3 / 9
第3話 圧倒的に有利な立場ですが
しおりを挟む
「もう一度、お聞きしますね」
私の声に、応接室の空気がぴんと張り詰めます。
丸々とした夫は、視線を彷徨わせながら、汗をぬぐうばかり。
テーブルの上の茶器は冷え切り、淹れたばかりの茶も不味くなっています。
壁の片隅に掛けられたガス灯が、チリチリと音を立てるばかりで、この重苦しい沈黙を破るものはありませんでした。
「先ほど私を迎えたご婦人は、どなたでいらっしゃいます?新しい女中を雇ったなど、聞いておりません」
「そ、それは……」
言葉を濁す様子で、すでに答えは出ています。妻を欺くほどの才覚は、この人にはありませんから。
「繰り返しますが、松島家の女主人は私です」
「そのとおりだ」
「使用人の管理も私の務めです。たとえ私が、今は藤堂家にお仕えしている身であっても、なんの報告も無く、人を無断で雇うなどあり得ません」
「す、すまん」
「この家の格式を保つことこそ、私の役目ですから」
私の言葉に、夫は縮こまり、椅子の上で大きな身体を小さく見せました。
――ああ、まったく。
どうして私はこの人と結婚したのでしょう。
いえ、この人もまた、私と結婚せずに済んだ方が幸せだったのかもしれません。
少なくとも、彼は誰かを従え導くには、あまりにも頼りなさすぎます。
「そんなに、怒らなくてもいいじゃないか。キレイな顔が台無しだよ」
「怒ってなどおりません。それに、無駄な褒め言葉は不愉快なだけです。私は、ただ事実を問うているだけです」
夫の視線が泳ぎ、沈黙が応接室を支配します。やがて私はため息をひとつ吐き、核心に触れました。
「妾はどちらにいるのです?」
その瞬間、夫の丸い顔がさらに丸く歪みました。池の鯉のように、声もなく口をパクパクさせます。
「……あ、あの、その……」
「正直にお答えください。瑠璃子お嬢様の旦那様、聖人様に会って、ペラペラとお話になったのは、いったいどの口でいらっしゃいますか?」
後先考えずに話してしまうほど、嬉しかったのでしょうね。
例え落ちぶれた士族でも、松島家の跡取りを望む気持ちは、彼も同じなのですから。
「ご、ごめん……」
小さく頭を下げられました。
「離縁なさいますか?それとも、その妾を屋敷から追い出しますか?」
私の問いに、夫は唾を飲み込む音を響かせました。
「り、離縁なんて……できないよ」
――やはり。
せめて「妾と子を守りたい」とでも言えば、わずかに見直したかもしれません。
けれど、この人はそれすら言えません。想像通り、いや、想像を下回る情けなさです。
「では、話は以上ですわね」
私はきっぱりと言い放ちました。
「あ、待ってくれ!」
松島家には、金銭的な余裕はございません。
私が藤堂家で得る給金こそ、この家を支える大事な収入源なのです。
玄関に飾られた、色褪せた錦絵のように、この家の栄華も過去のものなのです。
時代の流れは早く、努力なくして廃れていく士族の多いこと。松島家もその類いでした。
私もまた、武家の血を引く者ですが、松島家よりは大きく、今ではお父様は実業家として汗を流しております。
私もまた、藤堂家にお仕えすることで、自立の道を模索してまいりました。
結婚にあたり、支度金と花嫁道具は、それなりのものを用意いたしました。
実家から援助を受け、松島家を支えてきたこともございました。
子供を産めない嫁にも関わらず、義父母が私に「離縁せよ」と迫らなかったのは、その事情があったからに他なりません。
「今後は、勝手な判断は控えていただきます。例え女主人である私が不在でも、報告と相談だけは怠らぬように」
「わ、分かったよ。すまない」
夫はなおも笑みで取り繕おうとしますが、その笑顔に誠実さは感じられません。
いっそ怒鳴り散らすか、拳を振り上げるかしてくれた方が、まだ人間らしいというのに。
「それでは、ごきげんよう」
これ以上言葉を交わしても、互いのためになりません。
汽車の時間までに、私にはまだ、やるべきことが残っていますから。
――次回、第4話へ続きます。
私の声に、応接室の空気がぴんと張り詰めます。
丸々とした夫は、視線を彷徨わせながら、汗をぬぐうばかり。
テーブルの上の茶器は冷え切り、淹れたばかりの茶も不味くなっています。
壁の片隅に掛けられたガス灯が、チリチリと音を立てるばかりで、この重苦しい沈黙を破るものはありませんでした。
「先ほど私を迎えたご婦人は、どなたでいらっしゃいます?新しい女中を雇ったなど、聞いておりません」
「そ、それは……」
言葉を濁す様子で、すでに答えは出ています。妻を欺くほどの才覚は、この人にはありませんから。
「繰り返しますが、松島家の女主人は私です」
「そのとおりだ」
「使用人の管理も私の務めです。たとえ私が、今は藤堂家にお仕えしている身であっても、なんの報告も無く、人を無断で雇うなどあり得ません」
「す、すまん」
「この家の格式を保つことこそ、私の役目ですから」
私の言葉に、夫は縮こまり、椅子の上で大きな身体を小さく見せました。
――ああ、まったく。
どうして私はこの人と結婚したのでしょう。
いえ、この人もまた、私と結婚せずに済んだ方が幸せだったのかもしれません。
少なくとも、彼は誰かを従え導くには、あまりにも頼りなさすぎます。
「そんなに、怒らなくてもいいじゃないか。キレイな顔が台無しだよ」
