極上の君

晴なつちくわ

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第一部

9.地獄への乱入者

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 二の句が継げない。
 嘘だ、と頭は言うのに、目の前の男は確かに長年一緒に暮らしてきたエイヴだった。何度瞬きを繰り返しても消えない。現実だ。違いがあるとするなら、眼光の冷ややかさだろうか。

「嗚呼、そういう約束だったか」
「覚えてんなら守れよ」

 はぁと気怠げな溜息を吐いたエイヴは、視線を寄越した。なんで、と目で訴えてもその目は冷たく、水槽の中で無機質に光を反射するガラス玉のようだった。

「知らないほうがコイツは幸せだったと俺は思うがな」
「そうかな? 何もかもわからなくなってしまう前に真実を教えてあげることが、せめてもの慰めになると私は思ってね」
「俺が悪者になっちまうだろうが」
「真実で事実だから良いじゃないか」

 理解することを脳が拒否して言葉が紡げないクロードを置いてきぼりに、二人は勝手に話を進めていく。
 何かの作戦なのか。なあ、エイヴ。
 そう思っていないと、みっともなく叫んでしまいそうだった。足の先も指先も冷えていく。冷え込むような気温ではないはずなのに、ひどく寒かった。心臓が刺されるように痛い。でも目の前のことは現実だ。

「ふふっ。驚きすぎて声も出ないかな、クロード君」

 ハッ、と息が漏れる。クソヤロウへの怒りのお陰で、回転を止めていた思考が周り始める。
 絶望している暇はない。どれほど胸が痛くても。
 エイヴに。それは動きようのない真実で現実だ。だったら、縋りつくようなみっともない真似はしない。売ったことを後悔させるくらいの気概でいるべきだ。

「まあね。まさかエイヴが貴方の手先だったなんて。微塵も気付きませんでしたよ」

 アドルフォから目を離して、じろりとエイヴを睨む。目を細めてエイヴは笑うだけだった。

「上手くやったな、エイヴ。俺を生贄にお前は安泰か」
「そうだよ、クロード。お前には感謝してる」
「ハッ、どの口が言ってんだ? ……しかしまぁ、お前もにいっちまったんだな」

 ニンマリと口角を釣り上げる。見据えたエイヴの目元がピクリと動いたのを確かに見た。
 こうなったら徹底的に煽って、エイヴのプライドもズタズタにしてやる。そうでなければこのやりきれない思いを何処にも行けずに腐るだけだ。幸いにも本人が此処にいるのなら、長年培ったよく回る口で、ブツケてやれば良い。

「そっち側? 何の話だ」
「お前言ってたよな? 『情報だけで盤面を御せなくなった時点で、情報屋として死んだも同然だ』って。つまりお前は情報屋として死んだも同、ッ! ……ッテェな」

 頬を衝撃が駆け抜けた。痛みと熱さが襲ってきた頃には、口内にじわりと血の味が広がっていた。見れば、激昂した表情のエイヴが拳を振り抜いていた。反射的に手が出るということは、図星だ。地面に口の中に溜まった血を吐き捨ててから、ニヤリと笑ってやる。

「図星か。そんなに切羽詰まってたなんてな」
「……黙れ」
 ……嗚呼、違うか。俺に対しての劣等感で相談できなかったのか? なぁ、エイヴ。プライドの高いお前のことだもんな?」
「ッ黙りやがれ! このクソビッチが!」

 再び振り上げられた拳を止めたのは、アドルフォだった。別にクロードとしては殴られても構わなかった。ジクジクと痛み続ける胸のもっと奥。それを無視して、ニヤニヤと笑ってやる。顔を赤くして、エイヴは人が変わったように唾を飛ばしながら捲し立てた。

「汚ぇ手を使って情報集めてたテメェが言うな! 良いよなぁ!? 顔が良くて贔屓にされる奴は! エロい体使って汚ぇ情報全部持って行ってチヤホヤされやがって! クソが! 三流のやり方のクセに!」
「へぇ~、お前そんなこと思ってたのか。ははっ。羨ましかったんならお前もやれば良かったんじゃねぇか? 大体、情報に綺麗も汚いもないだろ」

 口ではそう言ったが、家族同然だと思っていた人間から投げつけられた罵詈雑言は、鋭い刃になって胸に突き刺さった。

 俺はな、エイヴ。毎回体を使ってたわけじゃねぇよ。浮腫むくみで足首の境目が分からなくなるくらい歩き回って、話術で懐に入って、相手の隙を引き出してそこから出た情報への細い糸を丁寧に引っ張り上げてただけだよ。機械に強いお前が、クラッキングで簡単に引っ張り上げちまう情報を、コツコツ時間をかけて集めてただけだ。だから。ずっと一緒にいたお前にだけは。そうじゃないって解っていてほしかったよ。

 膿んだように胸が痛い。傷なんてないのにボトボトと血が滴り落ちているような気がした。
 関わりのない誰かの勝手な憶測はどうだってよかった。でも、故郷を飛び出してから兄のように慕ってきたエイヴにだけは、苦楽を共にした彼にだけは、汚い手、なんて言われたくなかった。
 でも事実、思われてしまった。
 仕方のないことだ。クロードは要領は良いが決して出来が良いわけではなかった。失敗も山程したし、死にかけたこともある。体を使うことに対して葛藤だってあった。でも、それを外側には出さなかった。
 結局、エイヴも外側のクロードだけしか見ていなかったということだ。
 つくづく馬鹿だな俺は、と思いながらも大男に引きずられていくエイヴを見る。未だに罵詈雑言を吐いているらしい彼の言葉は、もうクロードの脳には届かない。

「君も酷い男だ、クロード君」

 立っているアドルフォを見上げて、笑ってやる。

「ええ、そうですよ。知りませんでしたか?」
「いいや、知っていたよ。口車に乗せるのが君は本当に上手い。相手が一番言ってほしいことも、一番言ってほしくないことも知っている。まるで心が読めるかのように」
「ははっ。そんなこと出来たら情報屋は独り残らず廃業ですよ」

 心が読めたらよかった。そしたら、こんな身近な人間の心の闇を大きくする前に、自分からその人間の元を離れられた。
 劣等感に縛られる苦しさを、クロードは身を以て知っている。
 自分だけが置いていかれる感覚。がむしゃらに走り続けようとして擦り減る心。増幅し続ける焦燥感。理想の自分と現実の自分の少しも埋まらない溝。太り続ける欠乏感と不満。
 実の兄にクロードが感じていたそれを、エイヴも感じていたのかもしれない。人の心を覗けたのならそれも解っただろうが、もう全て後の祭りだ。

「さてと」

 ブツ、と首に何かが刺さった感覚に、回顧が一気に霧散する。
 かろうじて見えたそれは、注射器か何かだった。透明な液体がどんどんと減っていく。
 マズい。
 直感でそう思いはするが、腕も体も縛られた状態で出来ることなんて何一つなかった。
 ふと数分前のアドルフォの言葉たちを思い出す。

――むしろ天国に君は行くことになる
――何もわからなくなってしまう前に真実を教えてあげることが、せめてもの慰めになると私は思ってね

 天国。何も分からなくなる。
 ドラッグの類いか。しかもとびきり悪質な。

「ふふ、情報通の君にはもう答えが分かったかな? 快楽を増幅させ依存させる薬だよ。市場で出回ってる物よりもさらに効果を高めた特注品だ」

 下品な笑みに舌なめずりをするアドルフォの言葉に、背筋が凍る。
 つまり、一般的な薬よりも廃人になる可能性が高いものということだ。思考を奪い去ってただ快楽の奴隷にさせられる。尊厳も自由意志もない、それを理解することもできない地獄のような境遇になる。
 まあでも、と体の力を抜いて、自分の革靴を見つめる。
 どうせ帰る場所もない。思考を奪われるなら辛いと思うこともない。生にしがみつくほど大事なものもない。心残りも別に。
 考えて浮かんだのは、憎たらしい、だけれど、恋しいと思うあの冷血漢の顔だった。

 こんなことなら、もう一度くらいエグいくらい気持ち良いセックスを、アイツとしとくべきだったかもな。ていうか最後に浮かぶのがアイツの顔かよ。笑える。

 ふっと漏れた笑みに、アドルフォが汚い笑い声を上げた。

「フハハッ! 流石のクロード君も絶望したか? それとも快楽と聞いて期待したのかな?」

 最後の最後まで神経を逆撫でするのが上手い男だ。
 笑みを浮かべたまま顔を上げて、アドルフォを見てやる。

「期待? まあ、確かにそうかも。アドルフォさん、いい事教えてやるよ。ダンテはな、死ぬほどセックスが上手いんだ。今まで会った中で一番って言っていい」

 一瞬にしてアドルフォの笑みが消えた。
 そうだろうな、と思う。彼もエイヴと同じくプライドが高いのは話していて分かる。しかもだ。何の怨みがあるのか知らないが、彼はダンテに復讐まがいのことをしたがっている。裏社会の男たちは自分を含めて、大概何処かのネジが外れているから、くだらない理由であることも考えられるが、笑みを消した事からその線は消える。
 きっと彼の胸裏はぐちゃぐちゃに荒れているに違いない。ダンテに対する劣等感なのか、嫉妬なのか、それとも本当にただの怨みなのか。内容は定かではないが、煽るだけ煽れるならそれで良かった。

「アドルフォさん、貴方は本当に俺のこと、天国に連れてくことが出来ますかね?」

 心拍と息が僅かに乱れ始めている。思考まで弛み切る前に、目の前の男の怒りを限界まで煽ってやる。
 それが自分が出来る最後の逆襲だ。
 クロードはそう覚悟している。だって逃げ場はない。鋼鉄混じりの縄を切る時間はないし、既に薬物は体の中。まさか助けが来るはずもない。廃人になる未来がほぼ確定している。
 ならば。最後まで動くであろう口を使うのみだ。

「嗚呼、それと。アイツは、俺にクソと言われると興奮するタイプでね。もしかしたら、アンタに犯される俺を見て、逆に喜ぶかもしれませんね。あははっ、…ッ見れなくて、残念ですよ、本当に」
「強がらなくていいよ、クロード君。もう辛いだろう?」

 太ももをスーツの上から、ねちっこく撫でられる。滲み始めた頭では気持ちが悪いと思うのに、薬物に侵された体は、それを快感だと認識し始めている。視界もぼやけ始めて、もう目の前の男の顔が二重に見える。
 それにも構わず口を回す。舌が止まる前にできるだけ。このクソ野郎の顔を怒りで真っ赤に染めてやるのだ。

「アンタのせいでッ、こうなってるのに、どの口が言ってんだよこのクソやろうッ」

 呂律が回らなくなってきた。涎も勝手に出てきて話しにくいし、もうダメだ。さようなら、俺の人生。呆気ない幕引きだ。最後は散々だったけど、まあまあ楽しかった。母さんに手紙書いといてよかったなぁ。

「だいたいなぁ、そんなそまつなブツで、おれをまんぞく、させられるのか? わらわせるなよ。せいぜい、だんてってよばれねぇように、がんばるんだな、くそやろう」

 乱暴にシャツを破られたのは認識できなかった。
 その後すぐに聞こえた銃声も、クロードの耳には届かなかった。


 ***


 太く重い銃声が、空間を裂いた。
 いったい何事だ、と音の出所へ顔を向けたアドルフォは、思わず目を見開く。
 そこに立っていたのは、ここにいるはずの無い男。
 闇夜でも光の下でも忌々しく目に付く銀に光る髪を揺らす、ダンテ=スヴェトラーノフだった。

「なっ!? なぜ貴様が此処にいる!? それよりも守備に当たってる糞共はどうした!?」

 声をあげても返事はない。
 まるでその場に、アドルフォと薬物で項垂れたクロード、ダンテしかいないかのような、静寂があった。
 アドルフォの言葉に答えることなく、ダンテは静かに息を吸う。

「ーー今すぐクロードから離れろ、蛆虫が」

 憤怒だけを宿した地を這うような声が、その場に響き渡った。
 


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