テイル・オブ・テール

ハシバ柾

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第五話 罠

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 キーリが目を覚ましたのは、暗闇の中だった。
 まばたきをしたキーリは、自分が目隠しをされていることに気がついた。手首と足首もしばられているらしく、縄が食いこんで、じんじんと痛む。
 頭も痛い。それに、胸のあたりがむかむかする。気を失っている間に吐いてしまったのか、口の中にはいやな苦みがのこっていた。

 はやく口をすすぎたいが、その前に、ここはどこで、自分はどうしてしまったのだろう? キーリは、気を失う前のことを思い出そうとした。人間の子ども、ウィルと出会い、いっしょに食事をして、それで……。

(――だいじょうぶさ。もう、戻らなくてもいいんだよ)

 最後にウィルが口にした言葉が、頭痛のあいまをぬって、キーリの頭に浮かんでくる。
 キーリは、ウィルの言ったことの意味を考えた。戻らなくていい? 彼がキーリをつかまえてしまうから? いいや、ウィルはとてもやさしかったし、キーリに好意的だった。そんな彼が、キーリにひどいことをするはずがないのだ。

 とはいえ、あんな言い方をしたのだから、ウィルはきっと、なにかを知っている。キーリが大声でウィルの名前を呼ぼうとしたとき、すこしはなれたところから、知らない男の声が聞こえてきた。

「ヴィル。おまえ、食べものをやりすぎだぞ。布をかませていたら、だいじな商品を窒息死させちまうところだった」

「悪かったって。かわいかったから、つい、えさをあげたくなっちゃってさ」

 返事をした声は、ウィルのものだった。
 ヴィル? ウィルと名乗っていた彼は、今、ヴィルと呼ばれて答えた。それに、えさだって? 
 男とウィルの言ったことと、口の中の苦さが、キーリの中でむすびついた。彼らが話しているのは、キーリのことにちがいない。

 キーリは、猫にえさをあげていたときの、ウィルの姿を思い返した。そういえば、えさを食べている猫を見ていたときも、食事をしているキーリを見ていたときも、ウィルは、同じようなまなざしをしていた。
 だからといって、ウィルがキーリとの食事を〈えさやり〉のように考えていたとは思いたくない。キーリは、疑いを振り払おうと、彼らの会話に耳をすませた。しかし、続いたやりとりは、キーリの期待を裏切るものだった。

「それで、どうする。そのまま売るか? しっぽだけにした方が、運ぶのが楽だぜ」

「でも、もったいないよ。せっかく生きたままつかまえたのに。しっぽは切らずに、体まるごと売った方がいい値がつくだろ」

「今回は取り分が多いからって、ずいぶん強気だな。まあ、たしかにいい仕事だった。〈しっぽ人〉、それも生体を見つけただけじゃなく、けがもさせずに手に入れるなんてな。しっぽの生えた人間だなんて、ただのうわさだと思っていたんだが、まさか、実在するとは……。こいつを売れば、しばらく遊んで暮らせるだけの金が手に入るぞ」

「しっぽの生えた人間? どちらかっていうと、人によく似たけだものじゃない? しっぽなんて、けだもののしるしなんだから」

「冷たいやつだ。まあ、人だろうがけだものだろうが、金になってくれるならなんだっていいさ」

 男がそう言うと、ウィルの笑い声がひびいた。
 キーリは泣きたくなった。しっぽは、神さまとのつながりだ。とてもたいせつなものなのだ。それを、〈けだもののしるし〉だなんて言われたのが、かなしくて、くやしくてならなかった。ウィルに好意を抱いていたキーリは、しっぽをほめてくれたウィルの言葉がうそだったと知って、なおさら深く傷ついた。
 そんなとき、声が聞こえていた方から、足音が近づいてきた。足音は、気を失っているふりをしたキーリのすぐそばで止まった。

「こいつ、ねむり薬が効くまでにずいぶん時間がかかったんだよね。薬が効きにくい体質なのかもしれない」

 キーリのそばにやってきたのは、ウィルだった。彼は、キーリが起きていないことをたしかめるように、キーリの体をあちこちさわった。
 とちゅう、しっぽを強くにぎられたキーリは、思わず声を上げそうになった。

