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十八

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 光が散り、体にはいつもの感覚が戻っていく。伸ばした手と、胸に迸る痛み。フィクトは呆然と、目の前から消えた師の背中に問いかけた。

「……どうして」

 空を切った手が、力なく垂れる。
 フィクトの心は、何が起きたのか理解することを必死で拒もうとしていた。だが、現実はあくまで非情に真実を突き付けてくる。
 ひとり、逃がされたのだ。それも、フィクト自身が生み出した魔法陣によって。手のひらの上の懐中時計は、今ようやく、六時ちょうどを示した。あと五秒。本当にあと五秒残っていたなら、ルーヴェンスの背中に手が届いていたはずだった。

 フィクトは、目の前のすべてを拒みたい思いで身を丸める。どんな場所に送られたか確かめる気力などなかった。いいや、ここがどこであるかなんて、どうでもよかった。ルーヴェンスは、最後の最後で五秒分の嘘をついて、フィクトを遠ざけたのだ。今は、その事実しか見えない。
 そんなフィクトに、近づいてくる足音があった。足音は、フィクトのすぐそばで止まる。

「こんばんは」

 頭上から降ってきた、聞き覚えのない声。フィクトはうずくまったまま、だだをこねるように首を振る。今の彼には、声の主の正体を確認する余裕も、現状を把握する余裕もなかった。
 声の主は、フィクトを咎めることなく、また問いただすこともなく、ただフィクトの頭を軽くなでた。そして、フィクトの肩にショールをかけると、フィクトから離れていく。

 ここはずいぶん冷える――ショールを胸元にかきよせたフィクトは、思わず声を上げた。そのショールからは、ルーヴェンスと同じ匂いがしたのだ。

「師匠……」

 探し求めた気配を感じたフィクトは、力なく顔を上げると、ようやく辺りを見回した。
 見慣れない白壁に、やわらかな花柄の壁紙を貼った、リビングらしき空間。テーブルやソファのデザインは、ルーヴェンスの家のものとよく似ている。というよりも、家具のおおまかな配置、家具選びのセンス、部屋の広さなど、あらゆる点でルーヴェンスの家と似通っているのだった。

(――故郷にいる、私の師のところだ。君、氷の都グラシニアに行ったことはあるかね? なければ、少し驚くかもしれないな。あそこの気候は、ここほど穏やかではないから……)

 フィクトは、転移魔術が発動する前のルーヴェンスの言葉を思い出した。彼の言った通りなら、ここは彼の師のいる場所、ということになる。

 フィクトはしばらくぼうっと暖炉の火を見つめていたが、気力をふりしぼって立ち上がり、カウンターの向こうのキッチンで作業をしている人影に声をかけた。

「あの……あなたが、ルーヴェンス師匠の……?」

「ルーヴェンス! うんうん、やっぱり、彼のしわざなんだね。もしかして、あの子は本当に『妖精術』を完成させたのかい? ……おっと、急いてはいけないな。話は後にしよう。ちょっと待っていてくれ」

 初対面のあいさつを付け足そうとしたフィクトは、振り返ったその男の姿に、何も言えなくなってしまった。黒銀の髪に、深青の目。ルーヴェンスと同じそれは、氷の都グラシニア生まれの特徴だ。
 男がポットからカップに紅茶を注ぐと、カモミールの香りが周囲に広がった。男はカウンターごしのテーブルにカップを二つ並べると、フィクトに近い方のイスを指し示し、にっこりと笑った。

「さ、そこのテーブルにかけて。こっちは君が何者なのかも知らないからね。話してくれるかな?」

「……ここは、どこなんですか」

「そうだ、そっちが先かな。ここは氷の都グラシニアの端っこさ。そしてぼくは、ロビン・グラスタク。ルーヴェンスの友人だ。ロビンとでも呼んでくれ」

 フィクトの不躾な問いにも気を悪くした様子も見せず、男――ロビンはそう言った。

「はい、ロビンさん。……待ってください、〈友人〉ですって? ルーヴェンス師匠の師匠だと聞いていましたが」

「ルーヴェンスがそんなことを? いいや、師なんてものではないよ。ぼくなんかがあの子の師にはなれっこない。ぼくは、話し相手にしてもらっていただけなんだ。それも、ごく短い期間だがね。うん、でも、彼にそう思ってもらえていたなんて、光栄だな」

 手を振って自分に与えられた評価を否定しながらも、彼の顔は心底嬉しそうにほころんでいる。あのルーヴェンスの師匠ともなれば、きっと彼以上に気難しく扱いにくいに違いない――そう思っていたフィクトは、ロビンの気さくさに驚いてしまった。

 ルーヴェンスと彼の間には互いに対する認識の差があったようだが、両者とも相手を深く信頼し、慕っていることだけはしっかりと伝わってきた。そのためか、気づかぬ間に、フィクトもロビンに心を許しはじめていた。とはいっても、自分の入れた紅茶で舌を火傷しかかって悲鳴を上げるような相手に対して、特別に警戒する必要もなかったのだが。

「ひーっ、熱いのをすっかり忘れていたよ。はは、お恥ずかしい所を……まあ、いいさ。それで、君は?」

「フィクト・フェルマーといいます。半年ほど前からルーヴェンス師匠に師事する、フィーエル・アラロヴ大学校の四年生です……いえ、〈でした〉」

 フィクトの意味深な言い様に、ロビンは目を瞬かせる。かと思えば、テーブルに肘を乗せて身を乗り出し、内緒話でもするような調子でこう言った。

「フィクト君か。いろいろ、事情があるみたいだね? 聞かせておくれよ。もちろん、無理にとは言わないが」

「大丈夫です。全部、お話しします。長くなりますが……それに、僕が師匠のことで知っているのは、ここ半年ほどのことだけです。それで良ければ」

 ロビンは目を輝かせてうなずく。その雰囲気が、なぜだかルーヴェンスを思わせた。
 フィクトは少し安らいだような心地で、自身がルーヴェンスと共に歩んだ時間のすべてを、ロビンに語り聞かせた。その記憶は、すでにどこかなつかしい。ロビンは、ほとんど口をはさむことなく、首だけで相槌を打ちながら、黙ってフィクトの言葉を聞いていた。

 長話のすえ、冷めたティーカップに口を付けたフィクトは、紅茶をいれるたびにコーヒーがいいと文句を言っていた師の顔を思い出した。

「本当は、一緒にここに来るはずだったんです。師匠だって……」

 フィクトはそう言ったところで、ルーヴェンスが一度も〈一緒に行く〉とは口にしていなかったことに気がつき、口をつぐんだ。彼は、いつからあの場に残ると決めていたのだろうか。
 うつむいたフィクトに、ロビンがこう問いかける。

「ルーヴェンスが、君をぼくのもとにやったんだね?」

 〈はい〉と答えれば、自分がルーヴェンスに見放されたという事実を受け入れることになってしまいそうに思えて、フィクトはただ黙することで応じた。ロビンの方は、フィクトの態度にすべてを察したようにうんうんとうなずく。

「なるほど……ふむ。君としては不本意なのだろうが、ルーヴェンスがわざわざそうしたということは、きっと何か理由があるんだろう。もっとも、ぼくのような凡人に理解できるものではないかもしれないが」

 次に来るのは、慰めか説教か――身構えたフィクトの虚をつくように、ロビンはこう言った。

「『妖精術』……いいや、『魔術』といったか。あれはね、もともと、ぼくが彼に提案したものなんだ」

「は……?」

 突然の告白に、フィクトが小さく声をもらす。ロビンはからからと笑ってみせたが、その笑みはすぐに寂しげに歪んでしまった。

「自由に場所と場所を移動できたらいいのに。ぼくがそう言ったら、ルーヴェンスは一生懸命考え込んでいたよ。彼が思い悩んでいる姿がぼくには新鮮でね。なんだか嬉しく思ったものだ。それが彼の身を滅ぼしてしまったなら……」

「違います! 『魔術』は、師匠にとっての誇りであり、最高の作品でした。だって、あの人は――」

 思わず声を上げたフィクトの脳裏を、ルーヴェンスの言葉がよぎる。

(――君はそこで荷物をまとめているといい。自分が必要だと思うものは、すべて持っていくんだ)

 あの場にあった荷物といえば、魔術の研究資料くらいだ。荷物をまとめるなどという大げさな言い方が適切だとはとても思えない。彼は、こう言おうとしたのではなかったのだろうか――〈その研究資料を、大事に抱いていなさい〉と。〈自分が使う資料を、忘れずにすべて持っていきなさい〉と。フィクトに、すべてを託すつもりで。
 そうだとすれば、ルーヴェンスは、単にフィクトを遠ざけたのではなく――。

