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第6章
ファーザーズ・クライ-7
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金曜日の夕方、アクアの心配に反して、愛子はアクアをにこやかに迎えてくれた。
待ち合わせ場所のパン屋に入ると、愛子がアクアに向かって元気に手を振っている。
アクアは、とりあえず安心して、愛子の前に座った。
店中いっぱいにパンの香ばしい匂いが漂う。
アクアはこの店が大のお気に入りだ。
クロワッサンがとても美味しい。
店は女性客を中心にいつも賑わっている。
アクアはいったん、パンを選びに席を離れた。
評判のクロワッサンに、カレーパン、クルミパンとコーヒーをトレイに載せて、愛子のもとに戻った。
「ごめんなさい、先に頂いちゃった。すごく美味しかったわ」
愛子の皿にはパンの粉だけが残り、飲み物は半分程度残っている。
適当な雑談を交わしながら、アクアもパンを次々に頬張った。
和やかで楽しい雰囲気の中、愛子が切り出す。
「ねえ、間違っていたら、ごめんなさい。実は、迅のことなんだけど。迅が今お付き合いしている相手って、ひょっとしたらアクアさんかしら」
ほぼ、アクアの想定通りの質問だった。
「あの、どうして?」
「見かけた人がいるの。迅とアクアさんが一緒にいるところを。実を言うと、ついこの間、私も見たの。ショッピング・センターで、アクアさんの車の隣に迅が車を駐めていた」
アクアは観念した。
愛子自身にも見られていたのだ。こうなったら隠すべきではないだろう。
アクアは大きく息をつく。
「愛子さん、ごめんなさい。確かに私、迅君と付き合っています。悪いことだと、自覚しています。でも、私、真剣なんです。心から迅君を好きなんです。ごめんなさい」
愛子に向かって頭を下げる。
愛子は微笑んで小さく左右に手を振った。
「謝る必要はないわ。でも、アクアさんが独身だったらいいのに――と、どれほど願ったか。そろそろ迅も身を固めるべきだと思ってるのよ。アクアさんのように優しくて明るい女性が、迅のお嫁さんになってくれたら、と思うと、確かに残念だけど」
アクアは俯いて考える。
独身になる方法は、ちゃんとあるのだ。
「ねえ、アクアさんはもしかして、迅から聞いているのかしら」
アクアは愛子を見上げた。
愛子が何を言いたいのかは、だいたい見当がつく。
「迅は、養子なの。私の実の子ではないの」
アクアは愛子の目を見ながら頷いた。
この際、知らない演技をする必要もないだろう。
愛子も微笑んで頷く。
「愛子さん、訊いてもいいですか。愛子さんは血の繋がらない迅君を、どんなふうに、どんな気持ちで育てたんですか」
愛子は不思議そうに首を傾げる。
だが、浮かべた笑みを絶やすことなく、アクアの質問に答えた。
「養子に迎えた時、迅が赤ちゃんだった事情もあり、子育ての経験がない私たち夫婦は、とにかく夢中だった。主人がね、よく言ってたものよ。スタートを『実の子同様』にしないように、って。実の子だと思い込もうとすると、私たちにも、迅にも、どこか無理が出てくるものだって。でも、迅をとても可愛いと思ってた。赤ちゃんの時から育てたから、遠慮なく甘えてくれたしね。少し甘やかしすぎたくらいかも、と。アクアさんも、迅と付き合ってるなら分かるでしょう?」
「そうですね、そんな気がする時もあります」
愛子の笑みが、苦笑に変わる。
愛子の話を聞いていると、不思議といつもアクアの心が温かくなる。
愛子はしばらく何か考えているような様子だった。
表情に翳が差す。
「迅君はいつ、自分が養子だって知ったんですか」
アクアはどうしても知りたく訊ねてみた。
愛子は即答する。
「幼稚園の時よ。迅は頭が良い子だったし、主人と相談して、なるべく小さいうちに、きちんと話そうと決めていたの。迅に養子だと打ち明けた日の夜は、みんなでお寿司を食べに行ったわ。あの子、大好物だから。それから、本当の親に育てられなくても、うんと幸せになれるんだよって教えるために、絵本を買い与えたり、自分でもお話を作ったのよ」
なるほど、絵本か。
アクアはヒントを得た気がした。
やはり愛子と話せて良かった。
そうだ、せっかくの機会だ。
この際アクアも養子の話や、自分の将来で迷っていることを愛子に相談してみよう。
凛也と別れて迅と結婚したい。
だが、想いはあっても、すぐには無理である。
秋歩のお腹の子供のことがあるからだ。
中絶だけは絶対させたくない。
子供を養子として受け入れよう。
その代わり、時間が掛かっても、凛也とは別れる。
できれば二~三年のうちに。
無責任だろうか。
だが、家族は祖母に伯父。
子供の実の両親は近所に暮らしている。
アクアがいなくても、子供はきっと幸せに育つに違いない。
アクアがあれこれ思案していると、愛子が体を前に乗り出し、声を潜めて訊ねてきた。
「ところで、アクアさん、今どれくらいになるの?」
どれくらい? 何の話だろう。
「どれくらいって……?」
「赤ちゃんよ。お腹の赤ちゃん」
愛子は、ますます声を押し殺す。
アクアは首を傾げた。
無意識にコーヒーカップの取っ手を強く握っている。
「私、妊娠なんてしていませんけど」
愛子は最初、不審そうな表情を見せた。
だが、さらに表情が大きく変化する。
狼狽え始めたのだ。
アクアは愛子の態度に何かを予感した。
「あの、どういうことですか? どうして私が妊娠したなんて思ったんですか?」
愛子は慌てて首を振る。
「ううん、何でもないの。私の勘違いみたい。ごめんなさい。変なこと聞いちゃって」
「勘違いって。どうして勘違いしたんですか。話して下さい、お願いです」
強い口調で愛子に詰問する。はっきりさせないではいられなかった。
愛子は困ったように考えこんでいたが、ようやく話始めた。
「あの……あのね。言いにくいんだけど。アクアさん、驚かないで聞いてね。つい先日、迅から、付き合っている女性を妊娠させてしまったって、打ち明けられたの。もう私、びっくりで。けれど相手の女性にはどうしても育てられない事情があるそうで。もし、迅が赤ちゃんを引き取ったら、育児に全面的に協力してもらえるかって、私に訊いてきたのよ。そうなれば、私、今のパート勤めを辞めざるを得ないわね。でも、私、OKしたのよ」
周りの空気が一挙に重くなった気がした。
まるで上から何かに強く両肩を押さえつけられているような。
「私……。私じゃありません。妊娠したのは私じゃない。迅が、迅が本当に、そう言ったんですか? 付き合っている女性を妊娠させた、って」
愛子が遠慮がちに頷く。
アクアに同情しているのが分かった。
アクアの感情が急激に爆発しそうになる。
「誰? 誰なんですか? 迅が付き合っている女性って」
愛子が哀しそうにゆっくり首を振る。
「私は、だから、てっきり相手がアクアさんだと思い込んだの。それで、アクアさんが赤ちゃんをどうしたいと思っているのか、今日ここで訊くつもりだった。本当にごめんなさい。こんな話、するべきじゃなかった。迅にも、きっと怒られるわ」
アクアは、気がつくと立ち上がっていた。
迅に訊かなければ。
何としても。
今から迅に会うのだ。
そうでなければ、今日は、もう他に何もすることができない。
眠ることだって不可能だろう。
待ち合わせ場所のパン屋に入ると、愛子がアクアに向かって元気に手を振っている。
アクアは、とりあえず安心して、愛子の前に座った。
店中いっぱいにパンの香ばしい匂いが漂う。
アクアはこの店が大のお気に入りだ。
クロワッサンがとても美味しい。
店は女性客を中心にいつも賑わっている。
アクアはいったん、パンを選びに席を離れた。
評判のクロワッサンに、カレーパン、クルミパンとコーヒーをトレイに載せて、愛子のもとに戻った。
「ごめんなさい、先に頂いちゃった。すごく美味しかったわ」
愛子の皿にはパンの粉だけが残り、飲み物は半分程度残っている。
適当な雑談を交わしながら、アクアもパンを次々に頬張った。
和やかで楽しい雰囲気の中、愛子が切り出す。
「ねえ、間違っていたら、ごめんなさい。実は、迅のことなんだけど。迅が今お付き合いしている相手って、ひょっとしたらアクアさんかしら」
ほぼ、アクアの想定通りの質問だった。
「あの、どうして?」
「見かけた人がいるの。迅とアクアさんが一緒にいるところを。実を言うと、ついこの間、私も見たの。ショッピング・センターで、アクアさんの車の隣に迅が車を駐めていた」
アクアは観念した。
愛子自身にも見られていたのだ。こうなったら隠すべきではないだろう。
アクアは大きく息をつく。
「愛子さん、ごめんなさい。確かに私、迅君と付き合っています。悪いことだと、自覚しています。でも、私、真剣なんです。心から迅君を好きなんです。ごめんなさい」
愛子に向かって頭を下げる。
愛子は微笑んで小さく左右に手を振った。
「謝る必要はないわ。でも、アクアさんが独身だったらいいのに――と、どれほど願ったか。そろそろ迅も身を固めるべきだと思ってるのよ。アクアさんのように優しくて明るい女性が、迅のお嫁さんになってくれたら、と思うと、確かに残念だけど」
アクアは俯いて考える。
独身になる方法は、ちゃんとあるのだ。
「ねえ、アクアさんはもしかして、迅から聞いているのかしら」
アクアは愛子を見上げた。
愛子が何を言いたいのかは、だいたい見当がつく。
「迅は、養子なの。私の実の子ではないの」
