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1巻
1-1
プロローグ
エレベーターに乗り込むと、椎名真尋はほっと息を吐いた。
このマンションのエレベーターはこぢんまりしているからか、妙に安心して気が抜けてしまう。一日の仕事の疲れも重なって、人気のない静かで狭い空間がなんとも心地いい。
これは、一人暮らしを始めて気づいたことのひとつだ。
そしてエレベーターを降りて、自分の部屋に入るとさらに安堵する。
1LDKの自分だけの小さなお城は、今の真尋の身の丈にあった広さだ。
駅からは少し距離があるけれど、今年就職した総合病院には近い。同じ病院に勤める職員の入居が多いのも頷ける。
玄関から直接部屋の中が見えないところ、リビングダイニングに隣接して三畳程のベッドルームが別にあるところが真尋のお気に入りポイントだった。
これまで暮らしていた自宅の部屋より明らかに狭くても、これが本来の自分に合っているのだと自覚できる。
テーブルにバッグを置くと同時にスマホが震えて、真尋は画面を見ながらカーテンを閉めた。
メッセージを確認したのと、エントランスに来客があったことを知らせるインターホンが鳴ったのは同時。
――『巧くんが帰ってきました。そちらに向かっています。事情はきちんと自分から説明しなさい』
母からのそっけないメッセージを噛み締めながら、真尋はおそるおそるインターホンの画面をのぞく。
巧がそろそろ海外赴任から帰ってくるかもしれないとは聞いていた。帰ってきたら怒られるかもしれないとも覚悟していた。
だから、もし帰ってきたらすぐに教えてと母に念押ししていたのに。
「帰ってきたのって……いつ? 連絡するならもっと早くしてよ、お母さん!」
新しい住所を内緒にするのは難しいだろうから、せめてその時は悪あがきでも身を隠して時間稼ぎしようと思っていたのに。
ピンポン、ピンポン、ピンポンと激しく鳴り続けるインターホンの音に、真尋は観念して通話ボタンを押した。
「……は、い」
『真尋! いるのはわかっている。さっさと開けろ!』
久しぶりの命令口調に「ああ、巧くんだ……」なんて思ってしまう。
そして、その命令に真尋はいつも逆らえない。
いや、いつも逆らっているのに、結局は応じてしまう。
真尋は、はあっとため息をついてから、覚悟を決めて解錠ボタンを押した。
できれば玄関先で追い返したい。でもそんな希望が叶うわけがない。こんな様子の巧から逃れるのは不可能だ。
だから、部屋の前のインターホンを連打される前に、真尋はドアを開けて巧が来るのを待っていた。
エレベーターを降りて廊下を歩いてくる姿は、今にも人を殴りそうな勢いがある。
だから真尋はあえてにっこり笑って、
「巧くん、おかえりなさい」
と言ってやった。
玄関内に入るなり、だんっと壁に手をつかれて巧に見下ろされる。
真尋は「わお、リアル壁ドンだ」と思いつつ、笑みを崩さなかった。表情を作ることに関してはお手の物。お嬢様学校に通い始めてから身に付けたスキルは今でも生かされている。
――巧に会うのは一年ぶり。
二年前に海外赴任してからも、最初の年は盆や正月などに何度か帰ってきていたのに、ここ一年はまったくだった。
おかげで巧に邪魔されることなく、真尋はこうして一人暮らしという偉業を成し遂げることができた。
「俺はなにも聞いてない」
「言ってないもん」
髪型が少し変わった。しかし相変わらず見た目だけはいい。
こうしてスーツ姿の巧を見ると、やっぱりイケメン御曹司だなと思う。
俺様なのにどことなく品があって、カリスマ的オーラがあって。
誰をも従える声と、揺るぎのない強気な眼差しと、圧倒的な存在感。
それは、初めて見かけた時から変わらない。
初めて会った時から変わらない。
むしろ年を重ねるごとにパワーアップしている。
「一人暮らしを許した覚えはない。就職先だって……なんでうちの系列病院じゃない! スマホだって繋がらない! なによりっ――」
いつも理路整然としているのに……動揺していると、一番言いたいことを最後にもってくる癖は相変わらず。
「なんで勝手に養子縁組を解消した‼」
