パンサー

池谷

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2年目 夏

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 のろのろと店の扉を開けたまま開店準備をしていると、雑居ビルの廊下を誰かがこちらに向かって歩いてきた。古いビルだから音がよく響く。


この時間に来るのはだいたいうさぎ君かアシュレイだ。
きっと暇を潰しに来たんだろう。

誰かが入ってきてソファーに座ったけれど、別に構わず上海はカウンターの下の冷蔵庫の掃除をしていた。
終わったタイミングで誰が来たかを見ればいい。


入口近くのディスプレイのなかからグラスを取りだし炭酸水を注ぐ音がした。
  


炭酸水を飲むのは、アシュレイだ。



「アシュレイ?」


上海は掃除する手を止めずに声をかけた。

「ちょっと仕事まで時間潰してっていい?」


だいぶ遅れて返事をしてきたのはやっぱりアシュレイだった。

「いいよ」

上海は立ち上がり、ソファーの方を見た。
アシュレイは壁側に座り、携帯を触っていた。

もう彼と出会って三年目なのに上海はアシュレイの名前も仕事も知らなかった。

見るからに日本人の彼の本名がアシュレイであるはずがない。

鈴木さんと二人でやっていた頃はよくいくつか歳の上の人と二人で来ていたが、その頃から仕事の前の時間潰しに来ることがあった。しかし彼はその頃から仕事についての質問に一切答えることがなかった。

 上海は彼の基本情報については全くの無知であった。1年ほど前、あるきっかけで身体を重ねたことから急激に距離が縮まり、基本情報以外の彼の情報について詳しくなった。そして身体を重ねたあたりから営業前の店でも構わず居座るようになった。


ひとしきり準備を終えた上海は店に流す音楽のプレイリストを選んでいた。

ラストソングは鈴木さんと二人でやっていた時から変えていないが、営業中は何をかけても自由だ。

アシュレイが好きなプレイリストを選び、小さめのボリュームで流す。
今日はこれで行こう。

外の看板をOPENに変える。

「開ける?」

店の中からアシュレイの声が聞こえた。

「開けるよ」

「そしたら俺もそろそろ仕事だから行くね」


入れ違いに店から出ていく時にアシュレイは上海の頭を撫でた。

ぺたぺたとサンダルの張り付く音が廊下に響いていた。


開店前の店の中にはアシュレイの匂いと音楽が残っていた。

 アシュレイの影が残る店の中で、カウンターのスツールに腰掛け、ゲストが来るまでの時間を待つことにした。
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