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第8節
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盆休みに入った。今岡孝一は久しぶりに実家に帰った。正月以来、両親にも顔を見せていなかったので、ときどきは両親に顔を見せておかなければならない。また、101号室から少しでも離れたかったというのも事実である。
大学時代まで過ごした孝一の部屋は、実家を離れて1年半近くたった今もそのまま残されていた。ホコリも積もっていなかったので、母が掃除してくれていたのだろう。
「おはよう」
孝一がリビングルームに行くと、母がキッチンから声をかけた。
「うん」
ダイニングテーブルの上には、もうすでに朝食が用意されている。一人暮らしを始めてからは、面倒なので朝食はとっていなかった。毎朝出発時間ぎりぎりに起きて職場へ向かう。
「いただきます」
納豆ご飯に、ハムエッグ。デザートはヨーグルトとバナナ。実家で暮らしていたときの定番の朝食だった。
久々に納豆をパックの中で、かき混ぜる。懐かしいにおいが鼻をつく。ご飯の上に納豆をかけていると、母が牛乳とコーヒーを持ってきてくれた。実家に帰ると至れり尽くせりである。
離れて暮らしてみて、家族のありがたみがわかる。高校や大学に実家から通っていた頃頃は、過保護気味な両親をうっとうしく感じた時期もあった。しかし、自分も親に甘えていたことを今なら自覚できた。
母がダイニングチェアに座って、ぼんやりとテレビを見ながら孝一に尋ねる。
「よく眠れた?」
「うん」
孝一は納豆を口に運びながら答えた。
「最近、寝不足だったんじゃないの?」
何気なく質問しているようだが、やはり心配してくれていたらしい。
「ちょっとね」
「帰ってきたとき、あんた、ひどい顔してたから」
母は何でもお見通しのようだった。昔からそうだった。孝一が小学校時代にいじめられていたときも、中学生になって初めて彼女ができたときも、大学受験でプレッシャーにおしつぶされそうになっていたときも。
そして、ピンチのときだけ、しっかりと手を差し伸べてくれた。
「まあ、配属先の新しい仕事が忙しくて」
母を心配させたくはないので、女のことは黙っていた。今、こうして納豆とハムエッグを食べている間にも、警察は捜査してくれているに違いない。
女の電話番号もわかっているし、真奈に送りつけた写真で顔もわれている。孝一と女が後背位で交わっている写真を見た警察官は、ちらりと孝一の顔を見た。しかし、女によってコンピュータで合成された画像だと説明すると、納得してくれたようだった。
そんなことを考え込んでいた孝一に、母は言う。
「一人暮らしが大変なら、帰ってきたら」
確かに実家に帰ってきてから2日間、ぐっすりと眠ることができた。あの女が現れてからというもの、この1カ月ほど眠りが浅い日が続いていた。
『家族が近くにいるだけで、こんなにも心強いものなのか』
101号室を引き払って、実家に戻ってくるのも悪くないと思えた。
「そうだな」
孝一は素直に答えた。
一流大学に卒業し、名の通った有名企業に就職し、自分では何でもできるようになったと思っていた。
しかし、あの女のせいで、かつての「臆病な孝一」がよみがえってしまった。大学や企業の力を、自分の実力と錯覚していただけだったことに気付かされたのだ。
孝一は納豆ご飯とハムエッグを食べ終え、牛乳を飲み干す。
「それよりもあんた、彼女とは最近どうなの?」
母は話題を変えようとしてくれたようだが、むしろ核心に迫ってくる。孝一はむせて、思わず牛乳を噴きだしそうになった。
「なんだよいきなり。もう別れたよ」
口の周りの牛乳をぬぐったところで、ふと孝一の頭に疑問が浮かんだ。
『どうして、彼女ができたことを知っているんだ?』
孝一は正月以来、実家に帰ってきていない。藤本真奈と付き合い始めたことも、母には伝えていない。あるいは、かつての彼女と勘違いしているのかもしれない。
しかし、母の口から出た言葉は、予想外のものだった。
「彼女があいさつに来たんだよ」
「え?」
バナナの皮をむこうとしていた手を止める。
『真奈が、実家にあいさつに来た?』
真奈は確かに如才なく立ち回る娘だった。しかし、孝一に連絡もなく、実家にあいさつに来るとは思えない。
母の次の言葉が、孝一の頭の片隅にあった「顔」を照らし出す。
「あんたには悪いけど、あまり感じの良くない子だったよ。クラスに1人はいたじゃない、ああいう暗い子」
孝一の手足に鳥肌が走る。毛穴が引き締まるのが感じられた。
「そいつ……もしかして、ガリガリに……痩せてた?」
「そうそう、顔色悪くて、目だけぎょろぎょろ大きくて。あんまり口出ししたくはないけど、今までの彼女の方がよかったわよ」
母がそこまで言うのは異例だった。よほど異様に感じられたのだろう。
『いや、そんなことよりも、なぜ実家の場所を知っていたんだ?』
あの不気味な宣教女が、実家に来ていたのだ。しかも、「孝一の彼女」を名乗って。
「あ……」
孝一の頭の中で、もうひとつひらめいたことがあった。
「母さん、もしかしてそいつに……俺の携帯番号を教えなかった?」
「うん、教えたわよ」
そこまで言った母も、孝一の様子を見て、ただごとじゃないことを知る。
「彼女なのに、彼氏の電話番号を知らないって変だと思ったのよ。でも携帯電話のメモリがちょうど消えちゃったって言ってたから」
最後の方は、いいわけがましく聞こえた。
「なんで信じたんだよ!」
孝一がバナナをテーブルにたたきつけて、母に食ってかかった。母は身をすくませる。
「だって、あの子、あんたの高校時代のことをよく知ってたんだもの」
母は孝一の勢いにひるみながら答えた。
その瞬間、孝一はかつて覚えた違和感を思い出した。そして、その違和感の謎が解けた気がした。
「まさか……」
孝一は朝食を中断し、立ち上がった。そして、自分の部屋へと駆け込む。本棚から1冊の本を取り出した。その本は、他の書物よりも一回り大きく、しっかりとした装丁をしている。
高校の卒業アルバムのページをめくる。
かたいページをめくる手が震える。
どうして卒業アルバムはこんなにもページをめくりにくいのだろうか。
卒業アルバムに焦りと怒りをぶつけたくなる。
「……あった」
孝一の手が、修学旅行のページで止まった。関西への修学旅行に行ったときの写真が、たくさん並んでいる。その1つに高校時代の孝一がうつっている。仲のいいグループと、神戸の中華街で食べ歩きをしている写真だ。
その写真の孝一は、穏やかそうな笑みを浮かべている。
ベッドの頭元に置きっぱなしになっていたスマートフォンを手に取った。やはり手が震えて、画面をうまくタップすることができない。
「や、やっぱり」
孝一が見たかったのは、真奈から転送されてきた脅迫写真だった。女と交わっているように合成された写真。その写真の孝一と、卒業アルバムの中の孝一は、まったく同じだった。
高校時代の孝一。
合成写真を見たときの違和感の正体は、これだったのだ。
そして、もう1つ確かめなければならないことがあった。
修学旅行よりも、もっと前のページに戻る。
クラスごとの生徒の顔写真が載っているページ。
しかし、孝一がいた3年1組のページは開かなかった。
仲の良いクラスだった。
40人のクラスメートの顔はよく覚えている。
隣のクラス、3年2組のページを開いた。
「い……いた」
孝一の足先から頭の先まで、寒気が走る。
彼の体温は、ページの一点に奪われていくようだった。
