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第09話 二人の約束
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◆◇◆◇◆
黒川さんとの約束だった分の作業を、ようやく終えることができた。
とはいえ、彼女の方はまだ続けているようだった。休み時間が終わっても、机の下でスマホをそっといじり、わずかに顔を伏せて誰にも気づかれないようにしている。
その集中ぶりはすさまじく、まるで彼女だけ別の世界に入り込んでいるようだった。
見ているこちらの方が、先生に見つかりやしないかと心配になるほどだ。
メッセージでも送ってみようかと思ったが、もし音が鳴ったら逆に目立ってしまう。
結局、ただ静かに様子をうかがうしかなかった。
彼女の指先は驚くほど速かった。
ちらりと教室の様子を確認したかと思うと、すぐに画面に視線を戻し、滑らかに文字を打ち込んでいく。
ときにはスマホを見ずに、指先だけで文章を打っていることさえあった。
まるで、言葉が自然にあふれ出しているみたいだった。
二十分ほど経ったころだろうか。
ようやく彼女は手を止め、スマホを机の下に隠しながら小さく息を吐いた。
その吐息には、達成感と安堵が入り混じっていた。
――今回は、どんな内容なんだろう。
そう思いながら、俺は窓の外に視線を向けた。昼の光がぼんやりと教室に差し込み、黒川さんの横顔を柔らかく照らしていた。
◆◇
アパートに戻ると、約束していた通り、お互いに書いたものを見せ合うことにした。
先にリビングへ向かい、机の上にスマホを置いて画面のページ数を確認する。
「……二十ページ?」
思わず声が漏れた。
彼女の集中力は本当に恐ろしい。まるで一日中、その物語だけに全てを注いできたみたいだった。
きっと、強い“衝動”のようなものが彼女を突き動かしていたのだろう。
――あの時の表情を思い出す。まるで、書くことが呼吸のように自然だった。
彼女はすでに自室へ入っていて、おそらく俺の書いた分を読むのは後になる。
なら、俺も彼女の作品を読むとしよう。
……単純に、気になるのだ。あれほど夢中に書いていた“理由”が。
自分の部屋に戻って着替えを済ませ、廊下に出たときだった。
洗面所の前に立っている黒川さんが目に入った。
タオルで濡れた髪をゆっくりと拭きながら、白いパジャマを着ている。
ほのかに甘いシャンプーの香りが漂い、湿った髪が肩に貼りついて光っていた。
時間の流れが止まったように感じた。
「……どうかしたの、和泉くん?」
不意に名前を呼ばれて、思考が現実に引き戻される。
「えっと、いや……なんでもない。」
「そう? ……ふふっ。」
小さく笑うその声が、なぜか耳の奥に残った。
「さ、読もうか。今日書いた分。」
俺たちはリビングのテーブルを挟んで向かい合い、それぞれの作品を読み始めた。
やはりというべきか、彼女の方が読むのも書くのも早い。
俺の文章なんて、ページ数でいえば半分にも満たない。
彼女の作品を読み進めていくと、前回と似た構成が目についた。
ゆっくりとした導入、そして少しずつ惹きつけていく展開。
最初は地味に見えるのに、気づけば目が離せなくなるタイプの物語だ。
ただ、舞台設定や展開には既視感があった。
主人公は今度は男子生徒になっていたが、学校という舞台は変わらない。
前よりも“王道”寄りの雰囲気になっていた気がする。
要素は増えていたが、基本の構造は前と同じ。
率直に言えば――悪くはない。だが、どこかで見たことがあるような感覚もあった。
「まあ、俺の方が出来はいいと思うけどな……」
そう心の中でつぶやきながら、ページを閉じた。
向かいで彼女は俺の原稿を読み終え、驚いたように目を丸くしていた。
互いの読みが終わると、机の上にスマホを置き、感想を交わし始めた。
「おもしろいけど、前回と比べるとあまり変わってない気がする。」
「“変わってない”って、どういう意味?」
「設定とか展開とか、だいたい同じだよ。登場人物の性別が変わったくらいで。」
黒川さんは少し困ったように笑って、それから考え込むように視線を落とした。
前よりずっと、文のまとまりはよくなっている。それだけに、彼女なりの悩みが見える。
やがて、彼女はスマホを手に取り、前の原稿と見比べ始めた。
