7 / 9
第七話 私の帰るところ
しおりを挟む
車は滑らかに、しかし力強く進んでいく。
窓外の景色は、田園風景の中、ひときわ大きな邸宅が見えました。
ふと、侯爵家へ初めて足を踏み入れた日のことが、脳裏に甦りました。
まだ10代半ばの、小娘だった私。
実家は確かに士族の端くれではあったが、父は明治維新の波を読み、いち早く実業家へと転身しました。
「香里奈。これからの時代、女も男に劣らず、手に職をつけ、自立する術を学ぶべきだ」
父はいつもそう言っていた。変わり行く日本の未来を、見通していたのでしょう。
幼い頃から、私は武家ならではの、厳しい教育を受けてきました。
薙刀、茶道、華道、書道はもちろん、家計の管理、病人の看護まで。
そして何より、いかなる時も感情を表に出さぬこと――。
「女は冷静沈着であれ」
刀の代わりに算盤を持つ父に教えられたのだ。
その鍛えられた心身が、侯爵家という未知の世界で生き抜く糧となったのでしょう。
初めて侯爵家の門をくぐった時の衝撃は、今でも鮮明に覚えています。
広大な敷地、絢爛豪華な屋敷、そして厳格な規律。
不安と緊張で胸が張り裂けそうだったあの日、一人の少女が私の前に現れた。
「香里奈さん?」
幼い瑠璃子様だった。
まだ五歳か六歳だっただろうか。絹のような黒髪を肩まで伸ばし、透き通るような白い肌。瞳は大きな黒曜石のようです。
そんな、愛らしいお嬢様が、私をまっすぐ見つめていた。
「は、はい……香里奈と申します」
か細い私の声に、瑠璃子様はふふっと笑った。
「ふふ、そんなに怖がらなくてもいいのよ。私は瑠璃子。よろしくね、香里奈さん」
その瞬間、私の心の氷が溶けるのを感じた。
それからの日々は、全てが瑠璃子様と共にあった。
私は瑠璃子様のお相手役として、学問、作法、芸術、そして日常のすべてを共にした。
朝は目覚めから夜は寝かしつけまで、文字通り、片時も離れることなく。彼女の成長は、そのまま私の成長でもあった。
私が厳しく躾け、時には涙を流させたこともあった。
「香里奈なんて嫌い!鬼!」
そう言って泣きじゃくる瑠璃子様を、私は決して甘やかさなかった。
「お嬢様。侯爵家の淑女たるもの、そのようなわがままは許されません。涙は拭き、再び書物に向かってください」
そう言いながらも、私の胸中は常に、幼い彼女への深い愛情に満たされていた。
私は瑠璃子様にとって、単なる女中ではなかった。
友人であり、姉であり、そしてもう一人の母のような存在だったのかもしれない。私を深く信頼し、公私にわたり、誰よりも私を頼ってくれた。
私が松島家へ嫁ぐ日、瑠璃子様はめずらしく、人目を憚らず号泣された。
「寂しくなるわ」
あの時の瑠璃子様の悲痛な声は、今でも私の耳の奥に残っています。
嫁いでからは、手紙でのやり取りが続きました。
やがて、子宝に恵まれず悩んだ末、松島の家を出て、実家に身を寄せようかと思っていたときです。瑠璃子お嬢様から返事が届いたのです。
『あなたの実家は、藤堂家ではなくて?』
端正な美しい字が、涙で滲んでしまいました。
瑠璃子様は、今や見事な淑女となられた。教養深く、聡明で、そして何よりも慈愛に満ちているのです。
――次回、第8話へ続きます。
窓外の景色は、田園風景の中、ひときわ大きな邸宅が見えました。
ふと、侯爵家へ初めて足を踏み入れた日のことが、脳裏に甦りました。
まだ10代半ばの、小娘だった私。
実家は確かに士族の端くれではあったが、父は明治維新の波を読み、いち早く実業家へと転身しました。
「香里奈。これからの時代、女も男に劣らず、手に職をつけ、自立する術を学ぶべきだ」
父はいつもそう言っていた。変わり行く日本の未来を、見通していたのでしょう。
幼い頃から、私は武家ならではの、厳しい教育を受けてきました。
薙刀、茶道、華道、書道はもちろん、家計の管理、病人の看護まで。
そして何より、いかなる時も感情を表に出さぬこと――。
「女は冷静沈着であれ」
刀の代わりに算盤を持つ父に教えられたのだ。
その鍛えられた心身が、侯爵家という未知の世界で生き抜く糧となったのでしょう。
初めて侯爵家の門をくぐった時の衝撃は、今でも鮮明に覚えています。
広大な敷地、絢爛豪華な屋敷、そして厳格な規律。
不安と緊張で胸が張り裂けそうだったあの日、一人の少女が私の前に現れた。
「香里奈さん?」
幼い瑠璃子様だった。
まだ五歳か六歳だっただろうか。絹のような黒髪を肩まで伸ばし、透き通るような白い肌。瞳は大きな黒曜石のようです。
そんな、愛らしいお嬢様が、私をまっすぐ見つめていた。