そこに口角を不気味に吊り上げて笑う女の顔があった。
前髪を引っ張り上げるようにして、後ろで結んで束ねている。
むき出しの額は、青白い。
大きく目を見開いて、卒業アルバムの中から孝一を見上げていた。
「大谷 芳子」
それが女の名前だった。
大学時代まで過ごした孝一の部屋は、実家を離れて1年半近くたった今もそのまま残されていた。ホコリも積もっていなかったので、母が掃除してくれていたのだろう。
「おはよう」
孝一がリビングルームに行くと、母がキッチンから声をかけた。
「うん」
ダイニングテーブルの上には、もうすでに朝食が用意されている。一人暮らしを始めてからは、面倒なので朝食はとっていなかった。毎朝出発時間ぎりぎりに起きて職場へ向かう。
「いただきます」
納豆ご飯に、ハムエッグ。デザートはヨーグルトとバナナ。実家で暮らしていたときの定番の朝食だった。
久々に納豆をパックの中で、かき混ぜる。懐かしいにおいが鼻をつく。ご飯の上に納豆をかけていると、母が牛乳とコーヒーを持ってきてくれた。実家に帰ると至れり尽くせりである。
離れて暮らしてみて、家族のありがたみがわかる。高校や大学に実家から通っていた頃頃は、過保護気味な両親をうっとうしく感じた時期もあった。しかし、自分も親に甘えていたことを今なら自覚できた。
母がダイニングチェアに座って、ぼんやりとテレビを見ながら孝一に尋ねる。
「よく眠れた?」
「うん」
孝一は納豆を口に運びながら答えた。
「最近、寝不足だったんじゃないの?」
何気なく質問しているようだが、やはり心配してくれていたらしい。
「ちょっとね」
「帰ってきたとき、あんた、ひどい顔してたから」
母は何でもお見通しのようだった。昔からそうだった。孝一が小学校時代にいじめられていたときも、中学生になって初めて彼女ができたときも、大学受験でプレッシャーにおしつぶされそうになっていたときも。
そして、ピンチのときだけ、しっかりと手を差し伸べてくれた。
「まあ、配属先の新しい仕事が忙しくて」
母を心配させたくはないので、女のことは黙っていた。今、こうして納豆とハムエッグを食べている間にも、警察は捜査してくれているに違いない。
女の電話番号もわかっているし、真奈に送りつけた写真で顔もわれている。孝一と女が後背位で交わっている写真を見た警察官は、ちらりと孝一の顔を見た。しかし、女によってコンピュータで合成された画像だと説明すると、納得してくれたようだった。
そんなことを考え込んでいた孝一に、母は言う。
「一人暮らしが大変なら、帰ってきたら」
確かに実家に帰ってきてから2日間、ぐっすりと眠ることができた。あの女が現れてからというもの、この1カ月ほど眠りが浅い日が続いていた。
『家族が近くにいるだけで、こんなにも心強いものなのか』
101号室を引き払って、実家に戻ってくるのも悪くないと思えた。
「そうだな」
孝一は素直に答えた。
一流大学に卒業し、名の通った有名企業に就職し、自分では何でもできるようになったと思っていた。
しかし、あの女のせいで、かつての「臆病な孝一」がよみがえってしまった。大学や企業の力を、自分の実力と錯覚していただけだったことに気付かされたのだ。
孝一は納豆ご飯とハムエッグを食べ終え、牛乳を飲み干す。
「それよりもあんた、彼女とは最近どうなの?」
母は話題を変えようとしてくれたようだが、むしろ核心に迫ってくる。孝一はむせて、思わず牛乳を噴きだしそうになった。
「なんだよいきなり。もう別れたよ」
口の周りの牛乳をぬぐったところで、ふと孝一の頭に疑問が浮かんだ。
『どうして、彼女ができたことを知っているんだ?』
孝一は正月以来、実家に帰ってきていない。藤本真奈と付き合い始めたことも、母には伝えていない。あるいは、かつての彼女と勘違いしているのかもしれない。
