旦那様と僕~それから~

三冬月マヨ

文字の大きさ
5 / 85
それから

土下座とチョコレート

しおりを挟む
 朝、目が覚めたら雪緒ゆきおが居なかった。

 昨日、風呂場で雪緒が望む様に触れたのは良いのだが、信じ難い事に雪緒は自分でそれをした事が無く、意識がある状態でのそれに非常に戸惑い、そして泣き出した。知識としては相楽さがらの指南書のお蔭でありはしたが、実際に経験するとやはり違うのだろう。悪い物でも、悪い事でも、汚い物でも、汚い事でも無いと幾度も言い聞かせ、宥めた。同じ布団に入って、その細い身体を抱き締め、背中や頭を撫でながら。そうこうしている内に、雪緒は眠りに付き、俺も休んだのだが。

「…何故、居ない…」

 のそりと身体を起こしながら口を開けば、その声音は見事に不満が滲んでいた。
 隣に居た筈の雪緒の姿が無かった。
 先に起きて朝餉の支度かと、時計を見れば六時を過ぎた処で、俺が仕事の時は雪緒は何時もこの時間に起こしに来るのだが。
 頭を掻きながら立ち上がり、茶の間へと向かった。

『おはようございます、旦那様。今日は、朝からやらなければいけない事があるのを失念していました。昨夜の内にお伝え出来ずに申し訳ありません。朝の挨拶も無く、先に行く失礼を…』

「…お許し下さい…? 朝餉の用意は出来て…弁当は冷蔵庫…」

 何だ、これは?

 茶の間へ来れば、卓袱台の上には朝餉の用意がされてあり、飯と味噌汁は自分でよそうだけとなっていて、そんな書き置きが置いてあった。

「…逃げられた…のか…?」

 いや…逃げるって…。
 ……………まあ…とにかく、だ。
 仕事が終わったら、ゆっくりと話そう。幸い、明日は俺も休みだ。

 ◇

「うおっ!? ちょ、高梨っ、何か殺気が籠もってないか!?」

「気のせいだ。怪我をしたくなければ、真面目に相手をしろ」

 訓練場に天野の情け無い声が響いた。
 今日の巡回は別の部隊が行って居るから、俺達は訓練に勤しんでいる。
 木刀で打ち合ったり、走り込みをしたり、皆、好きに動いている。中には俺と天野がやり合う姿を見ている者もいる。
 …ぼさっと見ている奴等は、後で特別に面倒を見てやろう。

「ひえっ! ちょ、ま、昨日の事は悪かった! ゆかりんと話すべきだった! 反省した! だから、もう良いだろ!?」

 焦りながら片手を出して俺を制する天野に、俺は冷たく感情の籠らない声で言い放つ。

「そうか。だが、諦めろ。常に生死を意識しろ。訓練だと甘えるな。その油断が命取りになる」

「ゆかりんの鬼ーっ!!」

「高梨だ!」

 勤務中は高梨と呼べと、幾度言えば解るんだ?
 泣き真似をしながら逃げる天野を追い、本気で突きを繰り出せば、漸くやる気を出してくれた様だ。
 こいつは何時もそうだ。
 のらりくらりと、飄々と躱して行く。
 その時が来るまで本気を出す事は無い。
 それが無ければ、こいつは何時だって上に行けるのに。

 ふと視線を巡らせれば、せいと相葉が手合わせをしているのが見えた。
 その動きに、軽く口角を上げる。
 俺と天野の動きを再現している様だ。

「隙ありっ!!」

 それを逃さず、天野が俺の胴を薙ぎ払おうとしてきたが、軽く後ろへ飛び退って躱す。

「甘いな。ひよっこ共が俺らの動きを盗んでる。盗られない動きを見せてやれ」

「うげぇ…」

 軽く顎をしゃくって二人を示せば、天野は眉を下げ、口を曲げて情けない声を出したが、それは直ぐに口の端だけを僅かに上げる不敵な笑みに変わった。

「ふうん。…なら、基本に則った動きでもしてみせるかな」

「…酷い奴だな」

 手の内は見せたくないと?

「ゆかりんに言われたくないっ!!」

「高梨だっ!!」

 お前がそう呼ぶから、星が偶に俺の事を『ゆかりんたいちょ』って呼んでいるんだぞ!
 更には、あの親父まで『ゆかりんたいちょ』と呼び始めた。
 本当にあの親子どうしてくれようか。

 その後、星と相葉に散々文句を言われた。
 基礎的な動きの合間に変化を入れたりするなとか、あの動きはどうやったら出来るのかとか、本当に人間なのかとか、因みに天野は俺を囮にさっさと逃げ出していた。

 家へと帰る前に、店に寄りチョコレートを買う。
 雪緒は俺の酒等の嗜好品は買う癖に、自分の嗜好品は買わない。
 毎月生活費を渡す時に、お前の好きな物を買えと言っているのにだ。
 だが、それが良いとも思う。
 俺がチョコレートを渡せば、雪緒は何時も嬉しそうに笑う。
 そんなに食べたかったのならば、自分で幾らでも買えるだろうに。
 だが、その笑顔を見たいと思う自分も確かに居るのだ。
 時間の流れと共に、あの青い箱に入ったチョコレートも様変わりして行った。
 もう、あの頃と同じ物は存在しない。
 そして、雪緒が持つあの箱と同じ物も存在しない。
 今もまだあの箱は、あの場所にある。
 宝物だと、小さな身体で壊れない様にと、そっと包み込む様にその箱を抱き締めていた、あの日の雪緒の姿は今でも鮮明に思い出せる。

 そんな事を考えながら帰宅し、玄関を開ければ、そこで土下座している雪緒の姿が目に入った。眩暈がした。何時からそうして居たのか気になる処ではあるが、今朝、何も言わずに家を出て行った事を気にしているのならば、その必要は無いと強く言った。雪緒の腕を掴み立ち上がらせて、恥ずかしいと云うか、いたたまれなくなったのだろうと問えば、雪緒は顔を赤くして頷いた。

「…あの様な事をお願いしていただなんて露知らず…無知な自分を殴りたいです…」

「…いや…まあ…役得と云うか…」

 それ程までに、俺に触れて欲しかったのかと思えば、また愛しさも溢れて来る訳で。

「…こ…声も…あんな…」

「…いや…まあ…聞きたかった…」

 …物とは違ったが…。

「ふええ?」

 情けない声を上げ、軽く俺を見上げて来る雪緒の頭の上に、俺は苦笑して買って来たチョコレートの箱を乗せた。

「…旦那様…」

 それに両手を伸ばした雪緒の頬が徐々に緩んで行く。

「…焦る事は無いんだ…ゆっくりで良い…」

 そうだ。ゆっくりと慣れて行けば良い。
 雪緒と同じ早さで歩んで行けば良い。

「…は、い…?」

「まあ、今日は何時もよりも汗を掻いた。風呂は入れるか?」

 チョコレートを胸に抱き締めた雪緒の頭に手を置いて言えば、直ぐに入れるとの返事だった。
 そうして風呂へ入り、その後で飯を食いながら今日一日の話をする。
 雪緒も雪緒で、今日一日は色々と大変だったらしい。その事に落ち込んでいたが、チョコレートを食べれば元気になると笑った。

 後日。星から葉山の伝言を聞いて、次の休みの日には雪緒を迎えに行こうと、ついでに葉山を絞めようと思ったのは、雪緒には内緒だ。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】

彩華
BL
 俺の名前は水野圭。年は25。 自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで) だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。 凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!  凄い! 店員もイケメン! と、実は穴場? な店を見つけたわけで。 (今度からこの店で弁当を買おう) 浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……? 「胃袋掴みたいなぁ」 その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。 ****** そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています お気軽にコメント頂けると嬉しいです ■表紙お借りしました

捨てられた生贄オメガ、魔王城で極上の『巣作り』始めます!~不眠症の魔王様、私のクッションで爆睡して溺愛モードに突入~

水凪しおん
BL
「役立たずのオメガ」として冷遇され、血も涙もない魔王への生贄として捨てられたリノ。 死を覚悟して連れてこられた魔王城は、寒くて硬くて、居住性最悪のブラック環境だった!? 「こんなところで寝られるか!」 極限状態で発動したオメガ特有の『巣作り本能』と、神業レベルの裁縫スキルが火を噴く! ゴミ同然の布切れをフカフカのクッションに、冷たい石床を極上のラグマットにリフォーム。 すると、不眠症で常にイライラしていた魔王ザルドリスが、リノの作った「巣」のあまりの快適さに陥落してしまい……? 「……貴様、私を堕落させる気か」 (※いいえ、ただ快適に寝たいだけです) 殺されるどころか、魔王様に気に入られ、気付けば城中がリノの虜に。 捨てられた生贄オメガが、裁縫一つで魔王城を「世界一のマイホーム」に変える、ほのぼの逆転溺愛ファンタジー!

完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

【完結】※セーブポイントに入って一汁三菜の夕飯を頂いた勇者くんは体力が全回復します。

きのこいもむし
BL
ある日突然セーブポイントになってしまった自宅のクローゼットからダンジョン攻略中の勇者くんが出てきたので、一汁三菜の夕飯を作って一緒に食べようねみたいなお料理BLです。 自炊に目覚めた独身フリーターのアラサー男子(27)が、セーブポイントの中に入ると体力が全回復するタイプの勇者くん(19)を餌付けしてそれを肴に旨い酒を飲むだけの逆異世界転移もの。 食いしん坊わんこのローグライク系勇者×料理好きのセーブポイント系平凡受けの超ほんわかした感じの話です。

公爵子息だったけど勘違いが恥ずかしいので逃走します

市之川めい
BL
魔王を倒した英雄によって建国されたグレンロシェ王国。その後は現在までに二人、王家の血を引く者から英雄が現れている。 四大公爵家嫡男、容姿端麗、成績優秀と全てにおいて恵まれているジルベールは、いつか自分も英雄になると思い、周りには貴公子然とした態度で接しながらも裏では使用人の息子、レオンに対して傲慢に振る舞い性的な関係まで強要していた。 だが、魔王の襲来時に平民であるはずのレオンが英雄になった。 自分とレオンの出生の秘密を知ったジルベールは恥ずかしくなって逃走することにしたが、レオンが迎えに来て……。 ※性描写あり。他サイトにも掲載しています。

【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】

紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。 相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。 超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。 失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。 彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。 ※番外編を公開しました(2024.10.21) 生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。 ※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。

禁書庫の管理人は次期宰相様のお気に入り

結衣可
BL
オルフェリス王国の王立図書館で、禁書庫を預かる司書カミル・ローレンは、過去の傷を抱え、静かな孤独の中で生きていた。 そこへ次期宰相と目される若き貴族、セドリック・ヴァレンティスが訪れ、知識を求める名目で彼のもとに通い始める。 冷静で無表情なカミルに興味を惹かれたセドリックは、やがて彼の心の奥にある痛みに気づいていく。 愛されることへの恐れに縛られていたカミルは、彼の真っ直ぐな想いに少しずつ心を開き、初めて“痛みではない愛”を知る。 禁書庫という静寂の中で、カミルの孤独を、過去を癒し、共に歩む未来を誓う。

僕の目があなたを遠ざけてしまった

紫野楓
BL
 受験に失敗して「一番バカの一高校」に入学した佐藤二葉。  人と目が合わせられず、元来病弱で体調は気持ちに振り回されがち。自分に後ろめたさを感じていて、人付き合いを避けるために前髪で目を覆って過ごしていた。医者になるのが夢で、熱心に勉強しているせいで周囲から「ガリ勉メデューサ」とからかわれ、いじめられている。  しかし、別クラスの同級生の北見耀士に「勉強を教えてほしい」と懇願される。彼は高校球児で、期末考査の成績次第で部活動停止になるという。  二葉は耀士の甲子園に行きたいという熱い夢を知って……? ______ BOOTHにて同人誌を頒布しています。(下記) https://shinokaede.booth.pm/items/7444815 その後の短編を収録しています。

処理中です...