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1巻
1-3
周囲からのあれやこれやは当然、真尋の耳にも入ってくる。
巧は飄々としているので、気づいていないか無関心なのだと思っていた。
いや、むしろ目立つ行動をして、真尋に嫌がらせでもしたいのかと思っていた。
「その代わり、高校外のすべてのいざこざからは守ってやる」
その言葉で、真尋は自分の中に渦巻いていた不平不満が行き場をなくしたのを感じた。
赤信号で停車すると、巧は真尋をじっと見る。
「俺がおまえを守る」
こくんっと唾液を呑み込んだ。
真尋を見つめる巧の目は、なにかを雄弁に語ろうとしているかに見えた。
それを読み取ることに危機感を覚えて、真尋はさっと目をそらした。
* * *
皇華は中高大の一貫校だ。中等部の募集人員は少なく、高等部で増える。一時期、内部生と高等部からの外部進学生とはクラスが別だったが、最近は、特別進学クラス以外は一緒になっていた。
出席番号順で前後になったことで、真尋は内部生の矢内結愛と友達になった。
最初は内部生というだけで、お高くとまっているのではないかと警戒していたが、逆にお嬢さま学校の生徒らしくおっとり穏やかな彼女に、真尋はすぐに好感を持った。
むしろ外部進学生のほうが皇華ブランドを鼻にかけているところがある。こそこそと真尋の噂話をするのも外部進学生が多い。
そして今、真尋はいつも結愛と一緒にお弁当を広げている裏庭で、陰でいろいろ言っている人たちと初めて直接、対峙していた。
結愛は、内部生の友人に呼び出されたとかで、遅れてここに来ることになっている。もしかしたら彼女たちがそんな裏工作をしたのかもしれない。
中庭には芝生が広がり、屋根のついた東屋にベンチやテーブルが設置されていて、お昼休みには人が溢れている。
しかし、真尋も結愛も多くの人に囲まれるのは苦手なため、あえていつも人気のない裏庭で過ごしていた。
それが仇になったようだ。
「巧さまの妹になったからって、我が物顔でふるまうのはどうかと思うわ」
我が物顔でふるまった覚えなんてないんだけど……と思いつつ、先日、迎えに来た時の巧の態度のせいだと心の中で罵った。
「我が物顔って?」
「そうでしょう? 本当の妹でもないくせに、巧さまを足として使って、さらに優越感に浸って! そういう態度を我が物顔って言うのよ!」
こうして女子生徒に囲まれる可能性を考えていたのかどうか知らないけれど、あの時巧が言った言葉を思い出す。
『おまえも、妹だから俺にかわいがられているって堂々と言えばいい。存分に俺の名前を利用しろ』
俺は俺で存分に利用するからな、とつけ加えながら。
真尋はこういう面倒なことが大嫌いだ。
今後もこんな呼び出しはありそうだから、一発目でなんとか決めなければならない。
真尋はすっと息を吸うと、ふわっと雰囲気をやわらげた。
「皆様方を不快にさせて申し訳ありません。義兄にはもう送迎をお願いしないことにします。義兄は私をとてもかわいがってくれているので、きっと理由を問われると思いますが、その時は皆様に言われたことをお伝えしますね」
「……なっ‼」
「義兄がどれだけ私を溺愛しているかは、先日のお迎えの様子をご覧になった方ならわかると思います。送迎を断る理由を聞けば……義兄はそう進言した方々を許しはしないでしょう。そうそう、私の特技は人の顔を覚えることなんです。学年、クラス、お名前まできちんと義兄には報告いたしますので」
「あなたっ、そんなことしてただで済むと思っているの!」
真尋は口元に笑みを浮かべた。
彼女たちが恐れるのは巧に嫌われることのはずだ。目に力を込めて彼女たちを一人ずつ一瞥した。
「私に手を出せば、義兄が許さない。それだけは覚えておいてください」
彼女たちは顔を紅潮させて、捨て台詞を吐くと身を翻していった。
姿が完全に消えてから、真尋はいたたまれなくて腰を折って座り込む。
ありえない……巧が『溺愛』しているとか『許さない』とか……どこの義妹の話なんだ。
自分で自分の台詞に赤面する。
こういうやり方は好きではないが、巧が利用しろというならそうするのが一番だ。
なにかあれば巧に言う。絶対言う。後始末は全部彼にお任せする。
パチ、パチ、パチとやる気のない拍手に、真尋は振り返った。
「真尋、すごい! 私の出る幕なかったね」
「結愛ーっ」
「ふふ、真尋『溺愛』されているんだー。まあ、そんな感じだよね」
「違う、違う、違うから! あれはハッタリだから!」
「うん、でもそうしておいたほうがいいかも。余計な嫉妬されるのも面倒でしょう? 真尋が義理の妹なのは本当なんだから」
真尋の言葉などさらりと流して、結愛はにっこりほほ笑む。さらさらの黒髪を背中に下ろしている結愛は、清楚可憐な皇華生の見本のようだ。
さっきまでの毒気が抜かれて、真尋は苦笑した。
「お昼食べよう」
「うん!」
その後、噂はうまい具合に広がったようで、それ以降皇華内で真尋がからまれることはなくなった。
* * *
高二 秋――
「好きです。付き合ってください」
