41 / 86
やがて
【七】旦那様は踏んだり蹴ったり
しおりを挟む
「ね~え? どうして紫君から石鹸の香りがするのかな~? 教えて貰えるかな~?」
茶の間で、底冷えのしそうな程の相楽の声に、俺と雪緒は身を小さくしていた。
「………………背中は軽く拭いただけで、湯船には入ってはいないぞ…」
無駄な抵抗だと解ってはいるが、それでも抗わずには居られないのが、人と云う物だ。
そんな俺の背中に向かって、相楽はわざとらしく長い息を吹き掛けた。
「…っ…!」
おい、何をする。地味に傷口に沁みるのだが。
「まあ、そりゃあね~? 風呂に入るな、とは僕は言わなかったけどさあ~。けど、考えなくても解るでしょう~? 縫合したんだからね~? 直ぐに塞がる訳が無いでしょ~? 幾ら湯船に浸からなくても~、血の巡りが良くなるんだからあ~。まさか、お酒なんかも呑んだりはしていないよね~? もう、やっぱりベッドに縛り付けて置けば良かったあ~。もう、本当に馬鹿なんだから~」
…少し…いや、少しよりは多めの出血に雪緒が驚いて、相楽の家へ電話をしたのだが、運悪く相楽本人がそれに出てしまったのだ。まだ、病院に居ると思った俺が馬鹿だった。それから俺はずっと、相楽に治療されながら、罵声を浴び続けていた。
「も、申し訳ございません、相楽様。僕が付いていながら、この様な事態になってしまいまして、何と申し開きをしたら良いのか…」
俺の斜め後ろに座る雪緒の口から、心底申し訳無さそうな声が届く。
こんな鬼に謝る必要は無い。
「雪緒君が謝る必要は無いよ~? 馬鹿な紫君に付き合わされただけだよね~? もー、馬鹿な父親を持つと苦労するよね~? 良い機会だし~、馬鹿が居ない僕の家の子になる~?」
何回馬鹿だと言えば気が済むんだ、お前は。
そして、さりげなく何を言っているんだ。
「ふわ!? 馬鹿なのは僕で、旦那様は馬鹿ではございません! 少し考えれば、解ります事ですのに、そこまで考えが及ばなかった、馬鹿な僕が悪いのです!」
いや、お前も馬鹿馬鹿言うな。
「馬鹿な紫君を庇わなくても良いからね~? まあ、文字通り、身に沁みて解ったよね~? 流石の馬鹿な紫君でもね~?」
「…っぐ…っ…!」
そう言いながら、消毒液を染み込ませた綿を背中に充てて来る相楽の手の動きに、俺は短く声を上げた。
力、強過ぎやしないか!?
雪緒を買い物に行かせて、うだうだと、答えの出ないとりとめの無い思いを巡らせて、ぼんやりとしていた。
雪緒が星と買い物が出来て楽しかったと、俺に礼を言い、早速風呂へと云う段階で気付いた。
いや、軽く湯を身体に掛けて貰ってから、そこで走った痛みに呻いてから、背中の怪我の存在を思い出した。
全く信じられない。
身体に巻かれた包帯を解かれている時も、怪我の事は彼方へと行っていた。
どれだけ動揺していたんだ、俺は。意識しすぎだろう。
こんな俺とは反対に、雪緒は何時も通りだと云うのが、また気に入らない。
お前があんな事を口にしなければ。
更には、それを覚えていないとは、どう云う了見なんだ。
俺ばかりが気にして不公平ではないのか。
そして、それに動揺する俺を見て楽しんでいる相楽も、また気に入らない。
「はい~。終わりだよ~。もう、僕が良いと云うまでは、お風呂は禁止だからね~? 拭くだけにしてね~? 勿論、激しい運動も駄目だからね~?」
「ありがとうございました、相楽様。お見送り致します」
そう言いながら立ち上がり、部屋を出て行こうとする相楽の後に雪緒が続く。
そんな鬼、見送りなぞせんでも良いのに。
軽く息を吐いて頭を掻く。
こんな事ばかり考えるのは、身体を動かさないからだ。
仕事をしていれば、気も紛れるのに。
