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第二話 亡霊、知らず生者の気を啜る
九郎先生
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(ああ、夕方か)
少し足を速めて、春右衛門は朱引き外にある石燕先生の住処へと向かった。
その辺りは新興の長屋街で、土台の地ならしも甘く、古木材でできた壁や戸は虫食いや罅だらけ。
夏には冬用布団を質に入れて、冬にはそれを請け出して代わりに夏に使う蚊帳を質に入れる――そんな風に無理やり帳尻合わせて暮らす貧しい者達が暮らしていた。
新参者や訳あり者ばかりが暮らすその長屋の並びから、子供達の騒ぎ声と一緒にひょいっと顔を出した黒い着物姿の優男があった。
「――おや、春さんじゃないですか。今日もまた、モノノケ先生のところへいらっしゃるので?」
「ああ、九郎先生ですか。こんにちは」
最近知古を得た年長者の顔を見て、頬が自然と綻ぶ。
彼の名は、確か、秋島何某というらしい。
目を細めて微笑む相貌は、理知的で柔和。
声も語り口も、穏やかで優しい。
髪にはもう白いものが混じり、目尻にも皺が寄っているが、年齢はまだ若い。
石燕や新介より少し上、三十路に差しかかったあたりだろうか。
春右衛門もきちんと本名は知らないが、噂によれば苦労人だそうで、転じて、この辺りでは【九郎先生】と呼ばれている。
そう、石燕と同じく、このいかにも優男然とした男もまた、〈先生〉なのだった。
この辺り、朱引きの先の町外れに住む大多数と同じくこの九郎先生も流れ者で、生まれは江戸ではないそうだ。
画を描く技術は一流だが他の生活能力は子供以下の石燕と違って、九郎先生は器用な性質らしい。
十八番は医術だそうだが、寺子屋めいたものを開いて近所の子供達に算術も教えている。
どうやら、今日も授業があったみたいだ。
彼の着ている質素な着物の裾には、近所の子供が何人も絡まりついていた。
その九郎先生の教え子達が、春右衛門を認めるなりこちらに突進してくる。
「あっ、春兄だ!」
「春兄、遊んでよーっ!」
「おっ、わっ」
わらわらと子供に群がられ、思わずよろめく。
子供達はいつも、春右衛門には手加減がない。
怖い顔を作って、春右衛門は子供達に威厳を見せようとした。
「こら、よせ。俺は遊びに来たわけじゃないんだぞ」
しかし、どうも声が甘過ぎたらしい。
叱責が効いた様子は一切なく、子供達は笑顔のまま春右衛門にくっついている。
「ねえねえ、春兄! またお相撲してよ!」
「あっ、いいね! よぉーし、押すぞ!」
一人の思いつきに、あっという間に全員が群がる。
力を合わせて春右衛門を押し始めた子供達を、九郎先生が次々引き剥がしていく。
「こらこら、春さんが困ってますよ。君達、もう夕餉の時間なんじゃないですか? 早く帰らないと怒られますよ」
「あっ、そうか」
「あーあ、せっかく春兄を捕まえられたのになあ」
「じゃあ、また今度遊んでよね! 春兄!」
命令するように言って、頬を膨らませた子供達が去っていく。
その背中を見送って、九郎先生が春右衛門の隣に立った。
「春さんはいつも人気者ですねえ」
「いやあ。子供に人気があってもね」
春右衛門は、つい背伸びしたことをぼやいて頭を掻いた。
本当は子供と遊んでやるのは嫌いじゃないのだが、自分が子供と同じ括りに突っ込まれるのは甚だ気に食わない。
(俺は大人の男だぞ。九郎先生だとか、石燕先生と同じ括りに入っていたいものだ)
春右衛門が内心でそう思っていると、九郎先生が苦笑しながら呟いた。
「僕は子供が好きですよ」
「そうですか?」
「ええ。子供はいいですね。無邪気で、罪がなくて、何も知らなくて」
「……」
なるほど、こう答えると大人びた余裕を醸し出せるのか……と考えかけたのを慌てて止めて、春右衛門は九郎先生の柔和な横顔を眺めた。
子供好きが高じてということか、彼が開いている寺小屋はほとんど無料も同然らしい。
世間話ついでに、春右衛門は訊ねた。
「九郎先生は、お子さんはいらっしゃらないのですか?」
先生はもういい歳だし、見てくれも悪くない。一つや二つ、春右衛門やご近所さんの知らない過去があってもおかしくはない。
春右衛門の質問に、九郎先生は首を振って答えた。
「残念ながら。いたら少しは違ったんでしょうがね」
「あぁ……、それは何だかわかる気がしますね」
つい共感して春右衛門が言うと、九郎先生が目を丸くした。
たぶん、春右衛門の歳を考えたのだろう。
苦虫を噛み潰したような顔を作って、春右衛門は続けた。
「実はつい先頃、いただいた縁談が土壇場で破談になってしまったんです。
今思えば、それがしの夫婦というものに対する憧れが強すぎたせいもあったのかもしれません。でも、残念です。気は早いですが、それがしも子供が欲しかったので……」
「なるほど、そうでしたか……」
「ええ」
春右衛門が言うと、しばし考えてから九郎先生が続けた。
「……実はね。僕も妻を早くに亡くしました」
---
ここまで読んでいただいてありがとうございます!
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。
少し足を速めて、春右衛門は朱引き外にある石燕先生の住処へと向かった。
その辺りは新興の長屋街で、土台の地ならしも甘く、古木材でできた壁や戸は虫食いや罅だらけ。
夏には冬用布団を質に入れて、冬にはそれを請け出して代わりに夏に使う蚊帳を質に入れる――そんな風に無理やり帳尻合わせて暮らす貧しい者達が暮らしていた。
新参者や訳あり者ばかりが暮らすその長屋の並びから、子供達の騒ぎ声と一緒にひょいっと顔を出した黒い着物姿の優男があった。
「――おや、春さんじゃないですか。今日もまた、モノノケ先生のところへいらっしゃるので?」
「ああ、九郎先生ですか。こんにちは」
最近知古を得た年長者の顔を見て、頬が自然と綻ぶ。
彼の名は、確か、秋島何某というらしい。
目を細めて微笑む相貌は、理知的で柔和。
声も語り口も、穏やかで優しい。
髪にはもう白いものが混じり、目尻にも皺が寄っているが、年齢はまだ若い。
石燕や新介より少し上、三十路に差しかかったあたりだろうか。
春右衛門もきちんと本名は知らないが、噂によれば苦労人だそうで、転じて、この辺りでは【九郎先生】と呼ばれている。
そう、石燕と同じく、このいかにも優男然とした男もまた、〈先生〉なのだった。
この辺り、朱引きの先の町外れに住む大多数と同じくこの九郎先生も流れ者で、生まれは江戸ではないそうだ。
画を描く技術は一流だが他の生活能力は子供以下の石燕と違って、九郎先生は器用な性質らしい。
十八番は医術だそうだが、寺子屋めいたものを開いて近所の子供達に算術も教えている。
どうやら、今日も授業があったみたいだ。
彼の着ている質素な着物の裾には、近所の子供が何人も絡まりついていた。
その九郎先生の教え子達が、春右衛門を認めるなりこちらに突進してくる。
「あっ、春兄だ!」
「春兄、遊んでよーっ!」
「おっ、わっ」
わらわらと子供に群がられ、思わずよろめく。
子供達はいつも、春右衛門には手加減がない。
怖い顔を作って、春右衛門は子供達に威厳を見せようとした。
「こら、よせ。俺は遊びに来たわけじゃないんだぞ」
しかし、どうも声が甘過ぎたらしい。
叱責が効いた様子は一切なく、子供達は笑顔のまま春右衛門にくっついている。
「ねえねえ、春兄! またお相撲してよ!」
「あっ、いいね! よぉーし、押すぞ!」
一人の思いつきに、あっという間に全員が群がる。
力を合わせて春右衛門を押し始めた子供達を、九郎先生が次々引き剥がしていく。
「こらこら、春さんが困ってますよ。君達、もう夕餉の時間なんじゃないですか? 早く帰らないと怒られますよ」
「あっ、そうか」
「あーあ、せっかく春兄を捕まえられたのになあ」
「じゃあ、また今度遊んでよね! 春兄!」
命令するように言って、頬を膨らませた子供達が去っていく。
その背中を見送って、九郎先生が春右衛門の隣に立った。
「春さんはいつも人気者ですねえ」
「いやあ。子供に人気があってもね」
春右衛門は、つい背伸びしたことをぼやいて頭を掻いた。
本当は子供と遊んでやるのは嫌いじゃないのだが、自分が子供と同じ括りに突っ込まれるのは甚だ気に食わない。
(俺は大人の男だぞ。九郎先生だとか、石燕先生と同じ括りに入っていたいものだ)
春右衛門が内心でそう思っていると、九郎先生が苦笑しながら呟いた。
「僕は子供が好きですよ」
「そうですか?」
「ええ。子供はいいですね。無邪気で、罪がなくて、何も知らなくて」
「……」
なるほど、こう答えると大人びた余裕を醸し出せるのか……と考えかけたのを慌てて止めて、春右衛門は九郎先生の柔和な横顔を眺めた。
子供好きが高じてということか、彼が開いている寺小屋はほとんど無料も同然らしい。
世間話ついでに、春右衛門は訊ねた。
「九郎先生は、お子さんはいらっしゃらないのですか?」
先生はもういい歳だし、見てくれも悪くない。一つや二つ、春右衛門やご近所さんの知らない過去があってもおかしくはない。
春右衛門の質問に、九郎先生は首を振って答えた。
「残念ながら。いたら少しは違ったんでしょうがね」
「あぁ……、それは何だかわかる気がしますね」
つい共感して春右衛門が言うと、九郎先生が目を丸くした。
たぶん、春右衛門の歳を考えたのだろう。
苦虫を噛み潰したような顔を作って、春右衛門は続けた。
「実はつい先頃、いただいた縁談が土壇場で破談になってしまったんです。
今思えば、それがしの夫婦というものに対する憧れが強すぎたせいもあったのかもしれません。でも、残念です。気は早いですが、それがしも子供が欲しかったので……」
「なるほど、そうでしたか……」
「ええ」
春右衛門が言うと、しばし考えてから九郎先生が続けた。
「……実はね。僕も妻を早くに亡くしました」
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引き続き読んでいただけたら嬉しいです。
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