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第一部
16.ミュトラとヴィシラ
しおりを挟む陽の光が満ちてきた廊下をミュトラだけが歩いている。
足を自室に進めながら、ミュトラは小さく笑みを零した。
呆けた顔で立ち尽くしていたヴェルナを思い出したからだ。
たった数日だったというのに、ヴェルナに会えないことが嫌だと感じた。会えるはずの夜に来るのは、毎回フィニだった。彼女にヴェルナの様子を聞けば、体はなんともないという。元気なら良い。そう思ったのは瞬きの間で、じゃあどうして来てくれないのか、と不満を抱いた。我ながら自分勝手だと思う。
彼の前で発情しかけてしまったのは己だと言うのに。
断じて服薬を怠ってはいない。αの発情期の恐ろしさは、先代の王の一件で知っている。発情を起こしたことのなかったαの先王は、抑制剤を飲まずに過ごしていたという。しかし街で突如として発情し、大事件になったと聞いている。その恐ろしさを侍女から聞いてからは、絶対に飲むようにしているのだ。
しかし、あんなことになってしまった。
ヴェルナに対して邪な気持ちを初めて抱いたからだろう。今までは相手のことを知りたいと思っても、誰も知らないところまで見たい、暴いてみたい、全てを知りたいと己に思わせた人はいなかった。
自分の欲を飼い慣らせなかった結果、ヴェルナに嫌悪感を抱かせたのかもしれない。
その結論に辿り着いたミュトラは、とにかくヴェルナに会って謝ろうと決めた。軽んじたのでも、誇りを穢したいわけでもない、と伝えたくて。勝手を承知で朝早い時間に侍従も連れずに、彼らが使っている客人用の宮に向かったのだ。
そんな突然の来訪に扉を開けてくれたのは、奇しくも会いたかったヴェルナだった。ミュトラを見た途端、目を丸くしてこちらを案じてくれた彼に、胸の奥に僅かに嬉しさが滲み出て温かさを感じた。
彼の挙動を見るに、嫌われているわけではなさそうだ、とは思った。だが、このまま有耶無耶にするのは自分の性格上無理だった。
避けられている理由があるなら知りたい。
その一心で食い下がったら、ヴェルナは意外な顔を見せてくれた。
腕を掴んだ手に、白い肌を淡い赤に染めたのだ。
彼も耳まで赤くなってしまったことに気づいたのだろう。羞恥を誤魔化すように顔を逸らされた。
今までも何度か腕を掴んだことはあった。しかし、恥じらうような仕草は今日が初めてだった。嫌悪が満ちているならこんな反応はしない。
胸に湧いた歓喜。
もちろん押し切るつもりも押し付けるつもりもない。しかし望みはあるのだと知れた。それだけで十分だ。
だから、自分の想いを告げた。
出来ることならもっと意識してほしい。心を自分に傾けてほしい。押し付けるつもりはないけれど、少しでも自分と同じ想いに好意が傾いたら良い。そんな下心を込めて。
口付けた手のひらは、あの白磁の肌からは考えられないほど温かかった。放したくない、という本音を振り切って、こうして自室に戻っている。
「随分と機嫌が良さそうだね」
不意に耳を通り抜けた声に、足を止める。
目を向けた先の太い支柱の影から出てきたのは、己と同じ褐色の肌に、闇をたっぷり吸い込んだような黒髪、そして深い青の瞳を持った男――兄のヴィシラだった。柔和な笑みを浮かべたまま、傍に来た彼に拝礼をする。
「お戻りでしたか、兄上」
「ああ、今しがた着いたところだよ」
数日前から公務で隣国を訪れていると聞いていたが、彼の言う通りつい先程帰国したらしい。しかしいつもなら、話しかけてくることなどないというのに。珍しいこともあるものだな、と思いつつ顔を上げる。
顎に手をやって、検分されるような視線が上から下まで行き来していた。
「……何か気になることでも?」
居心地の悪さに僅かに顔を歪めたミュトラに、嗚呼、と気づいたように声を漏らしたヴィシラはくすくすと笑った。
