白砂の夜に踊る

晴なつちくわ

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第一部

22.不本意なこと

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 最初に抱いた違和感は、暑さだった。
 ただ話をしていただけのはずなのに、異様に暑いのだ。ラナキアは常春から常夏にかけての気候で、暖房なんてものは存在しない。なのにこの暑さはなんだろう。ヴィシラが暑がっているなら、酒も飲んでいるから分かるが、ヴェルナが飲んでいるのは水だ。体温を上げる作用はない。
 なのに、やけに体が熱い。水を飲んでも飲んでも足りないくらいで、逆に喉が乾いて仕方がない。
 次に襲い来たのは、酩酊に似た視界の歪み。
 体の奥底が熱い。視界が歪む。この症状何処かで。そう思った時には、もう元に戻れないほどその水を飲んでしまっていた。

「ヴェルナ?」

 心配そうに、こちらを覗き込むヴィシラの顔が歪んでいる。はーっ、はーっ、とどこか遠くに聞こえる呼吸音が、自分の物であると気付く。
 マズい。この症状は。発情期と同じだ。
 自覚したのが余計にいけなかったかもしれない。鼻を擽るαの匂いが、脳に直接響く。咄嗟にヴィシラと距離を取って、鼻と口を手で覆い隠す。茹だる頭で必死に言葉を紡ぐ。

「何を、水に、混ぜたっ……!」

 睨みつけても、ヴィシラは困惑した顔をするばかりだ。その反応は演技には見えないが、今のヴェルナにはそんなことを考える余裕はなかった。
 発情期はとっくに過ぎたはずだ。周期が大幅にずれることなんて今まで一度もない。とにかく緊急抑制剤を。懐を探ろうとして、フィニの申し訳なさそうな顔が浮かんだ。

――もう三日ほど時間がかかるようで。

 そうだ。飲み切ってしまってから、手元に薬が届いていない。だから薬での対処は出来ない。本当にマズい。そう思う間も、どんどんとΩ性の本能が、理性と思考を侵食していく。
 今目の前にいるαに全てを捧げたい。最奥まで暴かれたい。激しく求められて、溶け合いたい。ほしい。全部わからなくなるくらい、めちゃくちゃにしてほしい。
 牙を剥くΩ性から逃れるように、ヴェルナは縺れる足を無理やり動かして、出入り口に向かう。後ろで自分を呼ぶ声が耳から侵食して、動けなくなる前に。αのフェロモンに当てられる前に。それだけを考えて、とにかく足を動かした。
 熱い身体。腹のもっと奥がしとどに濡れる感覚。乱れた呼吸。
 そんなことに構っていられなかった。とにかくフィニの下に。いそいでいかなければ。思考がΩ性に飲まれてしまう前に。
 今にも切れてしまいそうな理性でどうにか垂れ幕を超える事は、出来た。しかしそのヴェルナの腕を掴んだ者がいた。ヴィシラだ。

「一体どうしたんだ、ヴェルナ。何か、……!」

 だめだ。
 そう思った途端に、膝が崩れ落ちた。しゃらん、という装飾の音が虚しく廊下に消えていった。ヴィシラが生唾を飲み込んだ音ももう聞こえない。思考と意識が霞む。
 いやだ。こんな。こんな不本意な発情が、あってたまるか。
 朦朧とする意識の中で、脳裏を過ったのはミュトラの顔だった。


 ***


 不意に鼻を付いた匂いに、フィニは顔を上げた。
 なんだ、この甘くて脳が痺れるような匂いは。何処かで嗅いだことがある気がするのに、思い出せない。それにしたっていい匂いだな。
 そんなことを思ったのと同時。
 向かいに座っていたミュトラがいきなり立ち上がった。

「ミュトラ王子? どうされたんです?」

 さっきまで散々、ヴェルナが心配だ、と言いながら腕を組んで貧乏揺すりをしていたのに。それを無視して本を読んでいたのだが、そんなことを突然するものだから驚いた。

「ヴェルナだ」

 ぽつりとミュトラは言った。は? とフィニが発したのも気にせず、ミュトラは急ぎ足で出入口へと向かっていく。何がなんだか分からない。しかし彼は確かに、フィニの主の名前を呼んだ。それならば、とフィニもミュトラの後を追いかけるために、立ち上がって足を動かした。

「ミュトラ王子、ヴェルナ様、とはどういう意味です」

 やっと追いついて問いかける。ミュトラは、匂いだ、と珍しく焦った声で短く言った。

「匂い?」
「ああ。ヴェルナの匂いだ。間違いない」

 どの匂いか、と言おうとして先程の、脳が痺れるような甘い香りを思い出す。嗚呼そうだ、と思う。あれはヴェルナ様が発情期付近で漂わせる香りに似ている。香水かと思って訪ねた時、ヴェルナ様は不思議そうにしていた。その匂いと同じだ。
 そしてそれは今、強く鼻の奥を突いている。
 それが指す意味に、背中がぞっと寒くなる。きっと此処が王宮でなければ駆け出していた。しかしそれは礼儀に反する。だからミュトラの背を追いながら、できる限り早く足を動かすことしか出来ない。
 
 やがて見えてきたもの。
 それは。

「! ヴェルナ様!」

 床にうずくまるように倒れているヴェルナと、そんなヴェルナに伸し掛かるようにしているヴィシラだ。二人とも正気ではないのが見てすぐ分かった。
 チッと大きな舌打ちが聞こえたと思ったら、ミュトラが駆け出した。一気に距離を詰めたミュトラはそのまま、仮にも次期国王であるヴィシラの首元を掴む。と思ったら、ヴェルナから引き剥がして勢いよく床に転がした。

「ヴェルナに何かをしたら許さないと申し上げた筈だ、兄上!」

 決して大きいわけでは無いのに、腹に響くような怒りに染まった低い声がその場に響き渡る。背中にヴェルナを庇うように間に割って入ったミュトラのお陰で、ヴィシラはやっと正気に戻ったのか、床に尻もちをついたまま目を瞬いている。

「……ミュトラ? 俺は一体……嗚呼そうだ、ヴェルナの様子が変だから声を掛けて、それから、」

 混乱しているらしいヴィシラには悪いが、フィニにとってもヴェルナのほうが大事だ。すぐさまヴェルナに駆け寄って、床に向いている彼の顔を覗き込む。

「ヴェルナ様! 一体何が、……!」

 焦点の合わない紫翡翠の目が、フィニを捉える。
 うろうろと彷徨う視線。火照った頬。荒い呼吸。そのどれもが、発情期のときに酷似している。それでもどうにか理性を保とうとしているのか、声にならない声で、ふぃに、と名前を呼ばれたのが分かった。
 すでに通常の発情期は過ぎ去っている。とすれば、これは何かによって強制的に引き出されたものだ。
 考えられるものは二つ。一つ、ヴィシラの発情に誘発された。しかしそれはないだろう。そうであれば、彼が正気に戻るはずはない。だから、もう一つの可能性が濃厚だ。
 強制発情薬を盛られて引き起こされた。それ以外ない。
 悔しさに奥歯を噛む。こんなときに限って。

「フィニ、ヴェルナの様子は」

 鋭い声が飛んだ。ミュトラだ。己の無力さに奥歯を噛み締めていた力を緩めて、静かに息を吐いてから言った。

「強制的に発情状態にされてます。多分、薬を盛られたのかと」

 ミュトラから殺気が漏れ出したのが分かった。誰に向けられたのかは言わずもがなだ。ヴィシラはまだ混乱しているようで、状況を分かっていない。

「緊急抑制剤は?」
「ありません」
「何故だ! ウルウィのΩの者も持っていないのか!?」

 怒りを露わにしているミュトラに、そうではありません、と首を横に振る。

「一座のΩが使っている物と、ヴェルナ様が使っている薬は異なるんです。ヴェルナ様はαに耐性を持っている。めったに発情することはありません。つまりそれは、薬にも耐性があるのと同義です。フェロモンの影響を受けにくいということは、フェロモンを抑える薬もまたそうであるということ。だからヴェルナ様が使う薬は特別製なのです」

