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60.不穏

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 配信を終了した後、風呂に入った潤は、嫌な咳が出ることに気がついた。風邪を引いた、というわけではあるまい。以前、仙台のライブ前夜に自分の身に起こったことが、まざまざと蘇ってくる。きっと、だ。また、呪いが潤の体を蝕もうとしている。
「ほんと、いやになる……」
 声に出して呟いて、ベッドに座り込んだ。いつまでも現実から目を背け続けるのは、もう限界だと頭では分かっている。都合の悪いことには目を瞑って、呑気に残りの時間を浪費するなんて、あまりにも愚かだ。
——いい加減、腹括らないと。
 ヒナキを殺すことはできない。それは絶対に変わらない。だから、次に潤が考えたのは、自分が呪いを持ったまま死を回避することだった。文字通りの死に損ないになろうというのだ。けれど、それはできないとヒナキに言われてしまった。どうやら、人を吸血鬼にするにはそれなりにリスクが伴うらしい。それに、どうせヒナキのことだから、潤がずっと呪いの痛みを受け続けるのは嫌だとでもいうのだろう。
——でも、高永カレンなら。
 強烈なエゴイズムでヒナキを苦しめ、強制的に吸血鬼にしてしまったような男だ。彼なら、潤の無謀な望みも叶えてくれるのではないだろうか?
——あの怪物に何か俺からメリットを提供できれば、もしかしたら。
 なんて、他力本願ではいけない。自分でなんとかしなければいけない。いつまでも運任せじゃ、父親と一緒だ。彼と同じ道は辿らないと決めたはずなのに。
——愛する人の生死が懸かっているんだ。
 絶対に、彼を失いたくない。自力で呪いを解いて、ヒナキを安心させてあげたい。——そのためには。
「ヒナキさんに待ってもらうしかないな……」
 潤自身が死神の生命を捨てるしかない。
 以前、父がこんな話をしていたことがある。「人生は一度きりではない」というものだ。死んだ魂、それも、後悔を多く残して死んだ魂は、生まれ変わる可能性が高いらしい。死ぬ時の後悔が多いというのはつまり、神から与えられた試練をクリアし切ることはできなかったが、充実した人生を送ったという証だ。愛する者を残して死んだ者は、次の人生でもきっと愛する者のそばに生まれることができる。そう、父は言っていた。
——死ぬのは怖い。それは変わらないけど。
 ヒナキを失うことはもっと怖い。
——どうせ死からは逃げられない。それなら、一度死んで呪いから解放されて、次は普通の人間になって……もう一度ヒナキさんに出会えばいいんだ。
 それができたら……それさえできたら、死なんて……。
「うっ……」
 激しい咳が続いて、喉がひりついた。しばらく眠るのは難しそうだ。潤は諦めて、咳がおさまるまで音楽を聴くことにした。

 ヘッドホンを装着した途端、静寂に包まれた。韓国出身のピアニストYirumaの演奏を聴きながら、再び咳を繰り返す。
 ツアー中に喉を痛めるなんて最悪だ。なんとか止められないかと、水を飲んでみるが、効果はなかった。こうなったら、加湿器をつけて、マスクをして寝るしかない。
「はあ……」
 ため息で不快感を掻き消して、音楽に集中した。「Kiss The Rain」は、このアーティストが生み出した有名な楽曲の一つだが、潤の最も好きな曲でもある。初めてこの楽曲に出会った時、自然と涙が溢れたことを今でも覚えている。今のように疲れている時には、この音が恋しくなるものだ。
 ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、音に浸った。言葉を持たないはずのピアノが、語りかけるかのように潤の心に沁みてくる。繊細で、触れたら壊れてしまいそうな優しさで。媒体は違えど、同じ弦楽器の奏者として、こんな演奏ができたらと何度考えたか知れない。この曲をヴァイオリンで演奏することには何度も挑戦したが、どうしたって届かなかった。この人の生み出す優しい世界が、羨ましくてならない。
——やっぱり好きだなぁ。
 胸がしっとりとうるおっていく。いつか、ヒナキの流した涙を拭った瞬間を思い出した。彼の涙は、どんなものより美しい。
 儚く、静かに終わりゆく音楽に、ふと恋しさを覚える。最後の一音が消えて、ようやく潤は目を開けた。
 静寂だ。いつのまにか、喉の苦しさはおさまっていた。
 
 ふとスマホを見ると、数時間ぶりにヒナキから返事が来ていた。どうやら、先ほどの配信を見ていたらしい。「最後だけだったけど」と前置きをしながら、なぜか潤のことを褒めちぎっていた。
 前より優しくなった、表情が良かった、声が好き。会えなくて落ち込んでたけど、話してる声が聞けて嬉しかった。長々と、そんなことが書かれている。

「ありがとう笑
 何かあったの?」

 率直にそう述べると、瞬時に既読をつけたヒナキが文字を打つ手を止めた。ように感じた。いつもは既読がついてから10秒ほどで返事が来るのに、今は何か言いづらいことでもあるようだ。
 そうして、しばらく待っていると、ようやく返事が来た。

