旦那様と僕~それから~

三冬月マヨ

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それからの絆

【結】ぽかぽかの絆

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 繋いだ手を離せずに、そのままホテルから帰宅してしまった。道中ですれ違う人々の視線は何故か生温く、微笑ましい物を見るかの様に感じられた。居た堪れないのか、雪緒ゆきおが手を離そうとしたから、逃してなるものかと、がっしりと掴んだのがいけなかったのだろう。その後は雪緒も逃げる様な素振りは見せなかったから、手を離しても問題は無いかと思ったが、思い切り握り締めた手前、離すのが躊躇われてしまい、ずるずるとそのまま帰路に着いた。
 そして、ご近所さんの何とも言えない生温い視線に、俺はもう限界だった。玄関の鍵を開けると言う、雪緒の言葉にこれ幸いとばかりにじっとりと汗を掻いた手を離し、玄関の戸を開けるなり俺はさっさと草履を脱いで上がり、茶の間へと一直線。座布団を二つに折り、そこに頭を乗せた。

 …雪緒の視線が痛い…。

 いや、何と言えば良いのか、俺には解らない。
 何故、嫌悪と云った視線が無かったのだ。
 いや、無ければ無いで、それに越した事は無いのだが。相楽さがらやあの親父の云う様に、本当に世界は変わりつつあると云う事なのだろうか。
 だが、あの様にせいが言う『ぽかぽか』な視線を向けられてしまうと、どう反応して良いのか解らないのだ。

「…旦那様…、あの、夕餉の準備が整いましたので、そろそろ起きて下さいませんか?」

 ただうだうだと壁を睨み付けている俺とは違い、雪緒は何時もと変わりなく動いている様に見える。帰宅早々横になった俺に茶を出してから、布団を取り込み、風呂の用意をし、飯の支度をした。

「…ああ…」

 雪緒は何とも思っていないのだろうか?
 身体を起こして、食卓を整えて行く雪緒の様子を見るが、何時も通りだ。
 俺が気にしすぎているのだろうか?

『気持ちは、心は自由であるべきだ。世間の声がそんなに大事な物かね? 自分達の気持ちより? それは不幸でしか無いと思うがね?』

「…ぐ…」

 不意に何時かの親父の言葉が蘇って、箸が止まる。

「旦那様? 何処か味がおかしかったでしょうか?」

「あ、ああ、いや…。…美味いぞ…」

 軽く首を傾げて聞いて来る雪緒に、問題無いと空になった茶碗を差し出せば笑顔で受け取り、櫃から新たに飯をよそってくれた。
 雪緒は世間から何と言われ様と、何と見られ様と、それが自分の信じた物ならば揺らぐ事は無いのだろうな。
 一見弱そうな外見とは違い、その中身は芯があって強い。
 それに引き替え俺はどうだ?
 他人からの視線を気にして、雪緒に嫌な思いをさせてしまった筈だ。
 情けない。
 そのくせ、指輪を贈って雪緒を縛る様な真似をして。
 これでは、相楽がかつて言った様に、三下り半を突き付けられる日が来るのではないだろうか…。
 変わらなければと、思うのだが…。
 悶々としている間に気が付けば夕餉を終え、雪緒に勧められるがままに風呂に入り、晩酌の準備が整った卓袱台の様子に思わず目を細めれば。

「…あの…お風呂から上がりましたら、お話ししたい事がありますので…あまりお呑みにならないで下さいね」

「ああ…?」

 そんな風に改めて言う雪緒に思わず目を瞬かせながら、俺は座布団の上に腰を下ろした。

 …いや…何だって…?

 流れる様に徳利を手に取り、盃に注いだ処で俺は固まった。

「…話…? 呑み過ぎるな…と…?」

 それは、俺が酔っていたら出来ない話なのか?
 そう云えば星と何を話していた?
 俺の事で、色々な不満をぶちまけていたとか?
 いや、星から勤務中の俺の嫌な処を聞かされていたとか?
 いや、二人の様子はそんな会話をしている様には見えなかったが。

「…まさか…」

 帰りの道中から、帰宅後の俺の不貞腐れた態度に嫌気がさした…と、そう言うのか…?
 それで三下り半を…。

「いや! 雪緒がそれだけで…」

 …いや…何を仕出かすのか解らないのも雪緒だ。
 俺が雪緒を引き留めたのに、そのくせあんな態度を取ったから…。

「…ぐ…」

 …拙い…。…また胃が痛くなって来た…。

 呑むと云う気分では無くなり、盃と徳利を手に台所へと向かう。
 盃に注いだ酒を徳利に戻し、冷蔵庫へと仕舞う。これは後で料理にでも使って貰おう…。
 そしてコップに水を注いで茶の間へと戻る。
 胃薬を飲んでから冷奴に手を付けた処で、どうにも落ち着かず廊下へと出て、縁側へと続く戸を開ければひやりとした空気が流れて来た。
 頭を冷やそう。とにかく落ち着け。ああ、つまみを持って来よう。丸っきりの手付かずでは雪緒が気にしてしまう。折角、俺の為に用意してくれたのだ。
 落ち着け、考えろ。雪緒の様子はどうだった? 不貞腐れた俺をどう見ていた? 若干の呆れはあったと思うが、それは何時もの事だ…と思う。いや、何時も呆れさせているのか、俺は? いやいや、俺を呼ぶ声も何時もと変わらず"旦那様"と…。

「…いや…」

 …俺は…何時まで"旦那様"なんだ…?

 今更ながら、雪緒に名前で呼ばれた事が無い事に気付いた。

「…嘘だろう…?」

 今更過ぎるし、今、それに気付いたのもどうかと思うが。
 いや、これが答えなのでは無いのか…?
 四年と言いながら、六年も待たせてしまったのだ。
 雪緒は、緒は結ぶ物だと何度も結び直して欲しいと言ったが…言ってくれたのだが…だが…それは俺が繋ぎ止めてしまった結果で、実はもう結ばれたくは無いと…そう思っているのでは…? だから、俺の名を呼ばないのでは…?
 いや、そんな筈は無い。
 そんな筈は無いと思うのだが…雪緒の事だから、俺に恩義があるから離れられないと思っている可能性も大いにある訳で…。
 今日の俺の行動に、これ幸いとばかりに…いやいや、そんな事は無い!
 だが、突飛な行動をするのも雪緒なのだ。他人の考えの遥か斜め上を行くのが雪緒なのだ。
 夢精をした、あの日。雪緒はいきなり出て行こうとしたではないか。
 いざとなれば、雪緒は俺を切り捨てる事が出来るのだ。
 雪緒はとにかく、何処まで行っても雪緒なのだ。
 油断ならない相手なのだ。
 冷静になろうと、落ち着こうとしても思考は定まらずに。
 気が付けば雪緒は風呂から上がり、風にあたる俺を窘めて来た。
 俺の心配をする雪緒なのに、思わずむすっとしてしまい、慌てて雪緒の未だ濡れた髪に手を伸ばせば、雪緒は頬を緩めて『お茶を煎れますね』と、俺の手の中から抜けて行ってしまった。
 それが寂しく切なく苦しくて。

「…それで、話とは何だ?」

 さっさと引導を渡してくれと言わんばかりに、俺から話を切り出せば。

「…はい…。あの…僕の気のせいなのかも知れませんが…」

 雪緒は緩く温かく目を細め、軽く口角を上げて、湯呑みをそっと真綿で包む様に両手で掴んだ。

「気のせいでも構わん。気になる事があるのなら、何でも良い話せ」

 ぐ…何だ…その慈愛に満ちた笑みは…。…あれか…? これから止めを刺す相手に向ける最後の慈悲なのか? 真綿で首を絞める様に、じりじりと追い詰められている気がするのは気のせいか?
 いや、未だやり直せる筈だ。それを聞き出して二人で考えるんだ。
 身体が芯から冷えた気がして、縋る様に熱を求めて湯呑みを包み込むが、この程度ではとてもでは無いが温まる気がしない。

「…その…旦那様が…僕の鼻を摘まんで下さる時間が短くなった様な気がしまして…」

 しかし、その慈愛に満ちた笑みから零れた言葉は、俺の想像とは全く違った物だった。

「……………は…………?」

 …何だって…?
 言葉の意味が解らずに、俺は幾度も瞬きを繰り返した。
 そんな俺を見た雪緒が、みるみる頬を赤らめて慌て出す。
 いや、落ち着け。
 お前が落ち着かないと、俺が考える事が出来ないだろうが。
 とにかく、こいつは今、何と言った?
 鼻を摘まむ…とにかく、雪緒に触れる時間が短くなった…そう言ったのか…?
 しかし、俺の思考が追い付く前に雪緒は更に爆弾を投げて寄越した。

「…おち…ぺにすにも触れて戴けましたのに、一度だけでは無く幾度も触れられていますのに、それで満足でした筈ですのに、もっと深く触れて欲しいだなんっ…ふが…っ…!?」

 何処の誰の顔が慈愛に満ちているだと?
 慈愛に満ちた奴がこんな事を口にする物か。
 真綿で包んだ物を投げて寄越すな。
 俺は堪らず手を伸ばして雪緒の鼻を摘まんだ。

「良いから、落ち着け!」

 何だこれは!?
 この遣り取りはまるで、指輪を渡した時と同じ流れではないか!
 あの時と同じてつは踏まんぞ!!

「………お前の言う通り…確かに、鼻を摘まんだり…お前に触る時間が短くなったと思う…」

 とにかく、落ち着くんだ。
 ゆっくりと、焦らずに話すんだ。
 雪緒のペースに飲まれるな。
 飲まれたら負けだ!
 だが、そこはやはり雪緒で。

「…気にすふな…と、仰って下さひまひたが…やはり…僕の声がおかひかったから…もう聞きたくはなひと云う事なのれしょうか…? ひょれれふにょに…触れて下ひゃりゅにょは、僕が我儘らかられふか…?」

 何故、それを今言うのかっ!!
 いや、今だからだ。
 雪緒にそのつもりは無いのだろうが、こうなれば俺が普段は口にしない事を口にすると、雪緒は知っているのだ。

「そんな事は無い! あの日、風呂場では遠い目をしたし、夢にも見るが今は問題ない! 何時だったか言ったと思うが、お前を無理矢理手籠めにしそうで怖いのだ! お前に触ってるとそれが強くなって、嫌がるお前に無体を強いる気がして、お前に嫌われるのではないかと…っ…!!」

 口にして自分でも眩暈がしたが。
 あの情けない声が忘れられなくて、夢に見てしまうのだ。
 それ程に強烈だったから、夢に見てしまうのだと思うのだが。
 あれからも度々、雪緒に触れていれば、その声にも慣れてしまうと云う物だ。
 そして、慣れてしまえば…愚息が反応してしまうのも道理と云う物だ。
 いや、確かに、その思惑はあったのだが。
 だが、雪緒には未だ早いと思ったのだ。
 ただ、俺に触れられる事に喜びを見出している雪緒には。
 身体を繋げる事で得られる快楽を、俺は知って居る。
 ただ、浅ましく欲を貪る事を俺は知って居る。
 そんな、ただの肉欲を、この無垢な雪緒に教えても良いのかと思うのだ。
 そう思いながらも、その身体に触れる事は止められず。
 羞恥の余りに泣いてしまった雪緒をまた抱き締めたいと。そんな雪緒を滅茶苦茶にしてしまいたいと、そう思ってしまうのだ。
 触れる時間が長くなればなる程に、その欲が膨らんで来て、抑える事が辛くなって来たのも事実だ。
 しかし、触れたい気持ちは抑えられずに、となれば、自然と触れる時間を短くするしかなくて。
 雪緒はそれに気付いていたと。
 そして、それを不満に思っていたと言う事か…。
 それに気付かずに、雪緒の気持ちを疑う己の何と情けない事か…。
 自分の不甲斐無さに打ちひしがれる俺の手を取り、雪緒が言う。
 ぽつりぽつりと、それでも強く自分の想いを伝えて来る。
 その事に安堵を覚え、胸が温かくなるが。
 だが。

「…俺からも…一つ良いか…?」

 だが、それでも雪緒は俺を"旦那様"と呼ぶ。それは何故だ?

「…何時まで"旦那様"なんだ…?」

「…………………………ふえ……………?」

 俺がそう言えば、雪緒は鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をした。
 いや、何だ、その顔は?
 俺はそんなに変な事を言ったか?
 問い詰めれば、雪緒は顔を赤くして言ってくれたのだ。

「…か、勝手ではありますが、め、夫婦の意味で僕は"旦那様"とお呼びしていましたっ!!」

 …ああ…流石は雪緒だ…。
 そんなの誰が解ると云うんだ…。
 みるみると全身から力が抜けて行く。
 だが、それとは反対に、冷えていた身体が熱を求めて燻り始めて行くのが解った。
 本当に、もう、どうしようもない。
 どう足掻いても、俺は雪緒に勝てる気がしない。
 だが、それでも。
 せめてもの足掻きとして。
 未だ冷たさの残るこの身体を温めさせて欲しい。
 この燻る熱を持て余す事無く、弾けさせても良いと云うのなら。
 お前もそれを望むと云うのなら。