「…ああ、そうだ…」
俺はふと思い付いて、茶の間を出て自分の部屋へと向かった。
◇
「何をなさっているのですか!!」
「………いや…まあ…身体が鈍ると復帰した時に…な…」
俺は自分の部屋で正座して、同じく俺の目の前で正座する雪緒に叱られていた。
「相楽様をお見送りして戻って来ましたらお姿が見えないので、お部屋でお休みになられているのと思いましたのに…っ…! 暢気に昼餉の支度なんてしている場合ではありませんでした!! こちらは僕が厳重に保管させて戴きます!」
雪緒はそう言って、俺達の間に置いてあった木刀を手に取り自分の膝の上に乗せた。
そう。
俺は自分の部屋で素振りをしていただけだ。
身体を動かせば、気が紛れると思ったのだが。
「…素振りぐらい良い…」
素振りぐらい良いではないか。
左腕しか使っていないのだし。
部屋の中だから、大きな動きは出来ないし。
…まあ…腕を振る度に引き攣る様な痛みは走ったが…。
「傷口が開いたらどうするのですか!? そうなりましたら、相楽様が仰っていました様に、病院のべっどに縛り付けて貰いますからね!!」
「…すまん…」
眦を上げてこちらを睨む雪緒に、俺はただ身体を小さくして頭を下げる事しか出来ない。
「…ご自身のお身体なのですから…もっと大切にして下さい…」
下げた俺の視界に、膝にある木刀を強く握り締める雪緒の小さな手が見えた。
そんなに強く握ったら、手が痛いだろうに。
雪緒に心配を掛けさせるつもりでは無かったのだが。
「…雪緒…」
震えるその声に、顔を上げた時。
「おーい、ゆかりーん! 来たぞーっ!」
天野の近所迷惑な大きな声が響いて来た。
「ふえ!? 天野様!? お仕事が終わってからなのでは!?」
雪緒が慌てて立ち上がり、それでも木刀は手放さずに玄関へと向かって行った。
俺は軽く息を吐き、自分の頬を軽く叩いてから玄関へと向かう。
「よう! 大人しくしてたか? ゆずっぺから電話があってさ! ゆかりんが大人しくしていないから、俺からも釘を刺す様に言われてな! 早々に上がって来たんだが…うん。どうやら大人しくして無かったみたいだな。雪坊、その木刀は何だ?」
「ふわっ!?」
眉を下げて、白い歯を見せて笑っていた天野の目が、すっと細められて雪緒が持つ木刀を睨めば、雪緒は木刀を両手で掴み胸に抱える様にして見せた。
「………まあ…上がれ…」
俺は額を押さえて、呻く様にそれを口にした。
そこから後は、天野の説教祭りだった。
茶の間で、底冷えのしそうな程の相楽の声に、俺と雪緒は身を小さくしていた。
「………………背中は軽く拭いただけで、湯船には入ってはいないぞ…」
無駄な抵抗だと解ってはいるが、それでも抗わずには居られないのが、人と云う物だ。
そんな俺の背中に向かって、相楽はわざとらしく長い息を吹き掛けた。
「…っ…!」
おい、何をする。地味に傷口に沁みるのだが。
「まあ、そりゃあね~? 風呂に入るな、とは僕は言わなかったけどさあ~。けど、考えなくても解るでしょう~? 縫合したんだからね~? 直ぐに塞がる訳が無いでしょ~? 幾ら湯船に浸からなくても~、血の巡りが良くなるんだからあ~。まさか、お酒なんかも呑んだりはしていないよね~? もう、やっぱりベッドに縛り付けて置けば良かったあ~。もう、本当に馬鹿なんだから~」
…少し…いや、少しよりは多めの出血に雪緒が驚いて、相楽の家へ電話をしたのだが、運悪く相楽本人がそれに出てしまったのだ。まだ、病院に居ると思った俺が馬鹿だった。それから俺はずっと、相楽に治療されながら、罵声を浴び続けていた。
「も、申し訳ございません、相楽様。僕が付いていながら、この様な事態になってしまいまして、何と申し開きをしたら良いのか…」
