視線

一ノ瀬なつみ

文字の大きさ
7 / 11

第7節

しおりを挟む
 8月に入った。
 本当ならば、盆休みには藤本真奈と海に行ったり、花火大会を見にいったりできたかもしれない。しかし、あの一件以来、結局真奈とは連絡がつかなかった。
 また、あの不気味な女と接触することもなかった。次にあの女が現れたら、警察に突き出してやろうと意気込んでいたが、空振りが続いていた。
 交差点で布教活動している姿も見かけなかった。
 マンションの周辺にも、女は現れなかった。
 電話もかかってくることはなかった。
 もちろんこちらから女の電話番号にコールする気にはなれない。
 熱帯夜が続いている。ただでさえ寝苦しいうえに、玄関ライトが自動点灯したあの夜から寝付きが悪くなっていた。ただ、あの日以来、玄関ライトのセンサーが反応することも、正体のわからない物音が鳴ることもなかった。
 しかし、盆休みに入る前日は、ふとんに入ると、すぐに眠りにつくことができた。もちろんいつも通りアルコールの力を借りたということもあるが、ようやく仕事にひと区切りついたことが、心と体を緩ませたのかもしれない。今岡孝一にとってはゴールデンウィーク以来の連休だった。
 その夜、孝一は夢を見た。
 「たたみ?」
 孝一の足元にはたたみが敷かれてあった。そのたたみは縦に連なって、彼の足元から遠く前方に伸びている。
 周囲は真っ暗闇で、1本のたたみの道が続いているだけの世界だった。
 「ん?」
 白い点のようなものが、遠くたたみの先に見えた。
 まばたきをする。すると、その白い点は大きくなった。
 もう一度、まぶたをおろし、まぶたを開く。すると、その白い点は、人の形をしていることがわかった。
 「え……」
 まばたきをするたびに、その白い人型はたたみの上を歩き、孝一の方へと近づいてくるようだった。
 一歩。
 また一歩。
 まだ遠くにいるのも関わらず、それが誰なのか、孝一にはわかってしまった。
 あの女だ。
 宗教の勧誘チラシを配り、101号室のドアの前でたたずみ、孝一の名前と電話番号を調べ上げ、コラージュまでして孝一との性交写真を作って真奈と孝一を別れさせた、あの女だ。
 『やっぱり……』
 孝一の予想通り、白く見えていたものはワンピースだった。
 ワンピースから伸びた、痩せ細った手足も見えてきた。その手足も白い。
 その骨が浮き出た脚を、一歩、また一歩と、着実に前へと進めている。つまり、こちらに向かって近づいてくる。
 孝一はたたみの数を数えた。
 『7』
 孝一から7枚目のたたみの上に、女は立っていた。孝一はまばたきする。すると、女は6枚目のたたみの上に立っていた。
 『……』
 孝一は恐る恐るまぶたを閉じる。もう一度まぶたを開けると、女は5枚目のたたみに足を引きずるように歩いている。
 どうやらまばたきをするたるたびに、女は1枚ずつ近づいていたらしい。
 もう女の表情を見てとることができた。
 青白い額をむき出しにしている。
 前髪は他の髪の毛とともに、後ろで1つに束ねているらしい。
 目は大きく見開かれ、決して孝一から視線を外そうとはしない。
 口の端が頬に食い込むような、いびつな笑みを浮かべている。
 『あと……4回』
 あと4回まばたきをすると、女は孝一の元に到着してしまう。
 孝一は後ろにさがろうとした。しかし、足がたたみに固定されてしまっているかのように動かない。重心だけが後ろにかかり、孝一はたたみの上に尻もちをついてしまった。
 「あ……」
 尻もちをついたはずみで、まばたきをしてしまった。
 4枚目。
 女の頭が、かくかくと小刻みに前後に揺れ動き始めた。同時に、女ののどから引きつった声が漏れ出る。喘息で息苦しいのかと思われた。
 しかし、孝一は思い出した。それが女の笑い方だと。
 孝一はまばたきできない。
 まぶたが落ちそうになってくるのを我慢する。
 目が渇いて、だんだん痛くなってくる。
 歯を食いしばって、なんとか耐えようとする。
 しかし、どうばんばっても、まばたきを抑えることはできない。
 だんだんとまぶたが下がってくるのが、自覚できた。
 「いやだぁ……いやだあっ!」
 孝一は声を上げて、自分のまばたきに抗おうとする。
 しかし、我慢の限界だった。まぶたは渇いた眼球を潤おそうと、ゆっくりと眼球を覆っていく。
 ふさがっていく視界の隙間から女の顔が見えた。苦しそうな孝一の様子を、女は愉快そうに見下ろしていた。
 「早くまばたきすればいいのに」
 大きく見開いた目は、そう語っているようだった。依然、のどを引きつらせて喘ぐような笑い声を上げている。
 「うわああっ!」
 孝一は目を閉じてしまった。
 あと3枚。
 しかし、名案を思いついた。
 まぶたを開くと、たたみ1枚分近づいてくるのだ。だから、まぶたを開かなければ、女は今立っているたたみの上から動かないのではないか。
 目を閉じた孝一は、息をひそめて女の様子をうかがう。
 『女は止まっているのか?』
 しかし、ぜえぜえという不気味な笑い声にまじって、たたみに足を引きずる音が聞こえた。
 「……来るな……」
 女は足を止めていないではないか。
 笑い声も足音も、ますます大きくなってくる。
 あと2枚。
 「来るなあっ!」
 孝一は目を閉じたまま、大声で女を制止しようとした。すると、笑い声も足音もぴたりと止まった。
 「はあぁ……はあぁ……はあぁ……」
 聞こえるのは、孝一自身の荒い呼吸だった。
 『身動きを止めた女は、今どこにいる?』
 孝一は目の前に立ち尽くす女の姿を思い浮かべる。
 『そして、何をしている?』
 女が大きく目を見開いて、愉快そうに自分を見下ろしているのを想像した。
 今度は目を開けたくても、開けられなくなってしまった。子どもの頃、シャンプーをしたあと、目が開けられなかったことを再び思い出した。
 目を開けたときに、誰かの顔が目の前にあるのではないか。
 浴槽の中に、誰かが立っているのではないか。
 曇った鏡の中に、何者かが映っているのではないか。
 『今、目を開けると、目の前に女の顔があるのではないか』
 歯を食いしばって、恐怖に耐えようとした。
 しかし、力む頬に、何かが触れた。
 「ひいっ!」
 冷たい手のひらが、孝一の頬を包み込む。
 やはり女は目の前まで近づいてきていたのだ。
