時を超えた異邦人、伯爵令息の愛に囚われて

たもゆ

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#15 沈黙の廊下

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 未来へ帰還すべき義務と、ダンテへの愛。そして彼を裏切り続けている現実。
 その板挟みの重さを抱えたまま、エイドリアンは他の使用人たちと賄いの卓についた。
 食卓のざわめきの中、彼の表情は曇り、手元の皿に視線を落としたまま食が進まない。
 まるで皿の中のスープに、自分の迷いが沈殿しているかのようだった。

 「……あんた、大丈夫?」
 隣に座った女中のアンナが、心配げに覗き込んでくる。
 「最近、顔色ひどいよ」

 エイドリアンは、無理に口角を持ち上げ、小さく愛想笑いを返すのが精一杯だった。
 「……まぁ、無理もないよね」
 アンナはパンをちぎりながら、あっさりと続けた。
 「あんだけ可愛がってくれた坊ちゃまが、シエナの有力者に娶られちゃうんだもの」
​ 「……え?」
 ​エイドリアンは、耳を疑った。
 手にしたスプーンが小さく震え、皿の縁に触れて乾いた音を立てる。
 視線をアンナに向けたまま、言葉が出てこない。
 ​「……やだ、あんた知らなかったの?」
 アンナは目を丸くし、声をひそめた。
 「ついにフェデリコ公爵から御沙汰があったんだって。お相手はシエナ共和国の有力貴族のご令嬢よ。シエナを内側から切り崩すための政略結婚らしいわ」
 
 ​瞬間、エイドリアンの心は凍りついた。
 胃の奥が冷たい金属に掴まれたように縮み上がり、全身から血の気が引いた。
 ――ダンテが政略の駒として切り捨てられる、その冷酷な未来が、もう始まってしまった。
 受け入れることなどできない。なのに、時間は残酷にも止まらず、彼を容赦なくその方向へ追いやっていく。

 エイドリアンの動揺に気づいたのか、別の女中が茶化すように口を挟んだ。
 「でもさ、本当にシエナに娶られるとして……あのダンテ坊ちゃまが、エイドリアンを置いていくと思う?」
 その一言に、卓を囲む数人の視線が一斉にエイドリアンへ向く。
 「いや、ありえないでしょ」
 「絶対に連れて行く気満々だって。あの態度見てりゃ、そりゃねぇ?」
 「やっぱり!?」
 「そうそう、だから元気出しなさいよ」
 笑い混じりの声とともに、アンナがエイドリアンの背を軽く叩いた。
 賄いの席は、浮ついた噂話の熱を帯びていく。
 だが、エイドリアンの胸には、ダンテの変わらぬ愛情への確信と同時に、その愛を切り捨てねばならない鋭い痛みが走っていた。
 (――違う。僕は……シエナには同行できない……)
 未来へ帰還する義務と、ダンテの愛に縋りたい本能。その狭間で引き裂かれた想いは、声になることなく沈黙の底に沈んでいった。


 その日の務めを終えたエイドリアンは、賄いの席で耳にした噂に心を乱されたまま、薄暗い廊下をぼんやりと歩いていた。
 その背後から、焦燥に突き動かされたような強い手が、不意に彼の腕を掴む。
 「……エイドリアン」
 低く震える声。次の瞬間、ダンテは有無を言わせぬ力で彼を引き寄せ、まるで一刻を争うかのように自らの私室へ押し込んだ。
 重厚な扉が背後で音もなく閉ざされる。外のざわめきから隔絶されたその空間は、かつて二人だけの「聖域」だった。
 けれど今のエイドリアンには、それがまるで――愛と罪を同時に暴かれる「審問室」のように思えた。
 
 ダンテはエイドリアンを壁際に追いやり、そのまま抱きしめた。
 両手で彼の頬を包み込み、震えるように顔を寄せて――頬へ強く、確かめるように唇を落とす。
 「……どうした? 今日は随分と様子がおかしい」
 声は低く親密だったが、その腕には決して手放すまいとする強い意志が込められていた。
 ダンテはエイドリアンの髪に顔を埋め、深く息を吸い込む。

 エイドリアンは影を落としたまま、抱きしめ返すこともできず、ただダンテの胸の中で硬直していた。
 「……シエナとの結婚を聞いたのか?」
 返答を拒む沈黙は、残酷なまでに雄弁だった。肯定と受け取ったダンテは、さらに彼を抱き寄せ、低く囁く。
 「……大丈夫だ。なにも心配はいらない。私が本当に愛しているのは君だけだ、エイドリアン」

 その言葉とともに、ダンテは彼を強く抱き締め直す。耳元に熱を帯びた声が降りかかる。
 「君は私の傍を離れない。シエナへも、この館からも、どこへもだ。……いいな、絶対に連れて行く」

 独占欲を剥き出しにした愛の宣告は、鋭い刃となってエイドリアンの心臓を抉った。
 (――言わなければいけない。今ここで)

 未来への帰還という義務が、喉奥で鉛の塊のようにせり上がる。このままではダンテを裏切るどころか、彼の人生ごと歴史に歪みをもたらしてしまう。

 エイドリアンは震える唇を噛みしめ、ようやく声を絞り出した。
 「……すみません、僕は……シエナには行けません」

 その瞬間、ダンテの体から熱が抜け落ちたように、抱擁の力がわずかに緩む。次いで彼はエイドリアンの肩を掴み、無理やり顔を上げさせた。
 「……エイドリアン?」

 射抜くような視線が、容赦なく彼を縫いとめる。そこには混乱と、押し殺した怒りが渦を巻いていた。
 「今、なんと言った?」
 
 その声は氷の刃のように静かでありながら、抗うことを許さぬ威圧を孕んでいた。
 「ふざけるな。そんなことは断じてありえない。君が私の傍を離れるなど、フィレンツェの空が明日ごと崩れ落ちるよりも、はるかにありえぬことだ」

 ダンテは肩に食い込むほど強くエイドリアンを掴み直す。瞳には激情が燃え、そこに揺らぎは一切なかった。
 「君は私の従者だ。……いや、それ以上の存在だ。私が許さぬ限り、君は一歩たりとも遠ざかることはできない」
 吐き捨てるような言葉が、熱と冷徹さを同時に帯びて突き刺さる。
 「なぜだ、エイドリアン。理由を言え! この結婚は政略だ。君への愛とは別次元の問題だと、何度言わせる気だ!」
 
​ ダンテの声は切迫し、必死に問いかけるその様子が、エイドリアンにとって最も痛烈な鞭となった。瞳からは止めどなく涙が溢れ出す。
 「……僕は……もう、ここを去らねばなりません……」

 その言葉に、ダンテはまるで迷子の子供のようにエイドリアンに縋り付き、額を寄せて震える声で諭すように問いかける。
 「……なぜだ、どうして? お願いだ、理由を教えてくれ」

 必死の願いと独占への渇望が混ざったその声に、エイドリアンの胸は締め付けられ、逃れようのない現実を突きつけられた。

 「私のことが嫌いになったのか? 他に好きな相手ができたのか? それとも……シエナが嫌なのか?」
 ダンテは縋りつくように、必死の問いを次々と投げかける。

 エイドリアンは涙に濡れた頬を振り、首を横に振ることしかできなかった。
 「……そんなこと、ありません……僕も……離れたくない……」
 
 「ならば、なぜだ!」
 ダンテの声は震え、嗄れていた。

 エイドリアンは愛しい人の眼差しをまともに受けながら、自らが背負った裏切りの罪を再び噛み締める。胸の奥で鋭い刃が突き立つようだった。
 「……エイドリアン、答えろ!」

 「……ぼく……は……」
 震える唇から言葉が零れる。もはや罪の重さに耐えきれなかった。
 
 「……僕は、この時代の人間じゃ……ありません」
 
 ダンテの眉間に深い皺が刻まれた。理解を拒むような沈黙ののち、彼は鋭くエイドリアンを見据える。
 「僕は――遠い未来から来ました。もうすぐ……元いた世界へ帰らなければならないんです」

 この真実を告げることは、クロノス機関の最高機密を漏洩するのと同じ。
 それでも――愛する人を、歴史の歪みから救うには、もうこれしかなかった。

 言葉が静寂に落ちた。
 長い沈黙のあと、ダンテは低く、押し殺すように呟く。
 「……そうか。よく、わかった」

 ​エイドリアンが顔を上げた瞬間、その瞳には愛ではなく、燃え立つような憎悪と、深い底に裏切られた痛みが宿っていた。
 「嘘をつくなら……」
 ​ダンテは身を乗り出し、その冷たい顔をエイドリアンの間近に寄せる。
 「……もっとましな嘘をついたらどうだ?」
 
 氷の棘のような言葉が胸を突き刺す。エイドリアンは思わず悲痛に叫んだ。
 「……違う、本当なんです! 僕は……ッ、僕は貴方を騙すつもりなんて――」
 「黙れ!」
 ダンテの声は震え、怒りと絶望が入り混じっていた。
 「君は本当にスパイだったんだろう! 東洋から旅をしてきたというのも、全て嘘か! この私を――愛していると信じさせたこの私を! 欺いていたのか!」

 「違いますっ、僕はッ」
 「さもなくば何だ! シエナの犬か、フランス王の駒か! 私の結婚を破綻させ、このフェデリコ配下の家を屈服させるのが貴様の役目だったんだろう!」
 「違う……ッ!」
 
 「だが、お前がスパイだろうが何だろうが、そんなものはどうでもいい!」
 ダンテの瞳は憎しみと愛の狭間でぎらつき、声は掠れていた。
 「重要なのは――お前が私の傍から離れようとしている、その裏切りだけだ!
  この私を弄んだ挙句、他の国家に逃げ込む気なのだろう!?」

 「ダンテ様! 本当に、僕は――貴方のことが――」
 「もうたくさんだ!!」
 振り返ることも許さぬ、鋭い声が静まり返った部屋を裂いた。 

 「……出ていけ!」
 
 その背中は鉄の扉のように閉ざされ、近づくことすら許さなかった。
 「……ダン……」
 縋りかけた手を、エイドリアンは胸の前でぎゅっと握りしめる。
 (……そうだ、これでいい。これでいいんだ……)

 「……失礼します」
 わずかに震える声で告げると、エイドリアンは静かに部屋を後にした。

 廊下は底冷えするほど冷たく、今のエイドリアンの胸の内そのものを映しているかのようだった。

 ――ダンテ。
 決して触れてはいけないと知っていながら、手を伸ばした。
 あの繊細なガラスの花に触れ、そして壊してしまったのは自分だ。
 砕け散った破片は彼を傷つけただけでなく、自らの手のひらにも深く突き刺さっている。
 血に濡れたこの手を、慰めてくれる者はもう誰もいない。

 エイドリアンは夜の闇に身を溶かすように歩み去り、人知れず嗚咽を押し殺した。
 涙は頬を伝い、胸の奥に刺さる痛みと孤独が、夜の静寂に溶けていった。
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