「は、はい……香里奈と申します」
か細い私の声に、瑠璃子様はふふっと笑った。
「ふふ、そんなに怖がらなくてもいいのよ。私は瑠璃子。よろしくね、香里奈さん」
その瞬間、私の心の氷が溶けるのを感じた。
それからの日々は、全てが瑠璃子様と共にあった。
私は瑠璃子様のお相手役として、学問、作法、芸術、そして日常のすべてを共にした。
朝は目覚めから夜は寝かしつけまで、文字通り、片時も離れることなく。彼女の成長は、そのまま私の成長でもあった。
私が厳しく躾け、時には涙を流させたこともあった。
「香里奈なんて嫌い!鬼!」
そう言って泣きじゃくる瑠璃子様を、私は決して甘やかさなかった。
「お嬢様。侯爵家の淑女たるもの、そのようなわがままは許されません。涙は拭き、再び書物に向かってください」
そう言いながらも、私の胸中は常に、幼い彼女への深い愛情に満たされていた。
私は瑠璃子様にとって、単なる女中ではなかった。
友人であり、姉であり、そしてもう一人の母のような存在だったのかもしれない。私を深く信頼し、公私にわたり、誰よりも私を頼ってくれた。
私が松島家へ嫁ぐ日、瑠璃子様はめずらしく、人目を憚らず号泣された。
「寂しくなるわ」
あの時の瑠璃子様の悲痛な声は、今でも私の耳の奥に残っています。
嫁いでからは、手紙でのやり取りが続きました。
やがて、子宝に恵まれず悩んだ末、松島の家を出て、実家に身を寄せようかと思っていたときです。瑠璃子お嬢様から返事が届いたのです。
『あなたの実家は、藤堂家ではなくて?』
端正な美しい字が、涙で滲んでしまいました。
瑠璃子様は、今や見事な淑女となられた。教養深く、聡明で、そして何よりも慈愛に満ちているのです。
――次回、第8話へ続きます。
0
あなたにおすすめの小説
国宝級イケメンとのキスは、最上級に甘いドルチェみたいに私をとろけさせます♡ 〈Dulcisシリーズ〉
はなたろう
恋愛
人気アイドルとの秘密の恋愛♡コウキは俳優やモデルとしても活躍するアイドル。クールで優しいけど、ベッドでは少し意地悪でやきもちやき。彼女の美咲を溺愛し、他の男に取られないかと不安になることも。出会いから交際を経て、甘いキスで溶ける日々の物語。
★みなさまの心にいる、推しを思いながら読んでください
◆出会い編あらすじ
毎日同じ、変わらない。都会の片隅にある植物園で働く美咲。
そこに毎週やってくる、おしゃれで長身の男性。カメラが趣味らい。この日は初めて会話をしたけど、ちょっと変わった人だなーと思っていた。
まさか、その彼が人気アイドル、dulcis〈ドゥルキス〉のメンバーだとは気づきもしなかった。
毎日同じだと思っていた日常、ついに変わるときがきた。
◆登場人物
佐倉 美咲(25) 公園の管理運営企業に勤める。植物園のスタッフから本社の企画営業部へ異動
天見 光季(27) 人気アイドルグループ、dulcis(ドゥルキス)のメンバー。俳優業で活躍中、自然の写真を撮るのが趣味
お読みいただきありがとうございます!
★番外編はこちらに集約してます。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/411579529/693947517
★最年少、甘えん坊ケイタとバツイチ×アラサーの恋愛はじめました。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/411579529/408954279
あなたの言うことが、すべて正しかったです
Mag_Mel
恋愛
「私に愛されるなどと勘違いしないでもらいたい。なにせ君は……そうだな。在庫処分間近の見切り品、というやつなのだから」
名ばかりの政略結婚の初夜、リディアは夫ナーシェン・トラヴィスにそう言い放たれた。しかも彼が愛しているのは、まだ十一歳の少女。彼女が成人する五年後には離縁するつもりだと、当然のように言い放たれる。
絶望と屈辱の中、病に倒れたことをきっかけにリディアは目を覚ます。放漫経営で傾いたトラヴィス商会の惨状を知り、持ち前の商才で立て直しに挑んだのだ。執事長ベネディクトの力を借りた彼女はやがて商会を支える柱となる。
そして、運命の五年後。
リディアに離縁を突きつけられたナーシェンは――かつて自らが吐いた「見切り品」という言葉に相応しい、哀れな姿となっていた。
*小説家になろうでも投稿中です
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる