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005 ここではない、彼方へ
しおりを挟むわかっていた。
過去の苦悩を乗り越えるということは、気にかけなくなるということ。
子供だった時、私はよく下らないことを怖がっていた。灯りのない寝室で、幽霊が出てくるんじゃないかとビクビクしていたのだ。そんな恐怖も大きくなった時にはすっかり忘れて、暗闇を憂うことなどなくなってしまった。
身近な人間の死も、それにまつわる悲しみも――時が経てば忘却の彼方へゆくものだ。
それでいいんだと思う。
ずっと悲嘆に暮れて、陰鬱に過ごし、暗い人生を歩むことよりも――
悲しかったことを忘れて、今の楽しく幸せな時間を大事にするほうがいい。
ただ、ちょっとだけ。
ほんの少しだけ、嘘をつけない気持ちがあった。
些細なことでいいから、たまにだけでいいから――
過去にいた人間のことを思い出してくれたら。
――私はそう願ってしまった。
◇
「――ねぇ、パパ。これ、なぁに?」
ブラウンの髪の少年が、そう父親に話しかけた。
父親の私室の机を漁っていた子供は、何やら気になるものを見つけたらしい。その手には重量のある細長い道具が握られていた。
――拳銃だった。
雷管式が主流となった今では、滅多なことでは目にしない燧石式のタイプである。
それを目にした父親は、あわてて子供に駆け寄ってそれを取り上げた。
「おいおい! 拳銃なんか勝手に触ったらダメだぞ」
「それ、鉄砲なの? ヘンなの」
「古い銃だから、ちょっと形が違うんだよ。今じゃ骨董品さ」
父親はそう肩をすくめると、拳銃を机の引き出しに戻そうとした。
だが、ふと何かを思い出したかのように手をとめる。
そんな彼に、子供は目を輝かせて無邪気に尋ねた。
「ねぇねぇ、それって撃てるの?」
「……いいや。弾も火薬も入っていないからね。でも、壊れてはいないから……まだ使えるはずさ」
「どうやって使うの?」
「ここに石があるだろう? これが火打ち石で……この鉄の部分にぶつけて、火花を出して点火させるんだよ」
「……よくわかんない」
「ははは……」
子供には理解しづらいのだろう。父親は小さく笑うと、銃のストックを握った。そして燧石のついた撃鉄を起こし、子供の目にも見える位置で銃を構える。
そのまま、ゆっくりと――引き金が引かれた。
ある地点まで引き絞った瞬間、内部の部品が連動して撃鉄を解放させる。勢いよく振り下ろされた燧石は、その先にあった金属とぶつかり、摩擦熱で明るい火花を散らした。
その動作を見た子供は、楽しいオモチャを見つけたように瞳を輝かせた。
「うわーすごい! これが火打ち石なの? はじめて見た!」
「…………」
はしゃぎ声を上げる子供に対して、父親は無言だった。何かを考えるかのように、撃鉄の落ちた銃を見つめている。忘れていたことを思い出したかのような――そんな表情だった。
やがて不審に思った子供は「パパ?」と呼びかけた。それにハッとした様子で彼は返事をする。
「あぁ……ごめんごめん。ちょっと、昔のことを思い出してね」
「むかしのこと?」
「ママと出逢うよりも前のことだよ。……とても仲のよかった友達が、二人いたんだ。そう……大切な人たちだった」
父親は笑みを浮かべると、息子の頭を優しくなでた。
くすぐったそうにする子供の反応にほほ笑みながら、彼はさらに言葉を重ねる。
「その二人がいなかったら……きっと今の仕事に就いていなかったし、ママとも知り合うこともなかっただろうね」
「……そうなの?」
「ああ、そうさ……。だから――感謝しなくちゃいけない」
その言葉は、自分自身に向けたものだったのだろう。感情を秘めた強い口調だった。
子供はそんな父親に、率直な疑問を口にした。
「……そのパパのお友達は、いまどこにいるの?」
「遠いところさ。……二人とも、もう彼方に旅立ってしまったんだよ」
「……かなた?」
「こことは違う世界……もう会いに行くこともできない場所だよ」
「……そっか」
まだ小さいながらも、その言葉からなんとなく友人の死を理解したのだろうか。子供はどこか寂しげな顔で父親を見上げていた。
そんな息子を、彼は愛おしげに抱き寄せる。
今の彼にとっては、かけがえのない存在を。
過去の積み重ねがあったからこそ、存在する今を。
父親――セオ・フローリーは、何よりも大切にして愛していた。
――親しかった人間の死。
それが悲しくつらいことであるのは、疑いようがないだろう。
だが、それと同時に――
過去は否定するべきものではないことも事実だった。
事故による二人の死がなければ、きっとセオは新聞記者にはなっていなかったはずだ。
そしてアリスという女性と親しくなり、次第に交際を深め、やがて結婚し、そして子をもうけることもなかっただろう。
現在の幸せとつながっている、過去の不幸な出来事。
それを――なければ良かったのに、などと思えるはずがない。
だから、そう、きっと――
こういう時。
故人を偲ぶ者が抱く感情は、たぶん決まっているのだろう。
――セオ・フローリーが、ふと顔だけ戸口のほうに向けた。
誰もいるはずのない場所。
何も見えるはずがない方向。
そこに立っている“私”に、気づいているはずもないのに。
それでも彼は、穏やかな笑みを浮かべてかすかに呟いた。
「……ありがとう」
そばの息子にも聞こえないような声量。
それでも口の動きは、たしかに感謝を伝えていた。
……それで、十分だった。
幸せな生活の中で、ふと一瞬ながらも思い出し、そして過去の人に感謝をしてくれるだけで。
ずっと見守ってきた私は――報われた気分になれた。
ありがとう。
きっと私は、その言葉が聞きたかっただけなんだ。
あなたがヘレナという女性と付き合い、そして不幸な事故で失ってしまい、悲しみと嘆きの底へ突き落され、それでも絶望することなく、やがて新しい幸せを見つけ、日常の喜びに包まれ、満ち足りた人生を歩みながら、それでも――
ふと思い出して、過去に想いを馳せてくれる。
そんなことを、私はずっと願っていたのだろう。
……もう大丈夫。
未練はどこにもない。
私は清々しい心地で、立派な父親となったセオに笑顔を返した。
「……さよなら、セオ」
そう言い残して、彼に背を向けようとする。
もう彼のもとから離れて、遠いところへ旅立つために――
私はゆっくりと、後ろへと振り向いた。
そこで、初めて――気づいた。
昔とずっと変わらない、忘れもしない……綺麗な金髪と、あどけない顔。
少しはにかんだ笑みで、彼は私のことを見つめていた。
いや――見守っていてくれたんだろう。
セオを、そしてセオのことを忘れられない私を。
あなたは静かに、優しく――私たちのことを見守ってくれていた。
「……なんだ、ずっと待ってくれていたの?」
くすりと笑う私に対して、彼はゆっくりと右手を差し出した。
控えめな性格の彼が、そんなふうにリードするのは初めてだった。
きっと――最初で最後の誘い。
行く当てのない、行き先のない旅路。
だけど不安はなかった。そう……一人ではないから。
私はそっと腕を伸ばし――
彼と手を重ね合わせ、握り合わせた。
「一緒に行こっか……レイ」
ここではない、彼方へ――
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