巧は告白してきた相手を見下ろした。この制服は巧が通う男子校の近くにある中学校の物だ。
彼女が中学三年生であるならば、巧とは二つ違うだけだが、中学生と高校生ではその差が大きい。
そして女の子の数年は、それこそ随分違うものだ。
同じ高校生の女の子であればまだいいが、中学生はどんなに大人びていても子どもにしか見えない。自分も子どもでありながらそう感じる。
「中学生は相手にしないから」
そう一言だけ言って彼女の横を通り過ぎた。
どこかで隠れて見ていたのか、泣きだした彼女を友人たちが慰めている。
改札を抜けると、先にホームに行っていた友人たちがにやにやしながら巧を待っていた。
「今度は中学生かよー、巧」
彼女たちが巧を捕まえられるのは、高校の正門かこの駅しかない。だからどうしてもこういう場面を誰かに見られることになる。友人たちは巧が呼び止められると「お疲れさん」と言って置いていく。確かに巧は疲れていた。
「いっそ特定の誰かを作れば、告白も減るんじゃない?」
別の友人の提案に巧はだるそうに首を左右に振った。
一度それで「特定の誰か」を作ったことがある。それはそれで結果的に別の意味で面倒になった。以来その手段は封印中だ。
「お、あれハンカチちゃんじゃねえ?」
「あ、本当だ」
彼らが言う「ハンカチちゃん」とは、さきほど告白してきた子と同じ中学の女の子だ。
巧の目の前で派手に転んだ彼女に、巧は手を差し出した。膝小僧をかなりすりむいて痛そうだったからハンカチを渡した。そのハンカチを律儀に洗濯して、アイロンまでかけて返しにきたのがハンカチちゃんだ。
名前を名乗った気もするが巧は覚えていない。
友人たちとホームで電車待ちしている間に、ハンカチを返しにきたから彼らも覚えている。
恥ずかしさに泣きそうになりながら、でも懸命に「ありがとうございました」とハンカチを差し出されて受け取らないわけにもいかない。もとは自分のものだ。
ついでに連絡先を渡すなり、聞くなりしてくるかと思えば、彼女はそれが精いっぱいだったようで、そそくさと立ち去ってしまった。
以降、たまに遠くから視線を感じる。
今も友人たちの示す方向を見れば、彼女はぎょっとしたように慌てて、誰かのうしろに隠れた。
巧に近寄ってくる女の子は積極的な子が多いため、想いを寄せながらも接近してこない彼女は逆に目立つ。
盾にされた女の子のほうは呆れた様子で、ハンカチちゃんを諭し、ぶんぶん首を横に振る彼女を仕方なさげに見たあと、自分たちの視線から隠すように背中を向けた。
「かわいいなあハンカチちゃん、初心って感じ」
「お友達も優しいよなあ」
遠くから見るだけのハンカチちゃんと、それを見守るお友達は、巧たちの間でもほのぼのとした存在になっている。
幼さが抜けていないところや、かわいらしさが妹みたいに思えるらしい。
彼女たちはそんな印象を持たれているなど露ほども気づいていないだろうけれど。
「あのまんますくすく成長してほしいもんだ」
「そうそう」
その頃はまだ、そういう認識でしかなかった。
バレンタインデーに創立祭、学園祭、おおよそのイベント時に彼女たちを見かけていた。巧たちが気づいているなんて思いもしないのか、ある意味無邪気に。
けれど、見かけるたびに印象が変化する。
ハンカチちゃんの髪は伸びて頭のてっぺんで揺ら揺らする。
お友達はぐんっと身長が伸びた。そして二人とも体つきが変わった。
きゃあきゃあ騒ぐでもなく、無遠慮に近づくでもなく、いつまでたってもひっそり見ているだけの彼女たちだったが、学園祭の時にトラブルに巻き込まれた。
そんな二人の存在に他の女の子たちが気づいて、文句を言い始めたのだ。
これには、正直巧も呆れざるを得なかった。
「あなたたちみたいに地味な子が巧さまの周囲をうろつかないで!」とかなんとかだ。
「巧さま」と呼ばれていることに気づいていても、いつまでたってもその呼び名には慣れなかった。彼女たちは自分のなにを見ているのか、身近にいるアイドルかなにかだと思っている様子がひしひしと伝わる。
巧は基本、そういう騒ぎには無関心を貫いていて、その時も裏庭での騒ぎを生徒会室から眺めていた。
「この子はただ彼のことが好きなだけです。気持ちはあなたたちと同じなんです。遠くから見るぐらいは許してもらえませんか?」
女たちの、それも高校生の集団に囲まれて泣きそうになっていたハンカチちゃんをうしろに庇って、頭を下げたのはそのお友達だった。
彼女は声を荒らげるでもなく、ただ正直にハンカチちゃんの気持ちがどれだけ本物か代弁していた。「一目見るだけで元気になるんです」「それだけでいいんです」と当の本人としては恥ずかしいほどの台詞が並べ立てられる。
そのうちなぜか彼女の言い分に共感して、「そうよね、巧さまを好きな気持ちは一緒よね」などと泣き出す女子高生まで出始めた。
事態を見守っていた生徒会連中は、にやにや笑うだけだったが。
凛とした立ち姿で、怯むことなく友人を守って、穏やかに事態を収束させた彼女に、巧は初めて興味を抱いた。
そしてそれから……二人が視界に入るたびに彼女を見てしまう。
