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約束の時間は午後八時だった。軍隊風に言うなら二〇〇〇だったが、どっちにしろ間に合いそうにもない。
レイン・ドレイクはタクシーを拾おうかと、辺りを見回した。だが、金曜の夜、しかも世間では賞与支給後最初の金曜という事で、通りを走るタクシーに空車はいない。車があればな、とチラリと思う。
イルスタリアではまだ、自家用車は高級品で贅沢品だ。駆け出し少尉の給料ではローンすら組ませてもらえない。運転免許は軍で取ったが、自分の車など夢のまた夢である。
ついてない……とレインは息を切らせて足を止めた。今日は遅れないよう、面倒な書類仕事はさっさと終わらせ、定時に退勤するつもりだった……そのつもりだったのだが、終業三十分前に、特殊作戦本部長のミロタ大佐に呼ばれた。何の用かと恐る恐る出頭したら、どこの誰だか知らない軍のお偉方が並んでいて、この間の銀行立てこもり事件について話を聞かせろという。
レインが逆らえるわけもない。やっと解放されて、官舎に戻り、急いで着替えをしてから約束の店に向かっている……が、あと十五分で約束の八時だ。
今頃、まだかまだかとイライラしながら待っているだろう。まいったな、とレインは肩を落とした。どこかで電話を借りて、遅れるけど必ず行く、と店に連絡を入れようかと思ったが、肝心のその店の電話番号がわからないと来ている。
車が切れたところで車道を渡ろうとすると、すうっと一台、黒塗りの高級車が止まった。なんだよ、と表情を曇らせかけたところで、後部座席の窓が開く。そこからのぞいた顔は、上官のリーフェルト少佐だった。
なぜここに、と混乱しながらも条件反射で、レインは敬礼をした。リーフェルトは軽くうなずくと声をかけた。
「さっきから走っているのを見かけましたよ。どうしたんです」
「約束の時間に遅れそうで」
乗りなさい、とリーフェルトは即座に言った。
「送りますよ。……まあ、私の車ではありませんがね」
一瞬迷ったが背に腹は代えられない。レインは恐縮しながら後部座席に乗り込んだ。シートは高級車らしく相対になっており、運転席とは小さな窓のついた仕切りでしっかりと区切られいてる。レインは運転席に背を向ける形で、リーフェルトの斜め向かいに腰をおろした。リーフェルトはいつものように一部の隙も無く制服を身に着けている。様子から言ってどこぞのお偉いさんに呼ばれたのだろう。さすが、少佐ともなると呼ばれる相手の格が違うらしい。
店のある通りの名前を言うと、車は静かに滑り出した。
「あの急ぎ振りからみて、彼女と待ち合わせですか」
リーフェルトがいつものように静かに言った。この人は私生活だろうが作戦行動中だろうが、態度が全く変わらないな、とレインは変なところで感心した。
「そうです……あいつ、遅れたらかんしゃく起こすんで、なるだけ遅れたくなかったんです。助かりました」
ほのかな車内灯に照らされたリーフェルトの表情は、いつもより陰があるように見える。あの形のいい手が脚の上で組まれていた。それを見た瞬間、レインは眩暈のような感覚に襲われた。
急に緊張する。単に上官に対する緊張とは、なにか質の違うものだ。いうならば、今まではただの上官という記号だった存在から、急に生身の人間を感じて戸惑っている。
今まで気にならなかったことが気になる。リーフェルトの私生活のことはほとんど知らない。知っているのは独身であるという事だけだ。
恋人はいるのだろうか。彼の立場ならいてもおかしくはない。その美しい手で、どうやって恋人の身体を愛撫するのだろう。……そんなことを思うと、急に頭の中が熱くなり、妙な感覚が沸き起こる。その手の感触を味わってみたい、という気分だ。
車内は適温のはずなのに、体が熱い。同性の上官にこんな気分になるのは変だ、と自分でも思ったが、そういう理性ではどうにもならないものを感じ、俺は一体どうしたんだ、とレインは自分で自分に問いかけた。
取り繕うようにレインは尋ねた。
「この立派な車、少佐はどちらに行かれたのですか」
「アモンクール銀行の副頭取に呼ばれたのですよ。頭取のご子息です。お父上の件、礼をしたいと」
なるほど、この高級車はアモンクールの送迎車なのだろう。リーフェルトはレインの顔を見て面白げに言った。
「君のことを話されてましたよ」
「え、どういう……」
「君の射撃の腕に副頭取は感心されていてね。自慢の部下だと宣伝しておきましたよ」
そう言ってくすくすと笑うリーフェルトに、レインは赤面した。自慢の部下。言葉以上の意味はないのはわかっているが、今のレインにはどこかくすぐったい。
「君、ウイスキーは好きですか」
リーフェルトは唐突にそんなことを言った。
「ウイスキーですか……安物しか飲んだことありませんが、嫌いではありません」
そう、とリーフェルトは頷いた。
「今度いいものを飲ませてあげられそうですよ。……楽しみにしていてください」
そこで車がついた。レインはリーフェルトの端正な顔を夢見心地で眺めて、はい、とぼんやり頷いた。なにか、魔法にかけられたような気分だった。
「なんて顔してるんです」
リーフェルトが苦笑した。レインは我に返った。
「すみません、なんか、こんな高級な車乗ったことないので、緊張してしまって」
ありがとうございました、とレインは丁寧に礼を言い、車から降りた。車が走り去るのをレインはぼんやりと見送った。楽しみにしていてください、というリーフェルトの柔らかな声が、レインの耳の奥で響き続けていた。