 冷たい指は、ゆっくりと頬を撫でていく。その感触を確かめるように。
 「や……やめろ……」
 孝一の声は震えていた。
 しかし、女は愛撫をやめない。それどころか、孝一の顔にあたたかく湿った空気が包み込む。
 「うわああっ!」
 吐息だ。
 吐いた息が顔にかかる距離に、女はいるのだ。
 目を開けると、きっと文字通り、目と鼻の先に……。
 孝一の腕も脚も、ガクガクと震えてしまっていた。しかし、次の瞬間、その震えすらも硬直してしまう。
 鼻先に湿った何かが触れたのだ。
 「ひああっ!」
 孝一は裏返ったような悲鳴を上げた。
 その何かは、ぺろりぺろりと、孝一の鼻の先端を濡らす。
 孝一の味を確かめるように、味わうように丁寧に。
 そして、女は満足そうに口を開いた。
 「……おいしい」
 その言葉を耳にした瞬間、孝一は弾かれるように目を開けてしまった。
 目の前には、大きく見開かれた目があった。
 血走った眼球が、孝一の眼球を覗き込んでいた。
 「うああああっ!」
 孝一は目を覚ました。
 「はあぁ……はあぁ……はあぁ……」
 見慣れた天井が目に入った。それまで見ていた光景が、夢だったことに思い至る。
 『そうだ……今日から盆休みなんだ』
 天井や壁がもうすでに明るい。日は昇っているらしいが、今日からは数日間は出社しなくていいのだ。
 せっかくの連休初日に、不気味な夢を見てしまった。認めたくはないが、よほど女のことを恐れていたらしい。
 「くそっ!」
 夢の中とはいえ、冷たい指に触れられた頬、ねっとりと舐められた鼻を、さっさと洗いたかった。顔にまとわりついた女の生ぬるい呼気を洗い流したかった。その感触をありありと思い出せるのが忌々しい。
 ベッドの上で起きあがり、足を床におろした。
 その瞬間、孝一は違和感に気付いた。
 本来あるはずのないものが、視界に入った気がする。
 その違和感に目を向ける。
 窓だ。
 よく見ると、カーテンがふっくらと盛り上がっている。
 ドクンと、心臓が大きく脈打ったのを孝一は感じた。
 外からの太陽の光を受けて、うっすらと人の影を浮かび上がらせている。
 視線を下に移動させていく。
 カーテンは、床との間に5cmほどの隙間がある。
 その隙間に、青白い10本の足の指が見えた。
 「うああああっ!」
 孝一は夢と同じ悲鳴を上げた。
 その悲鳴を聞いて、女は身をひるがえして、ガラガラと窓を開けた。
 カーテンから女の影が消えた。
 床とカーテンの隙間からも、女の足指が消えた。
 孝一は叫んだきり、身動きを取ることができない。恐怖のせいで、筋肉が硬直してしまっていた。夢の中で動けなかったように。
 ガサガサという音が聞こえる。ベランダの外の植え込みの音だ。
 開いた窓から風が吹き込み、さっきまで女を隠していたカーテンが大きく波打った。
 『そうだ。つかまえて、警察につきだすんだ』
 孝一は以前そうやって自分を鼓舞したことを思い出した。
 他人の部屋に勝手に忍び込んでいたのだ。れっきとした犯罪である。
 『現行犯でつかまえてやる』
 孝一は歯を食いしばって立ち上がった。脚はがくがくと震えている。
 『しっかりしろよ!』
 孝一は力のこもらないこぶしで、震える太ももを何度も殴りつけた。そして、窓に向かって駆け出した。
 カーテンを勢いよく開けた。
 開いていた窓からベランダに飛び出す。
 身を乗り出すと、植え込みと駐輪場の向こう、マンションの敷地から道路に出るあたりに女はいた。
 体勢を崩して倒れかけていた。
 「この野郎!」
 孝一は勢いに乗って吠えた。
 ベランダの縁に手をかけて、女がそうしたようにベランダを乗り越えようとした。
 その瞬間、女は振り返った。
 女の顔を見て、孝一は動きを止めてしまった。
 女は四つん這いになり、孝一に向かって、骨ばった尻を突き出していた。
 顔だけこちらに向けて、大きく目を見開いて、恍惚の表情を浮かべていた。
 孝一は目が合ったまま、動けなかった。
 短い時間だったが、ずいぶんと長い間視線を合わせているような錯覚に陥る。
 突然、女は動き出した。
 四つん這いで首を孝一に向けたまま、骨の浮き出た両手両足を前に進める。
 「ひっ!」
 その不気味な歩き方に、孝一ののどが悲鳴を上げた。
 女は嬉しそうに頬を吊り上げたまま、四つん這いで駈け出した。
 孝一の方へと首を不自然にねじったまま、道路に飛び出す。
 決して孝一から目を離さず、四足の獣のように駆け去っていった。
 『これは夢か?』
 異様な光景に、孝一は現実かどうか疑いたくなった。しかし、間違いなく、これは現実である。
 場違いなほど、穏やかな風が吹く。生温かい風が、孝一の顔を撫でていった。
 「……濡れてる……」
 鼻がひんやりと感じられた。
 夢の情景を思い出す。
 夢の中で、冷たい指で頬を撫でられた。
 生温かい吐息を吹きかけられた。
 鼻先を舐められた。
 背中に悪寒が走った。
 『あの感触は、夢ではなかった?』
 女は孝一の部屋に侵入していたのだ。
 もしかしたらベッドの横に立ち、眠っている孝一を見下ろしていたのかもしれない。
 大きく目を見開いて、口角を上げて愉快そうに笑いながら。
 筋張った指で、本当に頬を撫でていたのかもしれない。
 寝ている孝一に顔を近づけて、舌先をにゅっと突き出している姿を思い浮かべる。
 そして、生ぬるい息を吐きかけながら、鼻先をぺろりと舐めたのかもしれない。
 「……おいしい」とささやいて。
 もう一度、背中に激しい悪寒を感じた。
 『じゃあ、どうやって部屋に忍び込んだんだ?』
 昨夜の行動を思い出そうとする。
 『鍵を開けたままだった? いや、いつものように戸締りはチェックしたはず……』
 寝る前には、ベランダに通じる窓の鍵も、玄関の鍵ももちろん確認している。
 ということは……。
 『もしかして合鍵を持ってるのか?』
 孝一の電話番号や藤本真奈の住所まで調べ上げていたのだ。何らかの方法で、合鍵を作っていたとしても、もはやおかしくはなかった。
 孝一はすぐに警察に被害を届け出た。脅迫と住居侵入の事実を伝えると、警察はすぐに動き出すと明言してくれた。
 女がやっていることは、正真正銘、犯罪なのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