「勝手じゃないよ。お義父さんたちからは了解を得た。就職先は、今の病院から最初に採用通知がきたから選んだだけ。就職したら自活するのは当然だから一人暮らしを始めた。スマホを新しくしたのは――」
巧から目をそらさずにいようと思ったのに、うまくいかなくて真尋は視線を落とした。
「養子縁組を解消して、名字が湯浅から椎名に戻ったから」
「ふざけるな!」
どんっとふたたび壁を叩かれて、真尋は小さく首をすくめた。
(ふざけてなんかないよ、巧くん。だってずっと決めていたことだから)
「今は湯浅真尋じゃなくて椎名真尋なの、巧くん。私と巧くんは義兄妹じゃない。赤の他人だよ」
真尋は口元だけはなんとか笑みの形をつくった。けれど、怯えとうしろめたさは隠せない。
「ふうん。赤の他人……」
嘲りをともなった冷たい声に、真尋はぴくりと肩を揺らす。
火に油を注いだ自覚はある。巧の顔を見ずとも、怒りが増したのがわかった。
すると、不意に髪を掴まれた。
看護師として働くからには清潔感は必要だ。だから真尋の髪は肩につかない長さをキープしている。ふわふわのくせっ毛はまとまりが悪いけれど、伸ばすよりはいい。
「痛いっ」
軽く髪をひっぱられて、本当は痛みなんかないのに、つい口にした。
長かった頃はよく巧に触られていた。それもあって短いままをキープしていたのに、こんなふうにされたんじゃ意味がない。
「赤の他人ね。なら、もう俺が遠慮する必要はないな」
いつ彼が遠慮したことがあっただろうか? いつだって傍若無人だったのに。
そう真尋が思ったのと、髪を掴んだままの巧の手が真尋の頬を包むのが同時で。
反射的に撥ねのけようとした手まで捕らえられ、真尋の唇は巧によって塞がれた。
遠慮なんかしないと言った通り、巧は強引に真尋の唇に割り込んでくる。
まさかこんなに早く行動を起こされるなんて思ってもいなかったのと、想像以上の彼の怒りに真尋は抵抗もできない。
(嘘! なんで! せっかく赤の他人になったのに。もう関わらないって決めたのに!)
唇の感触が意外にもやわらかいと知ったのは、巧が日本を発つ直前。
頭を撫でる。腰に腕を回す。肩を抱く。時には抱き寄せて、頬にも触れる。
そして髪を一房掴んでは、唇を落とす。
そんなスキンシップは、それ以前もいくらでもあった。
家族で行うには近すぎて、でも兄妹だからと言い訳して許してきた距離。
けれどあの別れの日まで、それ以上距離を縮めるような行為は一切なかったのに。
今、真尋の口内には巧の舌が伸ばされて、そして忙しなく暴れ回っている。
あの時の、唇にかすかに触れる程度のキスしか経験のなかった真尋には、今のキスは激しくて淫らでどうしていいのかわからない。
息の仕方も、舌の動かし方も、唾液の行方をどうすればいいのかも。
(……今まで、絶対にしなかったのに! なんでっ)
怒りとともに想いをぶつけられているかのような強引な口づけ。
それなのに、そこからなにかが伝わってくる気がする。
そんなものは気のせいだと思いたいのに、次第にキスは激しいものから優しいものに変化していくから。
「ま、ひろ……」
そして聞いたこともない、声音で名前を呼ぶから。
いつのまにか無意識に目を閉じていた。
唇が離れて、ゆっくり目を開けると視界はぼやけていて、涙で滲んだ目に映るのはやるせなく、どこか泣きそうな巧の表情。
「おまえ……卑怯だろうが!」
卑怯なことをしたのは巧のほうだ。
この男はいつだって勝手に強引に真尋の心を暴いてしまう。
真尋の涙を拭う指がためらうように伸ばされたあと、ゆるやかに体を抱き寄せてくる。
「俺は言ったはずだ。余計なことは考えずに俺の帰りを待っていろって」
そう確かに彼は言った。
忘れたいのに覚えている。
見送りに行った空港で、出発ロビーの人混み溢れる中、この男はそう命令して真尋にキスをした。
一瞬、唇の表面に触れるだけのささやかな接触。
忘れたいのに忘れられない、それは初めてのキス。
「真尋。余計なことは考えるな。おまえは俺のことだけ考えていればいい」
「……そん、なのっ、無理」