「……すいません、ロビンさん。僕はもう行きます。樹の都アルベリアに戻る手段はありますか? 汽車は何時に――」

 勢いよくイスを蹴ったフィクトは、しかし、すぐにロビンに引き止められてしまった。彼は、フィクトを諭すように、ゆっくりと首を横に振る。

「あのね、フィクト君。ルーヴェンスは、氷の都グラシニアを出て行ってから、一度もこっちに手紙をくれたことがないんだ。ぼくだけじゃなく、知り合いのだれにもね。でも、今日あの子は、君をぼくのところに送ってきた。ぼくには、〈あとは頼む〉って言われたように思えるんだよ。フィクト君、君のことをよろしく、って」

 フィクトは呆然とロビンを見つめる。彼の言葉を否定したい気持ちはあったものの、言葉にはならなかった。
 まだ体が回復しきっておらず、記憶を大きく欠いたルーヴェンスを、ひとりにしておきたくはない。だが、ルーヴェンスが自らフィクトをここへやった以上、戻ることは、ルーヴェンスの決断に背くことになる。

「……僕は、邪魔だったんでしょうか。あの場をしのいで、一緒に逃げることだって、できたはずじゃないですか。僕が、そばに置けないほど非力だから、こうして……」

 フィクトは、最後まで言い切れないまま、その場にひざをついた。
 二人が師弟関係を結んでから後、ルーヴェンスは何度もフィクトを追い払おうとしてきた。その実、彼が不意を打ってまでフィクトを遠ざけようとしたことはほとんどなかった。『大罪の器』になり、フィクトに隠れて旅立とうとしていたときでさえ、そのあとには話し合いに応じてくれていた。

 それなのに今回は、フィクトに嘘をついてまで――。すっかり丸くなったフィクトの背を、ロビンが優しくさする。

「これはぼくの想像だが……。あの子のことだ、自分自身の非力さを知っているからこそ、君をここにやったんじゃないかな。あの子はきっと、君を守りたかったんだ。あるいは、君を通して、自分の〈作品〉をも、ね。……そうだ、何か頼まれなかったか?」

 失意に沈んでいたフィクトは、促されるまま首を横に振りそうになった。だがそこで、ルーヴェンスのある言葉を思い出し、はっとして顔を上げる。

「……〈『〈傲慢〉の仮器』を、何があっても護り抜け〉と」

「それがどういう意味か、わかるかい?」

 ロビンの問いに、フィクトは唇を噛んだ。それが何か、彼が言いたかったことが何なのか理解できていたなら、彼と共に歩めたのだろうか――そう問いたかったが、胸が詰まって言葉が出ない。
 ロビンは幼い子どもにするようにフィクトの頭をなで、つぶやくようにこう言った。

「あの子は、自分の気持ちを素直に伝えるのが下手なんだ。昔からね。だから、〈逃げのびろ〉という代わりに、君にそうやって使命を与えたんじゃないかな。そうして残される者は苦しいだろうが、その使命を頼りに生きていけるだろう」

 フィクトが振り返ると、荷物のかたわらに立った『〈傲慢〉の仮器』が、暖炉からの光を受け、金色にかがやいていた。たった一人逃がされてしまった今、フィクトとルーヴェンスを繋ぐものは、残された作品たちと、彼との最後の約束だけなのだ。

 ぼんやりとRのルーン文字を浮かべた『仮器』は、今にも割れてしまいそうなほど儚く見える。フィクトはあわてて『仮器』を拾い上げ、そっとテーブルにのせた。皮肉にも、『仮器』の中のルーン文字が、この瞬間ルーヴェンスが生きていることを教えてくれる。

「自分の大切さを知らない子じゃないはずだ。そんな彼が自分のすべてを懸けてすることなら、どんな結果に終わったとしても――」

 ――君は、君の師を、そして君自身を、誇りに思っていいんじゃないかな。

 ロビンのその一言に、フィクトは目の奥が熱くなるのを感じた。頬のこそばゆさを拭った手の甲が濡れている。それが涙だと気づくのには、ずいぶん時間がかかった。

 フィクトは戸惑い、次々とあふれてくる雫を何度も拭った。けれども、しだいに目尻がひりひりと痛み出し、どうしていいかわからなくなってしまった。物心ついたころから、泣いたことも、泣こうというほどの気持ちになったこともなかったフィクトには、どう泣いていいかもわからなかった。

