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11. 甘いココアと優しさ
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隼人と梨夏が帰ったあと、店内に残ったのは冷え切った空気と、言いようのない重さだけだった。
客足はすっかり途絶えてしまった。
ソラは黙ってカウンターを回り込み、キッチンへ立った。
ほどなくして、ふわっと甘いココアの匂いが漂う。
「はい、疲れたときは甘いものだよね」
温かいマグカップを差し出され、俺は無言で受け取った。
ソラは俺をソファ席に座らせると、自分も隣に腰を下ろした。
「僕でよければ、なんでも聞くよ?」
俺はマグカップを両手で包み、熱を分け与えてもらうように冷えた指先を温めた。
「俺は昔から、あいつの影で生きてきたんだ」
「うん、そっか」
自分でも驚くほど、声が弱々しかった。
何をしても『隼人のように』『隼人はできたのに』と言われ続け、俺の存在はいつも兄の優秀さの引き立て役だった。
どうせ何をやっても隼人には勝てない。そう思っていた俺に――、
『圭人くんは圭人くんのままでいい』
そう言ってくれたのが、梨夏だった。
猫と共に助けられたあの夏から、梨夏と親しくなった。美人なのに酒豪で豪傑で、姉というより理想の兄みたいな人だった。
俺が梨夏に惹かれたのは、ごく自然なことだった。
だが、彼女が隼人の恋人だと知ったとき、俺は声を荒げて問い詰めた。
『俺が隼人の弟だから、親切にしてくれたのか?』
『あら、だから何か?隼人の弟として接したことなんてないわ。圭人は圭人じゃないの』
はじめて自分を肯定してくれた女性は、俺のコンプレックスの塊である隼人を愛している。
どうしようもない矛盾。
だけど、梨夏が幸せならいい。そう願ったのに、隼人は別の女性を選んだ。
そして、今日。
『お前は昔から、俺のお下がりがお似合いだよ』
兄の冷たい言葉が、頭の中で何度も反響する。
ソラは俺の肩に頭を預け、いたずらっぽく笑った。
「僕も梨夏さん、好きだよ」
「そうか」
「夜の仕事をしていると、たくさんキレイな女性と会うけど、心までキレイな人はあんまりいない。梨夏さんは、いい匂いがする。圭人と同じで、一緒にいると心地いい匂いだ」
それが、胸をチクリと刺した。
「だからかな。やっぱり妬けるね」
ソラは俺の服の裾をきゅっと握った。
まるで不満を訴える猫みたいに、口元をわずかに尖らせる。
「今は僕の方がケイとずっと一緒にいるのに。ケイの心には梨夏さんがいるんだね」
「俺は梨夏には相応しくないよ」
「どうしてそんなに自分を卑下するの。美味しいコーヒーも淹れられるし、常連さんはケイに会いに来るんだ」
ソラは体を起こし、俺の頬にそっとキスを落とした。それは、慰めであり、少し甘い誘惑でもあった。
「優しくて、ちゃんと怒れる。人の痛みに鈍感ではない。素敵なことだよ」
ソラの声は、まっすぐでやさしかった。
「ケイは、そのままで大丈夫だよ」
胸の奥がかすかに痛んだ。
ソラは再び俺の肩に頭を預けた。その体温が、少しずつ心の奥に染みていく。
俺の肩にもたれかかるソラの声が、子守唄みたいに優しく響く。
――この子に救われているのは、きっと俺のほうだ。
「僕にときめいた?」
「は?」
「このまま、いい感じになるのはどう?」
ソラが俺の膝に手を置いた。
「コラ!」
俺が軽く払いのけると、ソラは少し唇を尖らせて、しかし目はまっすぐ俺を見つめていた。
「梨夏さんは、お兄さんの元婚約者なんだ」
「ああ」
「なるほどね。だから、ケイは梨夏さんを『好き』なんじゃなくて、『好きになったらいけない相手』と思っているわけだ」
「それは――」
「本当のところ、梨夏さんとは、どうなの?」
「ど、どうって……、何もないよ」
心の奥にしまい込んでいた、夜の記憶の欠片が散らつく。
「あやしい」
ソラがジロリと俺を睨んだ。
そのとき、カランカラン、とドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
反射的に体が跳ね上がる。
俺は慌てて顔の熱を冷まし、客に笑顔を向けた。ソラも一瞬で、いつもの猫のような無邪気な表情に戻り、客の方を向く。
「ご注文をどうぞ」