 しかしそれが今は手元にない。
 依頼への返信文には、一週間ほどかかる、と書かれていた。だから来るのは早くても明後日だ。とても間に合わない。
 ギリッ、と奥歯を噛む音がミュトラからも聞こえた。それはそうだろう。使い切った薬は、ミュトラの発情を抑えるため、そして身を守るためにヴェルナ自身も使った。ヴェルナは、俺の勝手な判断で使ったんだから気にすんな、と言って笑うだろうが、ミュトラは責任を感じているのだろう。

「何か出来ることはないのか!? 治まるまで待てと!?」
「ヴェルナ様がこんなふうになるほど強い薬です。このまま放置すれば最悪死に至る可能性もあります」
「ではどうしろというのだ!」

 瞼を閉じる。あるにはある。
 しかしそれはヴェルナが嫌がる方法だということも、フィニには分かっていた。ヴェルナは、今はミュトラの想いに答えるつもりはない、と言っていた。だからこれは、ミュトラのヴェルナへの好意を利用する選択肢だ。ヴェルナはそれを絶対に良しとしないだろう。
 でも今は。それ以外方法はない。
 瞼を上げて、ミュトラを真っ直ぐに射抜いた。

「強制発情薬は、本来番がいる者が使うものです。しかし、今のヴェルナ様には番はいない。番のいないΩにその薬を使うと、αを渇望するあまり死に至る例も報告されています。そんなΩを救う方法は二つです。一つは、誰かの番になること。もう一つは、αの誰かと交わることです。――この意味がおわかりになりますね、ミュトラ王子」

 息を呑んだ音がした。
 告白をされてもヴェルナが返答をしていない以上、ミュトラが取れる手段は後者しかない。しかし、それはミュトラとしても本位ではないことは分かる。発情状態のΩと性交するということは、Ωの意思の確認が取れないということだ。ヴェルナの心が分からない以上、本当であればこの手段を取るのは避けたいはず。そうでなければ、己の腕に噛みついて本能を鎮めようとはしない。
 でも今残された選択肢は、避けたいと思っている方法しかないのだ。

「俺にヴェルナを抱け、とそう言っているのだな」

 音がこちらにまで聞こえるほど、強く握りしめられた手を見ながら、フィニは小さく頷いた。
 酷なことを頼んでいる自覚がある。
 しかしフィニが信頼できるαは今、ミュトラしかいない。そして、ヴェルナを死なせたくない。その思いは、きっとミュトラも同じだ。
 ふ、とミュトラの握りしめられた手が緩んだ。

「わかった。その役、引き受けよう」
「……そんなに簡単に決めて本当によろしいのですか? ヴェルナ様に嫌悪される可能性だってあるのですよ」

 頼んでおいてどの口が言うのか、と言われてもそれだけは伝えておかなければいけない。無論フィニが、無理矢理に願い出た、というつもりではある。しかし『初体験』は人生に一度だけだ。それを大切にするようにウル皇国で教えられてきたヴェルナの意思を聞くことは出来ない。意思とは関係なく、奪うことに変わりはない。それをヴェルナがどう思うか分からないのが本音だ。
 だというのに、ミュトラは小さく笑った。

「ヴェルナの命が失われる方が余程辛い。ヴェルナが生きていてくれるのなら、嫌われても構わない」

 意志の籠もった力強い声だった。
 いうやいなやミュトラは、床で蹲っていたヴェルナを羽織っていたケープで包むようにしてから、横に抱き上げた。その瞳には悦はない。どこか悲しそうに見えたのは、きっと気の所為ではないだろう。体を丸めるヴェルナを数秒見つめた後、フィニへと向き直る。

「フィニ、いくつか頼まれてほしい。まず、兄上に医者の手配を。それが終わったら、俺の部屋にだれも近づかないよう見張っていてくれ」
「御意に従います」
「恩に着る。では頼む」

 そう言って足早に自室へと向かっていくミュトラの背中に、深く頭を下げる。彼ならば任せられる。そんな思いとともに顔を上げて、フィニはミュトラからの頼みを遂行するために、頭と身体を動かし始めたのだった。

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