Calling

樫野 珠代

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秘書編

36






朱里は驚きを隠せず、その場に立ちすくんでいた。
視線を下に向け、必死に今の状況を把握しようと頭をフル回転させる。
なぜ今、彼がここにいるの?
ううん、それよりもどうしてここが・・・。
その疑問が頭によぎった瞬間、
「待たせ過ぎだ。」
・・・は?
意味が分からず朱里がパッと顔を上げると、眉間に皺をよせ怒りを表面に押し出した恭介が朱里を見据えていた。
その雰囲気に朱里は戸惑い、余計に頭が混乱した。
「社長である俺をこんなに待たせる人間がいるとは思わなかった。しかも、だ。その単位は“時間”じゃなく、“日”だ。」
そう言ってピリピリした空気を含んだ恭介がさらに朱里に近づく。
恭介が地面を踏みつける音が聞こえてくる。
その音が近づくほど、体の奥の警告が大きくなっていく。
その警告が何を指しているのか、朱里は容易に想像できた。
― 彼に全て囚われてしまう -
それがわかっているのに上手く回避する術が浮かばない。
焦りを伴い混乱する朱里の思考は、彼の次の行動で呆気なくストップした。
一瞬、何が起こったのかすぐには判断できず、ようやく頭の中が回転し出した時には朱里は恭介の腕の中にいた。
彼の腕に包まれ、彼の吐息が耳の後ろで聞こえる。
「ようやく見つけた。」
そう言って恭介はさらに腕の力を強め、きつく朱里を抱きしめた。
懐かしい匂いがした。
彼の鼓動も聞こえてくる。
「まさかこんな近くにいるとは思わなかったよ。」
彼の声が体を震わせる。
何か言わなきゃ、そう思っても言葉がうまく出てこない。
振りほどかなきゃいけないと思っても体が動かない。
「ああ、こんな所じゃゆっくり話せないな。とりあえず車に移動しよう。」
朱里の両肩に恭介が手を置き、ゆっくりと体を離す。
そして朱里の右手を握り、歩き出した。
朱里は慌ててそれを振り払った。
コトが全て彼の思うがままに運ばれていることに気がついて。
そんな朱里の考えを読んだかのように恭介は、
「たとえ君が今ここから逃れたとしても、俺は君を追いかけるよ。君がきちんと俺と向き合ってくれるまで、何度でも見つけ出す。」
振り払われたことに驚くこともなく朱里に告げる。
朱里はたまらず恭介から視線をそらした。
きっと彼はそれを確実に実行するだろう。
そういう人だから。
だったら・・・今、すべてをすっきりさせた方がいいのかもしれない。
これからもこんな風に彼が突然現れることを思えば。
もう彼とは関わらない。
それが会長との約束。
私はそれを破ることはできない。
今のこの状況を乗り切ればその約束は果たされるだろう。
別々の道を選ぶことを彼が納得すれば。
でも・・・私にできるのだろうか。
彼を突き放すことが・・・。