現実が、俺を弱さから引き戻した。
客足はすっかり途絶えてしまった。
ソラは黙ってカウンターを回り込み、キッチンへ立った。
ほどなくして、ふわっと甘いココアの匂いが漂う。
「はい、疲れたときは甘いものだよね」
温かいマグカップを差し出され、俺は無言で受け取った。
ソラは俺をソファ席に座らせると、自分も隣に腰を下ろした。
「僕でよければ、なんでも聞くよ?」
俺はマグカップを両手で包み、熱を分け与えてもらうように冷えた指先を温めた。
「俺は昔から、あいつの影で生きてきたんだ」
「うん、そっか」
自分でも驚くほど、声が弱々しかった。
何をしても『隼人のように』『隼人はできたのに』と言われ続け、俺の存在はいつも兄の優秀さの引き立て役だった。
どうせ何をやっても隼人には勝てない。そう思っていた俺に――、
『圭人くんは圭人くんのままでいい』
そう言ってくれたのが、梨夏だった。
猫と共に助けられたあの夏から、梨夏と親しくなった。美人なのに酒豪で豪傑で、姉というより理想の兄みたいな人だった。
俺が梨夏に惹かれたのは、ごく自然なことだった。
だが、彼女が隼人の恋人だと知ったとき、俺は声を荒げて問い詰めた。
『俺が隼人の弟だから、親切にしてくれたのか?』
『あら、だから何か?隼人の弟として接したことなんてないわ。圭人は圭人じゃないの』
はじめて自分を肯定してくれた女性は、俺のコンプレックスの塊である隼人を愛している。
どうしようもない矛盾。
だけど、梨夏が幸せならいい。そう願ったのに、隼人は別の女性を選んだ。
そして、今日。
『お前は昔から、俺のお下がりがお似合いだよ』
兄の冷たい言葉が、頭の中で何度も反響する。
ソラは俺の肩に頭を預け、いたずらっぽく笑った。
「僕も梨夏さん、好きだよ」
「そうか」
「夜の仕事をしていると、たくさんキレイな女性と会うけど、心までキレイな人はあんまりいない。梨夏さんは、いい匂いがする。圭人と同じで、一緒にいると心地いい匂いだ」
それが、胸をチクリと刺した。
「だからかな。やっぱり妬けるね」
ソラは俺の服の裾をきゅっと握った。
まるで不満を訴える猫みたいに、口元をわずかに尖らせる。
「今は僕の方がケイとずっと一緒にいるのに。ケイの心には梨夏さんがいるんだね」
「俺は梨夏には相応しくないよ」
「どうしてそんなに自分を卑下するの。美味しいコーヒーも淹れられるし、常連さんはケイに会いに来るんだ」
ソラは体を起こし、俺の頬にそっとキスを落とした。それは、慰めであり、少し甘い誘惑でもあった。
「優しくて、ちゃんと怒れる。人の痛みに鈍感ではない。素敵なことだよ」
ソラの声は、まっすぐでやさしかった。
「ケイは、そのままで大丈夫だよ」
胸の奥がかすかに痛んだ。
ソラは再び俺の肩に頭を預けた。その体温が、少しずつ心の奥に染みていく。
俺の肩にもたれかかるソラの声が、子守唄みたいに優しく響く。
――この子に救われているのは、きっと俺のほうだ。
「僕にときめいた?」
「は?」
「このまま、いい感じになるのはどう?」
ソラが俺の膝に手を置いた。
「コラ!」
俺が軽く払いのけると、ソラは少し唇を尖らせて、しかし目はまっすぐ俺を見つめていた。
「梨夏さんは、お兄さんの元婚約者なんだ」
「ああ」
「なるほどね。だから、ケイは梨夏さんを『好き』なんじゃなくて、『好きになったらいけない相手』と思っているわけだ」
「それは――」
「本当のところ、梨夏さんとは、どうなの?」
「ど、どうって……、何もないよ」
心の奥にしまい込んでいた、夜の記憶の欠片が散らつく。
「あやしい」
ソラがジロリと俺を睨んだ。
そのとき、カランカラン、とドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
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俺は慌てて顔の熱を冷まし、客に笑顔を向けた。ソラも一瞬で、いつもの猫のような無邪気な表情に戻り、客の方を向く。
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現実が、俺を弱さから引き戻した。
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