テイル・オブ・テール

ハシバ柾

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第一話 しっぽ人

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 雨が降っている。霧のようなしずくの群れは、野を漂うわずかな光を拾い上げて、白い一枚布のように、くすんだ紺色の空にひるがえる。

 夜半、人間たちの暮らす町からずいぶん離れた荒野で、ひとりの少年が、泥に身を横たえていた。
 整えられずに伸ばしっぱなしの黒髪に、すき間からのぞく生気のないひとみ。もともと小柄だっただろう体は、ひどくやせ細り、さらに小さくなってしまっている。夜の寒さから彼を守るものも、薄い上衣、一枚きりだ。

 ここはどこだっけ。これまでに、なにがあったんだっけ……。少年は、全身に雨をあびながら、ぼんやりと考えた。だが、すぐにどうでもよくなった。寒さと痛み、それに、恐怖の残り香が、少年から気力を奪いさってしまっていた。

「しっぽ……。ぼくの、しっぽ……」

 少年は、すがるように、自分の背中に手を回した。けれども、いつもそこにあったはずのやわらかな感触は、もうどこにも見つけられなかった。背骨の下の方――腰のあたりに、じくじくとした痛みが残っているだけだ。

 少年は、猫のようなしっぽを持つ人間、〈しっぽ人〉として生まれた。
 広い世界にあこがれて、閉鎖的な〈しっぽ人〉たちの集落を飛び出してきた彼は、しかし、めずらしい〈しっぽ人〉を狙う人間たちによって自由を奪われてしまった。そうして、いろいろな人間の手に渡されたすえに、しっぽを切り落とされ、野に捨てられたのだった。

 雨は、少年をかすめるように引かれた車輪のあとを、無情にかき消していく。少年をここまで運んできた馬車の痕跡がなくなってしまえば、少年に帰る道を教えてくれるものはなにもない。それさえも、今の少年には、どうでもいいことのように思えた。
 雨にぬれて重たくなった上衣が、少年をいっそう気だるくさせる。血がこびりついていたはずの指先は、雨水に洗われ、今度は泥に汚れていた。少年は、雨だけでなく、目の前がにじんでいくのを感じた。

 寒い。お腹がすいた。そういえば、最後にまともな食べ物を口にしたのは、いつだったか。自由だけでなく、まともな食べ物ももらえない生活が、もう何か月も続いていたように思われる。その間、今日はどの月の何日なのか、だれも教えてはくれなかった。日の当たらない、暗くて狭い場所で過ごした時間も長すぎた。

 少年は、アーリャカバボの実を思い出した。少年の故郷でしかとれない、赤くてつやつやとした、宝石のような果物だ。みずみずしく、甘酸っぱく、種の周辺はぷりぷりとした独特な食感をしている。あの果物も、もう長らく食べていない。

「帰りたいなあ……」

 少年は、かすれた声でつぶやく。好奇心にまかせて、故郷を飛び出してきてしまった自分がいやになった彼は、しっぽを動かそうとした。だが、こんな気持ちのとき、地面に打ちつけられるりっぱなしっぽも、もうないのだった。

 ぼうっとしていると、このまま死んでしまいそうだ。もういっそ、そうなってしまった方が楽になれるのかもしれない……。少年がそう思ったとき、ちょうど、空が白みはじめる。太陽が小雨のカーテンを無理やり押しのけたように、さあっと雨が止んだ。朝の光は、他のすべてを照らすのと同じ調子で、少年の冷えた体にも降りそそいだ。

 しばらくして、少年は、じんわりと温まった体を起こした。太陽の下で自分の体を見下ろした彼は、小さく笑った。泥だらけで、ひどく痩せているし、あちこちにあざやかすり傷がはりついているが、それでも、なんとか生きている。少年のもとをかすめた死の気配は、夜とともに消えてしまった。

 故郷を発ったころ、本気で目指していた東の地が、今ではあまりにも遠く感じられる。少年は、東を見て、まぶしさに目を細めた。そして、まだ薄暗がりの中にあるだろう、自分の故郷を思った。西のはてにある、〈しっぽ人〉たちの集落のことを。



