視線

一ノ瀬なつみ

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第6節

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 その日の仕事は散々だった。簡単な書類整理を間違い、課長に注意されてしまった。電話の対応もミスして先方に怒鳴られてしまった。
 家に帰ると、どっと疲れが噴き出した。今日の疲れと怒りを洗い流すには、いつもより多くのアルコールを必要とした。しかし、いくら飲んでも、怒りは増すばかりであった。
 ねちねちと小言を言い続けた課長への怒りも、電話口で怒鳴り散らしてきた客への怒りも、最終的には女への怒りに収束していく。
 『あの女のせいで、真奈にふられたんだ』
 今日1日で、孝一のプライドはずいぶん傷つけられたのだ。
 『今度現れたら、つかまえて直接話をつけてやる』
 この怒りは、あの女にぶつけてやらないと気が済まない。孝一は立ち上がって、カーテンを開いた。
 しかし、ベランダにも、駐輪スペースにも、線路沿いの道にも女はいなかった。真奈とデートした夜にマンションの外に現れて以来、女は姿を見せていなかった。
 「ふん。今日、俺が怒鳴ったから、ビビりやがったな」
 鼻で笑った。体がふわふわしているように感じられた。いつもよりもビールをたくさん空けたぶん、足元がおぼつかなかった。
 きちんと窓の鍵がしまっているのを確認する。
 本当にビビっているのは孝一なのだが、アルコールのせいで気が大きくなっている。
 デートの後、再び散らかり始めた部屋を横切って、キッチンにつながるドアを開けた。孝一の身体を感知して、玄関ライトが自動点灯する。黄色みを帯びた温かい光が、キッチンを兼ねた短い廊下を満たした。
 今夜はためらうことなく、玄関ドアの覗き穴を覗き込んだ。
 やはり誰もいない。向かいの104号室のドアが、丸くゆがんで見えるだけだ。
 「へっ。やっぱり俺にビビってやがる」
 孝一は鼻で笑って、6畳間に戻った。そして、電気を消してベッドに入った。
 しかし、なかなか寝付けなかった。どうしても今日の出来事を思い出してしまう。
 「もう会わない」
 「消印がなく、私の家のポストの直接入れたみたい」
 「やばいヤツとは関わりたくないの。孝一には悪いけど、私ともう会わないで」
 真奈が寄こしたメールが、心に突き刺さったままだった。あのあと、真奈にも電話をかけた。しかし、彼女は孝一からのコールに出ようとはしなかった。
 真奈には本当に惚れていた。ミスキャンパスに選出された美貌。女性らしい曲線を描いたスタイル。洗練されたメイクとファッション。大手化粧品会社に勤めている真奈は、自分の彼女としてふさわしいと感じていた。
 それなのに、真奈はあっさりと脅迫に折れてしまった。孝一に対する真奈の愛情は、その程度のものだったのだ。
 「はあぁ……」
 大きな溜息をついて、寝返りをうつ。しかし、そこには真奈はいなかった。ただ暗い壁が広がっているだけだった。
 『10日前には、ここに真奈が寝ていたのに』
 彼女の誘うような視線を思い出す。
 細い割に、大きな胸の谷間を思い出す。
 『真奈が俺から離れていったのは、あいつのせいだ』
 せっかくアルコールで洗い流したはずの怒りが、またふつふつとわき上がってきた。アルコールも抜けてきたらしく、だんだん頭も目も冴えてきてしまった。それもまた、女への怒りに転嫁される。
 「あの女、別れてくれたんだ」
 女のか細い声が思い出された。
 『なんでこんなヤツのために、真奈と別れなければならないんだ』
 女の行為は脅迫であり、犯罪である。
 「あんな女と別れてくれて、ありがとう。孝一」
 今度は女の笑い声が思い出された。気管が引きつるような不気味な笑いが、よみがえってくる。人の心を不安にし、不快にするような笑い方だった。
 「孝一から連絡してきてくれて、うれしいよ」
 まったく会話が成り立たなかったことも思い出された。話がまったくかみ合わなかった。
 『今度現れたら、つかまえて直接話をつけてやる』
 さきほどはそう意気込んでいたが、昼間のやり取りを思い出すと、自信がなくなってきた。自分と孝一の写真を合成して、真奈を脅すような「やばいヤツ」なのだ。問い詰めたり、文句を言ったりしたところで、話が通じない可能性もある。
 「はあぁ……」