くせのあるゆるやかな髪が肩についていくのを。
夏服から伸びるしなやかな手足を。
幼さをどんどん消していくその表情を。
父の再婚相手の家族との顔合わせで、遠くから見知ってきた彼女が目の前に現れた時の巧の驚愕など、彼女は知りもしないだろう。
父が再婚したいと切り出してきた時、巧は正直驚いていた。
湯浅製薬社長といえば華やかに聞こえるかもしれないが、代々続いてきた古い家には柵が多い。
父が社長に就任する前後もいざこざがあって、親族関係のトラブルに巻き込まれた。そのため、繊細だった巧の母は耐えられずに病に倒れた。
母亡きあと、様々な思惑から周囲に再婚を勧められていたのに、父はそれを受けなかった。だからもう再婚はしないのだと思っていたのだ。
その父が、決断した。
「うるさい親族を抑えられるのか」「母の二の舞にならない自信はあるのか」「今度こそ守れるのか」――いろんな言葉が渦巻いたけれど、巧はそれを口にはしなかった。
もうすぐ高校も卒業する。大学入学と同時に一人暮らしでもすれば同居もせずに済む。
なにより、親の人生と自分の人生は違う。
どんな女性を妻にしようと、父親が覚悟を決めた相手ならそれで構わない。その女性に子どもがいて、それが三つ下の女の子だと聞いても自分には関係ない。
そう思っていたのだ。
顔合わせの日までは。
「そう。知らせてくれてありがとう。引き続き注意してくれたら助かる」
真尋が皇華に入学してから数か月――
電話の向こうの人物に、くすくすとした笑い声とともに『了解しました。本当に義理の妹さんがかわいくて仕方がないんですね』と言われる。
巧は特に反論もせず電話を切った。
電話の相手は皇華の三年生だ。生徒会時代に関わりがあったことと、友人の恋人ということで頼みやすかった。
こうして定期的に真尋の高校での様子を知らせてくれる。
真尋が入学した当初の噂は凄まじく、巧が眉をひそめるような内容のものもあった。
しかし真尋はそれについて一切愚痴ることはなかった。
義理の妹になったことは隠しようがない。
だから巧は自分の存在を隠すよりは、公にしたほうが真尋を守りやすいと思ったのだ。
皇華に進学させたのは、やはり正解だ。あそこなら湯浅の名前も巧のコネも通用する。
「かわいくて仕方がない、ね」
確かに巧は、真尋が義理の妹になってからその台詞を便利に使っている。
『真尋は俺が守るから、千遥さんは父さんが守ってよ。俺は母さんの二の舞だけは嫌だ』
そう言った時、父は驚きと困惑を珍しく表情に出していた。言いたいことはいろいろあっただろうに、余計なことは口にせず『じゃあ、真尋ちゃんのことはおまえに任せよう』と言ってくれた。
こうして義理の妹を守ることを父に託された。
だから巧はそれを守っているにすぎない。
大学生になっても一人暮らしを始めないのも、できるだけ送迎をするのも、こうして高校生活を気にかけるのも、見知っていた彼女が『妹』になったからだ。
巧は『妹』になる前から真尋のことを知っていた。
彼女も『兄』になる前から自分のことを知っていた。
けれど互いにその事実を口にしたことはない。
「実際はかわいげなんてないけどな」
直接顔を合わせた時から、真尋は警戒心丸出しで巧に接してきた。
『お兄さんになるなんて嬉しい』とかいう甘ったるい言葉は出てこないだろうとは、なんとなく思っていた。
けれど『以前からお見かけしていました』とか『お話しできて緊張します』ぐらいは言ってくるだろうと思っていたのに、彼女は『あなたの存在を初めて知りました』というような態度だったのだ。
そして、こうして家族になっても、一緒に暮らし始めても、真尋はどこか距離を置いている。
できたばかりの『兄』という存在に、甘えて擦り寄ることも、友人に自慢することもなく、むしろ迷惑そうにしている。
まるで懐かない猫のように――――
だから構いたくなるのか、からかいたくなるのか。
マイナス感情はためらうことなく表情に出してむしろ素直なのに、嫌な目に遭っても、困ったことが起きても、そういうものは一切表に出してこない。
素直なのか素直じゃないのか。
「巧くーん、まだ起きている? お義父さんがケーキを買ってきたからみんなで食べようって」
階段を上がったスペースから真尋が叫んでいる。
彼女はなにを警戒しているのか、もしくは遠慮しているのか、巧の部屋にはできるだけ近づかないようにしている。そんな大声を出さずとも、部屋の前まで来て、ドアをノックして声をかけてくれればいいのに。
それに、ケーキなんか興味ない。
それは父だってわかっている。
家族団らんの時間を設けるための、もしくは部屋にこもりがちな真尋を誘き出すためのただの口実。
巧は返事もせずに部屋を出た。
真尋が「あ、起きていたんだ」とぼそりと呟く。巧の姿を見て、階段を下りようとする彼女を巧は呼び止めた。
「真尋」
「なに?」
「大声で呼ぶな。部屋まで呼びに来い」
「……はい」
返事は素直だが表情は嫌そうだ。それにきっと、これから先も言った通りにはしない。
真尋は、お風呂から上がって部屋でくつろいでいたところに、父が帰ってきて呼ばれたのだろう。
ロングワンピースにカーディガンを羽織った姿は、色気もなければ見苦しくもない格好なのに、巧の心を落ち着かなくさせる。
だから、手を伸ばして髪に触れた。
脇の下まで伸びた、明るい色のふわふわでやわらかな彼女の髪。
「髪、きちんと乾かしたのか?」
「乾かしたよ」
「少し冷たい」
「そう?」
髪を指に絡めて軽くひいた。それはさらりと指の間をくぐりぬけていく。
「真尋、もう少し髪伸ばせ」
「はい?」
(そうでなきゃ、すぐに逃げていく)
「おまえの髪、ふわふわ落ち着かないから伸ばしたほうがいい」
「はい、はい、すみませんね。ぼさぼさで」
「ぼさぼさなんて言ってない」
真尋は少しむっとしたように、先に階段を下りていく。
背中に揺れる髪。無防備な背中。そこはかとなくわかる体のライン。
高校生になったばかりの、まだあどけなさを残す彼女に、抱くべきではない衝動がある。
巧はそれを自覚している。
(家を出るか……)
元々、大学入学と同時に一人暮らしをする予定だった。祖父からも入学祝いと称して、大学に近い場所にマンションの一室をもらった。
税金対策と投資を兼ねて購入した物件で、いつでも生活できるようにすべてが整っているし、実際、巧の住民票はすでに異動してある。
母が結婚しても別居を希望していた真尋を同居に促した責任と、義理の母になった千遥への気遣いとで、しばらくは家族ごっこをしてもいいだろうと考え、独立を延期していたにすぎない。
いや、本音はもっといろいろな彼女を見てみたかったから。
高校の制服姿。
少しおとなしめの私服姿。
ラフな部屋着姿で、一緒に食事をして、リラックスしてテレビを見て、同じ空間で過ごしてみたかった。
「父さんお帰り」
ダイニングにつくと、千遥が紅茶を淹れて、真尋がケーキをお皿に取り分けていた。
お手伝いの頼子は帰ったのだろう。
父も千遥も仕事が不規則だから、こうして家族が集まる機会は実はあまりない。
だからか、真尋の表情がいつもよりもふんわり緩んでいる。
十五歳の少女らしいあどけなさが垣間見えると、巧の心にも温かなものが灯る。
(だから、もう少し……)
義理だとしても、家族という関係の中で少しずつ気を許して安堵しつつある真尋の姿を、もう少しだけ見守っていきたいとも思うのだ。
「巧くんはどのケーキがいいの?」
「おまえは?」
「私? 私はチョコレートかイチゴかなあ」
「だったらイチゴをもらう」
「え? なんで? 普通は他のキャラメルとか抹茶とかから選ぶところでしょう!」
「俺は今イチゴの気分だ。おまえはチョコレートにすれば?」
「うー、そうだけど!」
「真尋ちゃん! 今度は巧にとられなくて済むように、二つずつケーキを買ってくるよ!」
父がまた馬鹿っぽいことを言い出して巧は呆れた。
真尋も「え? そこまでしなくていいよ」と怖気づいている。
千遥や真尋と暮らし始めて知った父の新たな面が、この『馬鹿っぽさ』だ。正直あまりこんな一面は知りたくなかった。
「巧にいじわるされたらすぐに言うんだよ、真尋ちゃん」
たかがケーキ選びのどこが意地悪なんだと思えば、父は意味深な眼差しで巧を一瞥した。
どうやらいろいろ見抜かれているらしいけれど、隠す気もないので無視をする。
(もう少し、あんたにつき合ってやるよ)
父の望んだ家族ごっこ。
それは真尋の心の奥底に隠れていた望みでもある。
巧は椅子に座ると目の前のイチゴのケーキを見た。向かいに座る真尋の前にはチョコレートケーキがある。
「真尋」
巧はケーキの上にのっていたイチゴをへたごとつまむと、真尋の唇に押し付けた。
「イチゴだけはおまえにやるよ」
真尋は驚きに目を見開きつつ、押し付けられたイチゴを受け入れようと、反射的に口をあけた。
へたを掴んだままでいると、ぎりぎりのところを真尋は噛む。指先に彼女のやわらかな唇の感触が伝わった。
「巧……フォークを使いなさい」
父は一瞬声を荒らげかけて、なんとか押しとどめたようだ。
真尋は「いきなりはやめてよっ」ともごもごさせて言うだけだし、千遥は「あらあら」と気にも留めない。
「はい、父さん」
巧は素直にそう言うと、フォークを手にした。
指先に残ったやわらかな感触を記憶に留めながら。
* * *
真尋が高校二年になる時に、巧は家を出た。
大学と一族が経営する会社の中間にあたる場所で一人暮らしを始めたのだ。
聞けば、大学入学と同時に元々そうするつもりだったらしい。親たちの結婚が決まって延期することにしたようだが、真尋にしてみれば、だったら初めからそうすれば良かったのにと思う。
真尋は祖父母の元で生活し、巧は独立する。
そうすれば母たちは二人きりの新婚生活を送れたはずだ。
『顔合わせの日に、同居が当たり前だみたいなことを言わなければ、早く一人暮らしできたんじゃないの?』と、引っ越し当日にぼやいたところ、巧は真尋の髪を一房掴んで軽くひっぱりながらほざいた。
『家族になったんだ。少しぐらい一緒に生活して家族らしく過ごすのも悪くなかっただろう?』と。
なにかとこの男は真尋の髪をいいように扱う。背中の真ん中まで伸びた髪は、すぐに巧のおもちゃにされてしまう。
巧は飄々としているので、気づいていないか無関心なのだと思っていた。
いや、むしろ目立つ行動をして、真尋に嫌がらせでもしたいのかと思っていた。
「その代わり、高校外のすべてのいざこざからは守ってやる」
その言葉で、真尋は自分の中に渦巻いていた不平不満が行き場をなくしたのを感じた。
赤信号で停車すると、巧は真尋をじっと見る。
「俺がおまえを守る」
こくんっと唾液を呑み込んだ。
真尋を見つめる巧の目は、なにかを雄弁に語ろうとしているかに見えた。
それを読み取ることに危機感を覚えて、真尋はさっと目をそらした。
* * *
皇華は中高大の一貫校だ。中等部の募集人員は少なく、高等部で増える。一時期、内部生と高等部からの外部進学生とはクラスが別だったが、最近は、特別進学クラス以外は一緒になっていた。
出席番号順で前後になったことで、真尋は内部生の矢内結愛と友達になった。
最初は内部生というだけで、お高くとまっているのではないかと警戒していたが、逆にお嬢さま学校の生徒らしくおっとり穏やかな彼女に、真尋はすぐに好感を持った。
むしろ外部進学生のほうが皇華ブランドを鼻にかけているところがある。こそこそと真尋の噂話をするのも外部進学生が多い。
そして今、真尋はいつも結愛と一緒にお弁当を広げている裏庭で、陰でいろいろ言っている人たちと初めて直接、対峙していた。
結愛は、内部生の友人に呼び出されたとかで、遅れてここに来ることになっている。もしかしたら彼女たちがそんな裏工作をしたのかもしれない。
中庭には芝生が広がり、屋根のついた東屋にベンチやテーブルが設置されていて、お昼休みには人が溢れている。
しかし、真尋も結愛も多くの人に囲まれるのは苦手なため、あえていつも人気のない裏庭で過ごしていた。
それが仇になったようだ。
「巧さまの妹になったからって、我が物顔でふるまうのはどうかと思うわ」
我が物顔でふるまった覚えなんてないんだけど……と思いつつ、先日、迎えに来た時の巧の態度のせいだと心の中で罵った。
「我が物顔って?」
「そうでしょう? 本当の妹でもないくせに、巧さまを足として使って、さらに優越感に浸って! そういう態度を我が物顔って言うのよ!」
こうして女子生徒に囲まれる可能性を考えていたのかどうか知らないけれど、あの時巧が言った言葉を思い出す。
『おまえも、妹だから俺にかわいがられているって堂々と言えばいい。存分に俺の名前を利用しろ』
俺は俺で存分に利用するからな、とつけ加えながら。
真尋はこういう面倒なことが大嫌いだ。
今後もこんな呼び出しはありそうだから、一発目でなんとか決めなければならない。
真尋はすっと息を吸うと、ふわっと雰囲気をやわらげた。
「皆様方を不快にさせて申し訳ありません。義兄にはもう送迎をお願いしないことにします。義兄は私をとてもかわいがってくれているので、きっと理由を問われると思いますが、その時は皆様に言われたことをお伝えしますね」
「……なっ‼」
「義兄がどれだけ私を溺愛しているかは、先日のお迎えの様子をご覧になった方ならわかると思います。送迎を断る理由を聞けば……義兄はそう進言した方々を許しはしないでしょう。そうそう、私の特技は人の顔を覚えることなんです。学年、クラス、お名前まできちんと義兄には報告いたしますので」
「あなたっ、そんなことしてただで済むと思っているの!」
真尋は口元に笑みを浮かべた。
彼女たちが恐れるのは巧に嫌われることのはずだ。目に力を込めて彼女たちを一人ずつ一瞥した。
「私に手を出せば、義兄が許さない。それだけは覚えておいてください」
彼女たちは顔を紅潮させて、捨て台詞を吐くと身を翻していった。
姿が完全に消えてから、真尋はいたたまれなくて腰を折って座り込む。
ありえない……巧が『溺愛』しているとか『許さない』とか……どこの義妹の話なんだ。
自分で自分の台詞に赤面する。
こういうやり方は好きではないが、巧が利用しろというならそうするのが一番だ。
なにかあれば巧に言う。絶対言う。後始末は全部彼にお任せする。
パチ、パチ、パチとやる気のない拍手に、真尋は振り返った。
「真尋、すごい! 私の出る幕なかったね」
「結愛ーっ」
「ふふ、真尋『溺愛』されているんだー。まあ、そんな感じだよね」
「違う、違う、違うから! あれはハッタリだから!」
「うん、でもそうしておいたほうがいいかも。余計な嫉妬されるのも面倒でしょう? 真尋が義理の妹なのは本当なんだから」
真尋の言葉などさらりと流して、結愛はにっこりほほ笑む。さらさらの黒髪を背中に下ろしている結愛は、清楚可憐な皇華生の見本のようだ。
さっきまでの毒気が抜かれて、真尋は苦笑した。
「お昼食べよう」
「うん!」
その後、噂はうまい具合に広がったようで、それ以降皇華内で真尋がからまれることはなくなった。
* * *
高二 秋――
「好きです。付き合ってください」
巧は告白してきた相手を見下ろした。この制服は巧が通う男子校の近くにある中学校の物だ。
彼女が中学三年生であるならば、巧とは二つ違うだけだが、中学生と高校生ではその差が大きい。
