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第二部
23.二人を分つは
しおりを挟むイザベラの後を追って辿り着いたのは、高層階にある営業前のカフェ・バーだった。
スタッフはイザベラの姿を見ると、お待ちしておりました、と頭を下げる。挨拶を返すわけでもなく、イザベラはカフェ・バーの奥へ奥へと進んでいった。不思議そうに首を傾げているスタッフを横目で見ながら、クロードも着いていく。噂に違わない我儘娘だな、と逆に感心しながら、VIPルームへと足を踏み入れた。
角部屋であるそこは二面がガラス張りになっていて、街を一望できるようになっていた。本来はもう少し多めの人数で来る様な場所なのか、四人掛けソファがガラス側に二脚、そして手前に二人掛けのソファ、一人掛けのソファが数脚置いてある。
「おかけになって」
当然のように奥の四人掛けのソファに腰を掛けたイザベラに倣って、手前の一人掛けソファへと腰を下ろす。
上質な皮のソファだ。眺めも最高だし流石はVIPルームだな。だが、窓を背に腰を掛けるのは随分と不用心だ。そこまでは教えていないのか? まあ狙われるなんてことも滅多にないのかもしれない。
そんなことを考えているクロードをよそに、イザベラはローテーブルにあったベルを手に取った。ちりん、と可愛らしい音が鳴って数秒後ドアがノックされ、ウエイターが、失礼します、と姿を見せる。
「お呼びでしょうか?」
「マティーニを一つ。あと彼にはスペシャルドリンクを」
「かしこまりました」
マティーニは話をするには向かない飲み物な気もするが、レディにいちいち文句をつけるもの良くないだろう。そもそも、と思う。本当に話をするつもりがあるのだろうか。アルコールの力に頼らないといけないほどの話題なのか、はたまた、酔ってしまっても構わないという自信の表れなのか。
イザベラという存在を知っていても、それを判断できるだけの情報は未だ足りなかった。
無駄な所作なく下がっていくウエイターが扉を閉めた音がして、ようやくイザベラは口を開いた。
「急にこのような場所に連れてきてしまって、ごめんなさいね」
「いいえ。他の方には聞かれたくない、ということなら構いませんよ。そういう方を相手にするのは初めてではありませんし、地下牢に連れて行かれたこともありますから」
へらりと笑みを浮かべて言った。
嘘ではない。下水臭い地下牢で、絶対に他のヤツにバレないように、と条件をつけられたこともある。彼女の緊張した面持ちが少しでも和らげば、と思って笑い混じりに伝えたのだが、あまりお気に召さなかったらしい。
わずかに顔を顰めた彼女は、小さく細い息を吐いた。まるで嫌悪を隠すようなそれ。スッと冷えていく胸を感じながら、にこりと微笑んだ。
「それで、ボクにお話というのは?」
クロードの予想だが、多分彼女は依頼しに来たわけではないのだろう。
彼女の挙動がそれを物語っている。もしも依頼をしに来たのなら、初対面で嫌悪を滲ませるようなことはしない。そもそも嫌悪感を抱いている相手に依頼しようとは思わないだろう。嫌悪感を抱いていても信頼できて相当な腕前の相手なら、話は別だが。しかも彼女とは信頼関係があるわけでもない。噂に違わぬ箱入り娘ならば、父親に頼めば優秀な情報屋へのツテなんていくらでも手に入るはずだ。
それなのにわざわざ自らクロードに会いにくる理由。
思いつく可能性は、一つ。
亜麻色の瞳が、少しだけ鋭くなった。膝の上で握りしめられた両手。震える唇。
その表情には見覚えがある。
自分のモノだと思っているものが取られた時の。
「ダンテ=スヴェトラーノフさんと、貴方がお付き合いしているという噂は、本当なのかしら?」
だろうな、と納得がいった。
箱入り娘と呼ばれる女性が、こうして独りで行動するのは大抵、恋愛事のことだ。溺愛されているなら尚更、父親に相談なんて出来るわけがない。下手したら相手が殺されるからだ。全員がそういう過激な思想を持ち合わせているわけではないが、猫可愛がりしている娘が、自分以外の男に取られるなんて、父親としては悪夢だろう。父親になったことがないので、所詮他人事でしかないが。
笑みを崩さないまま、口を開く。
「それが本当だったとして、貴女にどう関係が?」
美しい眉がきゅっと中央に寄る。
おっと、言葉がキツすぎたか。そう思ったがしかし最初にそういう態度をとってきたのは、イザベラの方だ。大口の取引先になるのなら態度を改めるが、彼女が敵視するのなら話は別だ。
「わたくしが聞いているのよ。質問に答えてくださる?」
「答える義務が、ボクにありますか?」
イザベラの顔がみるみる赤くなっていく。
怒らせてしまったらしい。当然か、こんなふうに口答えをしてくる相手なんて、彼女の周りには居ないはずだから。