「すいません。どうやって止めていいんだか、わからないんです。泣いたことがなくて」

 フィクトがそう言うと、ロビンが目を丸くする。

「……驚いた。君、小さいころのルーヴェンスと同じことを言うんだね」

 似ても似つかないと思ってきた自分と師のささやかな共通点に、フィクトはおかしさがこみ上げてくるのを感じた。止まらない涙を流れるままにして、泣きながら笑う。そんなフィクトを見たロビンは、大切な弟子にするように、優しくフィクトを抱きしめた。

 そのとき、フィクトの目の前に、光の粒がひらめいた。眩いそれは、だんだんと広がり、形を成していく。転移魔術だろうか? ――フィクトは泣き濡れた顔を上げ、ロビンの向こうに浮かんだ光に手を差し出した。光はすぐに消え、代わりに、フィクトの手のひらに冷たい重さが宿る。

 やがて、ロビンから離れたフィクトは、自分が受け取ったもの――手の中のクロノグラフを見つめた。ルーヴェンスがとても大事にしていた、古びたクロノグラフだ。フィクトがそれを手にしていることに気がついたロビンが、声を上げる。

「おや、ずいぶんなつかしいものが出てきたなあ! これは、ぼくがルーヴェンスにあげたものなんだ。彼が氷の都グラシニアを出ていったときにね。ぼくが師匠からもらったものでもある。でも、これは――」

 ロビンは、クロノグラフの文字盤と壁の時計を見比べて、困ったように微笑んだ。

「――やっぱり。何度調整しても、なぜだか五秒ずれてしまうんだよ。ふふ、人より五秒だけ先を生きているなんて、あの子らしいね」



 リビングでの休憩がてら、フィクトは、吹雪のために二日遅れの昨日ようやく届いた新聞を広げていた。その一面には、樹の都アルベリアで起きた、ある大事件のことが記されている。

 〈樹の都アルベリアの大火〉――樹の都アルベリアの象徴である巨大樹と、フィーエル校を襲った大火災。巨大樹が前触れもなく燃え上がり、その内にあった、この世界の智の中枢――フィーエル・アラロヴ大学校が崩れ落ちた。出火原因は不明、火の出元はフィーエル校の多目的ホールの可能性が高いとされているが、それも定かではない。巨大樹の枝葉が焼け落ちたことに伴い、フィーエル校の校舎の大部分も崩れ、燃えてしまったらしい。その日はちょうど妖精学会が催されており、少なくない数の犠牲者が出たという。

 今朝の新聞によると、まだ鎮火には至っていないらしく、延焼が心配されるとの見解が記されていた。その記事の下のコラムでは、樹の都アルベリアの美しい巨大樹がもう見られないことを、旅行好きらしい筆者が切々と訴えている。
 何度も目を通した記事を、フィクトはまた読み返した。新聞の端は、何度も握ったせいでほつれてしまっている。

 フィクトは今、ロビンの家で、かつてルーヴェンスが使っていたという部屋を借りて暮らしている。
 ロビンはフィーエル校の卒業生で、元学者だと言った。今は、他の同業者の研究の手伝いをして暮らしているらしい。フィクトは、そんな彼の頼みで、必要なサンプルの採取、整理をしながら、『魔術』の研究を続けていた。師がいなくなった今も、フィクトが手をつけていないルーン文字は変わらずそこにある。

 別れの日以来、ルーヴェンスからの連絡はない。転移魔術で何かが送られてくることもなかった。〈樹の都アルベリアの大火〉の日、『〈傲慢〉の仮器』からRの文字がふわりと消えていっただけだ。

 ロビンとともに生活しながらも、フィクトは、彼にルーヴェンスの小さいころの話を聞く気にはなれなかった。フィクト自身気づいていなかったことだが、フィクトの中には、ルーヴェンス本人の口からそれを聞きたい思いがあったらしい。たたんだ新聞をカウンターの上に放り、テーブルに置かれた『〈傲慢〉の仮器』を見やるも、グラスの中は相変わらず空だった。フィクトは首を振り、立ち上がった。

 与えられたばかりの部屋には、ロビンの気遣いのおかげで、これからの生活に必要なものが一通りそろっている。だが、自室に戻ってきたフィクトの興味はそこにはなかった。幅のある作業机に歩み寄ったフィクトは、卓上に広げられた大きな紙――フィーエル校の見取り図を見下ろした。

