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しおりを挟むドレスを脱いだ後、クロエは浴室を使った。いつもよりも長く湯船に浸かり、疲れを癒す。浴室でゆっくりしていたので、寝室に行くのが普段よりも遅い時間になった。
クロエが寝室に入ると、そこにはサイラスの姿がある。彼は就寝する格好だった。
サイラスはいつも別の場所で夜を過ごしていると思っているクロエは戸惑う。
彼は今夜、ここで寝るつもりなのだろうか。クロエのせいでパーティー会場で相手を見つけられなかったから。
だとしたら、自分はここではなく別の場所で寝るべきかもしれない。
そんな事を考えて中に入れず立ち尽くしていると、サイラスが怪訝そうな顔になる。
「クロエ、何をしているんだ? 早く入ってきたらどうだ」
「……サイラス様は、ここでお休みになるのですよね?」
「? ああ、もちろん」
「私も、よろしいのでしょうか?」
「何を言ってるんだ? 当たり前だろう」
サイラスは当然だというように言ってくる。彼の表情も声も穏やかだ。
先程、屋敷に着いてそれぞれ部屋に向かう時までは確かに不機嫌なオーラを放っていたのに、今はそんな気配もなく落ち着いている。
もう機嫌は直ったのだろうか。それとも無理をして隠しているのか。まだ怒っているのなら、やはり同じ部屋にいない方がいいのではないか。
判断がつかず動けずにいると、再びサイラスが声をかけてくる。
「クロエ、どうしたんだ? いつまでもそんなところに立ってないで、入ってくればいいだろう」
「はい」
促され、とりあえず彼のいるベッドに近づく。すると手を引かれ、サイラスの隣に座る形になる。
彼の手がクロエの肩を抱く。距離の近さにクロエは困惑する。そっと隣を窺えば、サイラスは頬を赤くし、緊張した面持ちでこちらを見ていた。
「その、クロエ……いいか?」
問いかけの意味がわからず、クロエは首を傾げた。
「何がでしょう?」
「だから……つまり…………君を、抱いてもいいか……?」
クロエはポカンとサイラスを見た。
「え? 何故ですか?」
思わず反射的にそう言っていた。そんな事を言われると思っていなかったのか、サイラスは動揺する。
「えっ、な、何故って……俺達は夫婦だし…………それに俺は、君を…………愛しているから……」
はにかみながら言われ、クロエは思わずあんぐりと口を開けてしまう。
彼女に気持ちを伝えるのははじめてだった。思っていたのとは違う反応が返ってきて、サイラスは狼狽える。
「俺は何か、おかしな事を言ったか……?」
「……だって、サイラス様……私の事が好みじゃないとおっしゃっていたので……。好みじゃない女と同衾なんてごめんだと」
「…………は?」
戸惑うように告げられたクロエの言葉に、頭が真っ白になる。
「好みじゃない……? 俺が、そう言ったのか……?」
「はい。婚約中に」
「っ…………!?」
サイラスは頭を殴られたような衝撃を受ける。
正直、あまりよく覚えていない。でもそんなような事を友人達に言った気がする。
「……ほ、他には……? 俺は他にも何か言っていたか……?」
「あんな地味な女と結婚なんて最悪だ、とか……後は、結婚しても絶対に同じベッドでは寝ないとおっしゃっていました」
「っ、っ……!?」
はっきりと覚えていないが、きっとクロエの言う事は本当なのだろう。
だって、サイラスは本気でそう思っていた。すっかり忘れていたが。
クロエとの婚約が決まって、はじめて彼女と顔を合わせた時。地味な女だと、そんな感想を抱いた。
愛想笑いの一つも見せず、終始どこかぼんやりとした顔で事務的なやり取りしかしない。こちらが話を振ってもそんな調子で一切会話が盛り上がる事もなかった。
こんな地味でつまらない女と結婚しなくてはならないのかと、確かにあの時、サイラスはそう思ったのだ。
そしてそれを友人達に愚痴った。クロエを蔑み、その場の笑い者にした。
「…………クロエ……君はそれを聞いていたのか……?」
愕然とした様子のサイラスに、クロエは頭を下げる。
「すみません、盗み聞きをするつもりではなくて……。偶然通りかかった時に、聞こえてしまって。申し訳ありません」
「君が謝る事じゃない……!!」
動揺から、思わず大きな声が出てしまう。サイラスはすぐに謝った。
「っ……すまない、大声を出して」
「いえ」
「というか違う! 違うんだ……!!」
「はあ」
「いや、違わないんだが、違うんだ!! 確かに俺は、君との結婚をよくは思っていなかった……でも今は違う! あの時言ったような事は、もう一切思っていない!」
サイラスはガバリと頭を下げる。
「謝らなければならないのは俺の方だ! 謝って許される事ですらない! だが謝らせてくれ。本当にすまない、クロエ」
「そんな、サイラス様、顔を上げて下さい。私は気にしてませんので、謝る必要なんてありません」
それはクロエの本心だったが、サイラスはそんなわけがないと思う。自分は彼女を傷つけてしまったのだと。
「サイラス様の言う通り、私は地味ですし。嫌いな相手と同じベッドで眠るなんて、誰だって嫌だと思います」
「嫌いなんかじゃない!!」
サイラスは声を張り上げる。そこだけは誤解されたくない。
「さっきも言ったが、俺は君を愛してる……っ」
「でも、サイラス様……」
クロエはこれまでの彼の言動を思い出しながら言う。
「私が褒めたりすると、とても嫌そうな顔をしていましたし……。私といると、不機嫌になる事が多い気がします。なので、私は疎まれているのかと思っていたのですが」
「っ違う!!」
また大きな声を出してしまう。サイラスは自分の不甲斐なさに自己嫌悪に陥る。
「それは違う、違うんだ、本当に……っ」
サイラスは必死の形相でクロエに訴える。
「君に褒められて嬉しかったんだ! でも嬉しすぎて、にやけ面を晒してしまいそうで……それを隠すために顔に力を入れていただけで……嫌だとかそんな風に思っていたわけじゃないんだ……!」
クロエは驚いた。彼が喜んでいたなんて思いもしなかった。
「本当は今日だって、ドレス姿の君を見て、すごく綺麗だと思ったのに……それを伝えたかったのに……緊張して、ドキドキして、何も言えなくて、まともに顔も合わせられなくなって…………それで、君が別の男に褒められているのを聞いて、嫉妬したんだ……。君の美しさは俺が一番よくわかっているのに、先を越されて、イライラして……君にきつい態度をとってしまった……本当にすまない……」
「そう、だったのですか……」
彼の口から聞かされる事があまりにも自分の想像とかけ離れていて、クロエは呆然としてしまう。
「てっきり、私はサイラス様を怒らせるような事ばかりして、不愉快な思いをさせているのだと……。すみません、勝手にそんな勘違いを……」
「これも君が謝る事じゃないっ……。俺が悪いんだ。カッコつけて、見栄を張って……君に勘違いをさせてしまうような言動をしてきた俺が悪い……。そんな風に思われても仕方がない事を、俺がしてきたんだ……」
サイラスは今まで、自分の言動がクロエにどう思われるかなんて考えもしていなかった。
他の誰かならばこうはならなかった。相手にどう思われるか考えて発言にも行動にも注意した。
それが、クロエ相手だと何もできなくなる。こうして彼女に指摘されるまで気づきもしなかった。
クロエの前だと馬鹿になってしまうのだ。
「本当にすまない……。クロエの方こそ、俺の態度のせいで嫌な気持ちになっただろう……?」
「いえ……」
「今更こんな事を言っても信じてもらえないと思う……。最初の頃、君の事を好ましく思っていなかったのも事実だ。でも、俺の気持ちは変わった。こんな醜い顔になった俺をまっすぐ見つめてくれたのも、一切態度が変わらなかったのもクロエだけだった。それでわかったんだ。他の誰でもない、俺には君しかいないと。君を好きな気持ちに嘘はない。君を愛していると心から誓える。どうか、信じてほしい」
サイラスは真摯に思いを告げてくる。クロエにとっては予想外の事で、どう受け止めればいいのかわからない。
「虫のいい話だが、俺は君に愛されたい」
「…………」
「だから、君に愛される努力をすることを許してくれないか……?」
縋るように、切実な思いを込めて見つめられ、クロエはぎこちなく頷く。
けれどクロエは、彼を愛する事ができるのかわからなかった。サイラスだからではなく、人を愛せるのかがわからない。両親との関係も希薄で、愛情というものを感じる事なく生きてきた。
そんな自分が、誰かを愛する事があるのだろうか。
そう思ったけれど、安堵するように表情を綻ばせるサイラスを見ると何も言えなかった。
二人はベッドに横たわる。
サイラスと向かい合い、クロエはふと思う。もしかして自分はとんでもない勘違いをしていたのではないかと。
「サイラス様は、今までずっとここで寝ていたのですか……?」
「? ああ。どういう事だ? クロエは知っているだろう?」
確かに目覚めたらサイラスは毎日隣で眠っていた。でもクロエは、実際には寝ていないのだと思っていた。
「…………すみません。私てっきり、サイラス様はその…………どこか別の……女性のところで夜を過ごしているのかと……」
「はあ!?」
「申し訳ありません……。絶対に同じベッドでは寝ないとおっしゃっていたので……」
「う……」
ならば確かに、勘違いされても仕方がない。仕方がないが、しかし……とサイラスは思う。
「こんな顔の俺が、他の女性と過ごせるわけないだろう? 言っただろ、呪われた俺を見ても態度を変えなかったのはクロエだけだ。他の女性は怯えるか気持ち悪がるか、どちらにしろ触れられたくもないと思うだろう」
それに気づかないという事は、クロエは本当にこの呪われた醜い顔を何とも思っていないという事だ。嬉しいとも思うが、彼女が自分の容姿に全く関心がないという事でもあるので複雑だ。
そうだったのか……とクロエは思う。顔が少し変わっただけで、サイラスという人間が変わったわけではない。だから変わらず彼を慕う女性はたくさんいるのだと思っていた。
それに、サイラスはそう言うが、今日のパーティーで彼に見惚れていた女性は少なくない。ならばその変わってしまった部分を隠してさえしまえば、以前と何も変わらないのではないか。
「もし……」
クロエはサイラスをまっすぐに見つめて言う。
「もし呪いが解けたら……それでもサイラス様は私に愛されたいと思いますか?」
呪いが解けても、彼は自分を愛していると言うのだろうか。
「もちろんだ」
サイラスはきっぱりと頷く。
「俺の言葉を信じられないだろうし、信じてもらうのが難しいと俺自身よくわかってる。実際、もしこんな顔にならなかったら、俺は君を愛する事はなかったかもしれない」
「…………」
「でも、だからこそ俺は、呪われて良かったと今はそう思ってる」
クロエがいなければ、絶対にそんな風には思えなかった。人前に出る事ができなくなり、部屋に閉じこもり、誰とも会わず一人で生涯を終えていたかもしれない。
「だからもし、呪いを解く方法が見つかったとしても、俺はこのままでいい。クロエさえ傍にいてくれるのなら、一生呪われたままでいい」
「サイラス様……。呪いを解く方法があるのなら、私はちゃんと解いた方がいいと思います」
「っえ!?」
「だって呪われたままなんてなんだか体に悪そうですし。もしかしたら健康にも影響が出るかもしれませんし。ずっと開いたままの右目が乾燥して干からびてしまうかもしれませんし」
「う……いや、でも……」
「もし呪いを解く方法が見つかったら、ちゃんと解いてください」
自分の愛の深さを伝えたつもりがクロエに冷静に諭されて、サイラスは何とも言い難い気持ちになった。彼女が自分の体を心配してくれているのはわかるのだが。
「……クロエは、俺に触れるのを嫌だとは思わないか? この顔を、気持ち悪いと思わないのか?」
「思いません」
言って、クロエはそっと彼の顔に手を伸ばした。焼け爛れたような彼の右頬に触れる。
「不思議な感触がします。でも触れるのが嫌だとか、気持ち悪いとか、そんな風には思わないです」
彼の肌の感触を確かめるように頬を撫でる。
サイラスは一瞬泣きそうに顔を歪め、それからくしゃりと顔を綻ばせた。
子供のように嬉しそうな、屈託のない笑顔。彼はこんな風にも笑うのだとクロエははじめて知った。
ベッドの上でぽつりぽつりと言葉を交わすうちに、いつしかクロエは眠りに落ちていた。
サイラスの隣で簡単に寝てしまえるのは、男として意識していないからなのだろうか。そう考えると複雑だが、無防備に寝顔を晒してくれるのは嬉しい。
それにしてもクロエがあんな勘違いをしているなんて知らなかった。サイラスが毎晩他の女性のところへ行っていると思っていたなんて。もちろん自分の発言が原因だが。
でも、それで納得もした。サイラスが寝室に入ると、いつも彼女は一人で先に眠っていた。それはサイラスがここに来ないと思っていたからだろう。
あんな事を言っていたサイラスが、自分を抱く事などないと、そう考えていたのだろう。
寝室に行くといつもベッドの上でクロエが熟睡していて、残念な気持ちになったが正直少しホッとしていた。
彼女を抱きたいという願望はもちろんある。彼女に触れたいという欲求は確かにあるのだ。
けれどいざそういう事をするとなると、緊張して、胸がドキドキして、まともに頭が働かなくなってしまうのではないかという不安もあるのだ。
自慢ではないが、女性経験は多い方だと自負している。失敗した事などない。女性を満足させてきた自信はある。
だが、その経験が無に帰すほど、クロエの前では平静でいられないのだ。
ガチガチに緊張して何もできなくなってしまうのではないか。逆に興奮しすぎてとんでもない事をしでかしてしまうかもしれない。
どちらにしろ、失敗して彼女に嫌われたくない。幻滅されたり、ガッカリされたくない。
そんな童貞のような不安が拭えず、クロエとの初夜を未だに果たせていない事に落胆半分安堵半分といった心境だった。
そして先程の会話から、まだ彼女を抱く事はできないと判断する。
クロエにとって自分は、陰で悪口を吐き散らす最低な男だ。ずっとそう認識されていたのだ。結婚しても妻ではなく他の女性と夜を過ごすような男だと。
当然彼女はサイラスに好意など抱いていないだろう。そんな状態で初夜を迎える事などできない。
彼女が自分を愛してくれるまで、そういう行為はしない。もちろん、この先一生そんな日は訪れない可能性はある。寧ろその可能性の方が高い。
それでも、もう彼女の信頼を失いたくない。大事にしたい。幸せにしたい。
好きでもない男に抱かれる事が、彼女にとって幸せであるはずがない。
今はこうして同じベッドで、自分の隣で眠ってくれるだけでも充分だ。
クロエが近くにいると意識してしまって、サイラスは全然眠れないのだが。ずっとドキドキして、日付が変わってかなり時間が過ぎた頃、漸く眠気が訪れてそれから寝るので、いつもクロエよりも起きるのが遅くなってしまう。
すやすや眠るクロエの寝顔を見つめる。見ていると胸がきゅっと締め付けられる。心臓の鼓動が高まり、落ち着かないけれどずっとこのままでいたい。ずっと見つめていたい。
これが愛しいと思う気持ちなのだろう。
こうして彼女の寝顔を見ているだけで幸せに包まれた。
この時間を大切にしたい。彼女と過ごせる時間を。何があっても手放したくない。
何に代えてもクロエだけは守り抜こう。サイラスは静かにそう誓った。
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