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第一部
3.二人だけの夜①
しおりを挟むしゃらりしゃらりと身に着けた装飾が揺れる音が、廊下に反響している。
夜風の心地良さに目を細めながら、ヴェルナは書状を手に、ゆったりとした歩調で長い廊下を歩いていた。磨き抜かれた石でできた廊下は、裸足の足裏を冷やしてくれる。歩き心地も良い。
普段はもちろん靴を履くが、踊り子としての任を熟すときは、客室からその場まで殆どの場合は裸足で行く。足首や足先まで着ける装飾の所為で、靴が履けないからだ。
付き人はいない。
本当はフィニを連れてきたかったが、断念した。
彼女に事情を説明したらたちまち憤怒を露わにして、第三王子であるミュトラを殺しに行きそうになったのだ。ヴェルナ様になんてことを、と低い声で言って、短刀を持ちだして部屋を出て行こうとしたフィニを止めるのは、本当に苦労した。
ジアノとヴェルナの説得に一応怒りは収めてくれたが、そんな下劣な奴のところに行く必要などありません、と絶対に行かせないという態度だった。そんなフィニを宥めて、こうして一人でミュトラの元へと向かっているのである。
まあ正直に言えば、行きたくはない。
しかし、正規の手順を、と言った通りに馬鹿正直に書状をジアノに送ってきたのは、好感が持てる。王族であることを笠に着て権力を振りかざす短絡的な人間ではない、とひと先ずは思えた。書状の内容も見せてもらったが、高圧的なことは何も書いてなかった。馬鹿正直に『踊りを間近で見たい』とも書かれていたから、昨夜の言葉はどうやら本当だったらしい。
ただし、ミュトラが欲の獣に成り下がらない、とは断言できない。
距離はなるべく取る方が賢明かもな、なんて考えていた時だ。
楽しそうな笑い声が聞こえてくる。そちらを何気なしに見れば、高い石壁がそびえ立っていた。背の高い植物の葉が、壁の頂点からこちらに垂れていること以外は、何も分からない。が、予想はつく。
王と王が許した者のみ入ることが許される後宮だろう。
後宮で退屈している妃たちを踊りで楽しませる依頼も、ウルウィ一座はよく受ける。一座を構成する者がほぼβやΩであり、座長を除いて、男はΩしかいないウルウィ一座は、後宮の妃が一座の者と不義を働く心配がない。王族や皇族にとっても都合が良いのだろう。
余談だが、後宮を初めて知った時は衝撃だった。
ウルでは生涯たった一人を愛する王が当たり前だったから。
というか、王子たちが住む離宮の近くに後宮があるのかよ。趣味悪すぎだろ。
げえ、と思わず舌を出す。どうせなら上を閉じてやればいいのに、と思う。あんなに開放的ならば、発情期の時の匂いが漂ってくるに違いない。それを王以外の王族は一人で耐え忍ばなければいけない、と考えると拷問にも近い気がする。今は薬があるからどうにかなるだろうが、建国時はどうしていたのだろう。考えたくもない。
両腕を抱いてぶるりと体を震わせた。
こんなところはさっさと通り過ぎる方が良い。
歩く速度を上げて、その場を後にした。
離宮の入口に辿り着くと、門兵が二人立っていた。その一人に書状を渡して挨拶をすれば、知らされていたのか、合点がいったように頷かれた。
「ヴェルナ様ですね。ミュトラ王子から伺っております。右手奥にお進みください」
「ありがとうございます。失礼いたします」
丁寧な対応に軽く頭を下げて足を踏み入れる。言われた通り右奥に進んでいくと、入口だろうか、布が天井から垂れ下がっているのが見えた。そのまま歩を進めて近付いてみると、それは薄青の色の布で、中の明かりにぼんやりと照らされているようだった。
多分ミュトラが中にいるのだろう。侍従がいるのかと思ったが、誰一人としてその場にはいないらしい。
とりあえず手順通り、その場に座して頭を下げた後、声を張った。
「失礼いたします。ウルウィ一座より参りました、ヴェルナでございます」
「入って良い」
昨日と同じ声が耳に届く。ふう、と息を吐いてからヴェルナは立ち上がって、視線を下げたまま幕を掻き分け中へと入った。
顔を上げないまま再び膝をつこうとしたヴェルナを遮ったのは、ミュトラの声だった。
「礼式は省いていい。こちらへ」
彼が言うなら良いのだろう。ゆっくりと顔を上げた。
視線を上げた先、私室というには内装は豪華絢爛そのものだった。
入口から部屋の中心に向かって下がるように数段の階段があり、天井からは豪勢な装飾の大きなランタンがぶら下がっている。部屋の中央に大きめの丸い座卓――しかも豪華な食事と酒まで用意されている――と、座り心地の良さそうな長椅子、その中央に部屋の主が座っていた。
失礼いたします、と頭を下げてそのまま階段を下る。
本当は内装をもう少し見たいが、彼の命で此処に来た身である以上、無礼は働けない。失態は繰り返してはいけないのだ。
しゃらしゃらと鳴る装飾の音を響かせて、彼の近くまで辿り着くと、そのまま手を合わせて拝礼した。
「この度はお招きいただきありがとうございます。ミュトラ王子におかれましては、」
「待て」
口上を述べていたヴェルナを止めたのは、またしてもミュトラだ。
なんだよこの野郎少しは黙っていられないのかよ。
頭の中で大変失礼な言葉を並べていたら、彼は言った。
「昨日はもっと雑な口調だっただろう。それでいい」
はぁ? と思わず声に出しかけた。わずかに上げた視線で彼を伺うと、水宝玉の瞳に真っ直ぐに射抜かれていたのだと知る。しばし見つめ合う。おちょくっているのか、と思いはしたが、彼は言葉を撤回するつもりはないらしかった。
「……ミュトラ王子、もしや私をお試しに?」
「? 何故試す?」
心底分からないと言いたげな声に、どうやら彼が本気らしい、ということは理解できた。なるほど。でもあとからやっぱナシ、なんて言われたら困る。不敬罪に問われて切り殺されるなんて真っ平だ。少しだけ悩んでから、顔を上げて口を開く。
「では、約束していただけますか?」
「何をだ」
「私が貴方様にどれだけ不遜で不敬な態度を取っても無条件でお許しくださる、と」
「分かった。約束する」
ホントかよ。あまりの即答ぶりに白目を向きかけたが、ミュトラ王子が嘘吐き、なんていう噂話は今のところ聞いてない。なら大丈夫だろうか。嫌味じみた忠告すら素直に守るところがあるのは知っているし。
小さく息を吐いてその瞳を見る。
「約束は絶対に守れよ」
それだけ言って、彼の向かい側にドカッと腰を下ろす。やはり座り心地がよく、尻がゆっくりと沈んでいく。さすが王族の私室というべきだろうか。
「それで? 貴方が俺を呼んだ理由は?」
「敬称もなくていい。ただ、ミュトラと呼んでくれ」
「オイオイ、俺を殺す気か? 貴方が許しても周りの兵士や同じ王族が黙ってないだろ」
「構わない。彼らは俺に興味はないからな」
片眉を上げる。興味がないから、とはどういうことだ。意味が分からない。そもそも興味云々の話をしているのでない。
はー、と大きな溜息を吐いた。
「あのなぁ……、分からないようだから教えてやるが、貴方ひとりの行動で国そのものが揺らぐことだってあるんだぞ。皇籍離脱するならともかくとして、現時点で貴方が王族の一人であることは揺るがない事実だ。貴方の感情云々は関係なくな」
仮にも王族である彼が、舐めた態度を取るのを問題ないと許せば、王族の威信に関わる。必要以上に威圧するのはいただけないが、ある程度の礼節を守らせる態度もまた大事なことだ。さもなければ国民と王族の間に明確に存在する線引きに、意味が無くなる。権力を振りかざすのは馬鹿のすることだが、国民に不敬な態度をとってもいいと思わせる言動もまた、阿呆がすることなのだ。
「簡単に舐められる態度を取るな。俺はそんなことはしないが、吹聴されて困るのは貴方だけじゃない。貴方以外の王族もなんだ。その小さなきっかけが国を崩すことだってあるんだからな」
出過ぎた真似だとは思う。現にミュトラは、ぱちくりと目を丸くしているし、不敬な態度を無条件で許せと言った舌の根も乾かぬうちに、こんなことを言うのだから。
「そうか、確かにお前の言う事は筋が通っている」
どんな嫌味を言われるかと思ったが、意外にもミュトラは素直にヴェルナの言葉を受け入れてくれたようだった。とりあえず切り伏せられることはなさそうでホッとする。
「それにしても、お前はよく物を知っているのだな」
ふん、と鼻を鳴らして口を開いた。
「当たり前だろ。そもそも俺は、」
ウルの皇族だぞ、と口から出そうになった言葉を、間一髪止めた。
危ない。ウルの皇族であることは口に出すな、と口酸っぱく言われている。兄や姉だけでなく、ジアノやフィニからもだ。曰く、簒奪者の一味がどこに紛れているか知れないから、だそうだ。
桁外れの強さを誇り、早くから外遊をしていたおかげで各国への顔も広いαの姉であるならまだしも、ヴェルナはほぼ箱入り息子状態だ。伝手もあるにはあるが、多くはない。それに後ろ盾もないとくれば、簒奪者によって仮初の王として操り人形にされる可能性もある、と聞かされてきた。
ラナキアの王族が、ウル滅亡に関与しているとは考えたくないが、可能性はゼロではない。秘密を知る者は少ない方が良いに決まっている。
「俺は、なんだ?」
不自然に言葉が止まったからか、先を促されて、あー、と誤魔化す。
「色んな国を渡り歩いてるからな。王族の事情は少なからず分かる」
「なるほど」
これ以上問い詰められることはないようだ。よかった。胸を撫で下ろしたヴェルナは、じっとミュトラがその様子を見ていることは気付かない。
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