怪奇蒐集帳(短編集)

naomikoryo
ホラー
この世には、知ってはいけない話がある。  怪談、都市伝説、語り継がれる呪い——  どれもがただの作り話かもしれない。  だが、それでも時々、**「本物」**が紛れ込むことがある。  本書は、そんな“見つけてしまった”怪異を集めた一冊である。  最後のページを閉じるとき、あなたは“何か”に気づくことになるだろう——。

【1分読書】意味が分かると怖いおとぎばなし

響ぴあの
ホラー
【1分読書】 意味が分かるとこわいおとぎ話。 意外な事実や知らなかった裏話。 浦島太郎は神になった。桃太郎の闇。本当に怖いかちかち山。かぐや姫は宇宙人。白雪姫の王子の誤算。舌切りすずめは三角関係の話。早く人間になりたい人魚姫。本当は怖い眠り姫、シンデレラ、さるかに合戦、はなさかじいさん、犬の呪いなどなど面白い雑学と創作短編をお楽しみください。 どこから読んでも大丈夫です。1話完結ショートショート。

(ほぼ)5分で読める怖い話

涼宮さん
ホラー
ほぼ5分で読める怖い話。 フィクションから実話まで。

視える僕らのシェアハウス

橘しづき
ホラー
 安藤花音は、ごく普通のOLだった。だが25歳の誕生日を境に、急におかしなものが見え始める。    電車に飛び込んでバラバラになる男性、やせ細った子供の姿、どれもこの世のものではない者たち。家の中にまで入ってくるそれらに、花音は仕事にも行けず追い詰められていた。    ある日、駅のホームで電車を待っていると、霊に引き込まれそうになってしまう。そこを、見知らぬ男性が間一髪で救ってくれる。彼は花音の話を聞いて名刺を一枚手渡す。 『月乃庭 管理人 竜崎奏多』      不思議なルームシェアが、始まる。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

百物語 厄災

嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。 小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。

処理中です...