 多くの人々が暮らす大陸中央部を離れ、西を目指せば、背の低い草がときどき生えているだけの、はてしない荒野にたどり着く。

 ふき下ろしてくる空っ風にとまどう旅人が次に目にするのは、大陸の西端を縦断する〈西の山脈〉だ。名もなき山々の連なりは、大きな体で、世界の西端にあるとされる〈世界のはて〉を隠している。東から西に流れ行く時間は、この山脈を越え、〈世界のはて〉へと消えてゆくのだ。

 〈世界のはて〉は、すべてのものごとの終わりそのものだ。したがって、〈世界のはて〉にほど近い大陸西端部には、生きものの姿がほとんど見られない。わざわざ西を目指す旅人もまれだ。

 けれども、このとき、大陸西部を横ぎり、さらに西へと向かう荷馬車の列があった。〈西の山脈〉の麓にある、とある集落でしか手に入らない〈赤い宝石〉を求める商人たちのキャラバンだ。

 隊を構成する三両の荷馬車には、荷物が満載されている。大陸西部は広く、旅のさなか、物資を補給できる場所が少ないためでもあるが、目指す先が、貨幣でのやり取りを受けつけない地域であることも一因だった。求められるだろう物々交換のため、幌の下には、彼らが気に入りそうな品がこれでもかと積み込まれているというわけだ。

 条件の厳しい西部の旅だが、商人たちにとって幸いなのは、それほど道が悪くないことだろうか。荒野には、荷馬車の車輪が乗り上げてしまうような、わずらわしい段差はほとんどない。行く先を示す目印も、〈西の山脈〉ひとつだ。

 障害物のない荒野では、よほどたちの悪い風が吹かないかぎり、西を目指す旅人が道に迷うことはない。だからこそ、砂漠などを旅する場合と違って、旅人たちの心にはいくぶん余裕がある。彼らが変化のない景色にうんざりしてしまうのも、その余裕のためなのだが。

 最後尾を行く荷馬車の荷台で、木箱のひとつに背を預けて座っている若い荷運び人も、この景色にうんざりした旅人のひとりだった。これまでにも何度か西部の旅に同行していたが、この退屈さは、何度経験しても慣れられるものではなさそうだった。

 何度も姿勢を変えたり、荷馬車の外に突き出した足をぶらつかせたりして、なんとか退屈を紛らわそうとしていた荷運び人は、とうとう万策尽きたところで、すぐ隣にいた男の存在を思い出した。この一団の中で、ただひとり、以前の西部の旅には同行していなかった人物だ。

「そうだ。あんた、西部ははじめてだったっけ。この前、俺たちにくわわったばかりだもんな。いいかげん疲れてきたんじゃないか? あんまりにも退屈すぎて」

 ぼうっと荒野を見つめていた男は、荷運び人の声に振り向き、「ええ、まあ」とうなずいてみせた。
 はでな出でだちから、一目で旅芸人だとわかる男だ。背中で束ねられた黒く、長い髪には、布でできた花細工がいくつも編み込まれている。両目の目尻から耳の下のあたりには、植物を模した模様がペイントされ、少しかかとの高い靴の先も、とがって、丸く反っている。
 大陸東部の森に暮らすといわれる、聖なる人々をイメージした衣装だ。これは、旅をしながら人々に歌を届ける、バードとよばれる種類の旅芸人が好むものだった。

 見る者のほほえみを誘うような出でだちに反して、男の表情はこわばっている。男は再び荒野を見やると、感情のこもっていない声で、こうつぶやいた。

「本当に、何もないですね」

「そうなんだよ。つまらないだろう? それに、ここは〈世界のはて〉に近すぎる。なんだか、こう……なんともいえない気持ちにならないか? そこで、あんたの出番だ。何か歌ってくれよ。楽器だけでもいいぞ。あの楽器の音、好きなんだ」

 男は、荷運び人に頼みにうなずいて答えた。歌や演奏を披露するような気分ではなかったが、これも、バードとしてキャラバンへの同行を許された男にとっては大事な仕事だった。
 けれども、男が気だるげにつつみをときはじめたところで、馬車が不吉な音を立てて止まった。