「……ほんとだ。ほとんど同じね。」
そして、かすかな声でつぶやいた。
「こうすれば……もっと和泉くんに気に入ってもらえると思ったのに。」
聞き逃すには十分小さな声だった。
それでも、胸の奥がかすかにざわついた。
「じゃあ、次はあなたの番ね。感想、聞かせて。」
彼女が顔を上げ、真っすぐこちらを見つめてきた。
その瞳の奥に、わずかな期待と緊張が混じっているように見えた。
「そうだな……てっきり俺と同じように書き直すのかと思ってたけど、今回はずいぶん違うみたいだな。まるで新しい挑戦って感じだ。展開も深みが出てて、ちゃんと“物語”として成り立ってる。
……すごいよ、黒川さん。」
「私は、同じことを繰り返すのが好きじゃないの。頭の中に浮かぶ“次の言葉”を、狭めたくないから。」
彼女は小さくうつむき、その言葉を噛みしめるように考え込んだ。
その横顔には、少しの苛立ちと、ほんのわずかな自己否定が混じっていた。
「……そうね。あんな中途半端な修正じゃなくて、最初からやり直すべきだった。
私、本当にバカね。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな罪悪感が残った。
慌てて言葉を探し、少しでも誤解を解こうとした。
「いや、そういう意味じゃない。むしろ、今回の方が良かったと思う。
内容も面白かったし……前のバージョンとはまた違う良さがあったよ。」
黒川さんは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく微笑んだ。
それはいつもの無表情とは違い、ほんのり柔らかい表情だった。
「……ありがとう。慰めてくれてるのは分かってるけど、でも嬉しい。
次は、もう少し別の物語を考えてみようかな。
ねえ、どう思う? この二つの話、どっちも試しに投稿してみるのは?」
「別々に? 悪くないけど……どっちか一つに絞って、完成させた方がいいかもな。」
「つまり、どっちの物語にするかを決めるってことね。
それに、今後の展開も一緒に考えなきゃ。……これが私たちの“最初の挑戦”なんだから。」
彼女は顎に手を当て、テーブルの上に並ぶ二つのスマホをじっと見つめた。
その瞳には真剣な光が宿っていて、まるで小説の中の一場面のようだった。
数秒の沈黙のあと、黒川さんは小さく息を吐き、俺のスマホを手に取った。
――どうやら、俺の物語の方が“採用”されたらしい。
「……決まりね。最初の作品は、この話でいきましょう。」
その言葉に、俺は静かにうなずいた。
それで、その日の“打ち合わせ”はひとまず終了となった。
次の予定は、もっと現実的なこと――夕食と、夜の課題だ。
リュックを開けながら、ふと昼間のことを思い出した。
坂本さんが黒川さんに親しげに話しかけていたあの光景。
あの二人、まるで前からの友達みたいに自然だった。
……もっとも、人前では二人ともやけに冷静だったけど。
特に黒川さんは、まるで完璧にプログラムされた機械みたいに、感情の起伏がない。
まあ、それでも少し安心した。
たぶん二人はもう連絡先を交換したのだろう。
ほんの短い間で、彼女にも話せる相手ができた。
それだけで少し、俺の中の空気が軽くなる――
……まあ、俺自身は十四年以上も“友達ゼロ”の人生を続けてるけど。
別に、うらやましいとは思わない。
本気でそう思ってる。
一人の方が楽だ。
他人に合わせなくていいし、時間を無駄にすることもない。
――少なくとも、そう“信じてきた”。
夜。課題を終え、自室で少し時間をつぶしてからリビングへ戻る。
いつものように、二人並んで無言で食事をとった。
明日は週末。彼女にとっては部屋を整理する絶好の機会だろう。
「そういえば、まだ部屋の片づけ終わってないのか?」
「うん、時間がなくて。なかなか進まないの。」
彼女は皿を見つめたまま、淡々と答える。
今日の夕食はカレーライス。
香辛料の香りが部屋に広がり、炊き立てのご飯の湯気が湯呑を曇らせた。
「明日、手伝おうか? 予定ないし。」
黒川さんはわずかにうなずいた。
その仕草は控えめだったけれど、確かに“了承”の意思があった。
――それが、その夜、最後の会話になった。
明日には、俺たちが選んだ“物語”の続きを決めなければならない。
* * *
翌朝。
結局、約束したくせに、目が覚めたのは予定よりずっと遅かった。
ドアの向こうから、黒川さんが軽くノックする音が響いた。
「コン」と一度だけ――それでも、なぜか心臓が跳ねる。
「……っ」
眠気に負けながら、俺は体を起こした。
最近は夜更かしが続いていて、昨夜も気づけば深夜を過ぎていた。
重たいまぶたを無理やりこじ開け、足に力を入れる。
立ち上がった瞬間、まだ夢の中にいるような感覚に襲われた。
軽く伸びをして気分を切り替えようとするが、あまり効果はない。
ドアを開けると、そこに黒川さんがいた。
いつもの冷静な表情で、廊下に立ったまま俺を待っていた。
それでも、彼女は何も言わなかった。
ただ静かに背を向け、音もなく廊下を歩き去っていった。
あまりに突然のことだったから、言葉も、反応もできなかった。
「おはよう、黒川さん。」
「おはようございます、和泉くん。朝ごはん、できてます。」
その声は、いつもより少し冷たく感じられた。
思わず、「何かあったのか」と口に出しそうになる。
「……機嫌、悪い? 何かあった?」
「…………」
一瞬だけ、彼女の表情が揺れた。
その沈黙こそが、何かを隠している証拠だった。
朝食の間、彼女は一言も話さなかった。
箸の音と、時計の針の音だけが、部屋に響いていた。
まるで僕が何か悪いことをしたような、そんな息苦しい静けさ。
どうすれば彼女の機嫌を直せるのか、答えは見えなかった。
「……やっぱり、何かあったんだよね?」
「……そう。でも、あなたのことじゃないの。ただ、少し別のこと。気にしないで。」
そう言われても、気にならないわけがない。
「話してみてよ。もしかしたら、力になれるかもしれない。」
その言葉に、黒川さんは驚いたように顔を上げた。
その瞳には、どこか弱さが宿っていた。
「……本当に、助けてくれるの?」
少し震える声。
僕は迷わずうなずいた。
すると、彼女の唇に小さな笑みが浮かぶ。
ほんの一瞬の、柔らかい表情だった。
「……わかった。じゃあ、朝ごはんのあとで見せるね。」
何を「見せる」のかは分からなかったけれど、
彼女が真剣なのは伝わってきた。
朝食を終え、皿洗いを手伝ったあと、僕たちは彼女の部屋へ向かった。
ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に息をのむ。
壁際に、いくつものゴミ袋が積み上げられていた。
見た目よりもずっと重そうで、すぐに「これか」と察した。
「これが問題。昨日言ってたでしょ? 手伝ってくれるって。ありがとうね。」
確かに、そう約束していた。
ここで逃げるわけにはいかない。
僕は数袋を持ち上げ、玄関へ運んだ。
袋の口を押さえながら、できるだけ静かに動かす。
黒川さんも「一緒に持つ」と言って譲らなかった。
最後の袋は、特に重かった。
二人で持つしかない。
僕が後ろを持ち、彼女が前を持って歩き出した瞬間——
「わっ……!」
足が袋の端に引っかかり、バランスを崩す。
次の瞬間、僕はそのまま彼女の背中に倒れ込んでいた。
「きゃっ——!」
二人とも床に倒れたまま、息が詰まるような沈黙。
至近距離で見つめ合う形になり、
彼女の頬は真っ赤に染まり、目を見開いたまま固まっていた。
息が触れるほど近い。
彼女の髪からは、洗い立ての甘い香りが漂ってきた。
——早く離れなきゃ。
そう思っても、身体は動かない。
時間が止まったようだった。
もし誰かに見られたら、完全に誤解される。
その直後、玄関の方で「ガサッ」という音が響いた。
同時に、小さな悲鳴が聞こえた。
僕と黒川さんは、同時にそちらを振り向いた。
そこには、明るい茶色の髪をした少女が立っていた。
年の頃は十三歳くらい。目をぱちくりさせ、次第に笑顔を浮かべる。
「……え?」
黒川さんはぽかんとしたまま動かず、
僕はようやく現実を理解した。
「ま、まさか……真耶……?」
そう、妹の真耶だった。
僕が何か言う前に、彼女は駆け寄ってきて、黒川さんの手をぎゅっと握った。
「お兄ちゃん、なんで彼女がいるなんて言ってくれなかったの!? しかも、すっごく可愛いじゃん! ねぇ、抱きしめていい!?」
「ちょ、ちょっと待って! か、彼女って——!?」
「え、ええ……そうよ。あなたが和泉くんの妹さんね?」
黒川さんの頬はりんごのように赤く、声も震えていた。
僕は頭の中が真っ白になった。
よりによって、なんでそんなことを……!?
