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アヤメ
5.外出
しおりを挟む壁の向こうから、低い声がかすかに聞こえてくる。
数人が話をしているようだ。
アヤメは、頬についた涙を手の甲で拭い、立ち上がった。
夫の事を信じたいと思っている。
あの夜の事を、エリカの事を忘れてしまった夫。優しくて、アヤメの事をいつも気遣ってくれる夫。彼と二人で支え合って、ずっと共に生きていく。
そう思っていたけれど、
そうしようと心に決めたけれど、
今は、彼と離れたい。
ほんの少しの間、ううん私の気持ちが落ち着くまで、
カエデから、この悪夢の現場から離れたい。
アヤメは、部屋のウォークインクローゼットからトレンチコートを取り出して、スマホと鍵、財布をポケットに入れて寝室のドアから出た。
「それでは、私達はこれで失礼します。我々が到着した時には、その不審な女性はいないみたいでした。9か月前に通報があり連行された美澤エリカと風貌がよく似ています。もしかしたら美澤エリカ本人かもしれません。まさか通報者本人である貴方が覚えてないとは」
「9か月前…交通事故に会い、事故前後の記憶を失いました。もしかしたらその時かもしれません」
「それは、大変でしたね。当時の調書には見知らぬ女性と記載されていました。何度もこのような事があるのでは、何かしら事情がありそうですが。また、なにか気づかれた事があれば教えてください。」
「ありがとうございます」
玄関から、カエデと警察官の会話が聞こえてきた。
やっぱり、義姉エリカだった。9か月前も彼女がここにいた。でも通報?カエデがしたのだろうか?あの時、寝室で夫はエリカを自ら抱きしめているように見えた。でも、違っていたかもしれない?分からない。
バタン。ガチャウイーンガチャガチャ。
ドアが閉まり、自動施錠鍵が閉められた音が聞こえてきた。
テーブルには、冷めてしまったパスタとローストビーフ、サラダが置かれている。
気分が悪くて、とてもじゃないが食べられそうにない。
部屋中に甘酸っぱい嫌な匂いが充満しているように感じる。窓を開けているにもかかわらず。
カエデがリビングに戻って来て、アヤメを見て言った。
「アヤメ?まだ顔色が悪いみたいだ。」
カエデがそっとアヤメの両肩に手を回してこようとする。
アヤメは、彼の手を咄嗟に振り払った。
「…少し出かけてくるわ。コンビニで飲み物を買ってくる」
アヤメは、彼の足元を見ながら早口で伝え、玄関へ向かった。
「アヤメ。待って。俺も…」
後ろからカエデの声がする。
アヤメは、靴を履きながら大声を出し伝えた。
「ついてこないで!!お願い。少しだけ一人になりたいの」
「ア・・・・」
玄関ドアを開けて、外へ出て自動施錠ボタンを押した。
ピピ、ウィーンガシャン。
ドアのランプが点灯し緑に変わり、鍵が閉まる。
分厚いドアに阻まれて、カエデの存在も、声も聞こえなくなった。
アヤメは、エレベーターに乗り、1階ボタンを押した。
多分彼は気が付いていない。
アヤメが泣いていた事も、彼に対する複雑で留める事が出来ない強い想いも、あの女の事さえも。
彼に知られたくない。だけど、彼に分かって欲しい。
彼を問い詰めたい。でも、伝える事さえできない。
それが、ただただ辛くて寂しかった。
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