仕事上で必要な話ならまだしも、プライベートの話をする義務は無いし、聞かれたところで答えるか答えないかは相手次第だ。ルカのような昔からの仲なら話しても、彼女のような初対面の人に話すわけがない。大体失礼だとは考えないのだろうか。縁談の延長線上なら分かるが、何の関係もない、そして多分彼女の恋敵である自分が答えると本当に思っているのか。
非常識にも程がある。とは勿論口には出さないけれど。
下唇を噛む彼女の真っ白な歯が震えているのが見える。それを見ても、何の感情も湧かない。憐憫も優越感もなく、ただ失礼な人だな、と思うだけだ。
今まで彼女は、欲しいものは全て手に入れてきたのだろう。一度たりとも思い通りにならなかったことがない、しあわせすぎる人生だったに違いない。金で買えるものはそれが可能だ。しかし自由意思を持つ人間は、全員が金で買えるわけがない。当然の摂理だ。
「仮にボクが、はいそうです、と答えたら、貴女はどうするんです?」
興味本位で聞いてみる。ドラマやフィクションなら、今すぐ別れろ、というのが定番だろうが、彼女は一体なんて答えるのだろう。
震えていた真っ赤な唇が止まる。さっきまでの気弱そうな表情はどこへやら、イザベラは勝ち誇ったように笑った。
「……確かに貴方に確認を取る必要は無かったわね。わたくしとしたことが、ついお節介をしてしまったわ」
まるで独り言のようだった。イザベラの亜麻色の瞳が、クロードを見る。その瞳にはもう、ひ弱そうな箱入り娘の様相はなかった。なんでも手に入れてきたのだ、という圧倒的な自信を持った光を帯びた瞳が、クロードを見て楽しそうに歪む。
「残念だわ、クロードさん。貴方の心の準備をさせて差し上げようと思いましたのに」
「心の準備? 何のことだかさっぱりわかりませんね」
「ダンテさんからお聞きになっていないのね。おかわいそうに」
今度はクロードが眉をひそめる番だった。
勝手に憐れんでいるところ悪いが、全く心当たりがない。実際ダンテからは何の話もされていないし、大前提として、ダンテの組織の動向を最近は追い掛けていない。
嗚呼確かに、とクロードはふと思う。
俺にも慢心があった。ダンテの組織の動向を追っていなかったのは俺の落ち度だな。ダンテの組織に属さないことを選択した以上、今度からは気をつけるべきか。ご忠告どうも。
心の中で礼を述べていたクロードに、イザベラは口角が裂けそうなほど微笑む。
「わたくし、ダンテさんと婚約する予定なの。ごめんなさいね、貴方の大事なヒトを取ってしまって」
婚約。
一瞬の内に理解した言葉に、ハッ、と思わず笑いが溢れた。
ありえない。何故なら、クロードは今こうして生きているからだ。
自分の手を放すのなら殺していけ、とすでに伝えてある。だから彼女の言うことが本当なのならば、クロードは現時点で死んでいなければおかしい。いやまあ、いまから実行される可能性もあるが。
「はぁ、そうなんですか。おめでとうございます。良かったですね」
全く思っていないことを口から出して、手を叩いておく。 思ったような反応ではなかったのか、僅かに彼女の表情が歪んだ。
もしも報告を受けるのなら、彼女ではなく、ダンテからで十分だ。ただ単にマウントを取りたいだけだったということになる。とんだ茶番に付き合わされたな、とクロードは立ち上がる。
「話がそれだけなら、ボクはこれで失礼します」
「そう? 折角スペシャルドリンクをご用意しましたのに」
「どうぞ貴女がお飲みください。それでは」
背を向けて歩き出す。そんなクロードの背中に、イザベラの声が掛かった。
「そんな余裕があるのも今のうちだけよ、クロード・シャルルさん?」
小さく笑って肩越しに彼女を見る。
「本当に貴女が、あの男を陥落させられるか楽しみです。……嗚呼、もし結婚式をやるならぜひ呼んでくださいね」
ドリンクを持ってきたウエイターとすれ違うようにして、クロードはその部屋を後にする。
アンタがいなきゃ何の意味もない、と言い切ったダンテが、彼女と婚約なんて到底考えられない話だ。実は、彼女がダンテの幼馴染で、彼女もまたあの地獄のような屋敷にいたのならいざ知らず。もしも婚約が本当だったとして、その理由をきちんと説明しないほど、ダンテは不誠実ではないはずだ。
それに、ダンテはやると言ったらやる男だ。
彼が手を離すと決めたのなら、それはそれで構わない。本当に彼女と婚約するのなら、それもまた良いだろう。近いうちに命が散るとしても後悔はない。はたまたダンテに別の意図があるのかもしれない。彼の真意は不明だが、そこはクロードの領域外の話だ。
ダンテの手を取った瞬間から、クロードは決めている。
結末がどこに向かうのかダンテしか知らなくても、命が散るその時まで手を離さないでいる。
ダンテが、クロードを裏切らない限り。
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