そして女の子の数年は、それこそ随分違うものだ。
同じ高校生の女の子であればまだいいが、中学生はどんなに大人びていても子どもにしか見えない。自分も子どもでありながらそう感じる。
「中学生は相手にしないから」
そう一言だけ言って彼女の横を通り過ぎた。
どこかで隠れて見ていたのか、泣きだした彼女を友人たちが慰めている。
改札を抜けると、先にホームに行っていた友人たちがにやにやしながら巧を待っていた。
「今度は中学生かよー、巧」
彼女たちが巧を捕まえられるのは、高校の正門かこの駅しかない。だからどうしてもこういう場面を誰かに見られることになる。友人たちは巧が呼び止められると「お疲れさん」と言って置いていく。確かに巧は疲れていた。
「いっそ特定の誰かを作れば、告白も減るんじゃない?」
別の友人の提案に巧はだるそうに首を左右に振った。
一度それで「特定の誰か」を作ったことがある。それはそれで結果的に別の意味で面倒になった。以来その手段は封印中だ。
「お、あれハンカチちゃんじゃねえ?」
「あ、本当だ」
彼らが言う「ハンカチちゃん」とは、さきほど告白してきた子と同じ中学の女の子だ。
巧の目の前で派手に転んだ彼女に、巧は手を差し出した。膝小僧をかなりすりむいて痛そうだったからハンカチを渡した。そのハンカチを律儀に洗濯して、アイロンまでかけて返しにきたのがハンカチちゃんだ。
名前を名乗った気もするが巧は覚えていない。
友人たちとホームで電車待ちしている間に、ハンカチを返しにきたから彼らも覚えている。
恥ずかしさに泣きそうになりながら、でも懸命に「ありがとうございました」とハンカチを差し出されて受け取らないわけにもいかない。もとは自分のものだ。
ついでに連絡先を渡すなり、聞くなりしてくるかと思えば、彼女はそれが精いっぱいだったようで、そそくさと立ち去ってしまった。
以降、たまに遠くから視線を感じる。
今も友人たちの示す方向を見れば、彼女はぎょっとしたように慌てて、誰かのうしろに隠れた。
巧に近寄ってくる女の子は積極的な子が多いため、想いを寄せながらも接近してこない彼女は逆に目立つ。
盾にされた女の子のほうは呆れた様子で、ハンカチちゃんを諭し、ぶんぶん首を横に振る彼女を仕方なさげに見たあと、自分たちの視線から隠すように背中を向けた。
「かわいいなあハンカチちゃん、初心って感じ」
「お友達も優しいよなあ」
遠くから見るだけのハンカチちゃんと、それを見守るお友達は、巧たちの間でもほのぼのとした存在になっている。
幼さが抜けていないところや、かわいらしさが妹みたいに思えるらしい。
彼女たちはそんな印象を持たれているなど露ほども気づいていないだろうけれど。
「あのまんますくすく成長してほしいもんだ」
「そうそう」
その頃はまだ、そういう認識でしかなかった。
バレンタインデーに創立祭、学園祭、おおよそのイベント時に彼女たちを見かけていた。巧たちが気づいているなんて思いもしないのか、ある意味無邪気に。
けれど、見かけるたびに印象が変化する。
ハンカチちゃんの髪は伸びて頭のてっぺんで揺ら揺らする。
お友達はぐんっと身長が伸びた。そして二人とも体つきが変わった。
きゃあきゃあ騒ぐでもなく、無遠慮に近づくでもなく、いつまでたってもひっそり見ているだけの彼女たちだったが、学園祭の時にトラブルに巻き込まれた。
そんな二人の存在に他の女の子たちが気づいて、文句を言い始めたのだ。
これには、正直巧も呆れざるを得なかった。
「あなたたちみたいに地味な子が巧さまの周囲をうろつかないで!」とかなんとかだ。
「巧さま」と呼ばれていることに気づいていても、いつまでたってもその呼び名には慣れなかった。彼女たちは自分のなにを見ているのか、身近にいるアイドルかなにかだと思っている様子がひしひしと伝わる。
巧は基本、そういう騒ぎには無関心を貫いていて、その時も裏庭での騒ぎを生徒会室から眺めていた。
「この子はただ彼のことが好きなだけです。気持ちはあなたたちと同じなんです。遠くから見るぐらいは許してもらえませんか?」
女たちの、それも高校生の集団に囲まれて泣きそうになっていたハンカチちゃんをうしろに庇って、頭を下げたのはそのお友達だった。
彼女は声を荒らげるでもなく、ただ正直にハンカチちゃんの気持ちがどれだけ本物か代弁していた。「一目見るだけで元気になるんです」「それだけでいいんです」と当の本人としては恥ずかしいほどの台詞が並べ立てられる。
そのうちなぜか彼女の言い分に共感して、「そうよね、巧さまを好きな気持ちは一緒よね」などと泣き出す女子高生まで出始めた。
事態を見守っていた生徒会連中は、にやにや笑うだけだったが。
凛とした立ち姿で、怯むことなく友人を守って、穏やかに事態を収束させた彼女に、巧は初めて興味を抱いた。
そしてそれから……二人が視界に入るたびに彼女を見てしまう。
くせのあるゆるやかな髪が肩についていくのを。
夏服から伸びるしなやかな手足を。
幼さをどんどん消していくその表情を。