でも、今さら否定すれば余計ややこしくなる。
——仕方ない。今は、乗るしかない。
問題は、この「嘘」をどこまで続けられるか、だ。
黒川さんとの約束だった分の作業を、ようやく終えることができた。
とはいえ、彼女の方はまだ続けているようだった。休み時間が終わっても、机の下でスマホをそっといじり、わずかに顔を伏せて誰にも気づかれないようにしている。
その集中ぶりはすさまじく、まるで彼女だけ別の世界に入り込んでいるようだった。
見ているこちらの方が、先生に見つかりやしないかと心配になるほどだ。
メッセージでも送ってみようかと思ったが、もし音が鳴ったら逆に目立ってしまう。
結局、ただ静かに様子をうかがうしかなかった。
彼女の指先は驚くほど速かった。
ちらりと教室の様子を確認したかと思うと、すぐに画面に視線を戻し、滑らかに文字を打ち込んでいく。
ときにはスマホを見ずに、指先だけで文章を打っていることさえあった。
まるで、言葉が自然にあふれ出しているみたいだった。
二十分ほど経ったころだろうか。
ようやく彼女は手を止め、スマホを机の下に隠しながら小さく息を吐いた。
その吐息には、達成感と安堵が入り混じっていた。
――今回は、どんな内容なんだろう。
そう思いながら、俺は窓の外に視線を向けた。昼の光がぼんやりと教室に差し込み、黒川さんの横顔を柔らかく照らしていた。
◆◇
アパートに戻ると、約束していた通り、お互いに書いたものを見せ合うことにした。
先にリビングへ向かい、机の上にスマホを置いて画面のページ数を確認する。
「……二十ページ?」
思わず声が漏れた。
彼女の集中力は本当に恐ろしい。まるで一日中、その物語だけに全てを注いできたみたいだった。
きっと、強い“衝動”のようなものが彼女を突き動かしていたのだろう。
――あの時の表情を思い出す。まるで、書くことが呼吸のように自然だった。
彼女はすでに自室へ入っていて、おそらく俺の書いた分を読むのは後になる。
なら、俺も彼女の作品を読むとしよう。
……単純に、気になるのだ。あれほど夢中に書いていた“理由”が。
自分の部屋に戻って着替えを済ませ、廊下に出たときだった。
洗面所の前に立っている黒川さんが目に入った。
タオルで濡れた髪をゆっくりと拭きながら、白いパジャマを着ている。
ほのかに甘いシャンプーの香りが漂い、湿った髪が肩に貼りついて光っていた。
時間の流れが止まったように感じた。
「……どうかしたの、和泉くん?」
不意に名前を呼ばれて、思考が現実に引き戻される。
「えっと、いや……なんでもない。」
「そう? ……ふふっ。」
小さく笑うその声が、なぜか耳の奥に残った。
「さ、読もうか。今日書いた分。」
俺たちはリビングのテーブルを挟んで向かい合い、それぞれの作品を読み始めた。
やはりというべきか、彼女の方が読むのも書くのも早い。
俺の文章なんて、ページ数でいえば半分にも満たない。
彼女の作品を読み進めていくと、前回と似た構成が目についた。
ゆっくりとした導入、そして少しずつ惹きつけていく展開。
最初は地味に見えるのに、気づけば目が離せなくなるタイプの物語だ。
ただ、舞台設定や展開には既視感があった。
主人公は今度は男子生徒になっていたが、学校という舞台は変わらない。
前よりも“王道”寄りの雰囲気になっていた気がする。
要素は増えていたが、基本の構造は前と同じ。
率直に言えば――悪くはない。だが、どこかで見たことがあるような感覚もあった。
「まあ、俺の方が出来はいいと思うけどな……」
そう心の中でつぶやきながら、ページを閉じた。
向かいで彼女は俺の原稿を読み終え、驚いたように目を丸くしていた。
互いの読みが終わると、机の上にスマホを置き、感想を交わし始めた。
「おもしろいけど、前回と比べるとあまり変わってない気がする。」
「“変わってない”って、どういう意味?」
「設定とか展開とか、だいたい同じだよ。登場人物の性別が変わったくらいで。」
黒川さんは少し困ったように笑って、それから考え込むように視線を落とした。
前よりずっと、文のまとまりはよくなっている。それだけに、彼女なりの悩みが見える。
やがて、彼女はスマホを手に取り、前の原稿と見比べ始めた。
「……ほんとだ。ほとんど同じね。」
そして、かすかな声でつぶやいた。
「こうすれば……もっと和泉くんに気に入ってもらえると思ったのに。」
聞き逃すには十分小さな声だった。
それでも、胸の奥がかすかにざわついた。
「じゃあ、次はあなたの番ね。感想、聞かせて。」
彼女が顔を上げ、真っすぐこちらを見つめてきた。
その瞳の奥に、わずかな期待と緊張が混じっているように見えた。