アクアは愛子の目を見ながら頷いた。
この際、知らない演技をする必要もないだろう。
愛子も微笑んで頷く。
「愛子さん、訊いてもいいですか。愛子さんは血の繋がらない迅君を、どんなふうに、どんな気持ちで育てたんですか」
愛子は不思議そうに首を傾げる。
だが、浮かべた笑みを絶やすことなく、アクアの質問に答えた。
「養子に迎えた時、迅が赤ちゃんだった事情もあり、子育ての経験がない私たち夫婦は、とにかく夢中だった。主人がね、よく言ってたものよ。スタートを『実の子同様』にしないように、って。実の子だと思い込もうとすると、私たちにも、迅にも、どこか無理が出てくるものだって。でも、迅をとても可愛いと思ってた。赤ちゃんの時から育てたから、遠慮なく甘えてくれたしね。少し甘やかしすぎたくらいかも、と。アクアさんも、迅と付き合ってるなら分かるでしょう?」
「そうですね、そんな気がする時もあります」
愛子の笑みが、苦笑に変わる。
愛子の話を聞いていると、不思議といつもアクアの心が温かくなる。
愛子はしばらく何か考えているような様子だった。
表情に翳が差す。
「迅君はいつ、自分が養子だって知ったんですか」
アクアはどうしても知りたく訊ねてみた。
愛子は即答する。
「幼稚園の時よ。迅は頭が良い子だったし、主人と相談して、なるべく小さいうちに、きちんと話そうと決めていたの。迅に養子だと打ち明けた日の夜は、みんなでお寿司を食べに行ったわ。あの子、大好物だから。それから、本当の親に育てられなくても、うんと幸せになれるんだよって教えるために、絵本を買い与えたり、自分でもお話を作ったのよ」
なるほど、絵本か。
アクアはヒントを得た気がした。
やはり愛子と話せて良かった。
そうだ、せっかくの機会だ。
この際アクアも養子の話や、自分の将来で迷っていることを愛子に相談してみよう。
凛也と別れて迅と結婚したい。
だが、想いはあっても、すぐには無理である。
秋歩のお腹の子供のことがあるからだ。
中絶だけは絶対させたくない。
子供を養子として受け入れよう。
その代わり、時間が掛かっても、凛也とは別れる。
できれば二~三年のうちに。
無責任だろうか。
だが、家族は祖母に伯父。
子供の実の両親は近所に暮らしている。
アクアがいなくても、子供はきっと幸せに育つに違いない。
アクアがあれこれ思案していると、愛子が体を前に乗り出し、声を潜めて訊ねてきた。
「ところで、アクアさん、今どれくらいになるの?」
どれくらい? 何の話だろう。
「どれくらいって……?」
「赤ちゃんよ。お腹の赤ちゃん」
愛子は、ますます声を押し殺す。
アクアは首を傾げた。
無意識にコーヒーカップの取っ手を強く握っている。
「私、妊娠なんてしていませんけど」
愛子は最初、不審そうな表情を見せた。
だが、さらに表情が大きく変化する。
狼狽え始めたのだ。
アクアは愛子の態度に何かを予感した。
「あの、どういうことですか? どうして私が妊娠したなんて思ったんですか?」
愛子は慌てて首を振る。
「ううん、何でもないの。私の勘違いみたい。ごめんなさい。変なこと聞いちゃって」
「勘違いって。どうして勘違いしたんですか。話して下さい、お願いです」
強い口調で愛子に詰問する。はっきりさせないではいられなかった。
愛子は困ったように考えこんでいたが、ようやく話始めた。
「あの……あのね。言いにくいんだけど。アクアさん、驚かないで聞いてね。つい先日、迅から、付き合っている女性を妊娠させてしまったって、打ち明けられたの。もう私、びっくりで。けれど相手の女性にはどうしても育てられない事情があるそうで。もし、迅が赤ちゃんを引き取ったら、育児に全面的に協力してもらえるかって、私に訊いてきたのよ。そうなれば、私、今のパート勤めを辞めざるを得ないわね。でも、私、OKしたのよ」
周りの空気が一挙に重くなった気がした。
まるで上から何かに強く両肩を押さえつけられているような。
「私……。私じゃありません。妊娠したのは私じゃない。迅が、迅が本当に、そう言ったんですか? 付き合っている女性を妊娠させた、って」
愛子が遠慮がちに頷く。
アクアに同情しているのが分かった。
アクアの感情が急激に爆発しそうになる。
「誰? 誰なんですか? 迅が付き合っている女性って」
愛子が哀しそうにゆっくり首を振る。
「私は、だから、てっきり相手がアクアさんだと思い込んだの。それで、アクアさんが赤ちゃんをどうしたいと思っているのか、今日ここで訊くつもりだった。本当にごめんなさい。こんな話、するべきじゃなかった。迅にも、きっと怒られるわ」
アクアは、気がつくと立ち上がっていた。
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