 再び深いため息をついた。もうふとんに入ってから1時間以上はたっているだろう。ぐるぐると同じことを考え続けてしまっている。
 もう一度寝返りを打った。
 孝一は異変に気付いた。
 6畳のワンルームとキッチンを隔てるドアの隙間から、黄色い明かりが漏れているのだ。
 孝一の全身が硬直する。
 玄関ライトは、人間の存在を感知すると自動点灯する。
 ごくり。
 緊張をのみ込もうとした。しかし、大量にアルコールを摂取したせいで、のどはからからに渇いていた。以前にもこんなことがあったような気がした。
 『いつから点いていた?』
 寝返りをうつまでは、ライトは消えていたはずだ。
 しかし、再び寝返りをうって振り向いたときには……。
 ベッドから立ち上がろうとしたが、あまりにも手足が硬直していたため、身動きが取れなかった。
 声をしぼり出そうとした。
 『だれか……』
 しかし、のども硬直しているのか、声を出せなかった。呼吸まで止まっていたことに気付く。孝一はゆっくりと息を吐き出した。
 「はあぁ……はあぁ……はあぁ……」
 少し筋肉の緊張がほぐれた気がする。もう一度、声を出そうとしてみた。
 『だれか……』
 途中までは、やはりのどの奥で声が空回りしただけだった。しかし、後半はようやく口から声が漏れ出た。
 「……いるのか……」
 情けないほどか細い声だった。孝一は自分の声だとは思えなかった。
 ライトは自動で点灯するように、人の気配がなくなると消灯するようにできている。しかし、なかなか黄色い明かりは消えない。
 声を出せたことで、ようやく体の硬直もほぐれてきた。ゆっくりとベッドの上で起きあがる。
 黄色く光るドアの輪郭から視線を外すことはできないまま、ベッドから出て立ち上がる。
 ドアノブに手を伸ばす。しかし、その手をひっこめた。
 『このドアの向こう側に……あいつが……いるのか?』
 泥棒が侵入したとは、まったく思わなかった。真っ先に、あの女を警戒した。
 ドアを開くと、女が大きく目を見開いて、こちらを見て立っているのをイメージした。
 口角をくいと持ち上げて、口を三日月状に開けて、ひきつった笑みを浮かべているのではないか。
 全身にぞわぞわと鳥肌が駆け巡る。
 次の瞬間、黄色いライトが消えた。
 「きゃっ!」
 孝一は思わず少女のような悲鳴をあげて怯えてしまった。
 101号室に静寂が訪れる。もうとっくに終電の時間も過ぎている。いつもはやかましい電車の音が懐かしく感じられた。
 『ライトが消えたということは、誰もいないのか?』
 しかし、自分の考えをすぐに打ち消す。
 『いや、身動きしなかった場合も、動くものを感知せず、ライトは消える。だとしたら……』
 再び全身に鳥肌が這った。脚に力が入らない。
 『暗闇の中で、立っているのか? こちらを向いて』
 真っ暗なキッチンに、女が立っている姿を想像する。
 白いワンピースから、骨の浮いた脚と腕が伸びる。
 前髪も後ろで束ねて、青白い額を露出している。
 ドアを隔てた向こう側から、女がこちらを見つめているような気がした。
 『最悪だ。ライトが点いていた方が、まだマシだ』
 暗闇が恐怖を増幅させる。
 カーテンからは、街灯のわずかな光が漏れ入るだけだ。ほの青く、6畳の部屋を照らし出している。
 ギシッギシッ……。
 ドアの向こう側から、何かがきしむような音が聞こえた。
 『やっぱり誰か……いる』
 孝一の全身がふたたび硬くなる。寒気を感じているにもかかわらず、額からは汗が噴き出していた。
 体は硬くなっていたが、声は出すことができるようになっていた。
 「……おい……誰かいるのか!?」
 思わず出た自分の声の大きさに、孝一はすくんでしまう。
 耳を澄ましてみたが、もう何かがきしむ不吉な音は聞こえてこなかった。
 ごくり。
 渇いたツバを飲み込む音が、異様に大きく感じられる。
 さっきは諦めてしまったが、もう一度ドアノブに手を伸ばす。今度は触れることができた。冷房が効いているにもかかわらず、ドアノブは異様に温かく感じられた。ドアの向こう側で、女がドアノブを握り返しているのを想像してしまう。
 孝一は歯を食いしばった。
 開けないわけにはいかない。
 開けずに夜を明かすことはできない。
 とにかくこの不気味な状況に決着をつけなければならない。
 ドアノブを握る手に力を込めた。そして、一気にドアノブを回して、ドアを引いた。
 ギイィッ!
 ドアは悲鳴を上げながら勢いよく開いた。
 「ひいっ!」
 孝一はドアから飛び退きながら、叫び声をあげた。ドアのきしむ音が、電話で聞いた女の笑い声に聞こえたのだ。
 キッチンを兼ねた短い廊下は、真っ暗で何も見えない。
 『誰か……いるのか……』
 大きく目を見開いて、暗闇に目を凝らす。暗闇の中からより多くの情報を集めようと、瞳孔が開いていく。
 だんだんと目が慣れてきた。短い廊下の先に、玄関ドアの輪郭がうっすらと浮かび上がってきた。
 『誰も……いない……』
 心臓が早鐘を打っていることにようやく気付いた。全身で、心臓の鼓動を感じ取ることができた。
 ゆっくりとキッチンへと足を進める。6畳のワンルームからキッチンへと出たところで、センサーが孝一を感知した。黄色いライトが、キッチンを照らし出した。
 空のビール缶。
 洗うのが億劫になり、シンクに積んだままの汚れた食器。
 毛先の開いた歯ブラシ。
 小さなうなり声をあげる冷蔵庫。
 一方、沈黙を保つ洗濯機。
 『はあぁ……はあぁ……』
 ようやくまともな呼吸することができた。
 最後に戸締りのチェックをしたときと、キッチンと廊下に何も変化はない。玄関ドアの鍵もしまったままになっている。
 『さっきのきしむような音は、いったい何だったんだ?』
 孝一は左側に目を移した。そこには2つのドアがある。トイレと風呂のドアだ。
 再び緊張が高まる。
 『もしさっきのきしむ音が、このドアを開閉する音だったとしたら……』
 さっきと状況は変わらない。ドアを開くと、そこに宣教女が立ち尽くしているかもしれないのだ。
 もう一度自分を鼓舞する。
 『もし女が出てくれば、しっかりと話をつけてやる』
 トイレのドアノブに手をかける。
 『あんなガリガリに痩せた女に、俺が負けるわけがないんだ』
 そう思うと、力がわいてきた。孝一は勢いをつけて、トイレのドアを開いた。
 「……」
 自分を勇気づけていたとはいえ、呼吸が止まる。
 トイレの中を、玄関ライトの黄色い光が照らし出す。
 トイレの中には、洋式の便器があるだけだった。オーナーこだわりの最新のウォシュレットの電源表示が、赤く点滅している。隠れられる場所はどこにもない。
 残すところは風呂場だけだ。
 孝一は女を追い詰めたような気がした。しかし、「窮鼠猫をかむ」という言葉のように、追い詰められた女は、襲いかかってくるかもしれない。
 こぶしを握りこみ、力を込めた。
 格闘技の経験はないが、かなりの体重差があるあの女なら、押さえ込む自信があった。
 『そうだ。つかまえて、すぐに警察につきだしてやればいい』
 ますます力がみなぎってきた。風呂のドアレバーをにぎる。
 『もしこの部屋に侵入しているとすれば、それは立派な犯罪だ』
 孝一はドアレバーを押し下げ、一気にドアを開いた。
 そこに、誰かが立っていた。
 「うわあああっ!」
 全身にみなぎっていた力も勇気も、一瞬にして吹き飛んでしまった。さらに心臓が縮みあがる。孝一は腰を抜かして、短い廊下にへたり込んでしまった。
 風呂場には、恐怖に歪んだ表情の男が座り込んでいた。
 今岡孝一自身だった。
 「はあぁ……はあぁ……鏡……」
 風呂場の鏡に、自分が映っていただけだった。孝一は上体を起こして、風呂場をのぞきこむ。
 浴槽の中にも誰もいなかった。
 「な……なんだよ……」
 大きな溜息をつく。
 風呂場とトイレのドアをしめた。結局101号室には、自分以外誰もいなかったのだ。
 昼間のできごとに、神経が過敏になっていたのだろうか。
 6畳間に戻って、ドアをしめた。散らかった部屋が広がっていた。どっと疲れが押し寄せてきた。
 折りたたみベッドに、どさりと横になった。ベッドがギシギシときしんだ。
 『暗闇から聞こえた、きしむような音はいったいなんだったんだ?』
 耳を澄ましてみたが、やはり何も聞こえない。
 『そして、誰もいないはずの玄関で、どうしてライトが自動点灯した?』
 ベッドに横になりながら、ドアの隙間をながめていたが、もう黄色く光ることはなかった。
 ネズミか何かがうろついていたのかもしれない。
 体は疲れていて、睡眠を欲している。
 しかし、頭は冴えて、結局一睡もできずに夜を明かした。
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