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でもありがとう
その貴方の毎日は究極のぜいたくそのもの
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うわっぜいたく
私は決して裕福な幼少期を 青年期を 壮年期を
老齢期を 死の際を
「少し言い過ぎてるよ?キミ?」
と突っ込んでも何も楽しく無い人生を今も歩んでいる。
自分の今が幸せなのか満たされているのかは心持ちの問題でもあり、それはもしかしたら誰かには羨むべく今日を生きているのかも分からない。
金銭欲や物欲も極端に少ない事もあって、また一般に寂しいとか辛いとか苦労とする事を意に介さない、お金が無くても諦めてしまえばそれは別にどうでもいい事でもある。
例えば家賃が払えないとか携帯の支払いが出来ないとか何かがあって、それは死を意味するのか?仕事も無くて家を追い出されてそれは死ぬのか?最悪と言っては叱られるが手荷物だけで何処かのお寺の門を潜ったらいいのかも知れないし、住込み寮で日払い可能な仕事をすればいいのかも知れないし、この国に在っては人様に迷惑を掛けない形で警察の留置場に行けば、三食と屋根付きのと兎に角死にまではしない。
なら別に時の流れに任せてみる人生のひと幕があってもいいのでは無いのか?あれをしなさい、これをしなさいとは言うけどもしないとどうなのか?それが普通から離れてみると思うのであり、別に何処かで転々と生活募金を募ってもいいでは無いか、全てのインターホンを押して
「少し食べ物を」
と頼んでもいいでは無いか。人間とゆうのはこの日本国にあって本当に飢え死になど出来るのだろうか?レストランや食堂でも後払いであるのなら、飢え死にまではしないのでは無いのか。
その全ての何もかもに対して
「うわっぜいたく」
あらゆる自らの体験、経験とは先駆者がいようがそれは聞いた話ではなく、良くも悪くも実体験として味わえるのならチョーぜいたくと思うのです。
この年齢から来るのか全てに対して
(笑わないと損)
(楽しまないと損)
(喜ばないと損)
(感謝しないと損)
(感動しないと損)
自分自身がどんな境遇にあろうともその今の折角に感じれる全ては生命の魂の震える程の最高の出来事であってそれこそが
生きている証
だと思うのです。
死にたいとは生きてるから思える事で、死んだ人が死にたいと思う事があるのだろうか?私たちは普段から生きてるから生きたいとは思わないし、今の生命の奇跡を目の当たりにするのはバッサリと腕を切り落としてもいいし、何箇所かの癌が見つかって明日に手術で取り去ってしまう、でもいいし身体は元気なのに失明したでもいいでしょうか?人が死にたいとか辛いとか言えるのは、不足が無い証拠とも言える。
もしも両目の視力を完全に失って生きるときに恐らくは、死にたいとは思わないし言わない。大体に死にたくとも刃物が何処にあるのかも、ビルの屋上への階段はどこなのか?完全に目を閉じて過ごしてみると死にようが無い。
そう、絶対に絶望的な未来しかなかろうが死を選べない。
その盲目の人と同じ元気な身体で両目も見えてる人が死にたいと言っている。
我儘を言っている様にしか聞こえないだろうか。それは目だけでなく何とか必死に今日を頑張って生きたいと願う者が耳にした時に、もう生命のカウントダウンが終わりを迎えている人が聞いたら、どう思うのだろうか?嫌でも絶対に迎えないといけない死に何を憧れを抱いているのか?心配しなくても今日も今も一秒、一秒と墓にしか歩けない人生で何を考えているのか?何処かの極楽浄土とやらで永遠に死ねない生命ならばまだ分かる。
絶対に避けられないそこに向かいながら。もし本当に死にたいのなら明日の朝に絶対に目が醒めない自分を想像してみたらいい。
この世でもっとやりたい事やまだ未経験の事や行きたい所などがつぎつぎと出てくるに違いない。頭の何処かでこれは錯覚だちゃんと明日は目が醒めると思っては勝手に思い込んではいるけど、それも絶対でもなくで可能性としては有り得る。寝てる間の大災害でも、人間にいつ死が訪れるか等は誰も分からない。からこそ頑張らなくてもいいがせめて笑う毎日が大切なのだと思うのです。笑っていると何が良いのか?人は笑う為に生きると思うのであり、幸福とは笑う事だと思うのです。笑っている時のストレスの無さやその笑いの原因は何なのかは個人、個人だけれども。気分も身体も心も病んでいると心からは笑えない。今も不幸のどん底を表明する人には一体にいつ笑ったのか?何が笑えたのか?記憶の中にまだその思い出があるのならば、何も病んでもいない。ただその全ては単なる
贅の極み
だと言うことです。
一体に死んでから何を目にする?何を食べる?身体の痛みも辛いもしんどいも切ないも死にたいも死んでどうやって思える?
人間として今が辛い時には、お金が無いならもっと無い人を想像して、寂しいならもっと寂しい人を想い、死にたいと考えた時には本当にこの今の時間に、愛する人に無差別殺人で病気で事故で生命を失っている人はいる。
ならばその人が出来なかったこともしたかった事ももう絶対に出来ないその人の代わりに出来る 私 はその 存在 は
うわっぜいたく
と言うことなのです。
人間としてのぜいたくとはお金が無くとも
山に入り込んで最高の森林浴をヒーリングをして綺麗な空気を吸い、遠目に走り去る鹿やイノシシや熊でも様々な野獣を眺めて、下にはバッタもコオロギもカブト虫もダンゴムシも色んな昆虫を相手に遊んで、あちらこちらからバタバタっと飛び去る野鳥たちに双眼鏡を向け、家族や仲間と美味しいバーベキューでもすればいい。
よく宗教家や寺の門前に人として産まれるは奇跡だとか稀有だとか言うけど、そんな事は思わない。存在すべくしてこの世に存在している。両親の大きな愛からの使命としての。
今日の今の貴方の全ては おいっぜいたくだよあんた?
笑って生きましょう。
よっぜいたくっ
ぜいたくだね~
ええぞっそのぜいたく
この恥ずかしい程のぜいたくものめ
私は決して裕福な幼少期を 青年期を 壮年期を
老齢期を 死の際を
「少し言い過ぎてるよ?キミ?」
と突っ込んでも何も楽しく無い人生を今も歩んでいる。
自分の今が幸せなのか満たされているのかは心持ちの問題でもあり、それはもしかしたら誰かには羨むべく今日を生きているのかも分からない。
金銭欲や物欲も極端に少ない事もあって、また一般に寂しいとか辛いとか苦労とする事を意に介さない、お金が無くても諦めてしまえばそれは別にどうでもいい事でもある。
例えば家賃が払えないとか携帯の支払いが出来ないとか何かがあって、それは死を意味するのか?仕事も無くて家を追い出されてそれは死ぬのか?最悪と言っては叱られるが手荷物だけで何処かのお寺の門を潜ったらいいのかも知れないし、住込み寮で日払い可能な仕事をすればいいのかも知れないし、この国に在っては人様に迷惑を掛けない形で警察の留置場に行けば、三食と屋根付きのと兎に角死にまではしない。
なら別に時の流れに任せてみる人生のひと幕があってもいいのでは無いのか?あれをしなさい、これをしなさいとは言うけどもしないとどうなのか?それが普通から離れてみると思うのであり、別に何処かで転々と生活募金を募ってもいいでは無いか、全てのインターホンを押して
「少し食べ物を」
と頼んでもいいでは無いか。人間とゆうのはこの日本国にあって本当に飢え死になど出来るのだろうか?レストランや食堂でも後払いであるのなら、飢え死にまではしないのでは無いのか。
その全ての何もかもに対して
「うわっぜいたく」
あらゆる自らの体験、経験とは先駆者がいようがそれは聞いた話ではなく、良くも悪くも実体験として味わえるのならチョーぜいたくと思うのです。
この年齢から来るのか全てに対して
(笑わないと損)
(楽しまないと損)
(喜ばないと損)
(感謝しないと損)
(感動しないと損)
自分自身がどんな境遇にあろうともその今の折角に感じれる全ては生命の魂の震える程の最高の出来事であってそれこそが
生きている証
だと思うのです。
死にたいとは生きてるから思える事で、死んだ人が死にたいと思う事があるのだろうか?私たちは普段から生きてるから生きたいとは思わないし、今の生命の奇跡を目の当たりにするのはバッサリと腕を切り落としてもいいし、何箇所かの癌が見つかって明日に手術で取り去ってしまう、でもいいし身体は元気なのに失明したでもいいでしょうか?人が死にたいとか辛いとか言えるのは、不足が無い証拠とも言える。