「無理じゃない。おまえの頭の中を俺でいっぱいにするのなんて本当は簡単なんだ。無理やりそうされたくないなら、自分の意志で俺のことを考えていろ」
「横暴! 俺様! だから、だから――こんなお兄ちゃん、いらなかったのに‼」
初めて会った時から、義理の兄妹になるかもしれないと知った時からずっとそう思っていた。
この男の義理の妹になるなんて嫌だ、と。
この男が義理の兄になるなんて嫌だ、と。
こうして戸籍上、赤の他人に戻ったとしても、自分たちが義理の兄妹だった時間が確かにあって、その事実は決して消えない。
「おまえが俺の妹だったことなんて一度もない」
幾度となく言い続けた言葉を、今もまた巧は繰り返す。
『おまえは妹じゃない』
『妹にはしない』
いつまでも妹だと認めたくないのなら、それでも構わないと思っていた。
けれど、その言葉の奥に秘められたものに気づいたのはいつだっただろう。
触れられるのに戸惑いを覚えて、それから髪は伸ばせなくなった。
「おまえを妹だと思ったことは一度もない」
「私だって……ない! 兄だと思ったことなんて、思えたことなんて一度もなかった。だって、お兄ちゃんって呼んだことなかったもの!」
『兄と呼ぶな』
そう言われた時から、真尋は巧のことを『お兄ちゃん』と呼んだことはない。
呼べばよかった。
今なら、そう思う。
呼んでいればきっと、互いにこんな感情を抱かずに済んだ。
義理の兄妹が抱くべきではない――――こんな想いなど。
第一章 義理の兄妹
(うわ、やっぱり本物だった……)
中学三年生だった真尋は、母の結婚相手の家族との初顔合わせで、自分のささやかな希望が打ち砕かれたのを知った。
母に『会わせたい人がいるの』と言われて相手の名前を聞かされた時から、嫌な予感はしていたのだ。
母のお相手は湯浅製薬社長の湯浅仁。
湯浅系列の総合病院で看護師として働いていた母と仁との出会いは、彼の父親の入院がきっかけだった。
当時、湯浅製薬会長だった仁の父親の担当看護師が真尋の母だったのだ。
患者の担当看護師と、患者の息子である御曹司との恋。
二人とも子持ちだが独身で、表向きは問題がなかったはずなのに、周囲の視線は冷たかった。
病院関係者からは『うまく玉の輿にのって』だの『仕事を利用して相手を掴まえた』だのと噂され、仁の関係者からは『お金目当て』だの『看護師が相手なんて釣り合わない』だの散々悪口を言われた。
娘としては母がようやく掴んだ幸せを応援したい気持ちもあったけれど、周囲の騒音に辟易もしていた。
だから、本音を言うと今回の結婚話には反対だった。
けれど母はあっけらかんと『周りの言うことなんか気にすることないわ』と軽くあしらい、仁は『僕がもてる力すべてを使って君のお母さんを守るよ』なんて言った。
雑音さえも恋のスパイスにしてしまう二人のラブラブぶりに、結局真尋は反対するのも無駄だとあきらめたのだ。
なにより、周囲の声を蹴散らして二人の結婚を後押ししたのは、退院した仁の父親だった。
入院が長期に及んだため会長職を辞し、退院後は都会から離れた別荘地で療養を兼ねて暮らしているものの、その権力は健在。
だからこうして家族同士の顔合わせが実現した。
歴史と趣のある料亭で、真尋は父親になるかもしれない湯浅仁と、その息子である湯浅巧と向かい合って座っていた。
畳敷きの個室にもかかわらず、テーブル席がセッティングされていて、長時間の正座地獄は免れた。
一品ずつ運ばれてくる料理は、季節の食材が見た目も華やかに盛り付けられ、味わいも上品だった。
様々な産地の器も、見るからに高級。
おいしい食事に舌鼓を打ちながら、軽く自己紹介をして当たり障りのない話題を繰り広げる。
真尋は、そっと向かいに座る巧を見た。
真尋より三つ上の高校三年生。
サラサラの黒髪に整った顔立ち。均整のとれた肢体は、スーツに包まれている。まだ学生なので着慣れていないだろうに浮いた感じはなく、むしろ品よく着こなしていた。
にこやかな笑みを浮かべることはないものの、穏やかな声音で淡々と話す。
スポーツ万能で、イケメンで御曹司――都内屈指の偏差値を誇る男子校でトップレベルの成績を収め、早々に推薦で難関大学への進学も決めたらしいという噂。
この男のことを真尋は知っていた。
