25 / 39
第二話 亡霊、知らず生者の気を啜る
逢魔刻に伸びる、骸骨の影
しおりを挟む
春右衛門が言うと、しばし考えてから九郎先生が続けた。
「……実はね。僕も妻を早くに亡くしました」
「えっ。それはまた……」
「そうしてみて思うのですがね。結婚など、そうよきものではありませんよ」
慰めるように、男やもめの九郎先生が春右衛門の肩をぽんと叩く。
春右衛門も、肩をすくめて頷いた。
「そのようですね。浮世というものは、何ともままならぬものです。望んだものほど手に入らないらしい。憧れているうちが花というものなのかもしれませぬ」
「ええ、そのようです。
まあ、春さんはまだ若い。いずれまた、よきご縁もありましょう。あなたはあなたのまま、焦らずいいご縁をお待ちなさればよい」
九郎先生が微笑んで言って、会釈をして去っていく。
教え子でもないのに〈先生〉とつい呼んでしまいたくなるような優しい助言と所作に、春右衛門は感心した。
……が、次の瞬間、息を呑む。
「……⁉」
黄昏に伸びた九郎先生の長い影が――おどろおどろしい骸骨の形をしていたのだ。
♢ 〇 ♢
「――起きておいでですか。石燕先生、モノノケでござ……」
慌てて例のあばら家に飛び込むと、風が吹き抜ける涼しい板の間に茣蓙を敷いて、石燕が寝転んでいた。
「んん……? 何だよ、またおまえさんか。相変わらず騒々しい奴だなあ……」
石燕がそうぼやく。
彼の手もとを見れば、行燈に細く灯を点して、のんべんだらりと筆が動き、画を描いている――これは、庭先をよく散歩している野良猫だ。
その画を見て、春右衛門はあっと目を見開いた。
猫のモノノケというなら有名だ。
春右衛門だって知っている。
その物の怪を眺め、驚いたままに春右衛門は呟いた。
「何と……。
あれは【猫又】でしたか。先生」
「うん。さっきまでそこで遊んでいた」
眠たそうに欠伸を噛み殺しながら、石燕がこともなげに頷く。
彼の前に正座して、春右衛門は首を傾げた。
「で、あれば……。……斬らぬのですか?」
しかし、石燕はひらひらと手を振った。
「ああ。猫は素早いし、面倒くせえからな。それに、奴さんはまだ人を喰らっちゃいねえ」
「はあ……」
石燕が見事に物の怪を斬って捨てるところを見てしまったから、てっきり、彼は妖かしと見れば次々祓う無双の修験者のように思っていた。
だが、どうやら違うらしい。
しかし、描きかけの猫又の画は、これまた見事な筆致だった。
被衣のようなものを頭に引っかけて軒先を二本足で歩く様子は歩く様子は躍動的で、画の中の猫又は今にも次の一歩を踏み出しそうだ。※
画像:鳥山石燕「猫又」 (Public Domain), 出典: Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SekienNekomata.jpg
(今にも動き出しそうな画、か……。この御仁も、俺からするとモノノケ同然だな……)
彼も充分、春右衛門の理解の範疇を越えている。
と、見れば、その稀代の天才画師の頬が、げっそりとこけている。
人外に見えた天才が急にその辺の宿無しと大差ないように思えて、春右衛門は立ち上がった。
「石燕先生。また食事を怠けたでしょう」
「んん? どうだったかな……」
「ご自分でよくお聞きなされ。先生の腹の虫が、悲しそうに鳴いておりますよ」
稀代の天才画師の家庭教師のような顔をしてやれやれと首を振って、春右衛門は外の通りへぱっと出た。
折も折、ちょうどそこで夜鷹蕎が出店を出した呼び込みの音声が聞こえる。
黄昏刻よりは怖くない宵の口の江戸をひとっ走り駆けて、春右衛門はさっとかけ蕎麦を買ってきた。
石燕先生が寝そべったままもそもそと蕎麦を啜っている間に、春右衛門は大急ぎで台所に立って、残り物の大根を風呂吹きに仕立てた。
最近懇意になったお隣さんに味噌ダレを分けてもらって戻って添えて御膳に置くと、やっとのことで石燕先生が起き上がる。
「大根かァ……。タクアンが食いてえなあ」
「お好きなんですか?」
「うん。冬はずっと冷や飯にタクアンだ」
なかば眠っているような寝ぼけ眼で石燕は頷き、でも不思議にしっかりと口と箸は動いている。
向かいでちゃっかり彼のご相伴に預かって、春右衛門は顔をしかめた。
「むむ……」
---
ここまで読んでくださってありがとうございます!
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。
「……実はね。僕も妻を早くに亡くしました」
「えっ。それはまた……」
「そうしてみて思うのですがね。結婚など、そうよきものではありませんよ」
慰めるように、男やもめの九郎先生が春右衛門の肩をぽんと叩く。
春右衛門も、肩をすくめて頷いた。
「そのようですね。浮世というものは、何ともままならぬものです。望んだものほど手に入らないらしい。憧れているうちが花というものなのかもしれませぬ」
「ええ、そのようです。
まあ、春さんはまだ若い。いずれまた、よきご縁もありましょう。あなたはあなたのまま、焦らずいいご縁をお待ちなさればよい」
九郎先生が微笑んで言って、会釈をして去っていく。
教え子でもないのに〈先生〉とつい呼んでしまいたくなるような優しい助言と所作に、春右衛門は感心した。
……が、次の瞬間、息を呑む。
「……⁉」
黄昏に伸びた九郎先生の長い影が――おどろおどろしい骸骨の形をしていたのだ。
♢ 〇 ♢
「――起きておいでですか。石燕先生、モノノケでござ……」
慌てて例のあばら家に飛び込むと、風が吹き抜ける涼しい板の間に茣蓙を敷いて、石燕が寝転んでいた。
「んん……? 何だよ、またおまえさんか。相変わらず騒々しい奴だなあ……」
石燕がそうぼやく。
彼の手もとを見れば、行燈に細く灯を点して、のんべんだらりと筆が動き、画を描いている――これは、庭先をよく散歩している野良猫だ。
その画を見て、春右衛門はあっと目を見開いた。
猫のモノノケというなら有名だ。
春右衛門だって知っている。
その物の怪を眺め、驚いたままに春右衛門は呟いた。
「何と……。
あれは【猫又】でしたか。先生」
「うん。さっきまでそこで遊んでいた」
眠たそうに欠伸を噛み殺しながら、石燕がこともなげに頷く。
彼の前に正座して、春右衛門は首を傾げた。
「で、あれば……。……斬らぬのですか?」
しかし、石燕はひらひらと手を振った。
「ああ。猫は素早いし、面倒くせえからな。それに、奴さんはまだ人を喰らっちゃいねえ」
「はあ……」
石燕が見事に物の怪を斬って捨てるところを見てしまったから、てっきり、彼は妖かしと見れば次々祓う無双の修験者のように思っていた。
だが、どうやら違うらしい。
しかし、描きかけの猫又の画は、これまた見事な筆致だった。
被衣のようなものを頭に引っかけて軒先を二本足で歩く様子は歩く様子は躍動的で、画の中の猫又は今にも次の一歩を踏み出しそうだ。※
画像:鳥山石燕「猫又」 (Public Domain), 出典: Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SekienNekomata.jpg
(今にも動き出しそうな画、か……。この御仁も、俺からするとモノノケ同然だな……)
彼も充分、春右衛門の理解の範疇を越えている。
と、見れば、その稀代の天才画師の頬が、げっそりとこけている。
人外に見えた天才が急にその辺の宿無しと大差ないように思えて、春右衛門は立ち上がった。
「石燕先生。また食事を怠けたでしょう」
「んん? どうだったかな……」
「ご自分でよくお聞きなされ。先生の腹の虫が、悲しそうに鳴いておりますよ」
稀代の天才画師の家庭教師のような顔をしてやれやれと首を振って、春右衛門は外の通りへぱっと出た。
折も折、ちょうどそこで夜鷹蕎が出店を出した呼び込みの音声が聞こえる。
黄昏刻よりは怖くない宵の口の江戸をひとっ走り駆けて、春右衛門はさっとかけ蕎麦を買ってきた。
石燕先生が寝そべったままもそもそと蕎麦を啜っている間に、春右衛門は大急ぎで台所に立って、残り物の大根を風呂吹きに仕立てた。
最近懇意になったお隣さんに味噌ダレを分けてもらって戻って添えて御膳に置くと、やっとのことで石燕先生が起き上がる。
「大根かァ……。タクアンが食いてえなあ」
「お好きなんですか?」
「うん。冬はずっと冷や飯にタクアンだ」
なかば眠っているような寝ぼけ眼で石燕は頷き、でも不思議にしっかりと口と箸は動いている。
向かいでちゃっかり彼のご相伴に預かって、春右衛門は顔をしかめた。
「むむ……」
---
ここまで読んでくださってありがとうございます!
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。
0
あなたにおすすめの小説
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
怪蒐師
糸世朔
ホラー
第8回ホラー•ミステリー大賞で優秀賞を受賞しました。ありがとうございました!
●あらすじ
『階段をのぼるだけで一万円』
大学二年生の間宮は、同じ学部にも関わらず一度も話したことすらない三ツ橋に怪しげなアルバイトを紹介される。
三ツ橋に連れて行かれたテナントビルの事務所で出迎えたのは、イスルギと名乗る男だった。
男は言った。
ーー君の「階段をのぼるという体験」を買いたいんだ。
ーーもちろん、ただの階段じゃない。
イスルギは怪異の体験を売り買いする奇妙な男だった。
《目次》
第一話「十三階段」
第二話「忌み地」
第三話「凶宅」
第四話「呪詛箱」
第五話「肉人さん」
第六話「悪夢」
最終話「触穢」
※他サイトでも公開しています。
鷹鷲高校執事科
三石成
青春
経済社会が崩壊した後に、貴族制度が生まれた近未来。
東京都内に広大な敷地を持つ全寮制の鷹鷲高校には、貴族の子息が所属する帝王科と、そんな貴族に仕える、優秀な執事を育成するための執事科が設立されている。
物語の中心となるのは、鷹鷲高校男子部の三年生。
各々に悩みや望みを抱えた彼らは、高校三年生という貴重な一年間で、学校の行事や事件を通して、生涯の主人と執事を見つけていく。
表紙イラスト:燈実 黙(@off_the_lamp)
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。
皆さんは呪われました
禰津エソラ
ホラー
あなたは呪いたい相手はいますか?
お勧めの呪いがありますよ。
効果は絶大です。
ぜひ、試してみてください……
その呪いの因果は果てしなく絡みつく。呪いは誰のものになるのか。
最後に残るのは誰だ……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