「目を覚ましたところで、どうにもできんだろう。さわぐようなら、布でも噛ませておけばいいさ。だいじな商品を傷つけるなよ」

「ふん。わかってるよ」

 ウィルはそう吐き捨てると、キーリをおいて、どこかに行ってしまった。
 彼らの言う、〈売る〉だとか、〈金〉だとかいう言葉の意味が、キーリにはわからなかった。だが、ウィルがキーリをだまし、捕らえたことはたしかだ。ウィルは、彼らにとってめずらしい〈しっぽ人〉であるキーリをつかまえて、どうにかしようとしている。
 これから自分はどうなってしまうのだろうか? なにかおそろしいことが待ち受けている気がして、キーリは身ぶるいした。



 そのうち、キーリは別の場所に移された。ようやく目かくしを外されたキーリは、連れてこられた場所を見渡して、憂鬱になった。
 キーリに与えられたのは、鉄格子のついた窓がひとつあるだけの、狭い部屋だった。体の小さなキーリでも直立できないくらい、天井が低い。床には板が張られているが、その表面はぼろぼろで、すり足で歩くと足の裏にけがをしてしまいそうだ。
 キーリは、解放されたわけではないことに失望しながらも、ずっとしばられているせいでしびれた手足を、懸命に動かした。どこかで、逃げるすきが見つかるかもしれない。そのときに体が動かなければ困る。

 けれども、キーリの強い気持ちは、そう長く続かなかった。
 手足をしばられ、狭い部屋に閉じこめられたキーリに、やがて空腹がおそってきた。キーリの訴えに、部屋の外で見張りをしていた人間が、とても味のうすいスープを持ってきた。
 はじめ、キーリは、食事を出してもらえると知って安心した。しかし、これはわなだった。出されたスープに、薬が混ぜられていたのだ。スープをすべて飲んだキーリは、体に力が入らなくなり、起き上がることもできなくなってしまった。
 すっかり気力をうしなったキーリは、狭い部屋の天井を見上げてすごした。薬のせいで意識がもうろうとして、退屈さも、時間の流れも感じられない。ただひとつの窓の外はいつでも薄暗く、昼なのか夜なのかもわからなかった。

 そんなキーリのもとに、一度だけ、ウィルがやってきた。空になったスープ皿を片付けようとした彼に、キーリはこう問いかけた。

「ウィル、どうしてこんなことをするの? ぼくをどうするつもり?」

「おれ、母さんがひどい病気で……。薬を買うお金が必要なんだ。ごめんね」

 ウィルはそう言って、部屋を出て行った。キーリは、彼をかわいそうだと思えない自分に気がついて、おどろいた。そのときにはすでに、キーリはウィルのことをまったく信じられなくなっていたのだった。

 それからまた長らく経って、キーリはやっと手足の縄をほどかれた。かわりにがんじょうな木の手かせをかけられ、今度は、箱のような荷台の着いた荷馬車に移される。荷台の背面は頑丈な木の扉で閉ざされているし、唯一の小窓にも鉄格子がついていて、逃げられそうにない。
 荷馬車に乗せられるということは、どこか、別の場所に運ばれるのだろうか。そう思いながらも、キーリは焦っていなかった。薬のせいで、まともな判断もできない状態になってしまっていたのだ。
 やがて、キーリの思った通り、荷馬車は動きはじめた。どこへ向かうのかわからなかったが、キーリはもう、そんなことも気にならなくなっていた。起きているのか眠っているのかもわからない、ぼんやりとした状態が続くばかりだ。ただ、重い手かせのせいで、腕が不自由なのがいやだった。

 荷馬車が小きざみに揺れるのを感じながら、キーリは、アーリャの実が詰まった木箱の中で身を丸めていたときのことを思い出した。あのときよりも体は楽だというのに、どうしてか、今のほうがはるかに息苦しいように思える。

 いまごろ、ユエンはどうしているだろう。キーリが荷馬車に乗せられて、どこかに連れていかれそうになっていることも、彼は知らないかもしれない。キーリが迷子になっていると思い込んで、まだあちこちさがし回っているかもしれない。
 勝手なことをするんじゃなかった。ユエンに待っているよう言われたあのとき、ユエンのそばをはなれなければ、こんなことにはならなかったはずなのだ。