なぜなら、巧の通う男子校と、真尋の通う公立中学校は近い場所にあるからだ。
巧の通っているところは、昔から偏差値が高いことで有名な高校ではあったが、頭はいいけど面白みのない真面目な男子生徒ばかり、というのが近隣の評判だった。
それがここ数年で変化した。
湯浅巧が入学すると、掃き溜めに鶴のような彼の存在はとにかく目立った。
さらに類は友を呼ぶのか、彼の周囲の男子生徒たちはだんだん垢抜けてきて、偏差値が高いだけの男から、容姿もいい男へとシフトチェンジしていった。
そうやって注目され始めると、実は大会社の御曹司だとか、医者や弁護士の子どもだとかいうことも明らかになっていく(昔は誰も関心がなかったので、そんな噂も流れなかった)。
通学途中で会う、頭も容姿もいい男子高校生など、恋にはしゃぐ女子中学生にとっては憧れの的だ。
よって、湯浅製薬の御曹司である湯浅巧の名前を知らない女の子なんて真尋の中学にはいない。
けれど真尋は、まるでアイドルのように騒がれていた彼の存在と名前は知っていても、一切興味などなかった。
『まあ見た目がいいのは確かだなあ』と思いつつ、周囲の女の子のはしゃぐ様を傍観していただけだ。
それが変わったのは、ありきたりなシチュエーションで真尋の友人が巧に恋をしたからだ。
雨降りの道端で足を滑らせて、派手に転んで荷物をぶちまけ、膝を痛めて恥ずかしい思いをしていた友人に、手を差しのべたのが巧だった。
汚れた荷物を拾い、アイロンのかかった綺麗なハンカチを友人の膝にあてながら『大丈夫か?』と声をかけられた瞬間、彼女は簡単に恋に落ちてしまったらしい。
友人は、表立って騒いだり、ファンクラブに入ったりはしなかったけれど、遠くからひっそりと相手を想う――ある意味、真剣な片想いに突入してしまった。
おかげで友人がハンカチを返す時も、周囲に混じってバレンタインチョコを渡す時も、『エネルギーが欲しいの!』と言って巧の姿を一目見たいと高校の近くで待ち伏せする時にも、真尋は付き添う羽目になった。
高校の学園祭や体育祭にも一緒についていった。
仕方なく、友人と一緒に湯浅巧を見つめてきたのだ。
(この人が……私の義理の兄になるの……?)
結婚が決まれば、片想いをしている友人がなにを思うのか、それを想像するだけでも頭が痛い。
(いや、大丈夫。結婚が決まってもお嫁に行くのはお母さんだけ)
真尋は冷静に自分に言い聞かせる。
真尋の家は母子家庭だが、母の実家で祖父母と母の弟である叔父と同居している。祖父はいまだ現役で働いているし、叔父は独身だけれど医師をしていて経済的な心配はない。
真尋も春からは高校生だし、母親と一緒に暮らさなくても平気な年齢だ。
元々母は仕事で留守がちであったし、家のことは真尋も祖母と一緒に積極的にやってきた。母と生活を共にしなくても、なんの不自由もない。
だから母だけが湯浅家に嫁げばいい。そう考えていた。
(もし、結婚が決まったら……お母さんだけお嫁さんにいってね、って言おう)
目の前の男と義理の兄妹になるなんて、真尋にとっては嫌がらせのようなものだ。
真尋は心の中で作戦を練りつつ、にこやかな表情で、おいしいはずの料理を口に運び続けた。
一通り食事を終えたあと、真尋はお手洗いに立った。
畳敷きの廊下を歩いていくと、トイレまでもが和の風情で感心する。白い陶器の洗面ボウルで手を洗い終えると、真尋はあと少しの我慢だと気合いを入れてそこを出た。
瞬間、目の前にあまり顔を合わせたくない人物の姿があった。
色鮮やかな絵が描かれた大きな花器のそばに立ち尽くす男は、華やかに活けられた季節の花々に負けない存在感を放っている。
男性の洗面室は廊下の反対側だったはずだ。もしかしてこの男は、真尋が出てくるのを待っていたのだろうか。
だからといって「なにか御用ですか?」と声をかける気にもならなくて、軽く会釈して通り過ぎることにする。
「さっき、高校は家の近くの公立を受験するって言っていたな」
真尋は仕方なく歩みを止めた。
確かにさっき、そんな話題になった。
