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第1章
導き-1
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アクアは、ベッドに腰掛けている凛也の幅広い背中にしがみついていた。凛也が暗い声で一人そーっと呟くのを聞いている。
「長瀬ですけど。ええと、今日はちょっと風邪をひいて、熱が出てしまいまして。休みますので……」
わざとらしく低い声を出している。
「どうかな、元気がないように聞こえた? 実際、喉が痛いんだよな。熱はないんだけど」
「うん、聞こえる聞こえる、バッチリだよ。誰も仮病だなんて疑わないよ」
アクアは可笑しくて、ニヤニヤ笑いをしながら答えた。
「だから、仮病じゃない。喉が痛いのは、本当。もう一度。長瀬ですけど……」
アクアは今度はベッドに転がり、お腹を揺すりながら笑った。三十六にもなる大の男が職場に欠勤連絡をするのに、わざわざ〝発声練習〟をするのだから面白くてたまらない。
「よし、じゃあ電話するよ」
凛也は、いよいよ携帯電話を手に、ベッドから腰を上げる。アクアはすかさず凛也の腰に、しがみつく。
「ここで電話すればいいじゃない」
「嫌だ。アクアがいると気が散るから、ダメ」
凛也は、そのまま歩いていこうとする。アクアは凛也を解放してあげることにした。
凛也は自宅のある湖西市内の自動車部品メーカーに勤務している。ごくたまにではあるが、体調が少しでも悪くその日は休んでも自分の仕事に差し支えないと判断すると〝ズル休み〟をする。
今日は土曜出勤日でもあり、いっそう勤務意欲が削がれるようだった。
凛也が寝室から出ていった直後、アクアはベッドから収納ケースへ移動し、抽斗からある物を取り出した。
しばらくして無事〝本番〟を終えて、寝室に戻ってきた凛也が尋ねる。
「アクアの今日の予定は?」
「今日は午後から三崎さんの家に行く。カウンセリングがあるの」
残念だ。〝ズル休み〟で、凛也の予定が一日せっかく空いたというのに。
「ところで、これやってみようと思うんだけど」
アクアは腕を前に伸ばし、凛也の目の前にある物を突きつけた。妊娠検査薬である。
「もう分かるのかい?」
「今日は、胚盤胞の移植から七日目なの。妊娠していた場合、検査薬に反応が出てもおかしくない時期ね」
胚盤胞とは、受精してから五~六日が経過した状態の胚だ。移植から七日目なら今は高温期十二日目になる。もう検査薬で薄い反応が出ても良い頃だ。もちろん無事に子宮に着床して胚が成長を続けていれば、の話だが。
「あまり早く検査しても、意味ないんだろう」
「まあ、そうなんだけど」
凛也は正しい。妊娠検査薬は受精卵が子宮に着床すると分泌されるHCGホルモンの尿中濃度を検出して反応する。アクアが手に持っている検査薬は、市販の検査薬の中でも高性能で、生理予定日から使用可能である。
陰性だった場合、明日こそ陽性になるのではと期待し翌日に再度検査してしまう。
陽性だった場合、アクアは舞い上がるだろう。しかし、化学的流産という事態になる可能性もある。
化学的流産とは、妊娠の超初期に、妊娠検査薬のみ反応している段階での流産である。エコーによる胎嚢の確認はできない。もし妊娠検査薬を使わなければ、数日の遅れでやってきた生理で片付けられ、一時的でも妊娠していた事実に気づかないで終わる。
化学的流産でないことを確信したいがため、アクアは検査薬の陽性ラインが濃くなっていく様子を観察しようと、結局は毎日、延々と検査を続けてしまうだろう。
どちらにしろ、決して安くない妊娠検査薬のムダ使いである。
アクアは、高温期の後半になるといつも、いてもたってもいられなくなる。今朝はトイレを我慢し、朝一番の濃い尿をストックしていた。どうしても試したい。
アクアは検査薬を手にトイレに入る。スティックのキャップを外し、採尿部に尿を掛けるとキャップを填め、床の上に置いた。検査薬の白い判定窓を緊張しつつ、じっと眺める。
一分間、待つ必要があった。やがて検査が正常に終了した状態を示す終了窓に、赤い線が浮き出てくる。
アクアは念力でも送り込むかのような強い気合いを入れて判定窓を凝視した。しかし、判定窓に陽性を示すラインは一向に現れない。
アクアは検査薬を手に持って目に近づけてみた。やはりラインは存在しない。今度は、検査スティックの角度を変えながら見つめた。でも、結果は同じだ。
アクアの体から力が抜けて、肩が落ちる。エリンを妊娠した時のはっきり現れた赤い線を思い出した。再びあの線を見る未来は果たしてやってくるのだろうか。
ネットの情報によれば、時間が経てば線が出てくる場合もあるらしい。アクアは検査スティックをトイレの床に放置しておいた。
すっかりテンションが下がる。今日のような日こそ、凛也と二人、のんびり過ごしたい。
『きらきら星ベビーの会』のカウンセリング。困ったことに今日は全くモチベーションが上がらない。
アクアは寝室に入り、検査の結果を報告しようと、凛也に声を掛けた。
しかし肝心な凛也はいなかった。階下から子供が走る音が聞こえる。
普段は仕事が忙しくてなかなか会えない可愛い姪っ子たちの顔を見に行ったに違いない。アクアの妊娠検査薬の結果も待たないで。
母親の秋歩は土曜日も出勤するので、姪っ子たちは長瀬家で朝食を摂る。アクアと凛也と義母の三人は、子供たちより先に朝食を済ませてしまう。
