旦那様と僕~それから~

三冬月マヨ

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それから

既視感

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 コトコトと静かに、コンロの上にあります土鍋の蓋が揺れています。
 その傍らで、僕は長葱を白髪に刻んでいました。トントンと云う音が台所に響きます。

「…腹減った…」

 そんな音を掻き消すかの様な、低い声が台所に響きました。

「おはようございます、旦那様」

 振り返りましたら、寝起きのぼさぼさな髪のままの旦那様が、台所と茶の間を遮ります戸に手を掛けて、佇んでいました。

「…飯…何でも良い。早く腹に入れたい」

 昨日、高熱を出して寝込んだ旦那様でしたが、お注射のおかげなのでしょうか? 顔色は、もうすっかり元通りです。瞼は重そうに見えますが。眠り過ぎた時と同じ様に見えますね。

「はい。間もなく出来上がりますので、その間に体温を測って貰っても宜しいでしょうか?」

「…解った…体温計取って来る…」

 声は少し鼻声でしょうか? 少々足取りが重そうに見えますが、それは昨日一日寝ていたからでしょう。
 去り行く旦那様の背中を見ながら、僕はそう思いました。
 コンロの火を止めまして、土鍋の蓋を開けて白髪葱をパラパラと落とします。
 あのご様子ですと、お粥だけでは物足りなさそうですね。消化の良さそうな物…何がありましたでしょうか? また、林檎をすりおろしましょうか? ああ、いえ、具沢山のお味噌汁を作りましょう。
 冷蔵庫を開けまして、じゃがいも、人参、大根、豚肉、蒟蒻、牛蒡も取り出しまして、と。
 朝はお肉と蒟蒻、牛蒡はよそわないようにして、そちらはお昼に食べて貰いましょうね。後は、あ、冷奴もご用意しましょうか。ああ、お昼の為におにぎりも握って置きましょう。僕の分しか炊きませんでしたから、ご飯を追加で炊きませんとなりませんね。
 普段から鍛えているせいなのでしょうか? 恐ろしい程の回復力です。今日もまだ、お布団から起き上がれないかと思いましたのに。

 そうして、卓袱台の上にお味噌汁以外の品が並んだ頃に、旦那様が体温計を持って戻って来ました。

「ん」

 と、差し出された体温計を受け取り、確認しましたら三十六度四分の位置に水銀がありました。旦那様の平熱ですね。

「ふわあ…。凄いです。お注射のお蔭なのでしょうか。ですが、風邪は治り掛けが肝心ですから、朝餉後はお薬を飲んで、大人しくお布団で寝て下さいね」

「いや、仕事へ行く」

 ですが、旦那様ははっきりとそう口にしたのでした。

「…旦那様? 僕の言葉を聞いてらっしゃらなかったのですか? 風邪は治り掛けが肝心なのです。特に、夏風邪は質が悪い物なのです。僕が熱を出して寝込んだ時に、旦那様もそう言いましたよね? お忘れですか? 熱が下がって台所に立ちました僕を無理矢理にそこから引き剥がしましたよね? 最後には包丁で僕を脅しましたよね? あの後熱を出しましたのは、今思いますと」

「解った、解った! 今日も休む! 電話を入れる!」

 つらつらと当時の事を思い出しながら言いましたら、旦那様は観念した様に立ち上がり、電話の傍まで歩いて行きました。
 ふう、と溜め息を吐きます僕の耳に、ジーコジーコとダイヤルを回す音が届きます。
 先ずは天野様でしょうか? あ、お味噌汁を見て来ましょう。じゃがいもは柔らかくなりましたでしょうか?

 ◇

 そうして、今日一日大人しくしている事、万が一具合が悪くなりましたら、みくちゃん様か相楽様にご連絡をする事と、口を酸っぱくして言って来たのですが。
 何故、校門の処に見慣れた背中が見えるのでしょうか?

「…旦那様…?」

 思わず低い声が出てしまったのも、致し方ありません。
 そんな僕の声に、旦那様はびくりと肩を震わせて振り返って来ました。

「あ、ああ。仕事お疲れ。たまには、迎えにだな…」

「お気持ちは嬉しいのですが、それはお元気な時にお願い致します。夕方は熱が上がりやすいのですよ? ぶり返したらどうするのですか? 明日もお休みしたいのですか?」

「い、いや…その、は、葉山はどうした?」

 何故に、倫太郎りんたろう様のお名前が?

「倫太郎様は、今日はまだご用事がありますので、残っていらっしゃいます」

 その様に忙しなく目を泳がせて、どの様なご用事なのでしょうか?

「…っ…! えにし様っ!?」

 その時でした。僕達の間近から可愛らしい声が聞こえたのは。
 その姿を見た僕は、旦那様に向けていましたきつい視線を緩めました。

「あ、安西さん。葉山先生から御本は返して戴けましたか?」

 はい。倫太郎様は、授業中に安西さんから没収した御本を返す為に、残っていたのでした。その安西さんがこうしていらっしゃると云う事は、倫太郎様も間もなく来られると云う事ですね。

「えっ、へあ!? な、何で高梨先生がそれを!? はあっ、まさか内容…っ…!?」

「はい。純文学とお聞きしています。素晴らしいご趣味だと僕は思いますよ?」

 何故だか慌てふためきます安西さんに、僕は落ち着かせる様に微笑みながら言いました。
 そうしましたら、何故か隣に立ちます旦那様から、冷気の様な物が漂って来ました。
 うん? 何故でしょう?

「…帰るぞ」

「は? え? 倫太郎様は宜しいのですか?」

 ぐいっと手を引かれて、僕はたたらを踏みます。

「…お前の言う通り、元気な時に絞める」

「はい!?」

 絞めるって、何のお話でしょうか? 僕が知らない間に、お二人に何かあったのでしょうか?

「あ、安西さん、気を付けて帰って下さいね!」

 旦那様に手を引かれながら、僕は振り返り安西さんにそう声を掛けましたら、何故か安西さんは両手で口を押さえて、身体をくの字にして震えていました。
 おや? そのお姿は何時か、何処かで見た覚えがありますね?

「…ったく、油断も隙もない…」

 ぶつぶつと僕の手を引きながら、旦那様が平素よりも低い声で何かを言っていますが。ですが、これ程のお力があるのならば、風邪の心配はもう、必要無さそうですね。良かったです。
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