煉獄に棲む光焔よ

晴なつちくわ

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若頭編

人壊戦術

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 どんな些細な事でも人は壊れる。
 誰かに聞いたわけじゃない。己の体験談だ。何が切欠きっかけかは人によるが、案外人の心や体は、本当に簡単に壊れる。そうでなければ、己のこの虚無ばかりが映る胸の内の説明がつかない。

「オラ! 早く吐きやがれ!」

 肌の色が変色するほど殴られて、上半身裸にされて、椅子に縛られた男に、冷や水をかぶせている黒服の男。その光景をガラス越しに見ても、何の感情も抱かない。まさに虚無。
 寒そうだな、とも、痛そうだな、とも、可哀想だな、とも思わない。気になる事と言えば、彼はいつ壊れるのだろうか、ということくらいだ。

 椅子に縛られている男はクズである。
 付き合っていた女をヤク漬けにした挙句、前後不覚の女に性接待をさせて日銭を稼いでいた。女が死ねば、他の女に乗り換えて、また同じ繰り返し。
 この世界では珍しくないし、こういうクズはごまんといる。普段ならいちいちこんなことで制裁を下したりしない。では何故男がこんな状況になったかといえば、組織の虎の尾を踏んだから。
 組織が捌く以外の極めて中毒性の高い麻薬を使用し、あまつさえ、商売をしようとした。組織の面子めんつが潰れるようなことを、当然上は許すはずがない。男が死に至る、もしくは、麻薬の出所を吐くまで、制裁は続く。
 まあどうでも良いことだけど、と透は思う。
 正直、透にとっては面子なんて腹の足しにもならないことだ。
 怒りも湧かない。見知らぬ誰かが野垂れ死にしようが、道端でミミズが死んでいるのと同じくらい、興味がない。
 それでも組織の命令は、聞いておいた方が無難だ。
 いくら融通が利く立場にいるとはいえ、反感を持たれるよりは好感を持たれた方が動きやすい。仕事が出来る奴だと思われれば、それなりに可愛がられる。出来過ぎるのは駄目だ。多少で気が悪い方が可哀そう、もしくは支えてやろうとに思われて、余計に可愛がられる。
 少しの失敗を織り交ぜつつ、上に反感を持たれないように生きていく。

 それが櫻透さくら とおるという己の身の振り方だから。

「来てたのか、サクラ」

 しゃがれ声にゆっくりと振り返れば、片頬を上げた初老の男が立っていた。グレーのスリーピーススーツを着こなす男に、にこりと笑みを作って返事をする。

「アランさんじゃないですか。アンタが来るなら俺が来る必要なかったですね」
「見に来ただけさ。俺んとこの管轄でも出回ってるからな」
「嗚呼、例のヤクですか」
「ああ。酷い有様みたいでなァ。ボスがキレてる」
「ワァ大変だ。ていうか、ボスがキレてない時ないでしょ」
「ハハッ! そんな命知らずなこと言えんの、サクラくらいだぞ」

 豪快に笑うアランの横で、思う。
 命知らずというか、俺の命すらどうでも良いと思っているからなんだけどね。
 だが別に彼に本心を言う必要はない。笑みを崩さないまま、また殴られ始めた男へ視線を向ける。

「今日はあの猛犬、……マツ、だっけか? 連れてないのか?」

 猛犬と聞いて頭を過るのはたった一人。闇を写し取ったような黒髪と黒によく似た深い紫の瞳でじとりとこちらを見つめてくる男を思い出して、まあね、と小さく笑う。

「度が過ぎるから置いてきました」
「オイオイ、ちゃんと手綱は握っといてくれよ」
「アイツ、お節介すぎるんですもん」
「そう言ってやるな。お前だけに忠実でカワイイじゃねぇの」
「それが窮屈なんですって。たまには羽を伸ばしたいし」

 言葉を表すように両腕を上げて伸びをすれば、アランはニンマリと笑って顔を近付けてくる。至近距離で合ったグレージュの瞳が、挑発的に弧を描いた。

「危険なアソビはほどほどにしろよ。お前は次期ボス候補の若頭なんだから」

 同じ笑みを返して、とん、とその胸を拳で軽く叩く。

「アランさんの方がボスの器なのに。なんで辞退したんです?」
「俺は二番手くらいが丁度いいんだよ、馬鹿出来るしな」
「面倒事は上にお任せ、って?」
「ああ。それに、お前の下についた方が面白そうだしなァ」

 思ってもないことを。そう思いはするが、笑みは崩さない。
 ボスという座は矢面に立つ分重責と危険を伴う。リスクとリターンが見合わないとよく言われるだけあって、組織を好きにできる代わりに、己の命を常に晒さなければいけない。
 確かにアランという男は、そういう面ではボスの器ではないのだろう。リスクとリターンを天秤に賭けて、実利のある方を取るのがアラン・バーデンという男だ。そういう面で、この男を信頼している。ただのバカとは違い、賢くこの世界を渡っていくその生き様は称賛に値する。さすがはボスの先代の右腕の右腕だった人間だ。
 くすっと笑って言ってやる。

「俺がボスになったら組織壊滅させちゃうかも」
「それはそれで一興だろ。ハイリターンならお前に全ベットする」
「なければ?」
「言うまでもないだろ」

 親指を立てて首を切るように手を動かしたアランに、笑う。
 実際彼はやるだろう。どれだけ親交があっても、利己主義のお眼鏡にかなわないものは、バッサリと切り捨てることが出来る男だから。

 でもどうせ殺されるなら。

 そう思ったのと、腕を引かれたのは同時。
 傾いた背中が、誰かの胸板に当たった刹那、見知った香水が鼻腔を擽る。

「ウチのサクラに何か用ですか」
「ハハハッ! そんなに睨まなくても良いだろ、マツ」

 威嚇するように低い声を発したマツ――柏松龍かしわまつ りゅうに、降参するように両手を挙げたアランは、やれやれと肩を竦めて笑った。はあ、と溜息を吐きながら、視界に入れた龍の頭をコツンと叩く。

「アランさんに威嚇するな。大先輩だぞ」

 躾がなってない、と噂話を立てられるのはいい。が、一応上司である体は保つか。そんなことを考えながら注意すれば、すんません、と心の籠っていない謝罪が返ってきた。
 アランがこの程度で腹を立てないのが幸いだ。
 組織内での波風は立てないに越したことはない。

「アランさん、すみません。うちの猛犬が」
「犬は飼い主に似るっていうが、マジだなァ」
「ええ? 俺はコイツみたいに制御不能じゃないですよ」
「制御不能の奴はね、みーんなそう言うんだよ」

 伸びてきた手に頭をわしゃわしゃと撫でられる。なんやかんや可愛がってもらえてるのを分かっているから、振り払ったりしない。乱れた髪の間から見えたグレージュの瞳が柔らかく笑む。

「この左目みたいにくたばるなよ、サクラ」

 とん、と左目の眼帯が中指に弾かれた。
 はい、と笑みを浮かべて答えれば、満足したらしいアランは背を向ける。ひらりと手を振って、近くに控えていた右腕を連れて出入口から出て行ったのを見送ってから、もう一度龍へ目を向ける。
 じろりと濃い紫に射抜かれた。肩を竦める。
 咎めているつもりだろう。次期ボス候補なんですから軽率な行動は控えてください、というのがここ最近の龍の口癖だ。透にとっては、次期候補だからなんだ、という感じだが、龍にとってはそうではないらしい。
 はぁ、と嘆息して龍から離れる。

「たまにはお前から離れたいんだよ。分かれよ」
「分かってますよ」
「じゃあなんで来た」
「ボスからの命令なんで」
「ハッ! ボスの命令なんてちゃんと聞いたことないくせにさ」