 普通に火をつけて、巨大樹に深刻なダメージを与えられるはずがない。なにしろ、巨大樹は樹の都アルベリアの象徴だ。火が大きくなる前に消火の手が回る。それに、すぐそばのフィーエル校には、常に多くの人間が出入りしていた。火の手が見逃されるわけがないのだ。となれば、今回の大火は間違いなく、〈普通でない〉やり方で、意図的に引き起こされたものだ。
 妖精学会のその日に、〈普通でない〉やり方で引き起こされた大火災――それは、フィクトにとって大きな意味を持つ事実だった。

(――私が……弱いこの私が、君の道を塞ぐだろう者たちと戦うために)

 フィクトに『〈傲慢〉の仮器』を託したとき、ルーヴェンスはたしかにそう言った。そのときのフィクトにはわからなかったが、彼のあの言葉はきっと、今目の前にある事実につながっていたのだ。
 ルーヴェンスが、自身と行動を共にしてきたフィクトがこれ以上追われないように――フィクトの未来を守るために、選んだ手段。そして、彼がフィクトに与えた、最後の課題。それが、フィクトから見た〈樹の都アルベリアの大火〉の姿だった。

(――術が発動した場所、術者の出身地。どちらの属性でもない、それでいてこれほど大規模な魔術をいかにして? もちろん、私のような天才には簡単な問題だが。さあ、どうだね、フィグ君?)

 挑戦的に笑う師の顔を思い浮かべ、フィクトは意識せず微笑む。

 ルーヴェンスがことを起こすまで、一日と少しの間があった。フィクトが急げば、樹の都アルベリアまで戻れたはずだった。幸運にも、フィクトがこの家に送られてきた日の翌日、氷の都グラシニアの天気は穏やかで、隣の花の都フルーレリアとの間を結ぶ汽車も、決まり通りに朝夕二度動いていた。
 それでもフィクトは、樹の都アルベリアに戻ることはしなかった。ロビンが止めたからではない。フィクト自身が、師の決断を覆すことはできないと折れたのだった。ルーヴェンスが目の前のことを片付けてこの家にやってくるつもりなら、そんな彼を出迎えてやらなくてはならないという思いもあった。

 フィクトは見取り図のそばからペンを取り、紙の上にひじをついた。
 ひとりこの場にあっても、まなうらに強く焼きついた師の姿は、簡単には消えてくれない。記憶の中のその背中が見えなくなるまで、フィクトは彼を追いかけ続けるつもりでいた。
 彼の最後の課題は、もちろん、〈凡才〉であるフィクトにとっては難題だ。一通り魔術を使いこなせるようにならなければ、解けないかもしれない。ルーン文字の解読さえ多くの時間を費やしてきたフィクトがこの課題の答えを出すまでに、どれほどの時間がかかるだろうか。

 フィクトは、ふと、壁に引っかけた二つの時計を見やる。ひとつはフィクトの懐中時計、もう一つは、ルーヴェンスのクロノグラフだった。フィクトが改良した魔法陣は正しかったのか。その問いの答えが、このクロノグラフなのだろう。フィクトが一度調整したはずのクロノグラフは、ロビンの言ったとおり、なぜだか五秒だけ先を行っていた。

 机の端に置いてあったカップに口をつけたところで、フィクトは、慣れない苦みに思わず顔をしかめる。同時に、いつもそれを飲みたがっていた師の姿が、また心に浮かんだ。
 ロビンが言う――フィクトが尋ねなくても、彼はたびたびこうしてルーヴェンスのことを口にした――には、昔のルーヴェンスはコーヒーが苦手だったらしい。にもかかわらず、ときどき、あえてコーヒーを飲みたがるときがあったという。理由を尋ねると、彼は、〈今日は無理がしたい気分なんだ〉と答えたのだそうだ。
 大人になったルーヴェンスは、どんな気持ちでフィクトのいれる紅茶を飲んでいたのだろうか。それを尋ねる機会があるかどうかは、まだわからない。

 高慢ちきで、周りが見えていなくて、見た目より繊細で、臆病で……今ではもう、生きているかどうかもわからない、〈どうしようもない〉師匠。追いつけないまま遠くなってしまった彼の存在は、フィクトの中に、傷とともにひとすじの明かりを灯していた。フィクトは今も、その火を追いかけて歩く。師が守ってくれた、未来へと続く道を――人より五秒だけ早い、このときを。



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