父の再婚相手の家族との顔合わせで、遠くから見知ってきた彼女が目の前に現れた時の巧の驚愕など、彼女は知りもしないだろう。
父が再婚したいと切り出してきた時、巧は正直驚いていた。
湯浅製薬社長といえば華やかに聞こえるかもしれないが、代々続いてきた古い家には柵が多い。
父が社長に就任する前後もいざこざがあって、親族関係のトラブルに巻き込まれた。そのため、繊細だった巧の母は耐えられずに病に倒れた。
母亡きあと、様々な思惑から周囲に再婚を勧められていたのに、父はそれを受けなかった。だからもう再婚はしないのだと思っていたのだ。
その父が、決断した。
「うるさい親族を抑えられるのか」「母の二の舞にならない自信はあるのか」「今度こそ守れるのか」――いろんな言葉が渦巻いたけれど、巧はそれを口にはしなかった。
もうすぐ高校も卒業する。大学入学と同時に一人暮らしでもすれば同居もせずに済む。
なにより、親の人生と自分の人生は違う。
どんな女性を妻にしようと、父親が覚悟を決めた相手ならそれで構わない。その女性に子どもがいて、それが三つ下の女の子だと聞いても自分には関係ない。
そう思っていたのだ。
顔合わせの日までは。
「そう。知らせてくれてありがとう。引き続き注意してくれたら助かる」
真尋が皇華に入学してから数か月――
電話の向こうの人物に、くすくすとした笑い声とともに『了解しました。本当に義理の妹さんがかわいくて仕方がないんですね』と言われる。
巧は特に反論もせず電話を切った。
電話の相手は皇華の三年生だ。生徒会時代に関わりがあったことと、友人の恋人ということで頼みやすかった。
こうして定期的に真尋の高校での様子を知らせてくれる。
真尋が入学した当初の噂は凄まじく、巧が眉をひそめるような内容のものもあった。
しかし真尋はそれについて一切愚痴ることはなかった。
義理の妹になったことは隠しようがない。
だから巧は自分の存在を隠すよりは、公にしたほうが真尋を守りやすいと思ったのだ。
皇華に進学させたのは、やはり正解だ。あそこなら湯浅の名前も巧のコネも通用する。
「かわいくて仕方がない、ね」
確かに巧は、真尋が義理の妹になってからその台詞を便利に使っている。
『真尋は俺が守るから、千遥さんは父さんが守ってよ。俺は母さんの二の舞だけは嫌だ』
そう言った時、父は驚きと困惑を珍しく表情に出していた。言いたいことはいろいろあっただろうに、余計なことは口にせず『じゃあ、真尋ちゃんのことはおまえに任せよう』と言ってくれた。
こうして義理の妹を守ることを父に託された。
だから巧はそれを守っているにすぎない。
大学生になっても一人暮らしを始めないのも、できるだけ送迎をするのも、こうして高校生活を気にかけるのも、見知っていた彼女が『妹』になったからだ。
巧は『妹』になる前から真尋のことを知っていた。
彼女も『兄』になる前から自分のことを知っていた。
けれど互いにその事実を口にしたことはない。
「実際はかわいげなんてないけどな」
直接顔を合わせた時から、真尋は警戒心丸出しで巧に接してきた。
『お兄さんになるなんて嬉しい』とかいう甘ったるい言葉は出てこないだろうとは、なんとなく思っていた。
けれど『以前からお見かけしていました』とか『お話しできて緊張します』ぐらいは言ってくるだろうと思っていたのに、彼女は『あなたの存在を初めて知りました』というような態度だったのだ。
そして、こうして家族になっても、一緒に暮らし始めても、真尋はどこか距離を置いている。
できたばかりの『兄』という存在に、甘えて擦り寄ることも、友人に自慢することもなく、むしろ迷惑そうにしている。
まるで懐かない猫のように――――
だから構いたくなるのか、からかいたくなるのか。
マイナス感情はためらうことなく表情に出してむしろ素直なのに、嫌な目に遭っても、困ったことが起きても、そういうものは一切表に出してこない。
素直なのか素直じゃないのか。
「巧くーん、まだ起きている? お義父さんがケーキを買ってきたからみんなで食べようって」
階段を上がったスペースから真尋が叫んでいる。
彼女はなにを警戒しているのか、もしくは遠慮しているのか、巧の部屋にはできるだけ近づかないようにしている。そんな大声を出さずとも、部屋の前まで来て、ドアをノックして声をかけてくれればいいのに。
それに、ケーキなんか興味ない。
それは父だってわかっている。
家族団らんの時間を設けるための、もしくは部屋にこもりがちな真尋を誘き出すためのただの口実。
巧は返事もせずに部屋を出た。
真尋が「あ、起きていたんだ」とぼそりと呟く。巧の姿を見て、階段を下りようとする彼女を巧は呼び止めた。
「真尋」
「なに?」
「大声で呼ぶな。部屋まで呼びに来い」
「……はい」
返事は素直だが表情は嫌そうだ。それにきっと、これから先も言った通りにはしない。
真尋は、お風呂から上がって部屋でくつろいでいたところに、父が帰ってきて呼ばれたのだろう。
ロングワンピースにカーディガンを羽織った姿は、色気もなければ見苦しくもない格好なのに、巧の心を落ち着かなくさせる。