 未だに強い光を持って射抜いてくる瞳から目を離して、ガラスの向こう側を見る。椅子に縛られた男が、すみませんすみません命だけは助けてください、と命乞いをしているのが見えた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、殴っていた男に縋るように頭を下げている。
 クズ男の末路はもう決まっている。
 馬鹿なことをしなければ、拷問用の地下室に入れられることも、実験台になることも、死ぬこともなかったのに。
 ふと思う。いつか、自分も敵組織に捕まったなら、あんな風に拷問を受けるのだろうか。死にたくない、と喚くのだろうか。
 フッと笑ってしまった。そんなことはあり得ない。
 次の瞬間に命が終わることを知っていても、己は笑みを浮かべたままだろう。何の感情も籠らない、乾ききった空っぽの笑みを。いや、案外喜色が混じっているかもしれない。
 兎にも角にも、命乞いをすることはないだろう。敵に情報を吐くくらいなら舌を切って死ね、とボスにも言われている。実際やった奴がいるかは知らないが。

「透さん」

 不意に耳を擽った低い声。ぞわりと腹の奥が粟立つ。怒りとは程遠い生存本能に似たそれ。死んでいない方の右目で、じろりと龍を睨む。

「ベッド以外でそう呼ぶなって言ったのもう忘れたのか?」
「すんません。サクラさんって呼んでも返事なかったんで」

 ぺこりと頭を下げた龍にフンと鼻を鳴らしてから、透もまた出入口に足を向ける。見ているのもいい加減飽きた。あの様子だと大した情報は持っていないだろう。最低限の義務は果たした。あとは優秀な部下に任せればいい。

「サクラさん」

 再び名前を呼ばれて、振り返った先。
 皺ひとつない紺のシャツに黒のスーツを纏った猛犬、否、男がじっとこちらを見ていた。命令を待つ犬のように。あるはずのない耳が垂れて見えて、小さく笑った。

「ついてきていいよ。ただし、必要以上に誰かを威嚇したら、また置いてくから」

 その一言だけを置いて、足を動かす。
 数秒もしない内に、龍が己の左斜め後ろに陣取った気配がして、勝手に頬が緩む。
 龍の定位置はそこだ。彼なりの気遣いだろう。
 透の左目は、とうの昔にその役割を放棄した。随分と前からのことだから、大概のことは一人でできるし、気遣いもいらないと言っているのに。龍はその定位置をよほどのことがない限り変えないのだ。

「健気だねぇ、お前も」

 滅多に使わない母国語で話しかければ、あんただからです、と母国語で返ってきた。

 全く、俺みたいなのにどうしてこんなに懐いてくれてるんだか。
 確かにゴミの掃き溜めみたいなところから連れ出したのは俺だけど。

 龍を拾ったのは、本当に気まぐれだった。
 普段なら何とも思わない、裏社会では当然のように行われる極悪非道の行為が繰り返されていたプレハブの倉庫。か弱い子どもたちを集めて憂さ晴らしをしていた、カス集団に囚われていた子どもの一人が、龍だった。

 本名は知らない。柏松龍、なんて大層な名前を付けたのは透だから。

 他の子どもたちが娑婆に戻っても、龍だけは透の下を離れなかった。別段優しくした覚えはない。稽古は付けたが、それも大した回数じゃない。なのに、どうして。
 首を横に振る。どうだっていい事だ。
 ただ、殺されるなら龍が良いな、とは思う。
 彼なら確実に地獄に送ってくれそうだから。どんなに闇の中にいても曇ることを知らないその紫烏色の瞳で、己の死に際を目に焼き付けてほしい。なぁんて。
 己の頭のお花畑具合に笑う。

「どうかしたんですか?」
「いーや? なぁんにも」

 未だに笑い続けている上司を、龍が訝し気な視線で見ていようが全く気にならない。壊れた心が望むものが、終焉、なんてありきたりすぎて笑い種にもなりはしない。そんな都合の良いことが起こるはずもない。
 それを知っていても、夢想くらいは許されたいのだ。
 逃げることを許されないこの世界で、たった一つ逃げられる方法だから。

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