「そうだな……てっきり俺と同じように書き直すのかと思ってたけど、今回はずいぶん違うみたいだな。まるで新しい挑戦って感じだ。展開も深みが出てて、ちゃんと“物語”として成り立ってる。
……すごいよ、黒川さん。」
「私は、同じことを繰り返すのが好きじゃないの。頭の中に浮かぶ“次の言葉”を、狭めたくないから。」
彼女は小さくうつむき、その言葉を噛みしめるように考え込んだ。
その横顔には、少しの苛立ちと、ほんのわずかな自己否定が混じっていた。
「……そうね。あんな中途半端な修正じゃなくて、最初からやり直すべきだった。
私、本当にバカね。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな罪悪感が残った。
慌てて言葉を探し、少しでも誤解を解こうとした。
「いや、そういう意味じゃない。むしろ、今回の方が良かったと思う。
内容も面白かったし……前のバージョンとはまた違う良さがあったよ。」
黒川さんは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく微笑んだ。
それはいつもの無表情とは違い、ほんのり柔らかい表情だった。
「……ありがとう。慰めてくれてるのは分かってるけど、でも嬉しい。
次は、もう少し別の物語を考えてみようかな。
ねえ、どう思う? この二つの話、どっちも試しに投稿してみるのは?」
「別々に? 悪くないけど……どっちか一つに絞って、完成させた方がいいかもな。」
「つまり、どっちの物語にするかを決めるってことね。
それに、今後の展開も一緒に考えなきゃ。……これが私たちの“最初の挑戦”なんだから。」
彼女は顎に手を当て、テーブルの上に並ぶ二つのスマホをじっと見つめた。
その瞳には真剣な光が宿っていて、まるで小説の中の一場面のようだった。
数秒の沈黙のあと、黒川さんは小さく息を吐き、俺のスマホを手に取った。
――どうやら、俺の物語の方が“採用”されたらしい。
「……決まりね。最初の作品は、この話でいきましょう。」
その言葉に、俺は静かにうなずいた。
それで、その日の“打ち合わせ”はひとまず終了となった。
次の予定は、もっと現実的なこと――夕食と、夜の課題だ。
リュックを開けながら、ふと昼間のことを思い出した。
坂本さんが黒川さんに親しげに話しかけていたあの光景。
あの二人、まるで前からの友達みたいに自然だった。
……もっとも、人前では二人ともやけに冷静だったけど。
特に黒川さんは、まるで完璧にプログラムされた機械みたいに、感情の起伏がない。
まあ、それでも少し安心した。
たぶん二人はもう連絡先を交換したのだろう。
ほんの短い間で、彼女にも話せる相手ができた。
それだけで少し、俺の中の空気が軽くなる――
……まあ、俺自身は十四年以上も“友達ゼロ”の人生を続けてるけど。
別に、うらやましいとは思わない。
本気でそう思ってる。
一人の方が楽だ。
他人に合わせなくていいし、時間を無駄にすることもない。
――少なくとも、そう“信じてきた”。
夜。課題を終え、自室で少し時間をつぶしてからリビングへ戻る。
いつものように、二人並んで無言で食事をとった。
明日は週末。彼女にとっては部屋を整理する絶好の機会だろう。
「そういえば、まだ部屋の片づけ終わってないのか?」
「うん、時間がなくて。なかなか進まないの。」
彼女は皿を見つめたまま、淡々と答える。
今日の夕食はカレーライス。
香辛料の香りが部屋に広がり、炊き立てのご飯の湯気が湯呑を曇らせた。
「明日、手伝おうか? 予定ないし。」
黒川さんはわずかにうなずいた。
その仕草は控えめだったけれど、確かに“了承”の意思があった。
――それが、その夜、最後の会話になった。
明日には、俺たちが選んだ“物語”の続きを決めなければならない。
* * *
翌朝。
結局、約束したくせに、目が覚めたのは予定よりずっと遅かった。
ドアの向こうから、黒川さんが軽くノックする音が響いた。
「コン」と一度だけ――それでも、なぜか心臓が跳ねる。
「……っ」
眠気に負けながら、俺は体を起こした。
最近は夜更かしが続いていて、昨夜も気づけば深夜を過ぎていた。
重たいまぶたを無理やりこじ開け、足に力を入れる。
立ち上がった瞬間、まだ夢の中にいるような感覚に襲われた。
軽く伸びをして気分を切り替えようとするが、あまり効果はない。
ドアを開けると、そこに黒川さんがいた。
いつもの冷静な表情で、廊下に立ったまま俺を待っていた。
それでも、彼女は何も言わなかった。
ただ静かに背を向け、音もなく廊下を歩き去っていった。