もしも両目の視力を完全に失って生きるときに恐らくは、死にたいとは思わないし言わない。大体に死にたくとも刃物が何処にあるのかも、ビルの屋上への階段はどこなのか?完全に目を閉じて過ごしてみると死にようが無い。
そう、絶対に絶望的な未来しかなかろうが死を選べない。
その盲目の人と同じ元気な身体で両目も見えてる人が死にたいと言っている。
我儘を言っている様にしか聞こえないだろうか。それは目だけでなく何とか必死に今日を頑張って生きたいと願う者が耳にした時に、もう生命のカウントダウンが終わりを迎えている人が聞いたら、どう思うのだろうか?嫌でも絶対に迎えないといけない死に何を憧れを抱いているのか?心配しなくても今日も今も一秒、一秒と墓にしか歩けない人生で何を考えているのか?何処かの極楽浄土とやらで永遠に死ねない生命ならばまだ分かる。
絶対に避けられないそこに向かいながら。もし本当に死にたいのなら明日の朝に絶対に目が醒めない自分を想像してみたらいい。
この世でもっとやりたい事やまだ未経験の事や行きたい所などがつぎつぎと出てくるに違いない。頭の何処かでこれは錯覚だちゃんと明日は目が醒めると思っては勝手に思い込んではいるけど、それも絶対でもなくで可能性としては有り得る。寝てる間の大災害でも、人間にいつ死が訪れるか等は誰も分からない。からこそ頑張らなくてもいいがせめて笑う毎日が大切なのだと思うのです。笑っていると何が良いのか?人は笑う為に生きると思うのであり、幸福とは笑う事だと思うのです。笑っている時のストレスの無さやその笑いの原因は何なのかは個人、個人だけれども。気分も身体も心も病んでいると心からは笑えない。今も不幸のどん底を表明する人には一体にいつ笑ったのか?何が笑えたのか?記憶の中にまだその思い出があるのならば、何も病んでもいない。ただその全ては単なる
贅の極み
だと言うことです。
一体に死んでから何を目にする?何を食べる?身体の痛みも辛いもしんどいも切ないも死にたいも死んでどうやって思える?
人間として今が辛い時には、お金が無いならもっと無い人を想像して、寂しいならもっと寂しい人を想い、死にたいと考えた時には本当にこの今の時間に、愛する人に無差別殺人で病気で事故で生命を失っている人はいる。
ならばその人が出来なかったこともしたかった事ももう絶対に出来ないその人の代わりに出来る 私 はその 存在 は
うわっぜいたく
と言うことなのです。
人間としてのぜいたくとはお金が無くとも
山に入り込んで最高の森林浴をヒーリングをして綺麗な空気を吸い、遠目に走り去る鹿やイノシシや熊でも様々な野獣を眺めて、下にはバッタもコオロギもカブト虫もダンゴムシも色んな昆虫を相手に遊んで、あちらこちらからバタバタっと飛び去る野鳥たちに双眼鏡を向け、家族や仲間と美味しいバーベキューでもすればいい。
よく宗教家や寺の門前に人として産まれるは奇跡だとか稀有だとか言うけど、そんな事は思わない。存在すべくしてこの世に存在している。両親の大きな愛からの使命としての。
今日の今の貴方の全ては おいっぜいたくだよあんた?
笑って生きましょう。
よっぜいたくっ
ぜいたくだね~
ええぞっそのぜいたく
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