「あれ、何か引っかかったかな。めずらしいこともあるもんだ。悪いな、ちょっと見てくるよ」

 ――幸先が悪いなあ。
 荷運び人のつぶやきを聞いて、男は、ぶるりと体を震わせた。
 男は、腰のあたりに手をやった。そこには、背骨の一部が盛り上がったような、不自然なでっぱりがある。
 実のところ、男は西部を旅したことがあった。いいや、〈旅したことがあった〉という言い方は正確ではない。男は、西部からやってきたのだから。

〈世界のはて〉に近づいているためか、それとも、もう二十年以上も帰っていない故郷に近づいているためか……。正体のわからない不安に、男はくちびるを噛みしめた。



 荷馬車が〈西の山〉の麓の集落にたどりつくころ。集落の東、外周部の林へと続く小道を、ひとりの少年が駆けていた。

 少年の名前は、キーリといった。短い焦げ茶の髪に、とび色の瞳をした、小柄な少年だ。集落の男児らしく、そでの長い砂色の肌着の上から、青い糸で簡単な刺繍がほどこされたチュニック状の上衣を着て、それらを腰帯で留めている。くるぶしまであるズボンのすそ、しぼりに通された紐はきれいに結ばれていて、少年の手先が器用なのをよく表していた。

 そんな少年には、ふつうの人間と大きく異なるところがあった。上衣のすそから飛び出している、明るい茶色と飴色のまだら模様をしたしっぽだ。彼ひとりではなく、この集落に暮らす人々は皆、しっぽを持っていることから、〈しっぽ人〉と呼ばれていた。
 〈しっぽ人〉の少年――キーリは、息を切らして、肩越しに背後を見やった。

「ああ、もう! あっちへ行けったら!」

 ワンワン! キーリの背をせっついていた白く大きな犬が、返事をするように吠え立てた。どうやら、色よい返事ではなさそうだ。
 白犬は、ただでさえ長い鼻先をめいっぱい伸ばし、キーリのしっぽに噛みつこうとする。キーリは真っ青になって、自分のしっぽをつかまえた。しっぽは、恐怖のために毛が逆立ち、ふくらんでしまっている。

 キーリは、大切なしっぽをかばいながら、なんとか林の中に飛び込んだ。そして、〈しっぽ人〉らしいすばしっこさで、手ごろな木に登った。
 木を登ることができない白犬は、あきらめきれないようすで、キーリの足元をうろついている。キーリは、足の間にしっぽを巻きこんで、白犬がいなくなるまで待とうとした。けれども白犬は、一向に立ち去る気配を見せない。

 やがてキーリは、ただ待っていることに耐えきれなくなった。いくらバランス感覚と体力にすぐれた〈しっぽ人〉でも、木の上でむりな姿勢を続けるのは大変だ。白犬へのおそれにも慣れてきてしまい、いまや、木を登るときに枝でひっかいた傷の痛みが気になってしかたない。
 キーリはとうとう、彼のゆいいつの武器を使うことに決めた。
 キーリが白犬をにらみつけると、白犬のほうも、キーリが下りてくるのを期待するような目で見返してくる。キーリは、叱られることを想像して、いやな気持ちになりながらも、白犬に向かってさけんだ。

「いいか、よく聞け! うさぎ、おまえはうさぎだ! 柔らかい草と甘い野菜が好きな、怖がりな白ウサギ!」

 キーリの言葉を聞いた白犬が、びくりとふるえた。キーリの〈武器〉は、きちんとはたらいたようだ。
 キーリが木をゆさぶって威嚇すると、白犬は、鼻をプウプウ鳴らしながら後ずさる。しまいには茂みに飛び込んで逃げてしまった。
 白犬の姿が見えなくなると、キーリは木からすべり下りて、汚れた手をはらった。あのようすだと、白犬はしばらくもどってこないだろう。その間に、誰かがちゃんと首輪をつけなおしてくれるといいのだが。