 キーリは涙をこぼした。自分を守ってくれようとしていたユエンに、勝手な行動をしてしまったことをあやまりたかった。だが、それすらも、今のキーリには許されないのだった。



 起きているのかどうかもわからない朦朧とした時間が、また、ずいぶん長く続いた。
 閉ざされた荷台にぐったりと横たわっていたキーリを、ふと、かすかな声が揺り起こす。誰かに、名前を呼ばれたような――キーリは、おもむろに体を起こした。

 荷馬車が動き出してから、だいぶ経ったように思われる。薬の効果がうすれてきているのか、気だるさはだいぶ抜けてきたようだ。呼ばれた気がしたのは、風雨の音を人の声に聞き違えたせいだろうか? キーリは、外のようすをたしかめようと、重い手かせを引きずって、荷台の扉のほうに向かった。

 扉にとりつけられた小窓の向こうは、まっくらだった。雨の白い幕が闇の中で踊り、鉄格子をすり抜けて吹き込んでくる霧雨が、キーリの顔をぬらした。

「……ーリ! キーリ!」

 気のせいではない。ふたたび、キーリを呼ぶ声がした。キーリは、暗闇と雨のかがやきがいりみだれる景色の中に目をこらし、雨の中を動きまわる三つの影を見た。ときどき、その影たちの上のほうに、白い光がひらめいている。
 影は、馬に乗った人間のようだ。そして、あの白い光は……。

「荷物には指一本ふれさせんぞ、いやしい賊め! たたき切ってくれる!」

「キーリ! 私の声がきこえたなら返事をしてくれ、キーリ!」

 白い光が、あるひとつの影のそばをかすめた。その影は大きくふらついたが、なんとか体勢を立て直し、キーリのほうに向かってくる。

「キーリ、そこにいてはダメだ! キーリ! 東に、〈世界のはじまり〉に行きたいんだろう! ナヴァドゥルールのように自由な旅をするんだろう! 君は……」

 キーリのすぐ近くにまできていた影は、追ってきた二つの影に追いつかれ、やむなく方向転換をした。だが、諦めたわけではないらしい。
 自分の方を目指して走ってくる影を見つめていたキーリは、その正体に気がついて、声を上げた。

「ユエン!」

 荷馬車の護衛のために雇われた兵士たちの剣先を必死にかわしながら、影は、キーリを目指して走ってきた。キーリの名前をくり返しながら、何度でも、果敢に向かってくる。

 闇の中で戦う影――ラバを駆るユエンの姿に、キーリは、胸が苦しくなるのを感じた。ユエンは、キーリがさらわれたことを知って、助けにきてくれたのだ。
 ユエンは、唯一の武器である手斧を片手に、兵士たちに立ち向かっている。けれども、片手が使えないせいで、うまく手綱を操れていないようすだった。

 キーリが不安を抱いた、まさにそのとき。体勢を崩したユエンに、目ざとい兵士が一撃をあびせる。ユエンは無傷だったようだが、斬りつけられたラバが苦痛にいななき、ユエンを振り落とした。落馬の衝撃で手斧がユエンの手をはなれる。地面にたたきつけられたユエン自身も、うずくまったまま、起き上がってこない。

 キーリは、血の気が引くのを感じた。薬でぼんやりとしていた頭が、恐怖に澄みわたる。雨にぬれた鉄格子は、押しても引いても黙っているばかりで、キーリの言うことをきいてはくれない。
 なんとかして、ユエンを助けられないだろうか。焦るキーリの頭に浮かんできたのは、今と同じように、強い恐怖を感じたときの記憶――集落を旅立つ前の日、白犬に追い詰められたときの記憶だった。どうやって白犬から身を守ったのか思い返したキーリは、気づかないうちに、自分のしっぽをさわっていた。

 キーリには、しっぽがある。生まれ持った強力な武器、〈名付け〉の力が。

 しばらく水を飲んでいないせいで、のどはからからだ。ちゃんと声は届くだろうか? キーリは一瞬迷ったが、すぐに覚悟を決め、大きく息を吸いこんだ。

「うわあああ! わあああ!」

 キーリの叫びが、雨の幕をつらぬいてひびく。内容のないさけびだったが、ほんの少しの間、兵士を乗せた馬の注意が、キーリの方に引きつけられる。
 暗闇をへだてて、馬と目が合ったような気がした瞬間。キーリは、馬に向けてさけんだ。