「いや、すまないね。お前が随分と変わったように見えたから」
「? どこも変わりはありませんが」
「いいや、そんなことはないよ。お前は変わった。あのヴェルナという踊り子と出会ってから」
確かに兄が言うことには心当たりがある。
ヴェルナに出会って、己がいかに卑屈な考え方をしていたのかを知った。最初から全てを諦めて無為に日々を過ごしていたことを思い知った。心を入れ替えた、というのは大げさだが、前よりもずっと充実した日々を送っているのは確かだ。
ヴェルナに出会わなければ、誰かのことをもっと知りたい、と思うこともなかったし、自堕落な生活が変わることもなかっただろう。本当に彼には感謝しなければいけないと思う。
「兄上が言うならそうかもしれませんね」
ふっと笑みを零したミュトラは、ヴィシラが僅かに目を見開いたことに気付かない。
「……なるほど、ヴェルナというのは余程の人らしい」
その言葉には僅かに棘があった。それは誰に向けられた棘だっただろう。どういう意味です、と目を向ければ、ヴィシラは口角を釣り上げて言った。
「母上から、ヴェルナを妃にという打診があった理由がわかった、という意味だよ」
「……は?」
己でも分かるくらいに低い声が出た。その証拠にヴィシラに、そんな怖い顔をしないでくれよ、と笑われた。睨みすらまるで通じない飄々とした態度のヴィシラは言った。
「最初は全く気が乗らなかったんだけれど、お前をそんなふうに変えた人、と思えば俄然興味が湧いてきたよ。近いうちに食事に誘ってみようかな」
思わずヴィシラの腕を掴む。ぎり、と音を立てても彼は余裕の笑みを崩さない。それどころか面白そうに目を眇めて目を合わせてきた。
「ヴェルナをどうするおつもりです」
「お前に言う必要があるかい? そもそも止めることは不可能だ。王族に一介の座が逆らえるはずもないしね」
「ヴェルナに何かしたら、いくら兄上でも許しませんよ」
地を這うような声が出た。意外そうな顔をしたのは一瞬で、すぐに面白そうに顔を歪めたヴィシラに腕を掴んでいた手首を、逆の手で掴まれた。
「ますます面白いな。そもそもヴェルナはお前のものではないだろう? すでに番であるならいざ知らず。彼は誰のものでもない。そんな彼を私がどうしようが、私の勝手だ」
ギリッと噛みしめた奥歯が鳴った。
ヴィシラの言う通りだ。
ミュトラはどうすることも出来ない。ウルウィ一座は王の許しを得て、この国にいる。その王族の命令に逆らえない。王が『ヴェルナをヴィシラの妃に』といえば、ミュトラに出来ることはそう多くない。
何も出来ない自分が疎ましいのに、ただヴィシラを睨みつけることしかできない。それに、と思う。ここでいくら言い合いをしたところで何も変わらない。
ぱっと手を離す。ヴィシラは笑みを浮かべたままだった。
「心配しなくても、無理に襲ったりしない。話をするだけさ。お前を変えるほどのヴェルナがどんな人物なのか知りたいからね」
その言葉を置いて、ヴィシラは踵を返す。その背中が見えなくなるまで、じっと睨みつけた。
はー、と息を大きく吐き出す。
兄上はやるといったらやる人だ。行動も早い。今更何か手を打っても無駄だろう。出来ることはヴェルナに忠告をするくらいだろうか。いや、余計なおせっかいだ。ヴェルナは自分の意思表示をきちんとする人だから。だが、どうにもそのままにはしておけない。というよりも、俺が嫌なのだ。兄上にも他の誰にも、ヴェルナを譲りたくない。
ふっ、と息が漏れる。我ながら焦りすぎた。瞼を閉じて、気持ちを落ち着かせるように数度深呼吸をする。瞼を上げたミュトラの薄水色の瞳には、強い光が宿っていた。
俺は俺の出来ることをするまでだ。
そんなことを思いながら、ミュトラもまたその場を後にしたのだった。
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