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第二話 亡霊、知らず生者の気を啜る
浄閑寺
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そうしてとうとう死んでしまって、弔い代も残せなかったような死者達が葬られる場所が、この町にはあった。
(……脚を失った女人は、あの夜、確かに北東から現れた)
どこを目指しているかはわからない。
だが、方角を単純に考えれば、あの哀れな女人は、北東から現れて南西を目指していたように思える。
向かった先は、江戸の北東。
身寄りのない娼婦や行き倒れの遺体がわずかばかりの香典とともに放り込まれる、いわゆる投げ込み寺――三ノ輪にある、〈浄閑寺〉だ。
♢ 〇 ♢
江戸市中北東の最果てに、浄閑寺はあった。
浄閑寺からさらに北上して隅田川を越えた先がもう五街道の一つたる日光(奥州)道中で、日本橋から一番目の宿場となる千住宿がある。
投げ込み寺と呼ばれるこの浄閑寺の墓地は広大で、弔っても弔ってもなお追いつかないホトケが現れるそうだ。
本堂に参詣してからそっと墓地へまわると――、……もう腐臭が鼻を突く。
春右衛門は、思わず顔をしかめた。
(う……。凄い臭いだ……)
蒸す季節が近づいているせいもあるかもしれない。
深く掘る間もなく死体が投げ込まれるためか、土が盛られたばかりの浅い墓穴からは土葬特有の湿気と死臭が漂っていた。
周辺に広がる林には黒い鴉が無数に飛び交い、鳴き声がカアカアと聞こえている。
死体を喰らう死出虫がそこら中を這いまわり、たかる先を探す蠅がブーンと羽音を鳴らす。蠅の子の蛆もそこかしこから無数に沸いていた。
(何と不吉な場所だろう……)
どこまでも際限なく続く墓。
ここはまるで、浮世と幽世の境界――江戸の黄泉平坂のよう。
春右衛門は、背筋にぞっと怖気を立てた。
この物悲しい投げ込み寺に埋葬されるのは、ほとんどが身寄りのない貧しい娼婦だそうだ。
「……『生まれては苦界、死しては浄閑寺』、か……」
花又花酔という誰とも知れぬ川柳人が詠んだ句だが、この哀れな女達の末路を見れば、そう詠みたくなった歌人の気持ちもわかる。※
娼婦のほとんどは、さんざんに身体を売らされた挙句に病を得て、二十歳を数年過ぎたあたりで死ぬ。
途上で言い訳のように買った花を持って、春右衛門は、このどうにもならない現実に立ちすくんだ。
これほどの悲劇がこの世には満ちているというのに……、自分には何とする力もない。
自分は、何と無力なのだろう。
その厳然たる悲しい現実を、まざまざと突きつけられるようだった。
すると、ふいに春右衛門は、桶と柄杓を持った老僧に声をかけられた。
「――そこなお若いお侍さん、いかがなさいました?」
「!」
皺枯れた声にはっとして振り返ると、痩せた僧形の老人が立っていた。
意外そうに目を丸くした老僧が、春右衛門が手に持った花に目をやる。
「おやおや。お知り合いの墓参りにお出でで?」
痩せて骨張った老和尚に訊かれ、春右衛門は目を白黒させて首を振った。
「い、いえ……」
「この浄閑寺のことはご存じでしょう。この辺りの墓地は、個人がわかるような埋葬はしておりませぬよ」
何も知らない子供に教えるように、老僧が言う。
つい今しがた土葬を終えたばかりのような彼の泥に汚れた姿を見て、春右衛門は咳払いをして頷いた。
「ええ。知っております」
どうも、この老僧の目には春右衛門がずいぶんと幼く見えるらしい。
いつものことといえばそうだが、何とか少しでも背が高く見えるように、春右衛門は胸を張って姿勢を正した。
子供の遣いでここへ来たわけじゃない。
自分は、もう一人前の武士なのだ。
死んだ哀れな女のために、何かできることをしてやりたい。
このまま何の収穫もなく、すごすごと帰る気はなかった。
春右衛門は、思いきって老僧に訊いた。
「少し前に、両脚のない哀れな女人の遺体が出たでしょう」
「うむ。出ましたな」
「彼女は心中の罪人です。きっとここへ埋葬されていると思いました。手を合わせる者もいないでしょう。彼女にせめて花でも手向けてやりたいと参った次第であります」
「彼女は、お侍さんの知り合いで?」
「いいえ。名も顔も知りません」
「では、噂だけを頼りにお出でなすったか」
「はい」
「ほう。何とも酔狂なお侍さんもいらしたものですな」
「す、すみませぬ。野次馬というつもりはないのですが……」
---
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
また、お気に入り登録してくださった方やしおりを挟んでくださった方、本当に嬉しいです!