「お前はイノシシだ! おくびょうで神経質で怒りっぽい、大イノシシ!」

 キーリの言葉に、馬が、びくっと反応した。
 急ぎすぎたために、うまく〈名付け〉の力がはたらかなかったかもしれない。キーリは不安に思ったが、その不安はすぐにかき消えた。〈名付け〉られた馬は、騎手である兵士が指示を出したとたん、ひどくおびえて兵士を振り落としたのだ。〈名付け〉の力によってイノシシと化した馬は、騎手を振り落とした勢いのまま、目についたもう一頭の馬のほうに向かって突進した。
 兵士たちの馬が追いかけあっているすきに、ユエンが手斧を拾い上げる。よろめいてはいるが、ちゃんと歩けるようだ。彼は、傷ついたラバをその場に残して、荷馬車のほうに走ってきた。

 現れたユエンは、全身をマントでおおい、フードを深くかぶって顔をかくしていた。雨の中落馬したせいで、全身泥まみれだ。フードの向こうには、頬に描かれたバードらしいペイントがのぞいているが、それもマント同様、泥に汚れてしまっている。

「ユエン、だいじょうぶ? けがは……」

「心配と謝罪と感謝、それと説明はあとだ。まずは、この鍵を壊そう」

 ユエンは早口にそう言うと、キーリからは見えない位置にある木製の錠前に手斧を打ちつけた。何度も手斧を振り下ろしたすえに、扉をふさいでいた木製の錠前が壊れる。
 キーリが鍵の壊れた扉を体当たりで押しあけると、外で待っていたユエンが、しっかりとキーリを抱きとめてくれた。ユエンは、キーリのようすをすばやくたしかめてから、短く問いかける。

「走れるかい?」

「たぶん、だいじょうぶ」

 キーリが答えると、ユエンは、ひとつうなずいてから走り出した。キーリも、すぐに彼のあとを追いかける。体も手かせも重かったが、なにより、キーリを抱きとめたときのユエンの追いつめられたような表情が、キーリの背中を押していた。
 幸いなことに、二人がラバのところにもどるころになっても、まだ二頭の馬は追いかけあっている。敵を横目に、キーリをラバに乗せたユエンは、こんなことをたずねてきた。

「キーリ。君の〈名付け〉は、どれくらいで解ける?」

「えっと……。わからないけど、〈名付け〉後の姿をうまく想像できなかったから、かなり短いと思う。十分から、十五分くらい……」

「……十分、十五分か。なんとかなるかな」

 ユエンのつぶやきに、キーリは首をひねった。だが、ユエンはなにも説明することなく言葉を続ける。

「このラバはかしこいから、きた道をちゃんと戻ってくれる。鞍の下にナイフがしまってあるから、困ったときは使うんだ。いいね」

「困ったときって……。ユエンは? ユエンもいっしょにくるんでしょう?」

「いいや、キーリ。わかるだろう? けがをしたラバに、二人は乗れない。そら、行け!」

 ユエンの号令で、ラバが歩き出す。ちょうど、騒ぎを聞きつけた別の兵士たちが、二人のもとにせまっていたときだった。
 ユエンの考えに気づいたキーリは、あわててラバを降りようとした。けれども、体が小さいうえに手かせをかけられているせいで、無理に降りようとすれば落馬してしまうことに気がついた。

「もどって、もどってよ! もどれったら!」

 ラバは、小さなキーリが暴れるのをものともせず、ユエンの命令に従った。取り残されたユエンの姿は、やがて遠くなり、見えなくなってしまった。
 ぼう然としたキーリを、ラバがどこかへと運んでいく。やがて雨がやみ、あたりには静かな闇が満ちた。厚い雲に、月の光がうっすらとにじみはじめる。
 キーリは、うしろを振り返った。あの暗やみの中から、ユエンが現れはしないだろうかと思ったのだ。しかし、すぐに考え直した。この闇の中では、ユエンが無事だったとしても、キーリを見つけることなどできないだろう。なにか、目印でもないかぎりは……。

 キーリは、ふと、ユエンが言っていた、ナイフのことを思い出した。ユエンはそれを、困ったときに使うようにと言っていた。
 キーリは、たいした期待もせず、鞍の下からナイフを取り出した。鞘からのぞいたナイフの刃は、かすかな月の光を拾って、白くかがやいている。

