【完結】カフェ店長の困惑~彼を拾った夜から甘く攻められ溺れていくまで~

はなたろう

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14. 優秀な秘書への業務命令 (梨夏の視点)

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梨夏がオフィスで作業をしていると、廊下からカツン、カツンと響く足音がした。神経質な歩き方、この部屋の主が帰ってきた。

パソコンを打つ手を止め、梨夏はスッと立ち上がった。

すぐにドアが開いて隼人が入ってくる。普段と変わらない毅然とした足取りだが、その表情には微かな疲労の色が滲んでいるようにも見えた。


「常務、お帰りなさいませ」


梨夏は真面目で優秀な秘書だ。まだ、2人が恋人関係であったときさえ、変わらず公私の区別は徹底していた。


「ただいま」


隼人は簡潔に答え、ビジネスバッグを梨夏に手渡すと、革張りの椅子に深く身を沈めた。ネクタイを少し緩め、深く息を吐く。


「圭人から、結婚式の招待状の返事が届いたよ」


その一言に、梨夏は微かに眉をひそめた。

前回、結婚式の招待状を渡すとき、圭人を見下し彼の努力を否定するような発言があった。

しかし、隼人には弟への悪意がないことは、梨夏にはよく分かっていた。兄として、弟を心配しているが故の、不器用な表現なのだと。人の愛し方が下手な、かわいそうな男だということを、よく知っていた。


「圭人さんのお返事は?」


梨夏はすぐにポーカーフェイスを取り戻し、努めて冷静に問いかけた。


「出席だと。少しは大人になったようだ」

「そうですか。社長も安心されるのではないでしょうか」

「ああ、そうだな」


梨夏はコーヒーを淹れて、そっとテーブルに置いた。ふわりと香り。


「圭人の店は繁盛しているようだな。あいつもそれなりに努力はしているんだろう」


隼人は言葉を切ると、深くため息をついた。


「だが、いつまで続ける気だ?このままでいいとは思わない。好きなことばかりできないだろう」

梨夏は黙って隼人の言葉に耳を傾けた。隼人の懸念は理解できる。彼が背負うものの大きさを、梨夏は誰よりも知っていたからだ。


「梨夏」


隼人が、不意に梨夏の名を呼んだ。その声は、秘書に向けるそれとは少し違っていた。どこか甘えるような響きがあった。


「お前は、圭人のことをよく理解しているようだな」

「いえ、そんなことはありません」


梨夏の目には、言葉とは裏腹に、圭人を慈しむような感情が滲んでいた。隼人は、その梨夏のまなざしをじっと見つめる。

「今は二人だけなんだ。かしこまった話し方はやめてくれ」

「お言葉ですが業務中です。それに、もうプライベートな関係は解消されたはずです」

「梨夏、頼むよ」

「それなら、業務命令だと判断します」

「ああ。それでいい。いつも通りにしてくれ」


隼人は胸ポケットから紙タバコを取り出した。ほとんど吸わない代わりに、流行りの電子タバコではなく、馴染みの紙タバコを好む。


「吸うか?」

「社内禁煙よ。常務が個室をいいことに、こっそり吸っているなんて、他の社員が知ったらどうするの?」

「少しくらい悪さもしないと、パンクするんだよ」

「それなら、共犯者になってあげるわ」


ソファに二人で並び、タバコに火をつけた。肩を並べて、同時にふっと紫煙を吐く。梨夏の表情から、ビジネスライクな仮面が剥がれ落ち、柔らかい、本来の彼女の顔が覗く。


「隼人は、圭人が羨ましいのね」


隼人は息を呑んだ。


「幼い頃から、あなたは常に『長男』としての責任を背負わされてきた。敷かれたレールの上を歩くことが、あなたの人生だった。選ぶ自由なんて、なかったんでしょう?」


梨夏の声は、隼人の痛みに寄り添うようだった。

「それなのに、弟は家を出て自由を選んだ」


隼人は黙って、高い天井に昇る紫煙を見ている。


「あなたは会社のため、必死に働き貢献しているのに、弟は楽しそうにしている。そして、厳格なお父様は、自由奔放な次男が、その実かわいいと思っている」


この会社の社長、つまり隼人と圭人の父親が、飲みの席で話していたのを思い出す。


「圭人には俺にはない行動力がある、だろう?親父が良く言うことさ。勝手なもんだよな」


隼人が天井を仰いだ。


「圭人くんの自由は、隼人の不自由の上に成り立っている、そう思うわ」


梨夏の言葉に、隼人は目を細めた。 隼人が圭人へ抱く、誰にも言えない、嫉妬と憧れを肯定する、そんな響きが混じり合っていた。


「圭人の働き先を提供したのは梨夏だろう。張本人が何を言っているんだか」

「あら。たまたま私の家の近くに、圭人くんが落ちていたのよ。私は、捨て猫と一緒に拾っただけ。そしたら、たまたま、当時の恋人の弟だった」

「たまたま、な」

「親戚が経営するカフェを紹介したら、いつのまにか、高齢のオーナーから店を引き継いでいた。ただそれだけよ」

「いつのまにか、な」


梨夏の言葉に、隼人は口元を綻ばせた。


「梨夏と出会っていなければ、今ごろ圭人はどうなっていただろうな。そこらで野垂れ死んでいた、その可能性だってゼロではない。本当は感謝しているよ。親父も同じだろう」

「どうかしらね。私が余計なことをしなければ、とっくに家に戻って、あなたや社長と働いていたかも」

「いや、それはないだろう」


梨夏と出会わなければ、両親が捜索願を出して、家に引きずり戻したはずだ。そして、『今はそっとしておくべき』と、両親を説得していたのは、他の誰でもない、兄の隼人だった。


「梨夏、君は本当に俺の良き理解者だよ」

「あら、今さらね。私、フラれたのよ?」


傾き始めた会社の未来のため、梨夏との婚約を破棄して、取引先の令嬢との結婚を決めたのは隼人自身だ。しかし、梨夏は責めることなく、秘書を続けると言い切った。


隼人は梨夏の視線を受け止めると、フッと自嘲気味に笑った。


「結婚式には、参列してくれるんだろう?」

「業務命令とあらば参列します。でも、奥さまは心穏やかではないでしょうね」


隼人と梨夏が恋人関係にあり、結婚話まで決まっていたことは広く知られていた。


「あまり着飾らないでくれよ。俺の花嫁が霞んでしまうからな」

「それは無理な相談ね。私、美人だもの」

「ふ、それもそうだな」


隼人はそれ以上は語らず、再び静かに目を閉じた。


「梨夏」

「なに?」

「もし、想う人がいるなら、今度こそ幸せになってほしい」


梨夏はその言葉に答える代わりに、タバコの火を静かに消した。

彼女の胸に去来したのは、隼人への感謝と、そして、圭人の笑顔だった。


「仕事に戻りましょう。常務、午後の予定をお伝えします」

「本当に、有能な秘書だな」


隼人はネクタイを締めなおすと、立ち上がり自分のデスクへ座った。

会社のために、愛していない女と結婚することを決めたかつての恋人は、弟を心配しながらも素直になれない。彼が梨夏に抱く複雑な信頼と未練。梨夏にとって、隼人もまた、どこか放っておけない存在だった。

そして、圭人は、梨夏の寂しい心を温めてくれる存在。圭人と出会って救われたのは、圭人だけではない。梨夏自身もまた、圭人に救われていた。

性格も選ぶ道も異なる兄弟は、どちらも、梨夏にとっては大切な存在なのだ。
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