凄く励みになっています。
引き続き更新頑張りますので、最後まで読んでいただけたら幸いです。
※零れ話
浄閑寺と花又花酔について書かれたURLがありましたので、記載しておきます。
https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/minamisenju001.html
(……脚を失った女人は、あの夜、確かに北東から現れた)
どこを目指しているかはわからない。
だが、方角を単純に考えれば、あの哀れな女人は、北東から現れて南西を目指していたように思える。
向かった先は、江戸の北東。
身寄りのない娼婦や行き倒れの遺体がわずかばかりの香典とともに放り込まれる、いわゆる投げ込み寺――三ノ輪にある、〈浄閑寺〉だ。
♢ 〇 ♢
江戸市中北東の最果てに、浄閑寺はあった。
浄閑寺からさらに北上して隅田川を越えた先がもう五街道の一つたる日光(奥州)道中で、日本橋から一番目の宿場となる千住宿がある。
投げ込み寺と呼ばれるこの浄閑寺の墓地は広大で、弔っても弔ってもなお追いつかないホトケが現れるそうだ。
本堂に参詣してからそっと墓地へまわると――、……もう腐臭が鼻を突く。
春右衛門は、思わず顔をしかめた。
(う……。凄い臭いだ……)
蒸す季節が近づいているせいもあるかもしれない。
深く掘る間もなく死体が投げ込まれるためか、土が盛られたばかりの浅い墓穴からは土葬特有の湿気と死臭が漂っていた。
周辺に広がる林には黒い鴉が無数に飛び交い、鳴き声がカアカアと聞こえている。
死体を喰らう死出虫がそこら中を這いまわり、たかる先を探す蠅がブーンと羽音を鳴らす。蠅の子の蛆もそこかしこから無数に沸いていた。
(何と不吉な場所だろう……)
どこまでも際限なく続く墓。
ここはまるで、浮世と幽世の境界――江戸の黄泉平坂のよう。
春右衛門は、背筋にぞっと怖気を立てた。
この物悲しい投げ込み寺に埋葬されるのは、ほとんどが身寄りのない貧しい娼婦だそうだ。
「……『生まれては苦界、死しては浄閑寺』、か……」
花又花酔という誰とも知れぬ川柳人が詠んだ句だが、この哀れな女達の末路を見れば、そう詠みたくなった歌人の気持ちもわかる。※
娼婦のほとんどは、さんざんに身体を売らされた挙句に病を得て、二十歳を数年過ぎたあたりで死ぬ。
途上で言い訳のように買った花を持って、春右衛門は、このどうにもならない現実に立ちすくんだ。
これほどの悲劇がこの世には満ちているというのに……、自分には何とする力もない。
自分は、何と無力なのだろう。
その厳然たる悲しい現実を、まざまざと突きつけられるようだった。
すると、ふいに春右衛門は、桶と柄杓を持った老僧に声をかけられた。
「――そこなお若いお侍さん、いかがなさいました?」
「!」
皺枯れた声にはっとして振り返ると、痩せた僧形の老人が立っていた。
意外そうに目を丸くした老僧が、春右衛門が手に持った花に目をやる。
「おやおや。お知り合いの墓参りにお出でで?」
痩せて骨張った老和尚に訊かれ、春右衛門は目を白黒させて首を振った。
「い、いえ……」
「この浄閑寺のことはご存じでしょう。この辺りの墓地は、個人がわかるような埋葬はしておりませぬよ」
何も知らない子供に教えるように、老僧が言う。
つい今しがた土葬を終えたばかりのような彼の泥に汚れた姿を見て、春右衛門は咳払いをして頷いた。
「ええ。知っております」
どうも、この老僧の目には春右衛門がずいぶんと幼く見えるらしい。
いつものことといえばそうだが、何とか少しでも背が高く見えるように、春右衛門は胸を張って姿勢を正した。
子供の遣いでここへ来たわけじゃない。
自分は、もう一人前の武士なのだ。
死んだ哀れな女のために、何かできることをしてやりたい。
このまま何の収穫もなく、すごすごと帰る気はなかった。
春右衛門は、思いきって老僧に訊いた。
「少し前に、両脚のない哀れな女人の遺体が出たでしょう」
「うむ。出ましたな」
「彼女は心中の罪人です。きっとここへ埋葬されていると思いました。手を合わせる者もいないでしょう。彼女にせめて花でも手向けてやりたいと参った次第であります」
「彼女は、お侍さんの知り合いで?」
「いいえ。名も顔も知りません」
「では、噂だけを頼りにお出でなすったか」
「はい」
「ほう。何とも酔狂なお侍さんもいらしたものですな」
「す、すみませぬ。野次馬というつもりはないのですが……」
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ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
また、お気に入り登録してくださった方やしおりを挟んでくださった方、本当に嬉しいです!
凄く励みになっています。
引き続き更新頑張りますので、最後まで読んでいただけたら幸いです。
※零れ話
浄閑寺と花又花酔について書かれたURLがありましたので、記載しておきます。
https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/minamisenju001.html
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