だから、手を伸ばして髪に触れた。
脇の下まで伸びた、明るい色のふわふわでやわらかな彼女の髪。
「髪、きちんと乾かしたのか?」
「乾かしたよ」
「少し冷たい」
「そう?」
髪を指に絡めて軽くひいた。それはさらりと指の間をくぐりぬけていく。
「真尋、もう少し髪伸ばせ」
「はい?」
(そうでなきゃ、すぐに逃げていく)
「おまえの髪、ふわふわ落ち着かないから伸ばしたほうがいい」
「はい、はい、すみませんね。ぼさぼさで」
「ぼさぼさなんて言ってない」
真尋は少しむっとしたように、先に階段を下りていく。
背中に揺れる髪。無防備な背中。そこはかとなくわかる体のライン。
高校生になったばかりの、まだあどけなさを残す彼女に、抱くべきではない衝動がある。
巧はそれを自覚している。
(家を出るか……)
元々、大学入学と同時に一人暮らしをする予定だった。祖父からも入学祝いと称して、大学に近い場所にマンションの一室をもらった。
税金対策と投資を兼ねて購入した物件で、いつでも生活できるようにすべてが整っているし、実際、巧の住民票はすでに異動してある。
母が結婚しても別居を希望していた真尋を同居に促した責任と、義理の母になった千遥への気遣いとで、しばらくは家族ごっこをしてもいいだろうと考え、独立を延期していたにすぎない。
いや、本音はもっといろいろな彼女を見てみたかったから。
高校の制服姿。
少しおとなしめの私服姿。
ラフな部屋着姿で、一緒に食事をして、リラックスしてテレビを見て、同じ空間で過ごしてみたかった。
「父さんお帰り」
ダイニングにつくと、千遥が紅茶を淹れて、真尋がケーキをお皿に取り分けていた。
お手伝いの頼子は帰ったのだろう。
父も千遥も仕事が不規則だから、こうして家族が集まる機会は実はあまりない。
だからか、真尋の表情がいつもよりもふんわり緩んでいる。
十五歳の少女らしいあどけなさが垣間見えると、巧の心にも温かなものが灯る。
(だから、もう少し……)
義理だとしても、家族という関係の中で少しずつ気を許して安堵しつつある真尋の姿を、もう少しだけ見守っていきたいとも思うのだ。
「巧くんはどのケーキがいいの?」
「おまえは?」
「私? 私はチョコレートかイチゴかなあ」
「だったらイチゴをもらう」
「え? なんで? 普通は他のキャラメルとか抹茶とかから選ぶところでしょう!」
「俺は今イチゴの気分だ。おまえはチョコレートにすれば?」
「うー、そうだけど!」
「真尋ちゃん! 今度は巧にとられなくて済むように、二つずつケーキを買ってくるよ!」
父がまた馬鹿っぽいことを言い出して巧は呆れた。
真尋も「え? そこまでしなくていいよ」と怖気づいている。
千遥や真尋と暮らし始めて知った父の新たな面が、この『馬鹿っぽさ』だ。正直あまりこんな一面は知りたくなかった。
「巧にいじわるされたらすぐに言うんだよ、真尋ちゃん」
たかがケーキ選びのどこが意地悪なんだと思えば、父は意味深な眼差しで巧を一瞥した。
どうやらいろいろ見抜かれているらしいけれど、隠す気もないので無視をする。
(もう少し、あんたにつき合ってやるよ)
父の望んだ家族ごっこ。
それは真尋の心の奥底に隠れていた望みでもある。
巧は椅子に座ると目の前のイチゴのケーキを見た。向かいに座る真尋の前にはチョコレートケーキがある。
「真尋」
巧はケーキの上にのっていたイチゴをへたごとつまむと、真尋の唇に押し付けた。
「イチゴだけはおまえにやるよ」
真尋は驚きに目を見開きつつ、押し付けられたイチゴを受け入れようと、反射的に口をあけた。
へたを掴んだままでいると、ぎりぎりのところを真尋は噛む。指先に彼女のやわらかな唇の感触が伝わった。
「巧……フォークを使いなさい」
父は一瞬声を荒らげかけて、なんとか押しとどめたようだ。
真尋は「いきなりはやめてよっ」ともごもごさせて言うだけだし、千遥は「あらあら」と気にも留めない。
「はい、父さん」
巧は素直にそう言うと、フォークを手にした。
指先に残ったやわらかな感触を記憶に留めながら。
* * *
真尋が高校二年になる時に、巧は家を出た。
大学と一族が経営する会社の中間にあたる場所で一人暮らしを始めたのだ。
聞けば、大学入学と同時に元々そうするつもりだったらしい。親たちの結婚が決まって延期することにしたようだが、真尋にしてみれば、だったら初めからそうすれば良かったのにと思う。
真尋は祖父母の元で生活し、巧は独立する。
そうすれば母たちは二人きりの新婚生活を送れたはずだ。
『顔合わせの日に、同居が当たり前だみたいなことを言わなければ、早く一人暮らしできたんじゃないの?』と、引っ越し当日にぼやいたところ、巧は真尋の髪を一房掴んで軽くひっぱりながらほざいた。
『家族になったんだ。少しぐらい一緒に生活して家族らしく過ごすのも悪くなかっただろう?』と。
なにかとこの男は真尋の髪をいいように扱う。背中の真ん中まで伸びた髪は、すぐに巧のおもちゃにされてしまう。
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