アクアは専業主婦が朝っぱらからやることではないと思いつつ、ノートパソコンの前に座り起動させた。
「長瀬ですけど。ええと、今日はちょっと風邪をひいて、熱が出てしまいまして。休みますので……」
わざとらしく低い声を出している。
「どうかな、元気がないように聞こえた? 実際、喉が痛いんだよな。熱はないんだけど」
「うん、聞こえる聞こえる、バッチリだよ。誰も仮病だなんて疑わないよ」
アクアは可笑しくて、ニヤニヤ笑いをしながら答えた。
「だから、仮病じゃない。喉が痛いのは、本当。もう一度。長瀬ですけど……」
アクアは今度はベッドに転がり、お腹を揺すりながら笑った。三十六にもなる大の男が職場に欠勤連絡をするのに、わざわざ〝発声練習〟をするのだから面白くてたまらない。
「よし、じゃあ電話するよ」
凛也は、いよいよ携帯電話を手に、ベッドから腰を上げる。アクアはすかさず凛也の腰に、しがみつく。
「ここで電話すればいいじゃない」
「嫌だ。アクアがいると気が散るから、ダメ」
凛也は、そのまま歩いていこうとする。アクアは凛也を解放してあげることにした。
凛也は自宅のある湖西市内の自動車部品メーカーに勤務している。ごくたまにではあるが、体調が少しでも悪くその日は休んでも自分の仕事に差し支えないと判断すると〝ズル休み〟をする。
今日は土曜出勤日でもあり、いっそう勤務意欲が削がれるようだった。
凛也が寝室から出ていった直後、アクアはベッドから収納ケースへ移動し、抽斗からある物を取り出した。
しばらくして無事〝本番〟を終えて、寝室に戻ってきた凛也が尋ねる。
「アクアの今日の予定は?」
「今日は午後から三崎さんの家に行く。カウンセリングがあるの」
残念だ。〝ズル休み〟で、凛也の予定が一日せっかく空いたというのに。
「ところで、これやってみようと思うんだけど」
アクアは腕を前に伸ばし、凛也の目の前にある物を突きつけた。妊娠検査薬である。
「もう分かるのかい?」
「今日は、胚盤胞の移植から七日目なの。妊娠していた場合、検査薬に反応が出てもおかしくない時期ね」
胚盤胞とは、受精してから五~六日が経過した状態の胚だ。移植から七日目なら今は高温期十二日目になる。もう検査薬で薄い反応が出ても良い頃だ。もちろん無事に子宮に着床して胚が成長を続けていれば、の話だが。
「あまり早く検査しても、意味ないんだろう」
「まあ、そうなんだけど」
凛也は正しい。妊娠検査薬は受精卵が子宮に着床すると分泌されるHCGホルモンの尿中濃度を検出して反応する。アクアが手に持っている検査薬は、市販の検査薬の中でも高性能で、生理予定日から使用可能である。
陰性だった場合、明日こそ陽性になるのではと期待し翌日に再度検査してしまう。
陽性だった場合、アクアは舞い上がるだろう。しかし、化学的流産という事態になる可能性もある。
化学的流産とは、妊娠の超初期に、妊娠検査薬のみ反応している段階での流産である。エコーによる胎嚢の確認はできない。もし妊娠検査薬を使わなければ、数日の遅れでやってきた生理で片付けられ、一時的でも妊娠していた事実に気づかないで終わる。
化学的流産でないことを確信したいがため、アクアは検査薬の陽性ラインが濃くなっていく様子を観察しようと、結局は毎日、延々と検査を続けてしまうだろう。
どちらにしろ、決して安くない妊娠検査薬のムダ使いである。
アクアは、高温期の後半になるといつも、いてもたってもいられなくなる。今朝はトイレを我慢し、朝一番の濃い尿をストックしていた。どうしても試したい。
アクアは検査薬を手にトイレに入る。スティックのキャップを外し、採尿部に尿を掛けるとキャップを填め、床の上に置いた。検査薬の白い判定窓を緊張しつつ、じっと眺める。
一分間、待つ必要があった。やがて検査が正常に終了した状態を示す終了窓に、赤い線が浮き出てくる。
アクアは念力でも送り込むかのような強い気合いを入れて判定窓を凝視した。しかし、判定窓に陽性を示すラインは一向に現れない。
アクアは検査薬を手に持って目に近づけてみた。やはりラインは存在しない。今度は、検査スティックの角度を変えながら見つめた。でも、結果は同じだ。
アクアの体から力が抜けて、肩が落ちる。エリンを妊娠した時のはっきり現れた赤い線を思い出した。再びあの線を見る未来は果たしてやってくるのだろうか。
ネットの情報によれば、時間が経てば線が出てくる場合もあるらしい。アクアは検査スティックをトイレの床に放置しておいた。
すっかりテンションが下がる。今日のような日こそ、凛也と二人、のんびり過ごしたい。
『きらきら星ベビーの会』のカウンセリング。困ったことに今日は全くモチベーションが上がらない。
アクアは寝室に入り、検査の結果を報告しようと、凛也に声を掛けた。
しかし肝心な凛也はいなかった。階下から子供が走る音が聞こえる。
普段は仕事が忙しくてなかなか会えない可愛い姪っ子たちの顔を見に行ったに違いない。アクアの妊娠検査薬の結果も待たないで。
母親の秋歩は土曜日も出勤するので、姪っ子たちは長瀬家で朝食を摂る。アクアと凛也と義母の三人は、子供たちより先に朝食を済ませてしまう。
アクアは専業主婦が朝っぱらからやることではないと思いつつ、ノートパソコンの前に座り起動させた。
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