「困ったとき……?」

 キーリは、ナイフを少し持ち上げた。刃のかがやきが、闇の中に白く浮き上がる。
 『ナヴァドゥルール物語』に、ナヴァドゥルールが剣をかかげて自分の居場所を示す場面があった。闇の中でかがやいた剣が、ナヴァドゥルールがそこにいることを、遠くにいる友に知らせたのだ。
 キーリは、両足だけで体を支えて、ナイフを掲げた。手かせの重みで、すぐに腕が痛くなったが、たいして気にもならなかった。ユエンがもし無事で、キーリを探しているのなら、どうかこの光が――合図が届いてほしいと、キーリはひたすらに祈った。

 キーリの両うでがしびれ、ほとんど感覚をなくしたころ。あきらめかけたキーリの目が、遠く、闇の中でちらついた光をとらえた。しばらくして、軽やかなひづめの音とともに、合図の送り主が姿を現す。

「おうい、キーリ!」

 手斧をかかげたユエンだった。乗っている馬は、先ほどの兵士たちからうばったものだろうか。キーリは、体の奥からあたたかな安堵がわきあがってくるのを感じた。
 姿が見えてからのユエンは、すぐにキーリに追いついた。彼は、泥と雨を吸いこんで重くなったマントをわずらわしげに払いながら、キーリのとなりに並ぶ。ずっと馬を走らせてきたのか、馬も、ユエン自身も疲れはてているようだった。

「はあ、はあ……。ああ、助かったよ、キーリ。合図をしてくれただろう? あれがなければ、君を見つけられなかった」

 ぼろぼろになったユエンの姿に、キーリは、なにも言えないまま首を横に振る。
 ユエンは、全身泥まみれで、あちこちにすり傷をはりつけていた。マントの下もどこか痛むのか、彼の体は馬上で少しかたむいている。
 キーリを助けにきたせいで、彼は、危うく死ぬところだったのだ。キーリは、心苦しさのあまり、〈ありがとう〉と言うこともできなくなってしまった。

「ふう、ひどい目にあった。君を運んでいた彼ら、他にもいろいろと商品を運んでいたらしいんだが、それをだいぶめちゃくちゃにしてきたんだ。今ごろ、私たちを追いかけるどころではなくなっているだろうね。こんな夜中に運びものだなんて、よほどやましいところがあったんだろう。あっ、この馬は、君が〈名付け〉を使ったあの馬だ。騎手がいなかったから……」

 そこまで言ったユエンは、息を切らしたのか、深呼吸をした。そのまま、ユエンが黙ってしまうと、夜の静けさが二人を包みこむ。
 言葉をなくした二人の頭上で、ぶ厚かった雲が流れ、ほどけていく。いつしか、ひんやりとした月光が、あたりを照らし出した。

 キーリを乗せた荷馬車は、キーリがさらわれた町を出て、別の町へと向かっていたようだった。キーリがさらわれたのは昼のことだったが、もうすっかり日が暮れ、夜も半ばにさしかかりつつある。町どうしの間に横たわる荒野を、二人と二頭は歩いた。
 月の光の下で、キーリは、となりにいるユエンを見た。ユエンは、キーリの視線に気がつくと、普段のように微笑んでくれた。その微笑みを見て、キーリは、やっと現実に帰ってこられたような気持ちになった。
 そうして気持ちが落ち着くと、どっと疲れがおそってきた。舟をこぎはじめたキーリに、ユエンが声をかける。

「私が手綱を引こう。横にはなれないけれど、少し休むといい。〈しっぽ人〉はバランス感覚がしっかりしているというけれど、ラバの上は不安定だから、あまり深く眠らないようにね。その手かせも、あとで壊してしまうから、安心してくれ」

 キーリは、眠い頭を縦にふった。手綱をにぎるキーリの手に自らの手を重ねたユエンが、ささやくような声で歌いはじめる。歌詞のない、どこかなつかしいような子守歌だ。
 ユエンの大きな手のひらは温かかったが、ほんの少しふるえているような気がした。キーリはふしぎに思いながらも、子守歌のメロディーに身をゆだねた。
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