高校はどこへ行くつもりかと仁に聞かれて、『家から近い公立高校に進学するつもりだ』と答えた。仁はそれを聞いて、ほんの少し訝しげに首をかしげていたので、真尋の真意に気づいたのかもしれない。
真尋が今住んでいる家から近い公立高校は、偏差値はほどほどだけれど、同じ中学からの進学者も多い。勉強も遊びも適度に楽しめて、真尋の成績でも充分に進学可能な高校だ。
「高校は、皇華にしろ」
「は?」
「おまえが皇華に進学して湯浅の娘として恥じない教養を身につけるなら、俺の父親とおまえの母親との結婚を認めてやってもいい」
真尋は巧をじっと見つめた。
これまでも友人と一緒に遠くからは何度も見かけていたけれど、直接口をきいたのは今夜が初めてだ。
イケメンで、スペックがやたら高くて、さらに御曹司とくれば、真尋の友人をはじめ他の同級生にとっても理想の王子様と言えるだろう。
けれど、他者からのそんな評価を自覚しているこの男は、真尋にとってはただのいけ好かない俺様御曹司でしかない。
彼の父親と真尋の母親が結婚すれば、この男と真尋は義理の兄妹になる。
(やっぱり……こんなお兄ちゃん欲しくない……)
初対面なのに上から目線で、いきなり命令口調で声をかけてくる男なんて。
『子どもたちが反対するならば結婚はやめる』。それが相手の家族との顔合わせが決まった時に母から言われた言葉だ。
「あなたが反対なら反対で構いません。私はどちらでもいいけど、私かあなたが反対すれば結婚がないことは知っています。なので、この結婚はあなたの反対でダメになるってことでいいですか?」
「おまえ……母親の幸せを願わないのか?」
巧は目を瞠って、呆れを含んだ口調で問うてくる。
「母親の幸せを願うからこそ、相手のご家族に反対されるのならやめたほうがいいと思っています。それに私も……お金目当てだとか、いきなりお嬢様らしくしろとか言われるのも面倒だし、なにより――」
『あなたと義兄妹になるのは嫌だ』。そう続けようとして、さすがにやめた。
そんな本音を晒す必要はないし、それで反感を買うのも馬鹿らしい。
「なにより、なんだ」
「いえ、なんでもありません……」
「俺のせいで結婚できないなんて言われるのはごめんだ。結婚は認めてやる。そのかわりおまえは絶対に皇華に進学しろ! 他の学校は許さない」
皇華――つまり皇華女学園。
なんとも御大層な名前を持つこの学園は、私立の中高大一貫のお嬢様学校だ。高等部の制服は清楚でかわいらしいため、特に人気がある。
(女子校、それもお嬢様学校ねえ)
真尋は特に進学したい高校があるわけではないし、こだわりもない。
今の成績で行ける範囲で、できるだけ家から通いやすく、さらに知り合いも多そうだから公立でいいやと思っていただけだ。
だから、進学先を皇華にすることで結婚を認めてもらえるなら構わないし、それで湯浅の親族の不満が解消されるのならお安い御用だ。
母親の幸せを願わない娘なんていない。
「……ま、べつに皇華に行くのは構いませんけど、入試に受かるかどうかは別ですよ」
考えたこともなかったので詳しい校風や偏差値さえ知らない。聞いたことがあるのは、お嬢様学校独特の変わった校則が多いという噂ぐらいだ。
受かるとは限らないとあえて言うことで、真尋は自分の逃げ道を確保した。
「大丈夫だ。必要なら俺が教える」
「では、結婚は認めていただけるということで」
「ああ」
「ええと、よろしくお願いします、お兄さん?」
軽い気持ちで口にしただけだったのに、巧は驚いたように目を見開いたあと、ものすごく嫌そうに眉根を寄せた。
「俺を兄と呼ぶな。おまえを妹だと認めるのはまた別だ」
真尋は目を細めて、この男面倒だなあと思った。
中学生の娘と高校生の息子、思春期真っ盛りの子どもを持つ親同士の結婚はデリケートな問題だ。もう少し互いが幼ければ、新しい家族が増えることを純粋に喜べたのかもしれない。
そして、目の前のやたら見目のいい男を兄と呼べるのも嬉しかったかもしれない。
でも真尋は一切そんな期待はしていなかったので、兄と呼ぶなと言われても傷つきはしない。
むしろ、いつまでもどこまでも他人でいたいものだ。
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