彼の促され、躊躇いながら車に乗った。
車内はとても静かで、余計に焦ってしまう。
何よりも助手席に私が乗って、彼が運転をしているこの状況が不慣れで落ち着かない。
彼の運転する姿なんて初めて見た。
それどころか乗っている車にも委縮してしまう。
車に興味のない私でさえそのブランド名は知っている外車。
これは彼の車なのだろうか。
今まで見たこともないし、聞いたこともない。
考えてみれば彼のこと、あまり知らない気がする。
仕事に関することは知っている。
もちろん中学時代のことも。
でもそれ以外の事は全くと言っていいほど知らない。
馬鹿だな、今さらそんなことに気づくなんて。
「何を考えてる?」
静かに社内に彼の低い声が響いた。
朱里は意識を目の前に戻した。
「まさかとは思うけど、この状況で眠いとか言わないよな?」
「なっ、そんなわけないでしょ!」
思わず口からそんな言葉が飛び出していた。
慌てて手を口に当てたがすでに遅く、彼はハンドルを握っていた両手のうち、右手を放しお腹を押さえて笑い始めた。
「くっくっく。相変わらずだな。その反応、君らしい。」
「もう・・・好きなだけ笑って。」
どうにてもして。
そんな状態。
ずっと笑ってるんだもの。
ぷいっと横を向いて窓の外を眺めた。
するとようやく笑い終えた恭介の普段の声質が聞こえてくる。
「やっと君の声が聞けた。」
思わず彼を見つめた。
そう言われて朱里も初めて気づく。
そう言えば・・・彼を見つけてから初めて言葉を口にしたんだった。
ずっと胸がいっぱい、というか状況に付いていけてなくて、口から出てくる言葉が見つからなかったから。
でも、最初の言葉が・・・あんな言葉とは。
さっきの言葉を思い出して朱里はそんな自分を情けなく感じた。
「夢に・・・何度も君が出てきた。君を何度抱き寄せてきつく抱きしめても君はするりと俺の腕の中から抜け出して微笑みながら消えていくんだ。何度、名前を呼んでも君はそれに答えることはなかった。ただ悲しく微笑んで消えてしまう、そんな夢。」
「恭介・・・。」
私もあなたの夢を何度も見たわ。
とても辛い夢だった。
何度もその夢で目が覚めて、涙を流した。
「夢では聞くことができなかった君の声が、ようやく今聞けた。」
そう言って柔らかい微笑みを朱里に向けた。
そんな顔するなんて卑怯だ。
これじゃあ何も言えないじゃない。
朱里は居た堪れず、視線を前のガラスに向けた。
「正直に言うと、さっき君のことを待ってたって言ったけどそれは嘘だ。待ってなんかいなかった。」
「そ、そう・・・。」
わかっていたことだけど、とてもショックだった。
彼にとって私はもう・・・。
「待つことなんて出来なかった。早く君を探し出そうと足掻いてた。」
「・・・え?」
「えって・・・なんでそんな驚いた顔してるんだ?」
朱里と恭介はお互いに驚く相手を見ていた。
すぐに恭介は視線を前にもどしたが、朱里は恭介を見つめたままで止まっていた。
「もしかして勘違いしたのか?俺が君にもう関心がなくなったのか、とかって。もしそんな事を考えたのなら、これからじっくりとそんな事が考えられないくらい俺のことをわかってもらわないとな。」
これから・・・?
私たちに“これから”なんてないのに。
二人にあるのは別々の人生で、二度と交わることのない道。
言わなきゃ。
ちゃんとサヨナラしなきゃ。
朱里はこくんと喉を鳴らし、呼吸を整えた。
そして口を開き、言葉を発しようとした時、
「会長のことだけど。」
恭介に先を越されてしまった。
朱里は開いていた口を閉じるしかなかった。
「すまなかった。謝っても君を傷つけた事実は消えないけど、でもどうしても謝りたい。本当にごめん。」
「そ、そんな。謝る必要なんてないわ。だって会長の仰ったことは事実で、私も会長と同じ意見だったもの。それに謝るのは私の方。」
朱里がそう言うと、恭介は怪訝そうに眉を寄せた。
「なぜ?」
「だって・・・怒ってるんじゃないの?」
「怒ってる?俺が?」
「ええ、急に会社を辞めちゃったし・・・あなたに何も言わずに二階堂のお屋敷から出てきたから・・・。」
「ああ、なるほどね。そう言えばそうだったね。」
「そう言えばって・・・。」
「怒りなんて最初の数時間だけだった。なぜ君が出て行ったのか理由を知らなかったからね。でも原因がわかってからは怒りはただ一人、会長に向かってた。」
「会長は何も悪くないわ。会社のこと、そしてあなたのことを一番に考えた上でのことで・・・。」
「俺のこと?それは違う。確かに会社のことは考えてるだろうけどね。」
そう言って恭介は鼻で笑った。
いつもの彼らしくない態度に朱里が戸惑っていると、恭介はさっとその雰囲気を変えた。
「そんなことよりも、今はもっと他に話すべきことがあったな。」
そうだった。
彼の話に呑まれて自分の言うべき言葉をすっかり忘れていた。
そのことに気づき、朱里は頭を切り替える。
「俺達のこれからを話し合おう。」
先ほどまでの柔らかい雰囲気から一転して真面目な口調で恭介が切り出した。
その言葉に対して朱里はすーっと息を吸うと、
「私達にこれからなんてないわ。」
鋭い言葉を恭介に突き付けた。


 

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