「実は、カレンから連絡が来て
 潤と会いたいって言うんだ
 話があるらしくて……」

 ああ、それは随分言いにくかったことだろう。思わず笑みを溢す。

「勿論いいよ
 ヒナキさんの頼みなら」

 そう送ってから、くつくつと笑った。ヒナキが今どんな顔をしているのか、目に浮かぶ。笑ったせいで、また咳が出てしまった。電話でなくて良かったと、ため息をつく。

「いつ?」
「急で悪いんだけど
 来週の日曜はどうかなって」
「わかった
 ヒナキさんも一緒に来てくれるんだよね?」
「うん、もちろん」
「ならよかった」

 しばらく話をしてから、ふと気がついた。カレンは、潤にとっては好かない相手だが、謂わばヒナキの親代わりだ。相手方の身内に挨拶をしなければならないということは、それなりに覚悟をしなければいけないのではないだろうか。

「どんな人なの?」

 人ではない、と分かっていながら、聞かざるを得なかった。こちらが一方的に気に入らないからといって、失礼な態度で挑むわけにはいかない。少なくとも、ヒナキには迷惑がかからないようにしなければならない。

「言ってることを真に受けちゃいけない人」

 ヒナキからの評価は、そんなものだった。



 結局、ヒナキにおやすみを言った後も寝付けず、潤はベッドの上で調べ物をしていた。ネットにある情報なんて、特に古く限定的なものに纏わるとなると、得られる物はたかが知れている。それでも、今何もしないわけにはいかなかった。
 「日本における吸血鬼伝説」「八百万の神と死神について」「死神の起源」——様々な記事や書籍のタイトルが溢れている。
——長い文章を読むのは苦手だ。どうしよう。
 懸命に目を走らせるものの、なかなか情報が頭に入ってこない。活字の羅列の上べを滑るようにしながら、潤は何か役立ちそうな情報を探した。「死神と人の子」の起源については父に訊くのが1番なのだろうが、正月以来父とは話をしていない。彼が、3月のコンサートを控えて忙しそうなことに加えて、死神業も多忙を極めているのを知っているからだ。
「……ん?」
 ふと、どこかの古本屋のデータベースに引っかかった。『人に堕ちた神』という本だ。随分昔に出版された物らしい。作者の名前はウピル・ヴィンツェンティ。翻訳者名の記載はないが、洋書だろうか。
 なんとなくその本の詳細が気になって、古本屋のページを開いた。どうも、京都にあるようだ。
——ちょうど大阪にいるし、行ってみようかな。
 明日は1日オフだ。東京に帰るのが1日遅れたって問題はない。強いて言えば、チャリティ演奏会で共演するピアニストとの練習に向けた準備が慌ただしくなるくらいだ。
——ヒナキさんに早く会えないのはヤダけど、仕方ない。
 潤は、気になったことはすぐに確かめないと、それこそ気が済まない性分だった。



翌日

 潤は、地下鉄の京都市役所前駅を出て、四条河原町までを繋ぐ寺町京極商店街を歩いていた。すぐ隣を平行に走る新京極商店街も含めて、この辺りは昔ながらの店と新しく見える店が混在している。東京にはなかなか無い雰囲気だ。
「この次の角を……右……」
 地図を睨みつつ、人混みを避けながら歩く。知らない場所を散策するのは楽しい。何かとインスピレーションが湧くからだ。しかし、こうも人が多いと、そのせっかくの楽しさも半減してしまう。
 噂によると、この辺りよりももっと人混みの場所はあるようだが、これでも潤にとっては充分歩きづらい混雑具合だ。
——やっと着いた。
 目的の古本屋は、商店街のに存在していた。一度通り過ぎそうになったが、地図のおかげで見つけられたと言うべきだろう。
 本屋の看板は文字が掠れ、集客力がほとんど無さそうに見える。引き戸の向こうに見える店内は薄暗く、営業中かどうか不安にさえ思えた。
「こんにちは」
 戸を開けて、中に声をかける。人影は見当たらないが、一応営業中のようだ。しばらく待っていると、大きなサングラスをかけた女性が奥から姿を現した。
「こんにちは」
 女性はとても背が高かった。おそらく、一般的な成人男性よりも遥かに大きい。それでも女性だと分かったのは、声がとても美しかったからだ。
 ほとんど白髪に見える長い髪は一つに結われていた。薄暗い店内でも、そこだけは光り輝いているようだった。
「お客さんなんて久しぶりだわ。ようこそいらっしゃいました。何をお探しで?」
 サングラスの奥の瞳は見えない。ただ、彼女が日本人らしからぬ風貌でありながら、とても流暢な日本語を話すことに、違和感を覚えた。緊張を悟られないよう、努めて落ち着いた声で話す。
「ウピル・ヴィンツェンティという方の『人に堕ちた神』を探しています」
「まぁ」
 女性が口を丸く開いたので、表情がわかった。存外、愉快な人柄に思われる。
「その本なら、こちらですよ」
 彼女はとても長い腕を伸ばして、本棚のかなり高い場所にあった一冊を取った。古びた本だ。装丁の雰囲気から、少なくとも昭和以前に出版されたように見える。
「他所では見つけられなくて」
「そうでしょうねえ。でも嬉しいわ、この本を探して足を運んでくださるなんて」
「特別な本なんですか?」
「ええ、それはもう」
 彼女はとても大切そうに本の表紙を眺めると、丁寧にカバーをかけて、それを潤に手渡した。
「あの、会計は」
「お代は結構ですわ。どうぞ、お持ちになって」
「え? でも」
「嬉しいのよ。あの人の本が、貴方みたいな若い人に読んでもらえると思ったら」
 潤はしばらく彼女の手を見つめ、それからようやく本を受け取った。ずっしりと重い。ネットで見た時よりも、ずっと厚みがあるように感じられる。
「この、作者と……お知り合いなんですか?」
「ええ」
 サングラスの奥で、彼女の目がきらきら輝いているような気がした。
「大事にしてやってちょうだい」

 結局、不思議な本屋の店主に懇切に礼を言ってから、潤はまたぷらぷらと商店街を歩いていた。彼女は一体何者だったのだろう。そして、このウピル・ヴィンツェンティという作家は誰なのだろうか。
 そんな事を思いながら歩いていると、ふと通りに面したカフェが目に留まった。イギリスの有名な紅茶ブランドの店らしい。深く考えずに中へ入ると、華やかな雰囲気に出迎えられた。
——あ、男1人で入るべきじゃなかったかも。
 とはいえ、惹かれてしまったのは事実だ。半端な時間だったためか、幸い並ばずに席へ着くことができた。物腰柔らかなスタッフに、親切にオーダーを聞かれる。
「あまおういちごのパフェ……で」
 特別甘いものが好きということはないが、なぜか無性に糖分が欲しくなった。結局、季節限定を謳った豪華なパフェと、組み合わせで勧められたレモンティーを注文した。
 先に出てきたポットサービスの紅茶の写真を撮ってから、そっと口をつける。美味しい。たまには、こんなのんびりしたティータイムも悪くない。
「ジュンくん?」
 突然声をかけられ、ハッとして顔を上げた。すると目の前には、いかにもなオーラを纏った女性が立っていた。
「あ」
——えっと、この人は。
 昨年初めてドラマ出演した時に共演した、黒井マリンという女優だ。
「お久しぶりです」
「やっぱりジュンくんだ! こんなところで会うなんて奇遇だね。仕事?」
「いや、プラベです」
「そうなんだ……でも、1人? ヒナキくんは?」
「いませんよ」
「へえ、珍しいね」
 マリンはするりと潤の隣に座ると、テーブルに肘を乗せた。思わず、距離を取ろうと身を捩る。出会った当初ほどの嫌悪感はないものの、やはり得意な相手ではない。
「嫌がらないでよ。話したいだけなんだからぁ」
「嫌がってるっていうか、周りにバレたら厄介そうなので」
 そう言って、視線を外してまた紅茶を飲んでいると、マリンがクスクス笑った。
「君は本当に、ヒナキくん以外には鬼のようにガード固いね」
「当然でしょ。ヒナキさんが特別なだけです」
「あっ、惚気たねぇ。いいよいいよぉ」
「ただの事実です」
 一体この人は、潤と何を話そうというのだろうか。ぼうっと待っていると、おっとりしたスタッフが失礼しますと言ってやってきた。彼女との微妙な雰囲気を断ち切ってくれたおかげで、ようやく息が吸える。
「お待たせいたしました。あまおういちごのパフェです」
「ありがとうございます」
 目の前に立派なパフェが置かれて、思わず気分が浮き立った。マリンの視線には構わず、シャッターを切る。
「そういうの撮るタイプなんだ」
「ヒナキさんに見せるだけです」
「ほんとにヒナキくん大好きだね」
 それには返事をしなかった。あまり意固地になって会話をするのもらしくないと思ったのだ。
「パフェ食べてるジュンくんってレアかも。写真撮ってもいい?」
「……どこにも投稿しないでくださいよ」
「もちろん!」
 マリンはとても楽しそうに何枚か写真を撮ると、顔のサイズに合っていないマスクのズレを調節した。一応変装しているつもりらしいが、どう見ても女優のオーラを隠し切れていない。
「食べるの邪魔しちゃ悪いから、もう行くね」
「はい」
「あ、そうだ。東京に帰ったら君に渡したいものがあるんだ。また連絡していい?」
 妙に真剣な声で言うものだから、潤は思わず顔を上げた。ふと、視線がかち合う。
「あなたは何か、知ってるんですか? 俺の……」
——俺のこと。
 つい、そう訊ねてしまった。マリンは特に不審がる風もなく、微笑んだままゆるりと首を傾げる。
「今日はやめておこう。お茶、楽しんでね」
 そう言って、彼女はふらりと姿を消した。








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