俺の斜め後ろに座る雪緒の口から、心底申し訳無さそうな声が届く。
こんな鬼に謝る必要は無い。
「雪緒君が謝る必要は無いよ~? 馬鹿な紫君に付き合わされただけだよね~? もー、馬鹿な父親を持つと苦労するよね~? 良い機会だし~、馬鹿が居ない僕の家の子になる~?」
何回馬鹿だと言えば気が済むんだ、お前は。
そして、さりげなく何を言っているんだ。
「ふわ!? 馬鹿なのは僕で、旦那様は馬鹿ではございません! 少し考えれば、解ります事ですのに、そこまで考えが及ばなかった、馬鹿な僕が悪いのです!」
いや、お前も馬鹿馬鹿言うな。
「馬鹿な紫君を庇わなくても良いからね~? まあ、文字通り、身に沁みて解ったよね~? 流石の馬鹿な紫君でもね~?」
「…っぐ…っ…!」
そう言いながら、消毒液を染み込ませた綿を背中に充てて来る相楽の手の動きに、俺は短く声を上げた。
力、強過ぎやしないか!?
雪緒を買い物に行かせて、うだうだと、答えの出ないとりとめの無い思いを巡らせて、ぼんやりとしていた。
雪緒が星と買い物が出来て楽しかったと、俺に礼を言い、早速風呂へと云う段階で気付いた。
いや、軽く湯を身体に掛けて貰ってから、そこで走った痛みに呻いてから、背中の怪我の存在を思い出した。
全く信じられない。
身体に巻かれた包帯を解かれている時も、怪我の事は彼方へと行っていた。
どれだけ動揺していたんだ、俺は。意識しすぎだろう。
こんな俺とは反対に、雪緒は何時も通りだと云うのが、また気に入らない。
お前があんな事を口にしなければ。
更には、それを覚えていないとは、どう云う了見なんだ。
俺ばかりが気にして不公平ではないのか。
そして、それに動揺する俺を見て楽しんでいる相楽も、また気に入らない。
「はい~。終わりだよ~。もう、僕が良いと云うまでは、お風呂は禁止だからね~? 拭くだけにしてね~? 勿論、激しい運動も駄目だからね~?」
「ありがとうございました、相楽様。お見送り致します」
そう言いながら立ち上がり、部屋を出て行こうとする相楽の後に雪緒が続く。
そんな鬼、見送りなぞせんでも良いのに。
軽く息を吐いて頭を掻く。
こんな事ばかり考えるのは、身体を動かさないからだ。
仕事をしていれば、気も紛れるのに。
「…ああ、そうだ…」
俺はふと思い付いて、茶の間を出て自分の部屋へと向かった。
◇
「何をなさっているのですか!!」
「………いや…まあ…身体が鈍ると復帰した時に…な…」
俺は自分の部屋で正座して、同じく俺の目の前で正座する雪緒に叱られていた。
「相楽様をお見送りして戻って来ましたらお姿が見えないので、お部屋でお休みになられているのと思いましたのに…っ…! 暢気に昼餉の支度なんてしている場合ではありませんでした!! こちらは僕が厳重に保管させて戴きます!」
雪緒はそう言って、俺達の間に置いてあった木刀を手に取り自分の膝の上に乗せた。
そう。
俺は自分の部屋で素振りをしていただけだ。
身体を動かせば、気が紛れると思ったのだが。
「…素振りぐらい良い…」
素振りぐらい良いではないか。
左腕しか使っていないのだし。
部屋の中だから、大きな動きは出来ないし。
…まあ…腕を振る度に引き攣る様な痛みは走ったが…。
「傷口が開いたらどうするのですか!? そうなりましたら、相楽様が仰っていました様に、病院のべっどに縛り付けて貰いますからね!!」
「…すまん…」
眦を上げてこちらを睨む雪緒に、俺はただ身体を小さくして頭を下げる事しか出来ない。
「…ご自身のお身体なのですから…もっと大切にして下さい…」