「怒ってなどおりません。それに、無駄な褒め言葉は不愉快なだけです。私は、ただ事実を問うているだけです」
夫の視線が泳ぎ、沈黙が応接室を支配します。やがて私はため息をひとつ吐き、核心に触れました。
「妾はどちらにいるのです?」
その瞬間、夫の丸い顔がさらに丸く歪みました。池の鯉のように、声もなく口をパクパクさせます。
「……あ、あの、その……」
「正直にお答えください。瑠璃子お嬢様の旦那様、聖人様に会って、ペラペラとお話になったのは、いったいどの口でいらっしゃいますか?」
後先考えずに話してしまうほど、嬉しかったのでしょうね。
例え落ちぶれた士族でも、松島家の跡取りを望む気持ちは、彼も同じなのですから。
「ご、ごめん……」
小さく頭を下げられました。
「離縁なさいますか?それとも、その妾を屋敷から追い出しますか?」
私の問いに、夫は唾を飲み込む音を響かせました。
「り、離縁なんて……できないよ」
――やはり。
せめて「妾と子を守りたい」とでも言えば、わずかに見直したかもしれません。
けれど、この人はそれすら言えません。想像通り、いや、想像を下回る情けなさです。
「では、話は以上ですわね」
私はきっぱりと言い放ちました。
「あ、待ってくれ!」
松島家には、金銭的な余裕はございません。
私が藤堂家で得る給金こそ、この家を支える大事な収入源なのです。
玄関に飾られた、色褪せた錦絵のように、この家の栄華も過去のものなのです。
時代の流れは早く、努力なくして廃れていく士族の多いこと。松島家もその類いでした。
私もまた、武家の血を引く者ですが、松島家よりは大きく、今ではお父様は実業家として汗を流しております。
私もまた、藤堂家にお仕えすることで、自立の道を模索してまいりました。
結婚にあたり、支度金と花嫁道具は、それなりのものを用意いたしました。
実家から援助を受け、松島家を支えてきたこともございました。
子供を産めない嫁にも関わらず、義父母が私に「離縁せよ」と迫らなかったのは、その事情があったからに他なりません。
「今後は、勝手な判断は控えていただきます。例え女主人である私が不在でも、報告と相談だけは怠らぬように」
「わ、分かったよ。すまない」
夫はなおも笑みで取り繕おうとしますが、その笑顔に誠実さは感じられません。
いっそ怒鳴り散らすか、拳を振り上げるかしてくれた方が、まだ人間らしいというのに。
「それでは、ごきげんよう」
これ以上言葉を交わしても、互いのためになりません。
汽車の時間までに、私にはまだ、やるべきことが残っていますから。
――次回、第4話へ続きます。
0
あなたにおすすめの小説
国宝級イケメンとのキスは、最上級に甘いドルチェみたいに私をとろけさせます♡ 〈Dulcisシリーズ〉
はなたろう
恋愛
人気アイドルとの秘密の恋愛♡コウキは俳優やモデルとしても活躍するアイドル。クールで優しいけど、ベッドでは少し意地悪でやきもちやき。彼女の美咲を溺愛し、他の男に取られないかと不安になることも。出会いから交際を経て、甘いキスで溶ける日々の物語。
★みなさまの心にいる、推しを思いながら読んでください
◆出会い編あらすじ
毎日同じ、変わらない。都会の片隅にある植物園で働く美咲。
そこに毎週やってくる、おしゃれで長身の男性。カメラが趣味らい。この日は初めて会話をしたけど、ちょっと変わった人だなーと思っていた。
まさか、その彼が人気アイドル、dulcis〈ドゥルキス〉のメンバーだとは気づきもしなかった。
毎日同じだと思っていた日常、ついに変わるときがきた。
◆登場人物
佐倉 美咲(25) 公園の管理運営企業に勤める。植物園のスタッフから本社の企画営業部へ異動
天見 光季(27) 人気アイドルグループ、dulcis(ドゥルキス)のメンバー。俳優業で活躍中、自然の写真を撮るのが趣味
お読みいただきありがとうございます!
★番外編はこちらに集約してます。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/411579529/693947517
★最年少、甘えん坊ケイタとバツイチ×アラサーの恋愛はじめました。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/411579529/408954279
あなたの言うことが、すべて正しかったです
Mag_Mel
恋愛
「私に愛されるなどと勘違いしないでもらいたい。なにせ君は……そうだな。在庫処分間近の見切り品、というやつなのだから」
名ばかりの政略結婚の初夜、リディアは夫ナーシェン・トラヴィスにそう言い放たれた。しかも彼が愛しているのは、まだ十一歳の少女。彼女が成人する五年後には離縁するつもりだと、当然のように言い放たれる。
絶望と屈辱の中、病に倒れたことをきっかけにリディアは目を覚ます。放漫経営で傾いたトラヴィス商会の惨状を知り、持ち前の商才で立て直しに挑んだのだ。執事長ベネディクトの力を借りた彼女はやがて商会を支える柱となる。
そして、運命の五年後。
リディアに離縁を突きつけられたナーシェンは――かつて自らが吐いた「見切り品」という言葉に相応しい、哀れな姿となっていた。
*小説家になろうでも投稿中です
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる