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第6節
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その日の仕事は散々だった。簡単な書類整理を間違い、課長に注意されてしまった。電話の対応もミスして先方に怒鳴られてしまった。
家に帰ると、どっと疲れが噴き出した。今日の疲れと怒りを洗い流すには、いつもより多くのアルコールを必要とした。しかし、いくら飲んでも、怒りは増すばかりであった。
ねちねちと小言を言い続けた課長への怒りも、電話口で怒鳴り散らしてきた客への怒りも、最終的には女への怒りに収束していく。
『あの女のせいで、真奈にふられたんだ』
今日1日で、孝一のプライドはずいぶん傷つけられたのだ。
『今度現れたら、つかまえて直接話をつけてやる』
この怒りは、あの女にぶつけてやらないと気が済まない。孝一は立ち上がって、カーテンを開いた。
しかし、ベランダにも、駐輪スペースにも、線路沿いの道にも女はいなかった。真奈とデートした夜にマンションの外に現れて以来、女は姿を見せていなかった。
「ふん。今日、俺が怒鳴ったから、ビビりやがったな」
鼻で笑った。体がふわふわしているように感じられた。いつもよりもビールをたくさん空けたぶん、足元がおぼつかなかった。
きちんと窓の鍵がしまっているのを確認する。
本当にビビっているのは孝一なのだが、アルコールのせいで気が大きくなっている。
デートの後、再び散らかり始めた部屋を横切って、キッチンにつながるドアを開けた。孝一の身体を感知して、玄関ライトが自動点灯する。黄色みを帯びた温かい光が、キッチンを兼ねた短い廊下を満たした。
今夜はためらうことなく、玄関ドアの覗き穴を覗き込んだ。
やはり誰もいない。向かいの104号室のドアが、丸くゆがんで見えるだけだ。
「へっ。やっぱり俺にビビってやがる」
孝一は鼻で笑って、6畳間に戻った。そして、電気を消してベッドに入った。
しかし、なかなか寝付けなかった。どうしても今日の出来事を思い出してしまう。
「もう会わない」
「消印がなく、私の家のポストの直接入れたみたい」
「やばいヤツとは関わりたくないの。孝一には悪いけど、私ともう会わないで」
真奈が寄こしたメールが、心に突き刺さったままだった。あのあと、真奈にも電話をかけた。しかし、彼女は孝一からのコールに出ようとはしなかった。
真奈には本当に惚れていた。ミスキャンパスに選出された美貌。女性らしい曲線を描いたスタイル。洗練されたメイクとファッション。大手化粧品会社に勤めている真奈は、自分の彼女としてふさわしいと感じていた。
それなのに、真奈はあっさりと脅迫に折れてしまった。孝一に対する真奈の愛情は、その程度のものだったのだ。
「はあぁ……」
大きな溜息をついて、寝返りをうつ。しかし、そこには真奈はいなかった。ただ暗い壁が広がっているだけだった。
『10日前には、ここに真奈が寝ていたのに』
彼女の誘うような視線を思い出す。
細い割に、大きな胸の谷間を思い出す。
『真奈が俺から離れていったのは、あいつのせいだ』
せっかくアルコールで洗い流したはずの怒りが、またふつふつとわき上がってきた。アルコールも抜けてきたらしく、だんだん頭も目も冴えてきてしまった。それもまた、女への怒りに転嫁される。
「あの女、別れてくれたんだ」
女のか細い声が思い出された。
『なんでこんなヤツのために、真奈と別れなければならないんだ』
女の行為は脅迫であり、犯罪である。
「あんな女と別れてくれて、ありがとう。孝一」
今度は女の笑い声が思い出された。気管が引きつるような不気味な笑いが、よみがえってくる。人の心を不安にし、不快にするような笑い方だった。
「孝一から連絡してきてくれて、うれしいよ」
まったく会話が成り立たなかったことも思い出された。話がまったくかみ合わなかった。
『今度現れたら、つかまえて直接話をつけてやる』
さきほどはそう意気込んでいたが、昼間のやり取りを思い出すと、自信がなくなってきた。自分と孝一の写真を合成して、真奈を脅すような「やばいヤツ」なのだ。問い詰めたり、文句を言ったりしたところで、話が通じない可能性もある。
「はあぁ……」
再び深いため息をついた。もうふとんに入ってから1時間以上はたっているだろう。ぐるぐると同じことを考え続けてしまっている。
もう一度寝返りを打った。
孝一は異変に気付いた。
6畳のワンルームとキッチンを隔てるドアの隙間から、黄色い明かりが漏れているのだ。
孝一の全身が硬直する。
玄関ライトは、人間の存在を感知すると自動点灯する。
ごくり。
緊張をのみ込もうとした。しかし、大量にアルコールを摂取したせいで、のどはからからに渇いていた。以前にもこんなことがあったような気がした。
『いつから点いていた?』
寝返りをうつまでは、ライトは消えていたはずだ。
しかし、再び寝返りをうって振り向いたときには……。
ベッドから立ち上がろうとしたが、あまりにも手足が硬直していたため、身動きが取れなかった。
声をしぼり出そうとした。
『だれか……』
しかし、のども硬直しているのか、声を出せなかった。呼吸まで止まっていたことに気付く。孝一はゆっくりと息を吐き出した。
「はあぁ……はあぁ……はあぁ……」
少し筋肉の緊張がほぐれた気がする。もう一度、声を出そうとしてみた。
『だれか……』
途中までは、やはりのどの奥で声が空回りしただけだった。しかし、後半はようやく口から声が漏れ出た。
「……いるのか……」
情けないほどか細い声だった。孝一は自分の声だとは思えなかった。
ライトは自動で点灯するように、人の気配がなくなると消灯するようにできている。しかし、なかなか黄色い明かりは消えない。
声を出せたことで、ようやく体の硬直もほぐれてきた。ゆっくりとベッドの上で起きあがる。
黄色く光るドアの輪郭から視線を外すことはできないまま、ベッドから出て立ち上がる。
ドアノブに手を伸ばす。しかし、その手をひっこめた。
『このドアの向こう側に……あいつが……いるのか?』
泥棒が侵入したとは、まったく思わなかった。真っ先に、あの女を警戒した。
ドアを開くと、女が大きく目を見開いて、こちらを見て立っているのをイメージした。
口角をくいと持ち上げて、口を三日月状に開けて、ひきつった笑みを浮かべているのではないか。
全身にぞわぞわと鳥肌が駆け巡る。
次の瞬間、黄色いライトが消えた。
「きゃっ!」
孝一は思わず少女のような悲鳴をあげて怯えてしまった。
101号室に静寂が訪れる。もうとっくに終電の時間も過ぎている。いつもはやかましい電車の音が懐かしく感じられた。
『ライトが消えたということは、誰もいないのか?』
しかし、自分の考えをすぐに打ち消す。
『いや、身動きしなかった場合も、動くものを感知せず、ライトは消える。だとしたら……』
再び全身に鳥肌が這った。脚に力が入らない。
『暗闇の中で、立っているのか? こちらを向いて』
真っ暗なキッチンに、女が立っている姿を想像する。
白いワンピースから、骨の浮いた脚と腕が伸びる。
前髪も後ろで束ねて、青白い額を露出している。
ドアを隔てた向こう側から、女がこちらを見つめているような気がした。
『最悪だ。ライトが点いていた方が、まだマシだ』
暗闇が恐怖を増幅させる。
カーテンからは、街灯のわずかな光が漏れ入るだけだ。ほの青く、6畳の部屋を照らし出している。
ギシッギシッ……。
ドアの向こう側から、何かがきしむような音が聞こえた。
『やっぱり誰か……いる』
孝一の全身がふたたび硬くなる。寒気を感じているにもかかわらず、額からは汗が噴き出していた。
体は硬くなっていたが、声は出すことができるようになっていた。
「……おい……誰かいるのか!?」
思わず出た自分の声の大きさに、孝一はすくんでしまう。
耳を澄ましてみたが、もう何かがきしむ不吉な音は聞こえてこなかった。
ごくり。
渇いたツバを飲み込む音が、異様に大きく感じられる。
さっきは諦めてしまったが、もう一度ドアノブに手を伸ばす。今度は触れることができた。冷房が効いているにもかかわらず、ドアノブは異様に温かく感じられた。ドアの向こう側で、女がドアノブを握り返しているのを想像してしまう。
孝一は歯を食いしばった。
開けないわけにはいかない。
開けずに夜を明かすことはできない。
とにかくこの不気味な状況に決着をつけなければならない。
ドアノブを握る手に力を込めた。そして、一気にドアノブを回して、ドアを引いた。
ギイィッ!
ドアは悲鳴を上げながら勢いよく開いた。
「ひいっ!」
孝一はドアから飛び退きながら、叫び声をあげた。ドアのきしむ音が、電話で聞いた女の笑い声に聞こえたのだ。
キッチンを兼ねた短い廊下は、真っ暗で何も見えない。
『誰か……いるのか……』
大きく目を見開いて、暗闇に目を凝らす。暗闇の中からより多くの情報を集めようと、瞳孔が開いていく。
だんだんと目が慣れてきた。短い廊下の先に、玄関ドアの輪郭がうっすらと浮かび上がってきた。
『誰も……いない……』
心臓が早鐘を打っていることにようやく気付いた。全身で、心臓の鼓動を感じ取ることができた。
ゆっくりとキッチンへと足を進める。6畳のワンルームからキッチンへと出たところで、センサーが孝一を感知した。黄色いライトが、キッチンを照らし出した。
空のビール缶。
洗うのが億劫になり、シンクに積んだままの汚れた食器。
毛先の開いた歯ブラシ。
小さなうなり声をあげる冷蔵庫。
一方、沈黙を保つ洗濯機。
『はあぁ……はあぁ……』
ようやくまともな呼吸することができた。
最後に戸締りのチェックをしたときと、キッチンと廊下に何も変化はない。玄関ドアの鍵もしまったままになっている。
『さっきのきしむような音は、いったい何だったんだ?』
孝一は左側に目を移した。そこには2つのドアがある。トイレと風呂のドアだ。
再び緊張が高まる。
『もしさっきのきしむ音が、このドアを開閉する音だったとしたら……』
さっきと状況は変わらない。ドアを開くと、そこに宣教女が立ち尽くしているかもしれないのだ。
もう一度自分を鼓舞する。
『もし女が出てくれば、しっかりと話をつけてやる』
トイレのドアノブに手をかける。
『あんなガリガリに痩せた女に、俺が負けるわけがないんだ』
そう思うと、力がわいてきた。孝一は勢いをつけて、トイレのドアを開いた。
「……」
自分を勇気づけていたとはいえ、呼吸が止まる。
トイレの中を、玄関ライトの黄色い光が照らし出す。
トイレの中には、洋式の便器があるだけだった。オーナーこだわりの最新のウォシュレットの電源表示が、赤く点滅している。隠れられる場所はどこにもない。
残すところは風呂場だけだ。
孝一は女を追い詰めたような気がした。しかし、「窮鼠猫をかむ」という言葉のように、追い詰められた女は、襲いかかってくるかもしれない。
こぶしを握りこみ、力を込めた。
格闘技の経験はないが、かなりの体重差があるあの女なら、押さえ込む自信があった。
『そうだ。つかまえて、すぐに警察につきだしてやればいい』
ますます力がみなぎってきた。風呂のドアレバーをにぎる。
『もしこの部屋に侵入しているとすれば、それは立派な犯罪だ』
孝一はドアレバーを押し下げ、一気にドアを開いた。
そこに、誰かが立っていた。
「うわあああっ!」
全身にみなぎっていた力も勇気も、一瞬にして吹き飛んでしまった。さらに心臓が縮みあがる。孝一は腰を抜かして、短い廊下にへたり込んでしまった。
風呂場には、恐怖に歪んだ表情の男が座り込んでいた。
今岡孝一自身だった。
「はあぁ……はあぁ……鏡……」
風呂場の鏡に、自分が映っていただけだった。孝一は上体を起こして、風呂場をのぞきこむ。
浴槽の中にも誰もいなかった。
「な……なんだよ……」
大きな溜息をつく。
風呂場とトイレのドアをしめた。結局101号室には、自分以外誰もいなかったのだ。
昼間のできごとに、神経が過敏になっていたのだろうか。
6畳間に戻って、ドアをしめた。散らかった部屋が広がっていた。どっと疲れが押し寄せてきた。
折りたたみベッドに、どさりと横になった。ベッドがギシギシときしんだ。
『暗闇から聞こえた、きしむような音はいったいなんだったんだ?』
耳を澄ましてみたが、やはり何も聞こえない。
『そして、誰もいないはずの玄関で、どうしてライトが自動点灯した?』
ベッドに横になりながら、ドアの隙間をながめていたが、もう黄色く光ることはなかった。
ネズミか何かがうろついていたのかもしれない。
体は疲れていて、睡眠を欲している。
しかし、頭は冴えて、結局一睡もできずに夜を明かした。
家に帰ると、どっと疲れが噴き出した。今日の疲れと怒りを洗い流すには、いつもより多くのアルコールを必要とした。しかし、いくら飲んでも、怒りは増すばかりであった。
ねちねちと小言を言い続けた課長への怒りも、電話口で怒鳴り散らしてきた客への怒りも、最終的には女への怒りに収束していく。
『あの女のせいで、真奈にふられたんだ』
今日1日で、孝一のプライドはずいぶん傷つけられたのだ。
『今度現れたら、つかまえて直接話をつけてやる』
この怒りは、あの女にぶつけてやらないと気が済まない。孝一は立ち上がって、カーテンを開いた。
しかし、ベランダにも、駐輪スペースにも、線路沿いの道にも女はいなかった。真奈とデートした夜にマンションの外に現れて以来、女は姿を見せていなかった。
「ふん。今日、俺が怒鳴ったから、ビビりやがったな」
鼻で笑った。体がふわふわしているように感じられた。いつもよりもビールをたくさん空けたぶん、足元がおぼつかなかった。
きちんと窓の鍵がしまっているのを確認する。
本当にビビっているのは孝一なのだが、アルコールのせいで気が大きくなっている。
デートの後、再び散らかり始めた部屋を横切って、キッチンにつながるドアを開けた。孝一の身体を感知して、玄関ライトが自動点灯する。黄色みを帯びた温かい光が、キッチンを兼ねた短い廊下を満たした。
今夜はためらうことなく、玄関ドアの覗き穴を覗き込んだ。
やはり誰もいない。向かいの104号室のドアが、丸くゆがんで見えるだけだ。
「へっ。やっぱり俺にビビってやがる」
孝一は鼻で笑って、6畳間に戻った。そして、電気を消してベッドに入った。
しかし、なかなか寝付けなかった。どうしても今日の出来事を思い出してしまう。
「もう会わない」
「消印がなく、私の家のポストの直接入れたみたい」
「やばいヤツとは関わりたくないの。孝一には悪いけど、私ともう会わないで」
真奈が寄こしたメールが、心に突き刺さったままだった。あのあと、真奈にも電話をかけた。しかし、彼女は孝一からのコールに出ようとはしなかった。
真奈には本当に惚れていた。ミスキャンパスに選出された美貌。女性らしい曲線を描いたスタイル。洗練されたメイクとファッション。大手化粧品会社に勤めている真奈は、自分の彼女としてふさわしいと感じていた。
それなのに、真奈はあっさりと脅迫に折れてしまった。孝一に対する真奈の愛情は、その程度のものだったのだ。
「はあぁ……」
大きな溜息をついて、寝返りをうつ。しかし、そこには真奈はいなかった。ただ暗い壁が広がっているだけだった。
『10日前には、ここに真奈が寝ていたのに』
彼女の誘うような視線を思い出す。
細い割に、大きな胸の谷間を思い出す。
『真奈が俺から離れていったのは、あいつのせいだ』
せっかくアルコールで洗い流したはずの怒りが、またふつふつとわき上がってきた。アルコールも抜けてきたらしく、だんだん頭も目も冴えてきてしまった。それもまた、女への怒りに転嫁される。
「あの女、別れてくれたんだ」
女のか細い声が思い出された。
『なんでこんなヤツのために、真奈と別れなければならないんだ』
女の行為は脅迫であり、犯罪である。
「あんな女と別れてくれて、ありがとう。孝一」
今度は女の笑い声が思い出された。気管が引きつるような不気味な笑いが、よみがえってくる。人の心を不安にし、不快にするような笑い方だった。
「孝一から連絡してきてくれて、うれしいよ」
まったく会話が成り立たなかったことも思い出された。話がまったくかみ合わなかった。
『今度現れたら、つかまえて直接話をつけてやる』
さきほどはそう意気込んでいたが、昼間のやり取りを思い出すと、自信がなくなってきた。自分と孝一の写真を合成して、真奈を脅すような「やばいヤツ」なのだ。問い詰めたり、文句を言ったりしたところで、話が通じない可能性もある。
「はあぁ……」
再び深いため息をついた。もうふとんに入ってから1時間以上はたっているだろう。ぐるぐると同じことを考え続けてしまっている。
もう一度寝返りを打った。
孝一は異変に気付いた。
6畳のワンルームとキッチンを隔てるドアの隙間から、黄色い明かりが漏れているのだ。
孝一の全身が硬直する。
玄関ライトは、人間の存在を感知すると自動点灯する。
ごくり。
緊張をのみ込もうとした。しかし、大量にアルコールを摂取したせいで、のどはからからに渇いていた。以前にもこんなことがあったような気がした。
『いつから点いていた?』
寝返りをうつまでは、ライトは消えていたはずだ。
しかし、再び寝返りをうって振り向いたときには……。
ベッドから立ち上がろうとしたが、あまりにも手足が硬直していたため、身動きが取れなかった。
声をしぼり出そうとした。
『だれか……』
しかし、のども硬直しているのか、声を出せなかった。呼吸まで止まっていたことに気付く。孝一はゆっくりと息を吐き出した。
「はあぁ……はあぁ……はあぁ……」
少し筋肉の緊張がほぐれた気がする。もう一度、声を出そうとしてみた。
『だれか……』
途中までは、やはりのどの奥で声が空回りしただけだった。しかし、後半はようやく口から声が漏れ出た。
「……いるのか……」
情けないほどか細い声だった。孝一は自分の声だとは思えなかった。
ライトは自動で点灯するように、人の気配がなくなると消灯するようにできている。しかし、なかなか黄色い明かりは消えない。
声を出せたことで、ようやく体の硬直もほぐれてきた。ゆっくりとベッドの上で起きあがる。
黄色く光るドアの輪郭から視線を外すことはできないまま、ベッドから出て立ち上がる。
ドアノブに手を伸ばす。しかし、その手をひっこめた。
『このドアの向こう側に……あいつが……いるのか?』
泥棒が侵入したとは、まったく思わなかった。真っ先に、あの女を警戒した。
ドアを開くと、女が大きく目を見開いて、こちらを見て立っているのをイメージした。
口角をくいと持ち上げて、口を三日月状に開けて、ひきつった笑みを浮かべているのではないか。
全身にぞわぞわと鳥肌が駆け巡る。
次の瞬間、黄色いライトが消えた。
「きゃっ!」
孝一は思わず少女のような悲鳴をあげて怯えてしまった。
101号室に静寂が訪れる。もうとっくに終電の時間も過ぎている。いつもはやかましい電車の音が懐かしく感じられた。
『ライトが消えたということは、誰もいないのか?』
しかし、自分の考えをすぐに打ち消す。
『いや、身動きしなかった場合も、動くものを感知せず、ライトは消える。だとしたら……』
再び全身に鳥肌が這った。脚に力が入らない。
『暗闇の中で、立っているのか? こちらを向いて』
真っ暗なキッチンに、女が立っている姿を想像する。
白いワンピースから、骨の浮いた脚と腕が伸びる。
前髪も後ろで束ねて、青白い額を露出している。
ドアを隔てた向こう側から、女がこちらを見つめているような気がした。
『最悪だ。ライトが点いていた方が、まだマシだ』
暗闇が恐怖を増幅させる。
カーテンからは、街灯のわずかな光が漏れ入るだけだ。ほの青く、6畳の部屋を照らし出している。
ギシッギシッ……。
ドアの向こう側から、何かがきしむような音が聞こえた。
『やっぱり誰か……いる』
孝一の全身がふたたび硬くなる。寒気を感じているにもかかわらず、額からは汗が噴き出していた。
体は硬くなっていたが、声は出すことができるようになっていた。
「……おい……誰かいるのか!?」
思わず出た自分の声の大きさに、孝一はすくんでしまう。
耳を澄ましてみたが、もう何かがきしむ不吉な音は聞こえてこなかった。
ごくり。
渇いたツバを飲み込む音が、異様に大きく感じられる。
さっきは諦めてしまったが、もう一度ドアノブに手を伸ばす。今度は触れることができた。冷房が効いているにもかかわらず、ドアノブは異様に温かく感じられた。ドアの向こう側で、女がドアノブを握り返しているのを想像してしまう。
孝一は歯を食いしばった。
開けないわけにはいかない。
開けずに夜を明かすことはできない。
とにかくこの不気味な状況に決着をつけなければならない。
ドアノブを握る手に力を込めた。そして、一気にドアノブを回して、ドアを引いた。
ギイィッ!
ドアは悲鳴を上げながら勢いよく開いた。
「ひいっ!」
孝一はドアから飛び退きながら、叫び声をあげた。ドアのきしむ音が、電話で聞いた女の笑い声に聞こえたのだ。
キッチンを兼ねた短い廊下は、真っ暗で何も見えない。
『誰か……いるのか……』
大きく目を見開いて、暗闇に目を凝らす。暗闇の中からより多くの情報を集めようと、瞳孔が開いていく。
だんだんと目が慣れてきた。短い廊下の先に、玄関ドアの輪郭がうっすらと浮かび上がってきた。
『誰も……いない……』
心臓が早鐘を打っていることにようやく気付いた。全身で、心臓の鼓動を感じ取ることができた。
ゆっくりとキッチンへと足を進める。6畳のワンルームからキッチンへと出たところで、センサーが孝一を感知した。黄色いライトが、キッチンを照らし出した。
空のビール缶。
洗うのが億劫になり、シンクに積んだままの汚れた食器。
毛先の開いた歯ブラシ。
小さなうなり声をあげる冷蔵庫。
一方、沈黙を保つ洗濯機。
『はあぁ……はあぁ……』
ようやくまともな呼吸することができた。
最後に戸締りのチェックをしたときと、キッチンと廊下に何も変化はない。玄関ドアの鍵もしまったままになっている。
『さっきのきしむような音は、いったい何だったんだ?』
孝一は左側に目を移した。そこには2つのドアがある。トイレと風呂のドアだ。
再び緊張が高まる。
『もしさっきのきしむ音が、このドアを開閉する音だったとしたら……』
さっきと状況は変わらない。ドアを開くと、そこに宣教女が立ち尽くしているかもしれないのだ。
もう一度自分を鼓舞する。
『もし女が出てくれば、しっかりと話をつけてやる』
トイレのドアノブに手をかける。
『あんなガリガリに痩せた女に、俺が負けるわけがないんだ』
そう思うと、力がわいてきた。孝一は勢いをつけて、トイレのドアを開いた。
「……」
自分を勇気づけていたとはいえ、呼吸が止まる。
トイレの中を、玄関ライトの黄色い光が照らし出す。
トイレの中には、洋式の便器があるだけだった。オーナーこだわりの最新のウォシュレットの電源表示が、赤く点滅している。隠れられる場所はどこにもない。
残すところは風呂場だけだ。
孝一は女を追い詰めたような気がした。しかし、「窮鼠猫をかむ」という言葉のように、追い詰められた女は、襲いかかってくるかもしれない。
こぶしを握りこみ、力を込めた。
格闘技の経験はないが、かなりの体重差があるあの女なら、押さえ込む自信があった。
『そうだ。つかまえて、すぐに警察につきだしてやればいい』
ますます力がみなぎってきた。風呂のドアレバーをにぎる。
『もしこの部屋に侵入しているとすれば、それは立派な犯罪だ』
孝一はドアレバーを押し下げ、一気にドアを開いた。
そこに、誰かが立っていた。
「うわあああっ!」
全身にみなぎっていた力も勇気も、一瞬にして吹き飛んでしまった。さらに心臓が縮みあがる。孝一は腰を抜かして、短い廊下にへたり込んでしまった。
風呂場には、恐怖に歪んだ表情の男が座り込んでいた。
今岡孝一自身だった。
「はあぁ……はあぁ……鏡……」
風呂場の鏡に、自分が映っていただけだった。孝一は上体を起こして、風呂場をのぞきこむ。
浴槽の中にも誰もいなかった。
「な……なんだよ……」
大きな溜息をつく。
風呂場とトイレのドアをしめた。結局101号室には、自分以外誰もいなかったのだ。
昼間のできごとに、神経が過敏になっていたのだろうか。
6畳間に戻って、ドアをしめた。散らかった部屋が広がっていた。どっと疲れが押し寄せてきた。
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耳を澄ましてみたが、やはり何も聞こえない。
『そして、誰もいないはずの玄関で、どうしてライトが自動点灯した?』
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