ここではない、彼方へ

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004 ここではない、彼方へ

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 年月が過ぎるのは、あっという間だった。
 父親からの仕送りが途絶えたのはセオにとって痛手だったが、雇われている新聞社からの給金は増えたようで、とりあえず生活には問題なく過ごせていた。
 借家に帰ってくると、セオは簡単な夕食だけに留めて、すぐにベッドで寝るようになった。そして早朝に起きると、さっさと身支度を整えて出ていってしまうのだ。最初は、ずっと会社で記事を書いたり、図書館で資料を集めたりしているのかと思っていた。けれども――どうやら外出している時に、誰かと私的な会合をしているようだと私は気づいた。

 ――どうしても、気になって仕方がなかった。

 だから、なんとなく悪いことをしているような気分になりつつも。
 私は家を出た彼のあとを、こっそりと追ってみることにした。

 晴れた清々しい朝だった。通りには身なりのいい紳士や、華やかなドレスを着た淑女がちらほらと見える。この辺は富裕層の多い地区なので、通行人のほとんどは朗らかな様子だった。
 もっとも――市の中心から離れれば、多くの労働者が薄汚れた服を着て、貧しい生活を送っていることを私は知っている。
 中流以上の階級者にとっても、その実情は憂慮すべきものであった。外国で民衆革命運動が起こった過去もあるため、労働者を蔑ろにすべきではないと世に訴える知識人も増えている。セオが以前から新聞を通じて主張してきたことが――徐々に世論として広まりつつあった。

 ――自分の仕事は、無駄ではない行為だ。
 そう実感しはじめたからだろうか。最近のセオは、落ち込んだ様子を見せることがなくなった。日々の生活を楽しんでいるような――明るくて希望に満ちた顔をしている。

「……コーヒーを一つ。それと、ビスケットも」

 ある喫茶店に入ったセオは、どうやら飲食物を注文をしたようだ。まだ客の少ない早朝の店内で、彼は入り口に近い椅子に座っていた。しばらくして、給仕ウェイターの運んできたコーヒーとビスケットを口にしはじめた。
 ……なるほど。朝食をいつも抜いているのかと思ったけど、そうでもなかったらしい。

 通りのほうからこっそりセオの姿を眺めつつ、私はふと昔のことを思い出していた。
 たしか、あれは初めてセオと、そしてレイも一緒に喫茶店で雑談した時のことだろうか。コーヒーを好むレイに対して、セオは自分は紅茶派だと言っていた。そして実際に、彼がコーヒーを飲んでいるところは一度も見たことがなかった。

 ――嗜好が変わったのだろうか。
 それはあるのかもしれない。人間は生きていく中で、徐々に変化するものだ。興味のなかったものに、関心を寄せるようになったり。新しく別の何かを、好きになったり。ひとはつねに変わってゆく。そう、それはセオだって例外ではなかった。

「――フローリーさん」

 ふいに新しく店に入ってきた妙齢の女性が、彼にそう呼びかけた。
 知り合いらしき彼女の声に、セオはゆっくりと顔を向ける。その口元には――穏やかで優しげな笑みが浮かんでいた。

「……アリス、おはよう」
「近頃は顔色がよいですね。以前は不眠症だとおっしゃっていたので、お体は大丈夫かと思っていましたが――」
「最近は改善してね。寝付きもよくなって、すこぶる健康だよ。心配してくれてありがとう」

 セオが「どうぞ」と対面の席を示すと、アリスと呼ばれた女性は微笑を浮かべながら座った。その自然な動作からすると、こうして喫茶店で会うことは何度も繰り返しているのかもしれない。わずかなやり取りからでも、二人の間にはそれなりに親しい雰囲気が感じられた。

 談笑する男女の二人。
 それだけで恋愛関係にあると断じるのは性急だったが――否定することもできなかった。
 胸がざわつき、言いようのない気持ちが湧き上がる。

 私はなぜ、こんな覗き見をしているのだろう。
 ふと客観視した自分は、ひどく情けなく恥ずかしかった。何か行動を起こすこともできず、こうしてこそこそと二人の様子を眺めているだけ。無力さと愚かさに、私は泣きたくなってしまった。

 ――けれども、涙を流すことはできなかった。

「……そろそろ、店を出るか」
「ええ。……そうだ。まだ出社までお時間があるようでしたら、一緒に寄ってみたいところが――」

 セオたちは席を立ち、そんな会話を交わしていた。
 私はゆっくりと、店の出入り口の前に移動する。そこに立っていれば、外に出てきた二人と真正面から鉢合わせることになるだろう。

 現実が待っている。
 本当はわかっていながら、目を背けていた。
 でも、きっと――これは直視しなければならないことだった。

「――セオ」

 私は彼を呼び掛けた。
 けれども、声が届く様子はどこにもない。
 すぐ目の前にいるというのに――セオは隣の女性に顔を向け、穏やかに会話を重ねていた。

 そこにヘレナという女性など、存在しないかのように――

「……ずっと見守っているよ、あなたを」

 そう言って、笑みを浮かべた。

 二人が私の体をすり抜け、何事もなかったかのように歩き去っていく。
 私は振り返り、セオの後ろ姿を見つめる。
 親友だったレイが亡くなり、そして数か月もしないうちに恋人まで拳銃の暴発事故で失ってしまった彼は――それでも懸命に日々を生き抜き、幸せを見つけつつあった。

 何も悪いことではない。
 私とレイの死という悲しみから立ち直り、そして幸福な人生を送ってくれるというのなら……これほど喜ぶべきことはないだろう。

 なのに――
 どうしてもこみ上げる寂しさに、虚しさに。
 私は胸を押さえて、遠ざかるセオの背中を見つめることしかできなかった。
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