あまりに突然のことだったから、言葉も、反応もできなかった。
「おはよう、黒川さん。」
「おはようございます、和泉くん。朝ごはん、できてます。」
その声は、いつもより少し冷たく感じられた。
思わず、「何かあったのか」と口に出しそうになる。
「……機嫌、悪い? 何かあった?」
「…………」
一瞬だけ、彼女の表情が揺れた。
その沈黙こそが、何かを隠している証拠だった。
朝食の間、彼女は一言も話さなかった。
箸の音と、時計の針の音だけが、部屋に響いていた。
まるで僕が何か悪いことをしたような、そんな息苦しい静けさ。
どうすれば彼女の機嫌を直せるのか、答えは見えなかった。
「……やっぱり、何かあったんだよね?」
「……そう。でも、あなたのことじゃないの。ただ、少し別のこと。気にしないで。」
そう言われても、気にならないわけがない。
「話してみてよ。もしかしたら、力になれるかもしれない。」
その言葉に、黒川さんは驚いたように顔を上げた。
その瞳には、どこか弱さが宿っていた。
「……本当に、助けてくれるの?」
少し震える声。
僕は迷わずうなずいた。
すると、彼女の唇に小さな笑みが浮かぶ。
ほんの一瞬の、柔らかい表情だった。
「……わかった。じゃあ、朝ごはんのあとで見せるね。」
何を「見せる」のかは分からなかったけれど、
彼女が真剣なのは伝わってきた。
朝食を終え、皿洗いを手伝ったあと、僕たちは彼女の部屋へ向かった。
ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に息をのむ。
壁際に、いくつものゴミ袋が積み上げられていた。
見た目よりもずっと重そうで、すぐに「これか」と察した。
「これが問題。昨日言ってたでしょ? 手伝ってくれるって。ありがとうね。」
確かに、そう約束していた。
ここで逃げるわけにはいかない。
僕は数袋を持ち上げ、玄関へ運んだ。
袋の口を押さえながら、できるだけ静かに動かす。
黒川さんも「一緒に持つ」と言って譲らなかった。
最後の袋は、特に重かった。
二人で持つしかない。
僕が後ろを持ち、彼女が前を持って歩き出した瞬間——
「わっ……!」
足が袋の端に引っかかり、バランスを崩す。
次の瞬間、僕はそのまま彼女の背中に倒れ込んでいた。
「きゃっ——!」
二人とも床に倒れたまま、息が詰まるような沈黙。
至近距離で見つめ合う形になり、
彼女の頬は真っ赤に染まり、目を見開いたまま固まっていた。
息が触れるほど近い。
彼女の髪からは、洗い立ての甘い香りが漂ってきた。
——早く離れなきゃ。
そう思っても、身体は動かない。
時間が止まったようだった。
もし誰かに見られたら、完全に誤解される。
その直後、玄関の方で「ガサッ」という音が響いた。
同時に、小さな悲鳴が聞こえた。
僕と黒川さんは、同時にそちらを振り向いた。
そこには、明るい茶色の髪をした少女が立っていた。
年の頃は十三歳くらい。目をぱちくりさせ、次第に笑顔を浮かべる。
「……え?」
黒川さんはぽかんとしたまま動かず、
僕はようやく現実を理解した。
「ま、まさか……真耶……?」
そう、妹の真耶だった。
僕が何か言う前に、彼女は駆け寄ってきて、黒川さんの手をぎゅっと握った。
「お兄ちゃん、なんで彼女がいるなんて言ってくれなかったの!? しかも、すっごく可愛いじゃん! ねぇ、抱きしめていい!?」
「ちょ、ちょっと待って! か、彼女って——!?」
「え、ええ……そうよ。あなたが和泉くんの妹さんね?」
黒川さんの頬はりんごのように赤く、声も震えていた。
僕は頭の中が真っ白になった。
よりによって、なんでそんなことを……!?
でも、今さら否定すれば余計ややこしくなる。
——仕方ない。今は、乗るしかない。
問題は、この「嘘」をどこまで続けられるか、だ。
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センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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神崎 未緒里
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※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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