「…今夜は共に…」

 この言葉の意味を理解してくれると云うのなら…――――――――。

 ◇

 その細い胎内に欲望の塊を挿れても、あの時と同じく雪緒の声は変わらずに、蛙が潰れた様な声を出していたが…流石に、夢と現実で鍛えられただけあって、俺は仙人にならずに済んだ…。…いや…こんな時に浪漫の欠片も無いが…雪緒が相手なのだから仕方が無い…。随分と情けない姿を見せたし、口にしたが…。

「…どうか…新たな緒を結んで下さい…」

 それでも、そんな俺に向かって伸びて来る細い手を誰が手放せるものか。

「…奥様も知らない…紫様の顔を…見せて下さい…」

 身体中に汗を浮かべて、目に涙を浮かべて。それでも、必死に笑顔を向けて来るこの存在を。誰よりも何よりも愛おしいこの狂おしい程の存在を。
 絡む指に力を籠めて、更に深く身を沈めて行く。苦しそうに眉を寄せ、声を押し殺そうとする雪緒の唇に自分の唇を重ねる。その苦しさを吸い取る様に、舌を絡めて行く。痛みも辛さも苦しさも、総て俺の中に吐き出して欲しいと。
 これは。これだけは。
 俺が。
 俺だけが、お前に与える事が出来る熱なのだからと。
 俺以外の誰からも、この熱を貰わないでくれと。
 そう、教える様に。
 そう、諭す様に。
 幾度も口付けを交わしながら、その熱を貪った。

 ◇

 かつてない程の満ち足りた気持ちで目覚めた朝。
 隣にある筈の温もりが無かった。

「………………は……………?」

 いや、待て。
 待ってくれ。
 何故だ!?
 今日は日曜だし、恥ずかしさのあまりに早くに出勤する筈等無い筈なのに!
 慌てて身体を起こして、目に付いた綺麗に畳まれた着物を掴めば。

「おはようございます、旦那様。朝餉のご用意が出来ましたよ」

 障子が開いた先には、朝の光と共に、相変わらず皺の一つも無い着物に身を包んだ雪緒の眩しい笑顔があった。

「…し、んぞうに悪いと言っただろうが…と云うか…何故…動けるんだ…」

 片手で顔を押さえて呻く様に言えば、雪緒はぱっと顔を赤らめて僅かに俯いてぼそぼそと話し出した。

「…いえ…あの…つ…らいですが…あの…旦那さ…、ゆ…かり様のお食事をご用意するのは…あの…僕だけで居たいのです…。僕以外が作った物を…出来れば口にして欲しくないと言いますか…あの…その…ですから…僕の…我儘で…。あ、でも…あの…申し訳ないのですが…今日は…その…ゆ…ゆかり様をお送りしました後は休みたいと思いますので…その…そちらのお布団を干して戴けましたらと…その…シーツはあの…」

「…ああ、解った」

 こんな時でも雪緒らしい物言いに、俺は自然と零れる笑いを抑え切れずに噴き出してしまう。
 お前にも、独占欲はあるのだなと。それは随分と可愛らしい物ではあるが。
 もっと、それを見せて欲しいと思う。
 もっと、そんな風に甘えて欲しいと思う。

「ふえっ!? ひ、酷いです、旦那様っ!!」

 たちまちに雪緒は、泣き出しそうな顔をして抗議して来るが。

「紫だ。昨夜、幾度もそう呼んでくれたろう?」

「しっ、知りませんっ!! 旦那様は旦那様ですっ!!」

 起き上がり着物を軽く羽織り、雪緒に近付いて俺がそう言えば、唇を尖らせて拗ねて見せた。
 一矢報いるのに良い機会だと、顔を赤くして頬を膨らませる雪緒の鼻を摘まみ、俺は口を開く。

「…覚悟をして置けと言っただろう?」

 その言葉に雪緒は顔で湯が沸かせるのでは、というぐらいに顔を赤くしたのだった。

 これからも、こんな風にして俺達は続いて行くのだろう。
 時にはすれ違ったりもするのだろうが。
 その時には、また言葉を交わして、互いの気持ちを確かめ合うのだろう。
 幾度も幾度も緒を結んで結び直して。
 その度に新たな絆が生まれ、俺達はそれを育てて行くのだろう。
 これまでも、これからも。
 互いがある限り、続いて行くのだろう。
 このぽかぽかとした場所で。
 あの箱に沢山の想いを詰めていくのだろう。

 布団を抱えて外へ出れば、秋の陽射しは柔らかく温かく、総てを包み込む様に。
 何処か遠くから『あらあら』とコロコロと笑う鞠子まりこの声が聞こえた気がした。
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