下げた俺の視界に、膝にある木刀を強く握り締める雪緒の小さな手が見えた。
そんなに強く握ったら、手が痛いだろうに。
雪緒に心配を掛けさせるつもりでは無かったのだが。
「…雪緒…」
震えるその声に、顔を上げた時。
「おーい、ゆかりーん! 来たぞーっ!」
天野の近所迷惑な大きな声が響いて来た。
「ふえ!? 天野様!? お仕事が終わってからなのでは!?」
雪緒が慌てて立ち上がり、それでも木刀は手放さずに玄関へと向かって行った。
俺は軽く息を吐き、自分の頬を軽く叩いてから玄関へと向かう。
「よう! 大人しくしてたか? ゆずっぺから電話があってさ! ゆかりんが大人しくしていないから、俺からも釘を刺す様に言われてな! 早々に上がって来たんだが…うん。どうやら大人しくして無かったみたいだな。雪坊、その木刀は何だ?」
「ふわっ!?」
眉を下げて、白い歯を見せて笑っていた天野の目が、すっと細められて雪緒が持つ木刀を睨めば、雪緒は木刀を両手で掴み胸に抱える様にして見せた。
「………まあ…上がれ…」
俺は額を押さえて、呻く様にそれを口にした。
そこから後は、天野の説教祭りだった。
51
あなたにおすすめの小説
星降る夜に ~これは大人の純愛なのか。臆病者の足踏みか。~
大波小波
BL
鳴滝 和正(なるたき かずまさ)は、イベント会社に勤めるサラリーマンだ。
彼はある日、打ち合わせ先の空き時間を過ごしたプラネタリウムで、寝入ってしまう。
和正を優しく起こしてくれたのは、そこのナレーターを務める青年・清水 祐也(しみず ゆうや)だった。
祐也を気に入った和正は、頻繁にプラネタリウムに通うようになる。
夕食も共にするほど、親しくなった二人。
しかし祐也は夜のバイトが忙しく、なかなかデートの時間が取れなかった。
それでも彼と過ごした後は、心が晴れる和正だ。
浮かれ気分のまま、彼はボーイズ・バーに立ち寄った。
そしてスタッフメニューの中に、祐也の姿を見つけてしまう。
彼の夜の顔は、風俗店で働く男娼だったのだ……。
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*不定期連載です。
【完結】君の穿ったインソムニア
古都まとい
BL
建設会社の事務として働く佐野純平(さの じゅんぺい)は、上司のパワハラによって眠れない日々を過ごしていた。後輩の勧めで病院を受診した純平は不眠症の診断を受け、処方された薬を受け取りに薬局を訪れる。
純平が訪れた薬局には担当薬剤師制度があり、純平の担当薬剤師となったのは水瀬隼人(みなせ はやと)という茶髪の明るい青年だった。
「佐野さんの全部、俺が支えてあげますよ?」
陽キャ薬剤師×不眠症会社員の社会人BL。
平凡な男子高校生が、素敵な、ある意味必然的な運命をつかむお話。
しゅ
BL
平凡な男子高校生が、非凡な男子高校生にベタベタで甘々に可愛がられて、ただただ幸せになる話です。
基本主人公目線で進行しますが、1部友人達の目線になることがあります。
一部ファンタジー。基本ありきたりな話です。
それでも宜しければどうぞ。
うるさい恋人
さるやま
BL
攻めがキモイです。あとうるさい
攻め→→→←受け
小森 陽芳(受け)
野茂のことが好きだけど、野茂を煩わしくも思ってる。ツンデレ小説家。言ってることとやってることがちぐはぐ。
野茂 遥斗(攻め)
陽芳のことを陽ちゃんと呼び、溺愛する。人気の若手俳優。陽ちゃんのことが大好きで、言動がキモイ。
橋本
野茂のマネージャー。自分の苦労を理解してくれる陽芳に少し惹かれる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる