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9.出立
しおりを挟むぱたん、とトランクの蓋を閉めて顔を上げた。
長年過ごしてきたとは思えないほど綺麗に片付いた部屋を見て、トワはふーっと息を吐く。
必要な物は全て入れた。といっても大して持っていく物もないから、トランクはガラ空きだ。またこの場に帰ってこれたらいいと思う。でも、向こう数十年は難しいだろう。
リシル市国にいる間は必要なかった通貨も、国外ではもちろん必要になる。他の場所ではトワが始祖だからといって特別扱いはしない。なんなら、始祖を憎んでいる人間も多いだろう。
普通の人間にはない力を持つ人外を見たとき、人は大抵二種類に分類される。
一つは、忌み嫌い迫害する者。
もう一つは、大小はあれ崇拝し崇め奉る者。
少しだけ人間よりも体が丈夫なだけで、それ以外は殆ど変わらなくても、理解できないもの、馴染みのないものは遠ざけたいのだろう。
カイは前者を、何も持たない者がただ妬んでいるだけだよ、と言うがトワはそうは思わない。
相容れないと感じるものを遠ざけたいのは、人として当然の心理だ。
煩わしいもの、または心を強く揺さぶりすぎるものを、ヒトは避ける傾向にある。長年生きていて、トワはそれを実感した。誰かを見てそう思ったわけではない。自分の実体験だ。
――さよなら、トワ。元気で。
不意に鼓膜に蘇る声に、はっ、と自嘲が漏れた。
まだ未練がましく彼のことを思っているのか、僕は。
手を放したのも、差し伸べられた手を取らなかったのも、此処にはもう来るなと突き放したのも、自分なのに。さみしいなんて思う権利があるはずもないのに。呆れて物が言えない。
自分のいないところで幸せになってくれ、と言ったその舌の根も乾かぬうちに、寂しい、なんて。
本当だったら、ノアが天寿を全うするまで、この場所を離れるつもりはなかった。しかし空気の読めない吸血鬼狩りが近くに来ていて、かつ、この国に入ろうとしている。しかも、トワが関わっている十八年前の一族壊滅事件を調べているとなれば、余計に離れざるを得ない。
あの事件は、記憶を無くしてしまう前のノア――つまりノアールが起こしたものだ。彼が、一緒に逃げよう、と言ってくれた。その手をトワが取ってしまったから。あの事件は起きてしまった。当時のことを知っているのは、トワ以外にはユリャナ、カイ、そしてアダルだけだ。
はるか遠い昔から二十五年前まで、トワはバベル家という一族にずっと飼い殺しにされていた。まだリシャールと名乗っていた頃のことだ。
バベル家は医学に力を入れていた一族だった。
トワ、否、リシャールが血を授けた中に初代の当主がいたらしい。全く覚えがなかったものの、リシャールに関する資料が山のように残っていたバベル家は、代々当主になった者が血眼になってリシャールを探していた。
そんな私利私欲に塗れた一族に、五百年ほど前、運悪く捕まってしまったのだ。
バベル家で過ごした日々は、色褪せていた。
変わらない日々の中で、段々と薄れていく感情。抜け落ちていく表情。
白を基調とした部屋の中で、一日中窓の外を眺めて過ごした。血を抜かれては、本当に貴方様は素晴らしい、なんていうどうでもいい賛辞を投げられて、それに反応することもなく、ただ日が昇って日が暮れる同じ景色を見ていた。
リシャールの血が、治癒に長けていたのが災いしたのだ。
ダーマ国で随一の医療技術を持っていたバベル家にとっては、リシャールはまさに金のなる木だった。リシャールの血で薬を作れば、飛ぶように売れる。その薬を飲めば、すべての病は魔法のように消え去る。バベル家が施す医術は、神の御業なんて呼ばれていた。
それすら、トワには何の感慨も感情も抱かせなかった。
すべてがどうでも良かった。
そんな日々が終わりを告げたのは、三十年近く前。
バベル家の当主が次期当主を連れてきたときのことだ。
次期当主を紹介されるのは、何度も経験したことだった。しかし当主の隣にいた青年は、いつもの次期当主とは全く異なっていた。
青年の気配はあまりにも、あまりにもよく知った気配に瓜二つだったから。
「これが私の愚息のノアールです」
始祖のノアと同じ気配を持った青年は、奇しくもノアと似た名前を持ち、そして容姿すらもよく似ていた。違うのは瞳の色と、髪の長さだけ。蒼空の瞳を持ち、一房を長く長く伸ばしていたノアに対し、ノアールは紅混じりの金の瞳に、さっぱりとした短髪。
今まで止まっていたんじゃないかと思うほど、心臓が喧しく脈打って、思わずノアと呼んでしまいかけたトワに、幸いにも当主が気付くことはなかった。きっと彼は、ノアールが始祖返りであることも知らなかっただろう。それほどに、始祖であるトワと金儲けにしか興味がない男だった。
「愚息がどうしても貴方様とお話したいと駄々を捏ねるもので」
どうでもいい言葉をつらつらと並べていく当主の声が、耳を通り過ぎていく。そんなことよりも、バベル家に始祖返りがいる方がトワにとっては問題だった。
始祖返りのことは、籠の鳥になる前にカイから聞いていた。余談だがこれはユリャナのお陰だ。彼女のことをカイが認知していて、しかもトワに話してくれていたお陰で、その場での混乱を避けられた。
だがしかし、まさかこんなところでノアの始祖返りに出会うなんて。
ろくでもないヤツだったら。
過った一抹の不安。
打ち破ってくれたのは、他でもないノアールだった。
「貴方はもう、俺の正体にお気付きですよね」
当主を退出させ二人きりになった部屋で、彼は開口一番そう言って悪戯っぽく笑った。突き放そうとしていたトワの毒気を、そのたった一言で抜いてしまったのだ。
トワの存在を知る者はバベル家でも多くなく、その存在は秘匿されていた。屋敷にある一角の鍵が何十にも掛けられた扉の中に、トワはいた。
そんなトワに、ノアールは暇さえあれば会いに来た。
ノアールは、よく笑う、感情豊かな青年だった。それが少しずつトワの凍ってしまった感情を、少しずつ溶かしてくれたのかもしれない。
始祖のノアとしての記憶があるのか、と訪ねたとき、彼は曖昧に笑っていた。
「記憶自体はありますよ。でも俺にとってその記憶は、ただの記録でしかない。物語の主人公の一生を外側から見てる感覚と似てるかな。他人事のようにその映像を見てる感じです」
トワにはわからない感覚が、また新鮮だった。トワはまだ一度も記憶を有して生まれ直したことがないからなのか、それともノアールに興味があったからかは定かではないのだが。
始祖返りは、全員が記憶を持って生まれてくるわけではない。
現にユリャナは、始祖時代の記憶がない。容姿も始祖の誰とも一致しない。何の条件を満たせば、記憶を持って生まれてくるのかはトワは知らないが、ノアールが始祖の記憶を有していたことは、幸いだったのだと思う。
トワも笑うことが増えて、ノアールと過ごす時間が気づけば楽しみになっていた。
そんなある日だった。
「リシャール、貴方を必ず守るって誓う。だから俺と一緒に逃げよう」
突然だった。
真剣な声なのに、ノアールは穏やかな笑みを浮かべていた。
差し伸べられた手がきらきらと輝いて見えて、思わず手を伸ばしてしまった。そのままノアールの手を取ってしまった。
何度も思う。
あの時ノアールの手を取らなければ、ノアールが記憶を失うことも、一族が壊滅することも、こうして吸血鬼狩りに追われることもなかったのかもしれない、と。その代償が己の身の自由だとしても、その方が良かったかもしれない。そう考えることが、記憶を失ってまで己を逃がしてくれたノアールの行動すべてを否定することだとわかっていても、何度も思ってしまう。
いくら考えても、あの時どうするのが正解だったかは、わからない。
でも確かに、バベル家から二人で逃げ出して、自由を謳歌した七年間は幸福だった。かつての悪友が、愛おしい人へ変化するのも、時間はかからなかった。きっと出逢って話をしたあの日から、トワはノアールに惹かれていたから。
リシャールではなく、ただのトワとして生きた七年間。
毎日穏やかで愛おしい日々が積み重なっていく。
そんなことがずっと続くなんてこと、あるはずがなかったと気付いた頃には、遅かった。
幸福が崩れるのは、あまりにも簡単で。
愛おしい人を喪う悲しみは、あまりにも苛辣だった。
ふと穏やかな鳥の鳴き声が鼓膜を揺さぶった。
擦り切れてしまうほど何度も思い返した過去の記憶から、意識を戻す。月明かりがほろほろと落ちる開け放たれた窓際に、一羽の青い鳥が留まっていた。ふっと溢れた笑みのまま、窓際に歩み寄る。青い鳥はくりくりとした瞳をトワへ向けるだけで、逃げることはない。
そっと差し出した人差し指に、青い鳥が飛び乗る。やはり鳥は逃げない。それどころか、トワを心配するかのように、首を傾げて見つめていた。
「ふふ、ありがとう。君たちに会えなくなると思うと僕も淋しいよ。みんな仲良くやるんだよ、いいね?」
返事をするように青い鳥が数度鳴く。やがて、青い鳥は窓の外へ向かって羽ばたいて、すぐに見えなくなった。
動物たちとの別れも済ませた。自分が此処にいない間は人里に降りないように、獣たちにも伝えた。吸血鬼狩りには姿を見せないように、言い聞かせた。
これで自分に繋がるものは、ノアールに繋がるものは、何一つ此処に残らない。
ノアに魔の手が届くことはない。絶対に届かせてはいけない。ノアに嫌われることになっても、恨まれることになっても、ノアールが全身全霊でトワを守ってくれたように、トワもノアを守るのだ。ノアの平穏が、命が、もう二度と脅かされないように。
トランクを手に取った。持ち上げたそれは思った以上に軽くて、笑ってしまった。そのまま、扉を開け放って外に出る。
トワはこれから、此処ではない場所で生きていく。
隣にノアがいなくても。心に寂しさが巣食っていても。
今までの大切な思い出を無くさないように抱いて、ノアのしあわせを遠くから願いながら、ひとり静かに生きていく。
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