 この集落に暮らす人々には、ふつうの人間とは少し違うところが、三つある。人間よりも小柄であること、誰もがしっぽを持っていること、そして、〈名付け〉とよばれる、特別な力が使えることだ。
 〈名付け〉というのは、その言葉通り、名前をつける力だ。より正確にいうなら、相手が生まれ持った魂の名前を書きかえてしまう力といったところか。そうすることで、一時的ではあるものの、対象に、自身が別の存在であると思いこませることができるのだ。

 キーリに〈名付け〉られた白犬も、自分のことをうさぎだと思いこんで、うさぎのようにおくびょうな振る舞いをみせた。おかげで、キーリは白犬にしっぽをかじられずにすんだのだった。
 けれども、キーリのこの行動は、村のおきてに反するものだった。

 〈しっぽ人〉のしっぽは、神さまとのつながりであるとされる。神さまとは、この世界に存在するあらゆる有と無を取り巻く、大いなる流れを司るものだ。すべての根源であり、すべてが至る極点でもある。……と、キーリは教わっていたが、その意味が理解できているわけではなかった。〈しっぽ人〉の由来や、しっぽについての話は、つかみどころがなく、キーリにとってはとてもつまらなく思えるのだった。

 ともかくも、〈名付け〉の力は、そんな神さまから、しっぽを通じて借り受けるものだ。そのためか、〈名付け〉の力については、〈知恵のある生きものに向けて使ってはいけない〉という、厳しいおきてがあった。

 まだ幼いキーリには、知恵のある生きものと、そうでない生きものの違いがわからなかった。だが、犬は知恵のある生きものだと聞いたことがある。あの白犬に〈名付け〉の力を使ってしまった以上、きっと、あとでひどく叱られることだろう。
 キーリの頭の中で、青みがかった灰色のしっぽが、くり返し床をたたく。キーリを叱るとき、長老がよく見せるしぐさだった。うさぎのように逃げていった白犬のことを考えて、キーリは憂鬱になった。



 長老の居宅へと向かう道すがら、キーリは、どう言い訳をしようかと考えていた。

 白犬のほうが追いかけてきたからと言ったところで、きっと信じてもらえないだろう。なにしろ、あのずる賢い白犬は、人の見ている前でキーリを追いかけたりしないのだ。
 そうするつもりはなかったが、白犬におどろいて、つい……。なんていうのもダメだ。〈名付け〉の力は、相手をどう変化させたいか、きちんと想像したうえで、相手の目を見て、相手に聞こえるように新しい名を口に出さなければ、うまくはたらかない。意識せずに使えるようなものではないのだ。

 むき出しの土を蹴り上げるようにして歩きながら、キーリは大きなため息をついた。
 キーリは、集落の子どもの中では、いちばんよく叱られる子どもだった。理由はさまざまだが、そのほとんどは、キーリと他の子どもの折り合いが悪いことが原因だった。今回のことだって、もとをたどれば、今朝の言い争いからはじまっていたに違いない。

 キーリは今朝、ある子どもとけんかをしていた。子どもたちのうちでは最も体が大きく、りっぱな長いしっぽをもった、三つ年上の男の子だ。彼がキーリのかぎしっぽをばかにしたものだから、キーリの方もあれこれと言い返してしまい、ついには、おとなたちが止めに入らなければならないほどの口論に発展した。

 キーリは、体の大きさでは勝てなくとも、口げんかでは負けない自信があった。しかし、今回ばかりは、頭の回転の速さが裏目に出た。完膚なきまでに言い負かされた相手が、キーリを痛い目にあわせようと、あの白犬を解き放ったのだ。白犬が、なぜだかキーリをひどくきらっていることを知ったうえで。そうでなければ、なんの役目も負っていないときの番犬が、野放しにされているはずがない。

 相手の思惑通り、キーリは、しっぽをかじられることこそなかったものの、おきてをやぶったことで叱られるはめになってしまった。白犬をけしかけた方にしてみれば、キーリがしっぽをかじられようと、叱られようと、気分がいいに違いない。それがまた、キーリにはくやしいのだった。

 ことの起こりからして、今回のことは、ほとんどキーリのせいではないと言える。けれどもキーリには、それをうまく説明できる自信がなかった。キーリは、暗く寂しいおしおき小屋を思い浮かべて、げんなりしてしまった。