しかし、母の口から出た言葉は、予想外のものだった。
「彼女があいさつに来たんだよ」
「え?」
バナナの皮をむこうとしていた手を止める。
『真奈が、実家にあいさつに来た?』
真奈は確かに如才なく立ち回る娘だった。しかし、孝一に連絡もなく、実家にあいさつに来るとは思えない。
母の次の言葉が、孝一の頭の片隅にあった「顔」を照らし出す。
「あんたには悪いけど、あまり感じの良くない子だったよ。クラスに1人はいたじゃない、ああいう暗い子」
孝一の手足に鳥肌が走る。毛穴が引き締まるのが感じられた。
「そいつ……もしかして、ガリガリに……痩せてた?」
「そうそう、顔色悪くて、目だけぎょろぎょろ大きくて。あんまり口出ししたくはないけど、今までの彼女の方がよかったわよ」
母がそこまで言うのは異例だった。よほど異様に感じられたのだろう。
『いや、そんなことよりも、なぜ実家の場所を知っていたんだ?』
あの不気味な宣教女が、実家に来ていたのだ。しかも、「孝一の彼女」を名乗って。
「あ……」
孝一の頭の中で、もうひとつひらめいたことがあった。
「母さん、もしかしてそいつに……俺の携帯番号を教えなかった?」
「うん、教えたわよ」
そこまで言った母も、孝一の様子を見て、ただごとじゃないことを知る。
「彼女なのに、彼氏の電話番号を知らないって変だと思ったのよ。でも携帯電話のメモリがちょうど消えちゃったって言ってたから」
最後の方は、いいわけがましく聞こえた。
「なんで信じたんだよ!」
孝一がバナナをテーブルにたたきつけて、母に食ってかかった。母は身をすくませる。
「だって、あの子、あんたの高校時代のことをよく知ってたんだもの」
母は孝一の勢いにひるみながら答えた。
その瞬間、孝一はかつて覚えた違和感を思い出した。そして、その違和感の謎が解けた気がした。
「まさか……」
孝一は朝食を中断し、立ち上がった。そして、自分の部屋へと駆け込む。本棚から1冊の本を取り出した。その本は、他の書物よりも一回り大きく、しっかりとした装丁をしている。
高校の卒業アルバムのページをめくる。
かたいページをめくる手が震える。
どうして卒業アルバムはこんなにもページをめくりにくいのだろうか。
卒業アルバムに焦りと怒りをぶつけたくなる。
「……あった」
孝一の手が、修学旅行のページで止まった。関西への修学旅行に行ったときの写真が、たくさん並んでいる。その1つに高校時代の孝一がうつっている。仲のいいグループと、神戸の中華街で食べ歩きをしている写真だ。
その写真の孝一は、穏やかそうな笑みを浮かべている。
ベッドの頭元に置きっぱなしになっていたスマートフォンを手に取った。やはり手が震えて、画面をうまくタップすることができない。
「や、やっぱり」
孝一が見たかったのは、真奈から転送されてきた脅迫写真だった。女と交わっているように合成された写真。その写真の孝一と、卒業アルバムの中の孝一は、まったく同じだった。
高校時代の孝一。
合成写真を見たときの違和感の正体は、これだったのだ。
そして、もう1つ確かめなければならないことがあった。
修学旅行よりも、もっと前のページに戻る。
クラスごとの生徒の顔写真が載っているページ。
しかし、孝一がいた3年1組のページは開かなかった。
仲の良いクラスだった。
40人のクラスメートの顔はよく覚えている。
隣のクラス、3年2組のページを開いた。
「い……いた」
孝一の足先から頭の先まで、寒気が走る。
彼の体温は、ページの一点に奪われていくようだった。
そこに口角を不気味に吊り上げて笑う女の顔があった。
前髪を引っ張り上げるようにして、後ろで結んで束ねている。
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