示が入った時にパソコン上でいろいろ操作をさせられていたけど、まさかあれが投資だったとは気づかなかった。
借金が終わる?
私は自由になってお屋敷を出ていっていいの?
自由――
一見、解放感あふれる素敵な言葉なのに、私はなぜか見捨てられた気持ちになる。
お屋敷を出て一人で生きていく自分がうまく想像できない。
「梨本さん、借金はそろそろ終わる。これからどうしたいのか考える段階にきているんだ。もちろん君が返済後もこのままここで働きたいならそれでも構わない。でも、なにかやりたいことがあるのなら屋敷を出てもいい。君の安全はすでに保障されているし、ここに隠れ続ける必要はないんだ」
ああ、だから碧さんはあんなことを言っていたんだ。
もしかしたら、お屋敷の人たちはみんな知っているのかもしれない。
私が自分の生き方を選ぶ段階にきていることを。
私は頭がぐるぐるしそうになりながらも、とりあえず「ありがとうございます。考えてみます」となんとか適当に答えて、書斎を後にした。
* * *
なってこったい……って言葉はこういう時に使うんだろうな。
私はお屋敷内に与えられた自室に戻るとベッドに突っ伏した。
お屋敷に来た時にどの部屋がいいかと聞かれて、私は『和室』と答えた。
それまでの自分の部屋が洋室だったので、違う空間に身を置きたかったのだ。
実際に与えられたのは和洋室タイプのお部屋で洋室にはベッド、畳敷スペースに桐ダンスと小さな座椅子とテーブルが置いてある。
ちょっと古めかしいレトロな雰囲気がお気に入りだ。
借金の返済まではあと数年かかると思っていた。
だからお屋敷を出るなんて考えたことがなかった。
私は、元々将来の夢なんかあまり考えてこなかったタイプ。
その手の作文にも『私には将来の夢は特にありません』から始まり『これから探していこうと思います』でいつも締めくくっていた。
だって仕事をしたいなら祖父の会社。
働きたくないならおうちで家事手伝い。
いずれ好きな人と結婚すればいいのだと思っていたからだ。
運よく明樹くんと付き合えたおかげで、彼に夢中だった私は彼の医学部卒業を待てば、そのうち結婚もしてくれるんじゃないかと期待していた。
だから彼を待つ間だけ、社会経験できたらしようかなぐらい、能天気なことしか考えていなかったのだ。
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