 叱られるのを先延ばしにしようと、できるだけゆっくり歩いていたキーリは、ふと、背後から近づいてくる物音に気がついた。見れば、道の向こうから、三両の荷馬車が列をなしてやってくる。
 外から入ってくる者を見るのは、ずいぶん久しぶりのことだった。荷馬車なら、楽しいことをあれこれ積み込んでいるに違いない。

 キーリは道のわきによけて、荷馬車の列が近づいてくるのを待った。長老の居宅にあいさつに行く客人を邪魔するのはよくないこととされているが、どんな客人がやってきたのか、確かめるくらいなら問題ないだろう。

 荷馬車は、一年ほど前にもこの集落を訪れた商人の一団であるらしかった。見覚えのある顔を見つけたキーリは、うれしくなって、あいさつがわりに手を振った。彼らの方も、キーリに気がついて、手を振り返してくれた。
 相変わらず大きい人たちだ。何を食べて、あんなに大きくなったんだろう? キーリは、人間を見かけるたびに、ふしぎに思った。〈しっぽ人〉のおとなと人間のおとなとでさえ、頭ひとつ分ほども背の高さが違うのだ。〈しっぽ人〉の子どもであるキーリにとって、人間のおとなはとても大きく見える。

 大きな人々を乗せた荷馬車は、ラバに引かれ、ゆっくりと通り過ぎていく。立ち止まったままその様子を見守っていたキーリは、いちばん後ろの荷台に乗っていた、はでな出で立ちの男と目が合った。前にはいなかった男だ。
 あんなふうに、はでな服装をしている人間は、たいてい、おもしろいことを言ったり、芸を見せたりして、キーリたちを楽しませてくれる。キーリは、いちばん最初におもしろいものを見せてもらおうと、荷馬車を追いかけた。

 ゆっくりと進む荷馬車とならんで歩くキーリに気がついたらしく、男がキーリの方を見た。旅芸人というのは子どもを見かけると微笑んでみせるものだが、男は、キーリに気がついていながらも、憂鬱そうな顔のままだ。
 男のようすにただならない気配を感じたキーリは、思わず、彼に声をかけた。

「ねえ、どうしたの? あなたも、叱られにいくの?」

「叱られに?」

 男が首をかしげると、彼の髪に編み込まれた花細工が、かわいらしく揺れる。自分より大きな彼のそんなしぐさがおかしくて、キーリは思わず笑ってしまった。

「ふふ。だって、そんな顔してるよ。あっ、おじさん、旅芸人でしょう? だったら、もっと変だよ。旅芸人って、人を笑わせる仕事だって聞いたもの。かなしそうな顔をしている人が、人を笑わせられるはずないよ」

 これを聞いた男は、おどろいたようにキーリを見つめた。そして、考え込むような間をおいてから、あいまいにうなずいた。

「いや、うん……そうだな。そうだ。私も叱られに行くのさ。その言い方からすると、君もそうなのかい?」

「うん。残念だけど、そうなんだ」

 キーリは、自分が長老の居宅に向かっていた理由を思い返して、しょんぼりと答えた。だが、どんな理由であれ、叱られるのは自分ひとりではないのだ。それだけで、心が軽くなったような気がしていた。
 男のほうも、同じように思ったのかもしれない。憂鬱そうだった彼の顔も、ほんの少しではあるが、明るくなったように見えた。男は、静かにキーリを見下ろして、こう問いかけてきた。

「君、名前は?」

「キーリだよ。本当の名前じゃなくて、みんなが呼んでる名前だけど……」

「じゅうぶんだ。……キーリ、キーリか。叱られる者どうし、仲良くなれそうだな。またあとで会おう、キーリ」

 男は、確かめるように〈キーリ〉と繰り返した。むずかしい名前ではないのに、変わった人だとキーリは思った。
 荷馬車が遠ざかっていく。去りゆく荷馬車に手を振っていたキーリは、荷馬車がすっかり向こうに行ってしまったころになって、ようやく、男の名前を聞きそびれたことに気がついた。
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