レイン・ドレイクはタクシーを拾おうかと、辺りを見回した。だが、金曜の夜、しかも世間では賞与支給後最初の金曜という事で、通りを走るタクシーに空車はいない。車があればな、とチラリと思う。
イルスタリアではまだ、自家用車は高級品で贅沢品だ。駆け出し少尉の給料ではローンすら組ませてもらえない。運転免許は軍で取ったが、自分の車など夢のまた夢である。
ついてない……とレインは息を切らせて足を止めた。今日は遅れないよう、面倒な書類仕事はさっさと終わらせ、定時に退勤するつもりだった……そのつもりだったのだが、終業三十分前に、特殊作戦本部長のミロタ大佐に呼ばれた。何の用かと恐る恐る出頭したら、どこの誰だか知らない軍のお偉方が並んでいて、この間の銀行立てこもり事件について話を聞かせろという。
レインが逆らえるわけもない。やっと解放されて、官舎に戻り、急いで着替えをしてから約束の店に向かっている……が、あと十五分で約束の八時だ。
今頃、まだかまだかとイライラしながら待っているだろう。まいったな、とレインは肩を落とした。どこかで電話を借りて、遅れるけど必ず行く、と店に連絡を入れようかと思ったが、肝心のその店の電話番号がわからないと来ている。
車が切れたところで車道を渡ろうとすると、すうっと一台、黒塗りの高級車が止まった。なんだよ、と表情を曇らせかけたところで、後部座席の窓が開く。そこからのぞいた顔は、上官のリーフェルト少佐だった。
なぜここに、と混乱しながらも条件反射で、レインは敬礼をした。リーフェルトは軽くうなずくと声をかけた。
「さっきから走っているのを見かけましたよ。どうしたんです」
「約束の時間に遅れそうで」
乗りなさい、とリーフェルトは即座に言った。
「送りますよ。……まあ、私の車ではありませんがね」
一瞬迷ったが背に腹は代えられない。レインは恐縮しながら後部座席に乗り込んだ。シートは高級車らしく相対になっており、運転席とは小さな窓のついた仕切りでしっかりと区切られいてる。レインは運転席に背を向ける形で、リーフェルトの斜め向かいに腰をおろした。リーフェルトはいつものように一部の隙も無く制服を身に着けている。様子から言ってどこぞのお偉いさんに呼ばれたのだろう。さすが、少佐ともなると呼ばれる相手の格が違うらしい。
店のある通りの名前を言うと、車は静かに滑り出した。
「あの急ぎ振りからみて、彼女と待ち合わせですか」
リーフェルトがいつものように静かに言った。この人は私生活だろうが作戦行動中だろうが、態度が全く変わらないな、とレインは変なところで感心した。
「そうです……あいつ、遅れたらかんしゃく起こすんで、なるだけ遅れたくなかったんです。助かりました」
ほのかな車内灯に照らされたリーフェルトの表情は、いつもより陰があるように見える。あの形のいい手が脚の上で組まれていた。それを見た瞬間、レインは眩暈のような感覚に襲われた。
急に緊張する。単に上官に対する緊張とは、なにか質の違うものだ。いうならば、今まではただの上官という記号だった存在から、急に生身の人間を感じて戸惑っている。
今まで気にならなかったことが気になる。リーフェルトの私生活のことはほとんど知らない。知っているのは独身であるという事だけだ。
恋人はいるのだろうか。彼の立場ならいてもおかしくはない。その美しい手で、どうやって恋人の身体を愛撫するのだろう。……そんなことを思うと、急に頭の中が熱くなり、妙な感覚が沸き起こる。その手の感触を味わってみたい、という気分だ。
車内は適温のはずなのに、体が熱い。同性の上官にこんな気分になるのは変だ、と自分でも思ったが、そういう理性ではどうにもならないものを感じ、俺は一体どうしたんだ、とレインは自分で自分に問いかけた。
取り繕うようにレインは尋ねた。
「この立派な車、少佐はどちらに行かれたのですか」
「アモンクール銀行の副頭取に呼ばれたのですよ。頭取のご子息です。お父上の件、礼をしたいと」
なるほど、この高級車はアモンクールの送迎車なのだろう。リーフェルトはレインの顔を見て面白げに言った。
「君のことを話されてましたよ」
「え、どういう……」
「君の射撃の腕に副頭取は感心されていてね。自慢の部下だと宣伝しておきましたよ」
そう言ってくすくすと笑うリーフェルトに、レインは赤面した。自慢の部下。言葉以上の意味はないのはわかっているが、今のレインにはどこかくすぐったい。
「君、ウイスキーは好きですか」
リーフェルトは唐突にそんなことを言った。
「ウイスキーですか……安物しか飲んだことありませんが、嫌いではありません」
そう、とリーフェルトは頷いた。
「今度いいものを飲ませてあげられそうですよ。……楽しみにしていてください」
そこで車がついた。レインはリーフェルトの端正な顔を夢見心地で眺めて、はい、とぼんやり頷いた。なにか、魔法にかけられたような気分だった。
「なんて顔してるんです」
リーフェルトが苦笑した。レインは我に返った。
「すみません、なんか、こんな高級な車乗ったことないので、緊張してしまって」
ありがとうございました、とレインは丁寧に礼を言い、車から降りた。車が走り去るのをレインはぼんやりと見送った。楽しみにしていてください、というリーフェルトの柔らかな声が、レインの耳の奥で響き続けていた。
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